第2話 「彼」、改め、マリー






 彼が家に帰ってから、一週間の時間が流れた。





 その間、彼は180日ぶりに味わう平穏に、ただただのんびりと時間を過ごし……今日、ついに問題と向き合うことにした。



 1枚、また1枚、テーブルの上に小銭を並べていく。合計15枚とお札が5札で、5170セクタ。それが、現在彼が所持している全財産であった。彼は目じりを擦って何度か瞬きをしてから、もう一度テーブルに並べた財産を見つめた。そして、深々とため息を吐いた。



「やっべえなあ、これ……そろそろ本気で金を稼がないといけなくなってきたか」



 目の前の現実から逃れる様にソファーへともたれ掛る。だらしなく股を開いて大の字になると、視線を天井へと向けた。いまだ身に着けているのはシャツ一枚。長さが足りないせいで、純白のごとき滑らかな太ももが露わになっている。


 見た目が見た目なので、はた目から見れば実に目のやりどころに困る光景ではあったが、彼は気にしなかった。どうせ誰にも見られることなんて無いんだし、気にしたところで着るものがないので、気にするだけ無駄だからだ。


 単純に食費だけを考えれば、なんとか7日間は持ちこたえることが出来る金額が、手元にある。しかし、言い換えれば、雑費なんかを入れれば、一週間も持たないということである。



「エネルギー・ボトルはもうすぐ底を尽くし、水の貯蔵も残り少なくなってきているし、最後の保存食もさっき食べちまったし、それから……」



 指を一本ずつ立てて、直面している危機を数えていく。増えていく指の数に合わせて気分が落ち込んでしまう。改めて状況を整理すると、如何に自らが差し迫った状態なのかがよく分かる。出来ることなら知りたくなかったのは、彼の本音であった。


 財産の横に置いた瓶を手に取り、口づける。生ぬるい真水を一口飲むと、それをそっと元の場所に置く。さらりと視界の端で揺れる銀白色の髪を、彼は鬱陶しく後頭部へと振り払った。



「でもなあ……前の俺だったらいざ知らず、今の俺に出来る仕事なんて、ほとんど無いもんなあ……」



 ――金を稼がねばならない。それが、今の彼が行わなければならない急務である。



 以前の己であったならば、適当に装備を整えてからダンジョンに探究して、生活費を稼いでいたものだが……今の彼に、それと同じことをするのは難しかった。というより、不可能に近い。いや、もう不可能であった。



 ――『探究者』それが、かつての彼の肩書であり、従事していた職業であった。



 仕事内容は単純明快。数百年前に、いつの間にかに存在していたとされている地底迷宮ダンジョンから、金目になりそうなものや、いまや生活するうえには欠かせない燃料資源である『エネルギー』を回収する。それが、探究者に課せられた仕事であった。



 エネルギーとは、彼が住まう探究大都市東京に限らず、世界中で運用されている燃料資源のことだ。



 化石燃料やら何やらが枯渇してから数百年が経った今、燃料の主流となっているものであり、経済を回すうえでも、日常生活を営むうえでも欠かせないものとなっている。



 探究者と言う職業は、珍しい職業でも何でもない。



 探せば、探究者と名乗っている人はいくらでも見つかる。特別な資格が無くても成ることができ『探究者登録』さえすれば、それこそ今日にでも探究者を名乗れるような職業だ。想像するまでもなく、成り手は常に一定数いる。


 そんな職業で、彼はその中でも中堅どころに位置していた探究者であった。羽振りが特別良かったわけではないが、月に3回ぐらいは贅沢を出来る程度には生活出来ていたし、貯金もしていた。


 なので、彼は安心していた。当分は、貯金を崩しながらのんびり過ごす予定であったのだが……彼の計画は頓挫してしまった。昨夜、彼がショップに売ろうと所持していたエネルギー・オーブを整理しているときに、発覚したことが原因であった。



