探求大都市のマリー

葛城2号

妖しき娼館と傷を抱えた美女たち

一章:第1話 プロローグ






 空腹は最高のスパイスである。



 昔の人はそんなことを言ったものだが、空腹であろうと何だろうと、不味いものは不味いし、スパイスは所詮、スパイスでしかない。そのことを、彼は改めて思い知っていた。


 特に、だ。巨大芋虫『ドッキリ・ワーム』の亡骸の隣で、最後の食糧であるドリンクの瓶を傾けた彼は、この瞬間ばかりは、そうであろうと思った。


 飲まずにいられるのであれば、そうしたい。喉を通っていく酷い苦みは、強烈な苦痛を彼に与えるも、状況が、飲まないという選択肢を選ばせてくれなかった。


 裂けた芋虫から発せられる独特の死臭が、苦痛に拍車をかける。けれども、人の気配が感じられない地底の中、たとえ死骸であったとしても、目に見える何かが隣にあるというだけで、ほんの僅かではあるものの孤独は癒される。



 ……『ダンジョン』と言われる地底迷宮に足を踏み入れてから、早180日の月日が流れていた。



 傍に転がっている衣服の上に置かれた懐中時計と、壁に刻まれた印のおかげで、だいたいの時間を知ることが出来ているのは、幸いであった。


 すっかりダンジョンの空気に慣れてしまった身体が、地上の空気を、臭いを、日常を求めている。このところ何度も夢想するようになった地上の光景に、彼は静かに自らの頬を張る。


 人の気配が感じられない土肌色の迷宮に、ぱちん、と乾いた音が木霊した。痛みが走る頬に手を当てると、それだけで痺れるような痛みが伝わってくる……けれども、だ。


 落ち込み掛けた気分が少しは楽になったような気がして、彼は深々とため息を吐いた。吐いた湿気は、今しがた飲んでいるドリンクの臭いを十二分に含んでいた。



 うっ、とこみ上げてきた吐き気に、彼は慌てて口元を手で覆い隠す。ぐぐっとせり上がってくる液体の感覚を、必死で堪える。



 吐くのは簡単だが、ただでさえ自生している食料が無いに等しい、このダンジョン。食べられる物とは思えない味とはいえ、安全が確認された食糧兼水分がこれしかない以上、生きる為には僅かな栄養も無駄には出来なかった。


 波のように浮き沈みのある吐き気を、ごくり、ごくりと飲み込んで、堪える。体内でぜん動する臓器の感覚が、例えようも無い不快感となって体中へと伝わっていく。浮き沈みする吐き気の波が、ようやく落ち着いたのを見計らって、彼はゆっくり手を離した。



「いったい、俺は何時になったらここに出られるんだろうか……」



 粗っぽい口調とは裏腹に、ポツリと零れた声色は少女のように高い。かつての己の声とは全く違う、軽やかな己の声に、彼は何度目かとなる苦笑を浮かべる。


 変わったのは、声だけではなかった。鍛えた肉体も、同世代の男よりも高かった背丈も、隣でくたばっているドッキリ・ワームを殺した時を境に、変わってしまった。ダンジョンで生き残るために培ってきた全てを、失ってしまった。



 ドッキリ・ワーム。別名『運試しの虫』と呼ばれるその巨大芋虫は、その名前の通り、殺した相手の運を試す不思議な力を持ったモンスターだ。



 二分の一の確率で、殺した相手に良いことが起こるとされているそれを見つけたときの高揚を、彼は今でもはっきりと思い出せる。



 同時に、二分の一の確率で起こる、殺した相手に降りかかるとされていた『呪い』を一身に受けてしまったときの絶望を、彼は今でもはっきりと思い出せた。



 止めておけとストップをかける自制心を足蹴にしてしまったばっかりに、これだ。後から後から自責の念が湧いてきて、後悔してもしきれない。


 ぶかぶかとなったシャツの袖を捲って、幼子のように細く、頼りなくなった己の腕を見つめる。筋肉隆々と言っていい、密かに自信を持てる程度には太かったそれは、今では見る影も無い……呪いが原因であることは、明白であった。