「まさか、魔力波動が変わっているとは……どうするんだよ。溜めていた貯金、1セクトも引き落とせねえじゃねえか」



 思わず、彼は天上へと愚痴を零した。


 彼が落ち込む理由……それは、現在、公的機関などで本人が本人であることを示す為に『魔力波動』を利用した本人認証システムが標準利用されているからであった。


 魔力波動とは、人類が生まれつき持っている力……すなわち、『魔力』から放たれる波動のことで、略して魔力波動と言われている。


 個々人によって僅かな違いがあり、生涯絶対に変わることが無いとされていて、主に個々人の識別などに使われている。


 エネルギー・オーブとは、探究者がダンジョン内で使用する、いわば『エネルギー回収装置』だ。探究者は、このオーブを使用してエネルギーを回収し、特定の施設や、エネルギーを売買するショップに売って収入を得るのである。


 つまり、オーブは探究者にとってお金に変わる小切手も同然である。ちなみに、先述した『エネルギー・ボトル』は、そのエネルギーを貯蔵する、いわばバッテリーのようなものと……話を戻そう。



 当然のことながら、だ。



 オーブ一つ一つに盗難対策として魔術波動を利用した本人認証システムが組み込まれており、通常はロックが掛けられている。本人以外は操作出来ないようになっており、今まで一度も悪用されたことのない優れた技術なのだが……今回はそれが仇となってしまった。


 魔力波動が変わるということは、すなわち、彼が別人になったということ。


 もちろん、本人が別人になったわけではなく、あくまでシステム上の話である。だが、あらゆる機関や施設で活用されているシステムなだけあって、影響は大きい。


 銀行には、本人であることを確認する為に、銀行側で魔力波動の記録を保管している。普通であれば、本人は手ぶらで行っても魔力波動(微弱であっても感知可能)を銀行側で認証してもらって、預金を引き落とすことが出来るようになっている。


 ということは、だ。言い換えれば、魔力波動が合わなかったら、例え本人がどんなに自分が自分であることを説明しても、門前払いを受けてしまうのである。これでまだ、魔力波動だけ変わっていたのなら、多少なりとも話は違っていたのかもしれない。


 彼の場合、もはや変わっていない部分は、彼の脳に保存されている記録ぐらいのものだ。どんなに本人しか知り得ない情報を話したとしても、疑われることはあれ、信用されることはないだろう。


 下手すれば、オーブを盗んだと疑われるか、あるいは脳の病気を疑われるか……捕まる可能性も否定できないことを想像した彼は、苛立ちに頭を掻いた。


 実家からは勘当の身であり、これといって出来の良い頭を持ち合わせていない彼にとって、ある意味天職と言っていい仕事であったのだが……。


 他の仕事を探すにしても、彼にはいくつかの問題が立ちはだかっている。魔力波動が変わったことにより、公的記録では存在しないとされている自らの立場。


 弱体化した身体においての、肉体労働の難しさ。もともと頭脳労働なんてものが出来なくて探究者になったのに、今更そっちに行けと言われたところで、出来るはずも無い。そもそも身分を証明するものが無いので、雇ってくれないのは目に見えていた。


 ……幸いと言っていいのか分からないが、今の彼の見た目は、背筋が震えあがる程に美しい美少……年だ。一晩、二晩ぐらい目を瞑れば、またしばらくは……なのだが、彼は断固としてそれをやろうとは思わなかった。まあ、当然である。



(……やっぱり、探究者をやるしかねえのかなあ……けどなあ、今の俺に出来るのかねえ……でもまあ、やるしかねえんだろうなあ……)



 ぼんやりと天井を見つめながら、彼はそう思った。今の身体で、ダンジョン内で出来ることといえば、一番手軽にエネルギーを採取できる『鉱石取り』ぐらいだろう。


 けれども、はっきり言って鉱石取りは非常に利益が低い。しかし、非力な今の自分で金を稼ぐことが出来そうな仕事といえば、それ以外思いつかない。



 ……仕方がない。



 一つ、やることを決めた彼は、ソファーから勢いよく立ち上がった。長くなった銀白色の髪を背中へと振り払う。


 たしか、押し入れの中に、今の身体でも扱えそうな武器があったはずだ。


 そう思って隣の寝室へと入り、押し入れの中を探る。その中の、埃被った木箱をどうにか取り出すと、ふう、と息で埃を吹き飛ばした。


 埃と湿気で汚れた蓋を開けると、中には様々なガラクタが入っていた。幸いにも、中まで影響はないようで、目当てのモノは買った当時の姿を保っていた。


 ナックルサックと呼ばれる、指にはめて使う金属のプレート板を取り出すと、埃を立てないように木箱を元の場所に戻す。


 立ち上がって、ナックルサックを指にはめた。サイズの不具合は覚悟していたが、思いのほか違和感のない感触に、頬を緩める。捨てなくて良かったと、彼は思った。



「まさか、これを使う日が来るとはなあ……酔って衝動買いしたものが役に立つ日が来るとは、人生分からないもんだぜ」



 腰を落とし、両手を眼前に構えて、それっぽいファイティングポーズを取る。徒手空拳など学んだことは無いので、あくまで形がそれっぽいだけだ。本気で学んでいる人たちからすれば、お粗末もいいところだろう。


 2、3度、素振りを行う。改めて分かる己の愚鈍さに思うところはあるものの、それを口に出したりはしなかった。


 とにかく、武器は用意出来た。本音を言えば剣の方が良かったのだが、この体ではまともに振るうことすら出来ない。それならば、使い慣れない武器とはいえ、ちゃんと扱える武器の方がいいだろう。


 わずかに息が切れ始めるのを感じた彼は、構えを解いた大きく息を吸って、吐いた。そのまま数回、ゆっくりと深呼吸を行う。高鳴る心臓の鼓動を、徐々に静める。



 そうして完全に呼吸が整ったのを確認した彼は、静かに目を閉じた。呼吸を乱さないように注意しながら、静かに己の中に眠る魔力に意識を向ける。



 ずっと昔、人伝に聞いた魔力コントロールにおける精神統一のやり方である。静かに、魔力だろうと思える力を内から引きずり出していく……イメージをする。



 これは、人類が生まれつき持っている力の一つである魔力を操る練習法だ。



 誰しもがその存在を確認でき、利用できるとされている力だが、個人差が存在する。生まれつき手足のように扱える人もいれば、長い時間を掛けて練習を重ねなければ扱えない。


 彼は後者……長い時間を必要とする方だ。それも、長い時間を必要とする人たちよりも、さらに長い時間が必要になる。要は、センスが無い。おまけに、潜在する魔力量は、とてもではないが戦闘に使える量では無かった。


 その為、彼は今まで魔力コントロールの鍛錬は一度も行ったことは無かった。幼い頃、魔力を教える教師から『君には先天的に才能が欠如している』と言われて以来、魔力と呼ばれるものには見向きもしなかった。その分を、己の肉体を鍛え上げることに尽力を注いだ。そのおかげで、彼はここまでやれてきた。


 しかし、今の自分には、その鍛えた肉体は無い。あるのは、女のように細い手足と、無いに等しいと言われた魔力だけ。爪楊枝にちり紙を一枚被せたかのように頼りないものでも、頼るしかない。それだけが、己の残された武器であると、彼は理解していた。



「……よし」



 魔力を探ること、10分。なんとなく、腹奥で渦巻く魔力を察知した彼は、ほう、と大きく息を吐いた。久しぶりのことだが、どうにか上手くいったのを、彼は感覚から把握した。


 とりあえず、持てる武器は全部持った。とはいえ、どうしようもない不安要素が、あと一つ残っている……が、彼は、一つ、己の頬を両手で張って、誤魔化した。











 まずは探究者登録を済ましておかなければ始まらない。



 そう考えて、久しぶりに訪れた役所は、記憶にあった光景と少し違っていた。と、いっても、脇に設置された椅子の数とか、職員の制服が変わっているとか、置かれている鉛筆が新しくなっているとか、その程度の違いでしかなかったのだが……。


 如何にも荒事が得意そうな男が、彼の横を通り過ぎていく。不躾な視線を周囲から向けられることを自覚しつつ、彼は入口横に置かれた案内板を見つめた。


 開いている窓口の中で、一番奥。そこが、冒険者登録を行っている窓口であった。振り返って見ると、なるほど、奥の窓口には屈強そうな男たちが数人、列を作っている。男たちは全員、プレートやら何やらを装備しており、一目でそういった職業に従事しているのが分かる出で立ちであった。



(久しぶりに来たから全然分からん。えっと、ココに並べばいいんだな)