 するりと肩からシャツが落ちる。無言のまま戻すも、反対側から落ちそうになってしまう……無理も無い、彼はため息を吐いた。



 かつてより二つ分程低くなった視点に合わせて、体格も小柄になっているのだ。新調したばかりの装備はもちろんのこと、ズボンや下着はずり落ちて履くことが出来ず、寝床代わりに使用しているぐらいだ。不格好であるものの、着るものがあるだけマシだろう……今ではすっかり、下半身裸で居るのにも、ぷらんぷらんと落ち着きのない下腹部の感覚も、慣れてしまった。



「……今日も、もうすぐ終わる」



 ポツリと、彼は呟いた。



「長かった一日が、終わる」


「明日も、きっと凄く長い」


「明後日も、今日と同じだ」


「ずっと、ずっと、ずっと、ずっと……」



 独り言を呟くたびに鬱々とした感情が湧き上がってくると分かっているのに、どうしても独り言を止めることが出来ないでいる。


 たとえ自分の声と分かっていても、何かしらの刺激を、会話を、彼の心は欲していた「ああ、俺はずいぶんと駄目になってきているんだな」と声に出して言ってみる。改めて理解する己の現状に、もはや涙すら浮かんでこなかった。


 衝動的に湧き上がってくる感情を振り払うように、瓶に残ったドリンクを一息に飲み干す。瞬間的にこみ上げてくる吐き気をやり過ごし、鬱憤を込めて空き瓶を亡骸の傍へ放った。からん、と響いた瓶同士の衝突に、彼の胸中で堪っていた苛立ちが火を噴いた!



「――っふん!」



 腐食することなく、姿を保ち続けているワームの胴体に、拳を叩き込む。魔力も何も込めていない拳は、ピクリともワームの身体を動かすことが出来なかった。



 ……情けない。



 袖から伸びる小さな拳を見て、自嘲する。こうなる前ならば、壊すことは出来なくとも、少しぐらいは動かすことが出来たというのに、今では微動させることも出来ない。


 貧弱になってしまった己の身体。あまりに華奢で、性転換はしていないものの、四肢の力はどう贔屓目に見ても、背丈相応。


 たとえ助かったとしても、人付き合いは宜しくない彼に、頼れる相手は存在しない。実家とは、とおの昔に縁を切ってしまっていて、顔すらもう上手く思い出せない。



 ――改めて、状況を整理しよう。



 探究大都市『東京』にある、『ダンジョン』と呼ばれている地底迷宮の、どこか。それが今、彼が閉じ込められている場所である。正確な地点は、把握できていない。


 ワームを殺したときに降りかかった呪いによって意識を失った後、目が覚めたら四方をむき出しの土壁に囲まれていて、現在地点を調べようがなかったからだ。



 目覚めた当初は助けを呼ぼうと何度も声を張り上げた。けれども、返事は返ってこなかった。



 壁を破壊しようとも考えたが、既にその時には身体が今の状態に変わり果てていた。


 剣を振るうどころか、まともに構えることすら出来ない時点で、脱出は不可能であることを悟った。


 ある意味、彼は不幸でありながら、幸運でもあった。それが幸運なのかは判断に迷うところだが、とにかく彼は運が良かった。



 四方の壁には一切の隙間が無く、空気の通り道すら存在しない。


 しかし、彼は窒息していなかった。至る所に生えた、オキシゲン・ピアニー《命の吐息》と呼ばれる、酸素を大量に生み出してくれるダンジョン固有の植物が繁茂していなければ、彼はとっくの昔に窒息死していただろう。


 また、十分とは行かなくとも、閉じ込められた部屋にウィッチ・ローザ《魔女の松明》とクリア・フラワー『空気清浄』が群生していてくれたのは、幸いであった。


 これらもダンジョン固有の植物で、クリア・フラワーはその名の通り、汚れた空気を清浄化してくれる植物であり、ウィッチ・ローザは、わずかに青みを帯びた強い光を発する特殊なバラで、いわば自然の照明である。



 この二つがあったおかげで、彼は目覚めてすぐに命を落とすといった事態にならなくて済んだ。



 そして、ダンジョン内にて発見される、謎のアイテムの一つである『ドリンク』と呼ばれる魔法薬。



 様々な効能を秘めているとされているそれが、部屋の隅に束になって置かれていたのは、幸運と捉えるべきか不幸と捉えるべきか……それとも、何者かの策略と捉えるべきなのか、彼には分からない。