 とりあえず彼は、その男たちの最後尾へと並ぶ。そうしてみて分かる、自らの小ささを思うと同時に、ざわり、と役所内の空気がわずかに変わったのを彼は感じた。喧嘩でも起こったのかと振り返るも、特に剣呑な雰囲気は見当たらなかった。



 ……気のせいだろうか。



 そう、彼が首を傾げていると「おい、お嬢ちゃん」頭上から声を掛けられた。もしかして俺に言っているのだろうかと思いつつも無視していると、再度頭上から声を掛けられた。


 間違いない、俺に話しかけている。改めて実感する事実にため息を吐きたくなった。振り返って見上げると、髭を生やした男が困ったように頬を掻いていた。



「……?」



 何か用でもあるのだろうかと見上げていると、男はさらに苦笑を深めると、背後にいる仲間へと振り返った(ああ、こいつら知り合いなのか)と納得している彼を他所に、男たちはぼそぼそと声を潜めて話し合った後、再び彼へと振り向いた。



「お嬢ちゃん、どこから来た?」



 お嬢ちゃん、という言葉に思うところはあったが、口に出すようなことはしなかった。これからは、こういうことにも耐えなければならないからだ。



「……家だけど?」

「ああ、うん、そういうことじゃなくて、だな」



 髭を生やした男は、がりがりと音を立てて頭を掻く。何かを伝えようとしているが、どう伝えればいいのか分からない。そう顔に書いてある男は、視線を右往左往させた後、恐る恐る彼の瞳を見つめた。



「ここは探究者用の窓口だぞ。お嬢ちゃん、他の窓口と勘違いしていないか?」

「していねえよ。探究者登録をする為に並んでいるんだから、何も間違ってはいないぜ」

「……ぜ? ず、ずいぶん乱暴な口調だな……」



 ぽかん、と髭を生やした男は呆気に取られ、目を瞬かせた。その後ろで事の成り行きを見守っていた丸坊主の男が、困ったように笑みを浮かべながら口を開いた。



「お嬢ちゃん、本気で探究者になろうとしているのかい?」



 とても温和な話し方だった。声の響きも、彼をからかう気持ちが一切感じられない。見た目とは裏腹の優しい笑顔に、彼は無意識の内に抱いていた警戒心を解いた。



「そうでなけりゃあ、こんな暑苦しい列には並ばねえよ」

「探究者っていう仕事が、どれだけ過酷で、危険な仕事なのか分かっているのかい。怪我だって日常茶飯事だし、命を落とすことも珍しくはない仕事なんだよ」

「それぐらい知っているよ……ああ、なんとなく言いたいことが分かった」



 はあ、と彼はため息を吐いた。失礼な態度だが、見た目が良いからだろうか。そんな姿ですら妙に可愛らしく、周囲から見ていた人たちの目じりが、わずかに下がった。



「別にモンスターを倒して金を稼ぐつもりはないよ。俺の目的は鉱石だ」



 ダンジョンでエネルギーを採取するには、二通りの方法がある。



 一つは、エネルギーが含まれている鉱石からエネルギーを採取する方法。


 もう一つは、ダンジョン内で生息する特殊な生命体、通称『モンスター』と呼ばれる化け物から採取する方法である。



 探究者は、このモンスターを殺すことで得られるエネルギーを採取し、特定の施設などに売り払うことで得られる賃金を元に生計をたてるのが一般的である。


 なぜモンスターを狙うのかというと、モンスターの方が採取できるエネルギーの総量が多いからである。持ち帰ったエネルギーの量が、そのまま報酬になる為、探究者のほとんどは儲けの大きいモンスターを狙うのである。



 ただし、その分だけ危険は大きくなる。モンスターも、ただ黙って殺されるわけではないからだ。



 命を狙われれば抵抗はするし、モンスターの大部分は人間を見つけると襲いかかって来るほどに凶暴である。丸坊主の男が“命を落とすことも珍しくない”と話したことも、満更誇張ではないのだ。


 もちろん、そんなことをわざわざ言われなくても彼は理解している。ダンジョンの恐ろしさも、モンスターの凶暴性も、十分に理解していた。


 だからこそ、彼は自らの状態を顧みて、悩んだ末での決断が、鉱石取りなのである。危険なのは、百も承知だ。



 どこまでが危険かどうかの線引きは、探究者のさじ加減が全てだ。



 鉱石は比較的上階からでも採取することが可能で、運が良ければ、入口のすぐ傍に鉱石が見つかることもある。一攫千金を狙うよりも、彼は堅実に稼ぐことを選択した。



「……悔しいけど、モンスターを倒す力が、俺には無いからな。お節介を焼いてくれるのは有り難いけど、止めるつもりはねえぞ」



 そう彼は言い切ると、ふん、と男たちから顔を逸らした。その姿は、まるで大人の話を聞かない子供のようで、男たちは互いの顔を見回して、困ったように苦笑し合った。





 その後の冒険者登録は、彼が危惧していた通りに難航した。住所は普通に答えて、年齢はとりあえず16歳にしておいた。不審な眼差しを向けられた後、名前を尋ねられた。



(しまった……名前を考えてくるのを忘れていた)



 反射的に名前を名乗りそうになった彼は、寸でのところでその言葉を呑み込んだ。言っては何だが、本名を名乗ったところで、信じて貰えないのは明白だろう。黙っているのもおかしいので、今考えた「マリー」という名前を名乗ることにした。



「……まあ、そういうことにしておきましょうか」



 とは、職員の反応。やはり変だったのか「名前と年齢を偽るのであれば、もう少しそれっぽくしてくださいね」と釘を刺されてしまった。そのほかにも色々突っ込まれることが多かったが、とにかくそこまではスムーズに行った。



 そして、質疑応答の時間がやってきた。机をはさみ、対面する形となった彼、改め、マリーは、眼前に座る女性を見やった。



「えっと、マリーちゃんは、何か『魔法術』とかは習得しているかしら?」



 メガネをかけた、山田と名乗った知的美人の職員は、書類に鉛筆を走らせながらマリーに尋ねた。年下を見るかのような和やかな視線を向けられ、マリーは胸を張って答えた。



「そんなもん、会得しているわけねえだろ」

「いや、マリーちゃん……胸を張って言うことじゃないと思うんだけど……後、その喋り方はいただけないと私は思うなあ」



 意外だわ。てっきり習得しているものだと思っていたけれど。そう山田は考えつつも、表面上は笑みを保ったまま、マリーを見つめた。



 魔法術とは、魔力を元に行使する、事象を操る力の総称である。



 魔法術の内容は多岐にわたり、言うなれば、手や足を使わなくても色々出来ちゃう便利な力のことである。


 誰でも習得が可能とされている便利な力だが、習得する為には多大な金が掛かるうえに、覚えることは出来ても、使いこなせるかどうかは本人の素質に左右される。魔法術に対する素質の無かった彼は、無駄なことには出費をしていなかった。



「それじゃあ、習得しているのは気功術かしら?」



 気功術も、魔力と同様に、人間が生まれつき持っている力である。ただ、こちらは魔力と違ってコントロールが難しく、素質と時間が必要となる為、あまり習得している人は多くない。



「いや、気功術なんて大そうな術も習得してないぞ」

「あらあら、自信満々ね。素直に教えてくれるのは嬉しいけど、もう少し嘘を織り交ぜてくれる方が、お姉さんは安心するんだけど……」

「下手に嘘を伝えると、後々面倒なことになりそうだからな。この質疑応答だって、虚言癖の有無や誇張癖の有無を確認する程度の意味しかないだろ。面倒なことはさっさと終わらせるべきに限る」

「身もふたも無いことを言われちゃうと、お姉さんの立場が無くなってしまうから、そこまでにしてね。見た目はお姫様のように綺麗なのに、どうしてこんなに男口調なのかしらねえ」

「そりゃあ、俺が男だからだよ」



 一瞬、鉛筆の動きが止まった。直後、山田は耐え切れないと言わんばかりに口元を手で覆った。それでも隠しきれない笑い声に、マリーは片眉をつり上げる……背後から聞こえてきた忍び笑いに、マリーの頬が引き攣った。