 分からないが、それのおかげで彼は、今日までなんとか命を繋ぐことが出来たのも事実であった。



(……もう、限界だ)



 しかし、彼の精神力は、ここ来て限界を迎えようとしていた。無理も無かった。


 彼は、よく耐えた。最悪の未来しか想像できない現状の中、限られた食糧をやりくりし、少しでも水分を節約する為に、飲尿まで行って耐えた。来るかもしれない救助を願って。来るはずが無い幸運を願って、体力を温存し続けた。



 ――自己責任。



 それが、ダンジョンに潜る者たち『探究者』の鉄則であり、原則である。ダンジョン内で起こる何もかもは、全て各々で対応しなければならない。幾多の探究者たちがそうであったように。


 生気の失った眼光を、寝床の傍に置かれた剣へと向ける。閉じ込められてから180日の間、幾度となく脳裏を過った最悪の手段が、再び鎌首をもたげる。



 ……数秒ほどの懊悩の後、彼は静かに立ち上がった。すきっ腹に収めたドリンクが、体内でぽちゃぽちゃと動いているのを、彼はどこか他人事のように聞いていた。



 のそのそと死にかけた餓鬼のように頼りない足取りで、剣の前にたどり着くと、彼はその場に腰を下ろした。鞘に納めた剣を手に取ると、ずしりと腕に重さが掛かった。両手で柄を持って、滑らせるようにして鞘から引き抜くと、赤褐色の刀身がするりと抜けた。


 ワームを切った際、もしもを考えて体液だけは拭き取っていたが、それでも不十分だったようだ。お世辞にも良い剣では無かったが、ここまで錆びついてしまったら、もはやナマクラも同然だろう。


 しかし、これから行うことを実行するには、ナマクラでも十分であった。引きずりながらも、なんとか剣をワームの死骸に立てかける。動かないように石で叩いて剣先を地面に食い込ませた後、彼はふう、とため息を吐いた。準備は、出来た。


 そっと手首を、刀身の先へとあてがう。ところどころ刃こぼれの痕が見られる刀身から、異臭がした。後は、手首を滑らせるだけで全てが終わる。



「…………」



 ごくりと、乾いた喉に唾を送り込む。つい今しがたに覚悟を決めたばかりだというのに、いざ、その時になると迷いが脳裏に生まれる。どうせ助けなんて来ないと分かっているのに、もしかしたらを考えてしまう。



 ふう、ふう、ふう。我知らず、心臓の鼓動が早まっていく。まるで、主の決断に反対するかのようだ。



 騒ぎはそれだけに留まらず、怯えとなって全身を震えさせ、刀身に当てた手首が、ふるふると震えた。手首の震えを止めようと片手で甲を抓るが、その手も震えてしまって、力が入らなかった。


 ゆらりと、目の前にモザイクが掛かった。さすがに刀身から手を離して目じりを拭うと、涙で手の甲がべっとりと濡れていた。泣いている、そう、彼が自覚した瞬間、鼻先に強い痛みを覚え、後から後から涙が湧いてきて、止まらなくなった。



 そうなると、もう駄目だった。



「……ちくしょう」



 ポツリと吐露した思いが、涙と共に地面に吸い込まれていく。噛み締めた唇から噴き出す嗚咽が、惨めな現状を彼に再確認させる。握りしめた拳の、あまりの頼りなさが、さらに拍車をかけた。



「死にたくねえ」



 彼は座ったまま蹲るようにして、頭を抱えた。



「死にたくねえよ……まだ、死にたくねえよ……」



 泣いたところで、現実は変わらない。その事実を頭の片隅で考えながら、彼はしばしの間、鬱積していた感情を吐き出し続けた。









 ……。


 ……。


 …………異常に気付いたのは、それから30分程過ぎた頃だろうか。涙も枯れ果て、すっかり腫れてしまった瞼を擦りながら、彼は顔をあげた。



「……なんだ?」



 酷く掠れた声で、彼は立ち上がる。恐怖は無かった。最後の食糧が尽きた今、生きられても、せいぜい数日が限度。今更何かに怯える気持ちは、全く湧いてこなかった。



 左右、上下に首を向けていた彼の視線が、地面へと下ろされた「……地面が、揺れている?」



 そう彼が呟いた瞬間、ずるりと世界が動いた。あっ、と彼が反応する暇もなく、彼はその場に尻餅をついた。脳天に響く激痛に、彼は呻き声をあげる……だが、その呻き声は、部屋中に反響した轟音によって、かき消された。


 衰弱した今の彼に、受け身など取れるわけもない。強かに打ち付けた全身の痛みに歯を食いしばりながら身体を起こして……目の前の光景に、唖然とした。



「……穴だ」



 彼の眼前にあった壁の下部。ちょうど、彼の腰程度の大きさの穴が、そこにはあった。先ほどまで無かったその穴の向こうは、ただただ暗黒だけが広がっていて、確認することは出来なかった。


 片隅に生えているウィッチ・ローザをむしり取り、穴へと近寄る。恐る恐る明かりを穴の中へ差し出す「……どこまで続いているんだ?」零した心情が、穴の中へ吸い込まれていった。


 穴の壁面はむき出しの土であり、軽く指で擦るだけで、ぽろぽろと湿った土が壁から剥がれ落ちる……今にも崩れそうな印象を覚えた。暗がりは奥の方まで広がっており、全容を確認することは出来そうにない。


 どこに……繋がっているのだろう。持っているウィッチ・ローザを、穴の奥へと放り投げる。ふわりと地面に落ちた明かりは、先ほどよりも遠くを照らすも、見える光景は何も変わらなかった。



 ……迷ったのは、一瞬であった。



 覚悟を決めた彼は、群生しているウィッチ・ローザを数本むしり取り、寝床に置いていた時計を手に取って、改めて穴の中を覗きこんだ。


 地獄の底よりも、もっと暗い。そんな何かを感じたような気がした彼は、少しの間ためらった後、暗黒の世界へと足を踏み入れた。










 ――暗闇は、どこまでも続いていた。



 進んでも、進んでも、出口らしきものはいっさい見えない。中腰の体勢で進んでいる以上、徒歩よりは遅いのは確かだ。負担の掛かる姿勢を維持し続けているのもあって、時折休みを入れてはいた。


 けれども、いっこうに終わりの見えない状況は、彼の精神に多大な負担を与えていた。



「………………」



 手元すら見えない、暗黒の中。彼は、静かに休んでいた。自分が今、どんな体勢でいるのかも、既に分からなくなっている。持っていたウィッチ・ローザはとっくにその力を失って、背後のどこかに捨ててきた。それによって、役に立たなくなった時計も捨ててきた。かなり高価な物だったのだが、未練は無かった。


 暗闇の中で目を覚まし、どこへ進んでいるのかも分からないのに、とにかく身体を前へと運ぶ。疲れたら、身体が求める楽な体勢を取り、楽になったら手足を動かす。


 それを何度か繰り返し、疲れたら、その場で寝る。それを繰り返して、どれくらいの時間が経ったのか、彼には全く分からなかった。もはや、そんなことを考える余裕すらなかった。


 中腰なんていう体勢は、気付いた時にはもう止めてしまっていた。だいぶ前から彼は、四つん這いで移動を続けている。腰に掛かる負担もそうだが、時々曲がり角にぶつかるせいで、中腰の体勢を取り続けるのは危険だと判断したからだった。


 しかし、負担が掛かるのは変わらない。泥と小石によって擦り傷だらけになった手足から、絶えず激痛が伝わってくる。特に、常に体重の掛かっている膝の痛みは凄まじく、平時であったならば、痛みのあまり跳び上がっている程であった。



 けれども、その痛みが、辛うじて彼の精神をこの世に繋ぎ止めていた。



 どこまでも、どこまでも、変化の訪れない眼前の光景は、彼の精神を、彼の気づかない内に、徐々に蝕んでいた。それを、痛みがギリギリのところで引き留めていた。

 眠って、起きて、進んで、休んで、進んで、休んで、寝て、起きる。


 ルーチンと化したそれを繰り返している内に、彼は自分が起きているのかどうかも分からなくなっていた。夢を見ているのか、それとも現実を見ているのか、それを知ることすら出来なかった。