「ご、ごめんなさい。失礼なことを聞いちゃったわね」



 ひとしきり笑った山田は、気を取り直して鉛筆を走らせ始めた。



「……それじゃあ、何か武術とかを習得しているのね。学んでいる武術か、あるいは御師になる方の名前を教えてくれないかしら?」

「武術は学んでないし、師匠なんていねえ」

「それじゃあ、護身術か何か学んでいたのかしら?」

「ねえよ、そんなもん。自己流だ、自己流」

「あら、そうなの?」



 山田はマリーを見つめた。手足は背丈相応に細く、腕から伸びた指先は頼りなく、か弱い。同世代の少女にすら負けてしまうのではなかろうか、と山田は思った。俊敏に動き回る姿を、想像できない。


 果たして、マリーがいざモンスターと遭遇した際、パニックを起こすことなく逃げられるだろうか……今後のマリーの無事を案じたくなった山田は、困ったような笑みを浮かべた。


 どちらにしても、山田にマリーの行動を止める義務は無いし、探究者登録に年齢制限は無い。無事であってほしい……そう祈ることしか出来ない山田は、さっさと気持ちを切り替えることにした。



「それじゃあ、マリーちゃんが使用する武器を見せて貰えないかな。それとも、今日は持ってきていないのかしら?」

「いや、持ってきているよ。この後ダンジョンに潜ろうと思っているからな……ほら、これだ」



 これ、といって山田の前に差し出したのは、ナックルサックだった。拳をカバーするように設計されたプレート板は、数ある武器の中でも一番軽く、非力な女子供でも扱える、対人間を想定した護身用武器である。


 錆の見当たらない綺麗なそれは、人間を相手にするには有効な武器だが、モンスターを相手にするには頼りない。というより、マリーの細腕でどれだけの力が期待できるのだろうかと、首を傾げたい気持ちすら湧いてくるのを、山田は抑えられなかった。



「他には何かある?」

「無い」



 ――可愛そうな子を見る目を向けられているな。


 山田の笑みを見てそう感じたマリーは、だからといって山田を責めようとは思わなかった。自分が逆の立場であったら、絶対同じことをすると分かっていたからだ。



「理解していると思うけど、ダンジョン内で死亡等した場合、いっさいの保険は下りないけど、それについては大丈夫かしら?」

「大丈夫。保健なんて掛けてないから」

「探究者同士の揉め事は、原則、本人同士で解決すること。特に、ダンジョン内での揉め事に関しては、ね」

「それも知っている。ていうか、だいたいのことは知っているから、いいよ、もう」

「あら、そうなの。それじゃあ、もういいわね」



 マリーの言葉を聞いて、山田は軽く頭を下げた。山田の後ろで、別の職員が、亜麻色の袋と、握りこぶしサイズの透明な水晶をトレーに乗せて持って来た。



「これで、質疑応答は終わりよ。探究者登録の完了と、支給される道具の説明を始めたいと思うんだけど、説明はいるかしら?」

「いや、必要ない。使い方は知っている」



 博識なのね。そう、微笑んだ山田は、マリーの眼前にトレイを置いた。



「こっちの袋がビッグ・ポケット(作業袋)で――」



 『ビッグ・ポケット』とは、特殊な技術を用いて製造された袋の事であり、見た目よりも何倍の物量を収めることを可能としている。



「――こっちの丸いのがエネルギー・オーブよ。分かっていると思うけど、マリーちゃんは実績が無いから、支給されるオーブと袋は一番安価なやつになるわ」

「ああ、分かっているよ」



 山田は、座ったまま深々と頭を下げた。



「これで、全行程は終わり。今からマリーちゃんは探究者の仲間入りよ」

「ああ、うん、ありがとう。あと、いいかげん、ちゃん付けは止めてほしいんだけど」

「それで、これは私が探究者となった人たち全員に言っていることなんだけど、マリーちゃんにも言っておくわね」

「どうせ『命を粗末に扱わず、精一杯生き抜いてください』だろ。それはもう知っているぞ。あと、マリーちゃんは止めてくれ」

「あら、それも知っているのね。それじゃあ、せっかくだからマリーちゃんには、もう一言付け加えておくわね」

「俺の話を聞けよ」



 そう話したマリーの言葉に、山田は椅子から立ち上がった。机に乗り上げるようにして、マリーへと身体を近づける。思わずマリーが身を引こうとするよりも早く、山田の手がマリーの襟元へと伸びて……くいっと引っ張った。