「………………」



 自身にすら聞き取れない微かな声が、彼の唇から漏れる。彼自身、もはや何を口走っているのか分かっていない。ただのため息なのか、それとも何か意味のある言葉なのか、それを知るモノはいない。



「…………ぁ」



 永遠に続くかと思われた、その時間。暗黒の終焉を捉えたのは、いつものように楽な姿勢を取ったときのことであった。


 視界の端で、光る何かを捉えた。最初、彼はそれを夢だと思った。幾度となく見つめていた幻覚の一つではないかと思った。


 しかし、光は一向に消える様子が感じられない。おかしい、何時もなら消えるはずなのに。澱んだ思考の中で、彼がその事に疑問を感じ始めたとき……その光の正体は、出口から漏れる光なのではないかという想像を思いついた。


 その瞬間、四肢の奥深くにまで食い込んでいた疲労と絶望が、一気に霧散したのを、彼は感じた。気づいたとき、彼は手足を力いっぱい動かしていて、徐々に大きくなっていく光へと進んでいた。


 息が乱れる。消耗に消耗を重ねた彼の身体が、主の無茶をたしなめるように痛みという名のシグナルを鳴らす。けれども、希望に縋ろうとする意志が、それらの訴えを黙殺し、さらに酷使するように命令を下す。不思議と、苦しくは無かった。



「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」



 大きくなっていく光輪と比例するように、眼球の奥で痛みが走る。細い楊枝で引っ掻いたような痛みが、ガリガリと脳幹に響く。構わず、彼は手足を動かした。動かした。動かした……その手が、光輪の縁を掴んだ。



「――っ」



 一気に身を乗り出す。一瞬の高低感。直後に圧し掛かった重力が、彼の身体をふわりと落下させ……彼は、転がり落ちる様に斜面を滑り落ちた。


 受け身を取ろうにも、彼の両目は痛みで開けることが出来ず、彼はただただ手足を丸めて、ダンゴ虫のように最後まで転がることしか出来なかった。



「――っあ」



 一瞬の浮遊感の後、彼は動きを止めた。頬にこすり付けられた泥の感触が、いやに冷たくも柔らかい。縮こまった手足が、動いてくれず、起き上がることが出来ない。


 全身に響く激痛と痺れが肺の機能を奪い、一時的な呼吸障害を引き起こす。ひっひっ、と痙攣を起こしながらも、彼は黙って波が過ぎるのを待った。



「うっ……あっ……!?」



 数秒か、あるいは数分か。ようやく痛みが過ぎ去ったのを自覚した頃には、彼の呼吸もなんとか回復出来ていた。痺れが走る手足を、ゆっくりと伸ばす。途端、ぱきぱきと手足の骨が鳴った。ずっと、同じ体勢を維持し続けたからだ。


 点滅する世界が、彼の視界に広がる。じわりと広がった白い光は、徐々にその光を失っていく。我に返ったとき、彼の眼前には、木々の間に輝く、星々が広がる夜空があった。



 ……綺麗だ。彼は、生まれて初めて、夜空を美しいものだと思った。



 知らず知らずの内に、涙すら流していた。背中に感じる地面の冷たさも、時折耳元を掠める虫の羽音も、肌を擦る雑草の感触も、それの前では些細なものでしかなかった。



 俺は、脱出出来たんだ。ダンジョンから、ようやく……。



 じゃり、と噛み締めた歯の間から音がした。ほとんど唾の出てこない口内から、なんとか唾を絞り出して、砂を吐き出す。しかし、それでも口内に残る違和感に、彼は諦めて夜空を見つめた。




 …………。


 …………。


 …………。


 ……ここは、どこだろう?



 呆けて夜空を見ていた彼は、そのことを考えたと同時に、むくりと身体を起こした。ぽろぽろと零れていく乾いた泥が、地面に落ちて泥に戻った。多少、ふらつきながらも立ち上がる。


 ……周囲を照らす光源が月明かりしかないので、詳細な情報を知ることは出来なかったが、すぐ傍には看板らしきものが立てられていることと、道路がそこにあるのは分かった。


 あまり手が入れられていないそれを見る限り、お世辞にも人通りがあるようには見えない。知る人ぞ知る抜け道なのだろう。周囲に広がる自然をぐるりと見回した彼は、そう判断した。



「……?」



 ふと、ひっそりと咲くウィッチ・ローザの姿が、振り返った彼の視界に止まった。見つめる限りの地面は平面で、おおよそ穴らしきものは見当たらない……不自然極まりないことだが、今の彼に、それを考える気力はなかった。



「なんで、この花が?」



 ダンジョンにしか咲くことはなく、外に持ち出したり、切り取ったりすれば数時間で枯れてしまう花が、なぜそこにあるのだろう。



(もしかして、俺が今見ている光景は、全て幻覚なのではないか)



 そう考えた瞬間、彼は恐怖で背筋を震え上がらせた。すぐに頭を振って、思いついてしまった悪夢を振り払う。手足から伝わってくる痛みが、彼をとても安心させた。


 本当は触りたくも無かったが、背に腹は代えられない。恐る恐る引き抜いて確認するも、それは確かにウィッチ・ローザであった。それを、そっと看板へと差し出す……古ぼけた看板には、掠れたインクが辛うじて形を成していた。



 『探究大都市東京 ここから↓ 約20キロメートル』



 看板に書かれた『東京』の二文字に、彼は深々とため息を吐いた。その名前は、彼が良く知る地名の場所。彼がずっと帰りたいと願い続けていた、帰る家がある都市であった。



(20キロメートルっていうことは、ここは郊外の最北端にある森の中か)



 確か、比較的凶暴な野生動物が多く住み着いているせいもあって、あまり使用されていない行路だったような覚えがある。カビの生えた知識を引き出しつつ、思ったよりも近い事実に、疲弊した肉体に活力が湧いてくるのが分かった。







 ……彼が自宅前に到着したとき、既に遠くの夜空が明るくなり始めていた。各階に一部屋しかない、古ぼけた小さな三階建てアパートの、最上階。そこに、彼が借りている部屋があった。


 扉のすぐ近くに隠していた鍵を取り出して、玄関扉の鍵を開ける。すんなりと手ごたえ無く開いたことに、彼は我知らず安堵のため息を吐く。一拍、間を置いてから、彼はゆっくりと玄関扉を開けた。


 全体的に埃被ってはいるものの、中は彼の記憶通りのものだった。玄関からリビングまではまっすぐ廊下が伸びており、廊下の途中には、浴室等に繋がる扉と、トイレへと繋がる扉がある。リビングへの扉が開けっ放しになっているのを見た彼は、引き寄せられるように上がろうとして……自らの両足が泥だらけになっていることを思い出し、構わずリビングへと足を進めた。


 ふわりと、リビング内へ足を踏み入れた途端、外には無い独特の臭いが彼の鼻腔を通り抜けた。懐かしい臭いに涙が零れそうになりながらも、手さぐりで照明のスイッチへと手を伸ばす……かちん、とスイッチを押し込むと同時に、リビング内に光が満ちた。



(……記憶にあるそのままの光景だ)



 洗濯し終えた衣類がソファーの上に投げ出されていて、その隣のテーブルには、今回持っていかなかったナイフが二本置かれていた。確かあれは、切れ味が悪くなったやつだ。


 じゃり、と口の中で砂と舌が擦れ合った。一瞬だけ忘れていた不快感が蘇ってくる。ぐう、と彼の腹が盛大に空腹を訴えた。かつてない程の渇きと飢えを自覚する。彼は早足で部屋の端に置かれた保冷庫へと近寄り、扉へと手を掛ける。


 内部照明のスイッチを入れると、見ているだけで寂しくなってきそうな中身が露わになる。真水の入った瓶が3本に、保存食用の缶詰が5個。ジャガイモと玉ねぎが2個ずつと、各種調味料。それが、保冷庫の中身であった。さすがに180日間も置いていたので、中はすっかり常温になっていた。


 緑色の根を生やしている野菜には目もくれず、封の空いていない真水瓶(長期保存可能)を掴む……予想外の重さに苛立ちを覚えながらも、彼は両手で瓶を引っ張り出した。蓋をねじる様にして引き抜き、抱え上げるように傾けた。


 ぐりゅぐりゅ、ぐりゅぐりゅ。口内に溜めた水を、傍の流し台へ吐き捨てる。土気色の中に赤色が混じっているのを横目にしつつ、今度はごくりと喉奥へと流し込んだ。


 ごくり、ごくり、彼の喉が音を立てると同時に、瓶の中身が減っていく。ときおり咽て止まることはあるものの、ペースが変わる様なことはなく、三分の二を飲んだ辺りで、彼は深々とため息を吐いて瓶を下ろした。


 派手なゲップが零れる。脱水症状を起こしかけていた彼の身体は、温い水であっても十分だった。全身の細胞へと沁み渡っていくような感覚に、彼は大きく深呼吸をした。次いで、保冷庫から缶詰を取り出す。衰弱した身体は、缶切りの刃を突き刺すのすら一苦労で、中身を空ける頃には少し息があがっていた。


 シロップに浸された果物に、彼は思わずゴクリと音を立てた。180日ぶりに見るまともな食糧に、胃袋がぜん動する。持っていた缶切りを傍に置いて、用意したフォークを突き刺す。滴り落ちるシロップを構わず、白色の果実にかぶりついた。



 ――美味い!



 その言葉が、彼の脳裏を埋め尽くした。砂と渇きでぼろぼろになっていた口内の痛みなど、もはや気にならなかった。零れたシロップで口元をべとべとに汚しつつも、あっという間に一缶を食べ終えた。中に残ったシロップの一滴まで全て飲み干した後、それを傍らへ放り投げ、二つ目の缶へと手を伸ばした。


 合計、3個の缶詰を瞬く間に平らげた彼は、底に残っているコーンをフォークで食べ終えると、満たされた表情で大きく息を吐いた。少し、腹が痛かったが、今はその痛みが幸せであった。


 ……ふと、鼻腔を通った異臭に、彼は眉根をしかめた。臭いの出所はと鼻先をあらゆる方向へ向ける……そういえば、180日の間、まともに身体を洗っていないことを思い出した。


 気づいた途端、妙に自らの不潔さが気になった。興奮で気が立っているのか、眠気はやってくる様子はない。腹も満たされたこともあって、彼はシャワーを浴びる為に立ち上がった。



 脱衣所に設置されているエネルギー・ボトルと、給水タンクの容量を確認する。久しぶりに湯を溜めたこともあって、少し心配したが、幸いにも中身は共に、まだかなり残っていた。とにもかくにも、これの容量が足りなければ、湯を沸かすことも出来ないこともあって、彼はひとまず安心した。


 いつもなら湯なんて溜めないし、節約して温めの湯に設定していたが、今回は温度設定を2℃上げた。こういうときぐらい、贅沢をしてもいい。そう考えながら、彼はぼろきれとなったシャツを籠に投げ捨てると、湯気が立ち込める浴室内へと足を踏み入れた。



「……なんか違和感を覚えるな」



 以前よりも広く感じてしまうのは、以前よりも小柄になったからだろうか。以前は買い替えようと思っていた小さな手桶も、今ではちょうどいいサイズだ。


 フックに掛けられたシャワーを取ろうと、手を伸ばす「うわ、指先すら届かねえ」しかし、以前でも手を伸ばさなければ届かなかったシャワーに、小さくなった彼の手が届くはずもなく、指先は無情にも空を泳いだ。仕方なく、彼はシャワーの水が掛からないように横手からノズルを捻った。


 少しの間、水しぶきが上がる……十分に温度が安定したのを確認した彼は、えいや、と水流の中に身体を滑り込ませた。瞬間、背筋に走った痺れと快感に、彼は息を呑む。数秒ほど、全身を駆け巡る快感の放流に悶えた後、喉元までせり上がっていた感覚を、思いっきり吐き出した。



「――っ、ぉぁあああ~~~~……、気持ちいいぃぃ~~~~……」



 心地よい熱気が、頭部から足先へと流れていく。全身に纏わりついていた汚れが排水溝へと流れていく。その色が透明ではなく、微妙に色が付いているのを見て、思わず笑みが零れた。顔をあげてシャワーを顔面から受ける。軽く指で顔を擦るだけで、ポツポツと指先に垢がまとわりついた。



「よし、こうなったら全身を磨いてやる」



 そう独り言を呟いた彼は、濡れた肌をそのままに脱衣所へと出ると、勿体なくて使えずにしまっておいたシャンプーと未使用の歯ブラシを取り出し、浴室内へと舞い戻る。埃被ったシャンプーの入った容器をシャワーで洗い流すと、それをバスタブの縁に置いた。


 軽く口をゆすいだ後、歯ブラシに歯磨き粉を付けて、歯を洗い始める。気分が高揚しているせいか、特に痛みは感じなかった。満足するまで丁寧に歯を磨いたら、口内をすすぐ。それを3回繰り返してから、彼はシャワーの放流に後頭部を差しいれた。髪の中に手を突っ込むと、ぬるりと指先が滑った。



「うへへへ、きたねえ、きたねえ、すげえ汚いなあ、おい、すげえ伸びているな、俺の髪、すげえ伸びているぜ」



 わけも無く笑みが零れてしまうのを、抑えられない。滑りが取れるまで髪をすすいだら、シャンプーを掌に伸ばし、頭を洗い始める。痛みの走る指先に目もくれず、瞬く間に泡だらけになった頭部の感触に、彼は笑い声をあげた。どうしてか楽しくて仕方が無く、彼は3回も同じことを繰り返した。


 ようやく満足した後は、用意しておいたタオルに石鹸を擦りつける。十分に泡立ったのを確認してから、力強くそれで身体を擦り始めた。顔を含めた全身くまなく、尻の穴まで丹念に泡だらけにしてから、全身の泡をシャワーで流す。うはははは、以前なら絶対にあげなかった馬鹿らしい笑い声まであげた。



 そうして、ようやく全身を洗い終えたと納得出来た頃。浴室内に設置されている鏡にお湯を掛けて、彼は初めて今の自分を確認した。想像していたのとは違う光景に、彼の笑い声が止まった。



 鏡の向こうには絶世の美少年……というにはあまりに女性的な雰囲気を持った美少女が、間抜けな顔を覗かせていた。顔の印象が変わったとか、そういうレベルの話ではない。骨格そのものが小さく、スリムになっていて、形そのものが変わっていた。


 体つきも華奢で、少女のように筋肉が無い。長時間のストレスに晒されたことで色素が抜け落ちたのか、髪の色が銀白色になっていることもあって、見た目は完全に少女のそれである。おまけに、瞳の色も黒色から赤色に変わっており、それがまたミステリアスな色気を与えていた。



 若返ったのではないかと予想はしていたが、どうやら現実は予想の斜め上だ。



「これはまあ、変わったなあ……俺も」



 肉や脂肪が薄いせいで、腕を左右に伸ばせば肋骨の形がうっすらと分かる。そっと肋骨の段々を指先でなぞると、その指先の頼りなさが目に留まった。


 どこから見ても、女の子のそれだ。肉付きが薄いながらも、どこか丸まった印象を覚える。体格相応のシンボルが鼠径部の中央にて垂れ下がっていなければ、どこに出しても人目を引きそうな末恐ろしい美少女……それが、今の彼の姿であった。



「…………まあ、いいか。こうして生きているんだ。その内これが役に立つ時が来るさ」



 自らに言い聞かせるように呟くと、彼はさっとバスタブの中に足を突っ込んだ。体温よりも高いせいか、チクチクと突っ込んだ足が噛まれていく。カサブタの張っていた部分から、ちくりと痛みが走る。ぶるりと背筋を震わせて、残った足をバスタブの中に入れると、彼はゆっくりと腰を下ろした。



「……あぁぁぁ、いーきーかーえーるー……」



 全身に沁み渡る温もりが、芯に残っていた疲労を溶かしていく。180日ぶりに味わう入浴は、胸中の奥で張りつめていた最後の緊張をほぐすには十分であった。



 充満している湯気が視界を遮り、彼の姿を隠してしまう。一滴、また一滴。シャワーのノズルから滴り落ちる水滴の音に隠れる様に……鼻を啜る音が、静かに木霊した。

  


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