 拳二つ分は入りそうな隙間が、シャツと胸板の間に生まれる。サイズが違うことで生まれる余裕のせいで、何も身に着けていないマリーの裸身が、山田の目にはよく映った。幸いにも、腰から下はハーフパンツのゴムによって、露わになるようなことは無かった。


 再び、無言の静寂が二人の間を流れる。二人の背後で様子を伺っていた人たちも、何を見たのかと興味深そうに視線を投げかけられていた。



「……マリーちゃん」

「お、おう」



 ポツリと呟かれた名前に、マリーはどもりながら返事をする。視線から逃れるように身を引くと、抓まれた指先からぽろりとシャツが外れた。



「お願いだから、もう少しマシな服を着てきて頂戴ね。私、この仕事に就いてけっこう経つけど、女の子が男物のシャツとハーフパンツで来た人は初めてよ……」

「あ、やっぱり駄目だったか、これ」



 マリーは軽く襟を抓んだ。深々と、山田はため息を吐くと、椅子に腰を下ろした。


「別に、駄目じゃないわよ。前に、下着姿で来た人もいるし、特に規定なんてないわ」



 それに、と山田は続けた。



「私たち職員は、探究者になろうとする人を止める権利は無いし、邪魔をしては駄目だもの……でも、私個人の意見を言わせてもらえば、もう少し相応の恰好をした方がいいと思うわ。マリーちゃん、凄い美少女なのに、恰好のせいでびっくりするぐらい損しているわ……お化粧すれば、凄く栄えると思うんだけどなあ」

「化粧なんてまっぴら御免だ、ほっとけ」



 マリーの言葉に、山田はため息を吐いた。








 陰々とした暗がりが、大きく開かれた洞窟の向こうに広がっている。洞窟の至る所に咲いたウィッチ・ローザが無ければ、もっと寒々しい雰囲気を放っていただろう。


 入口入ってすぐの地点に、ちらほらと光を遮るものが映る。その影の正体は人間であり、マリーと同じ目的の探究者たちだ……目的は鉱石だろう。


 マリーは、その影たちの向こう、点在する明かりの傍に見える地下へと続く階段を見止めて、強く唇を噛み締めた。


 政府がダンジョンを監視し、管理下に置く為に建設された複合施設の一角。ダンジョン管理センター、通称『センター』と呼ばれる施設の、一番奥。土肌がむき出しとなっているダンジョンを囲うように建設された部屋『ルーム』の中に、マリーが180日間近く閉じ込められた地底迷宮への入口が、あった。


 入口の広さは、約50メートル。奥行きは数百メートルにも及び、地上階には、モンスターの気配は感じられない。モンスターが出現するのは、地下一階からなのだ。


 部屋の大きさも、入口のサイズに見合う広さを取っており、四方の内、一辺にはずらりと扉が8つも並んでいた。


 扉の上部に書かれた『治療中』のランプが3つ、点灯している。ルームには常時、負傷した探究者たちを治療できるように医師たちが待機しているのだ。


 他にも、トイレや簡易の休憩所なんかも用意されている。以前は食品も販売されていたが、医師たちから『食品があると、雑菌の温床になりやすい』などの抗議があがって、今では飲料水ぐらいが無料で配布されている。センターには飲食店だけが集まった施設もあるので、食事をしたければ専用の場所へ行け、ということだろう。


 地底迷宮ダンジョンの入口前には、探究者たちが至る所でグループを作っていた。これからダンジョンへ入る為に入念な打ち合わせをしているのだろう。誰もがマリーの姿に視線を一度は向けるが、二度目は無かった。



 ――ほらほら、退いた退いた!



 マリーのすぐ傍を、白衣をまとった医師たちが通り過ぎて行った。その行き先に目をやる。血だらけになった男が、大柄な男の肩に担がれる様にして、ダンジョン入口から出てきたところが見えた。入口近くで談笑していた探究者たちが、邪魔をしないようにその場を離れた。



 ――どっちがやられた!?



 二人に駆け寄った医師たちが、慣れた様子で手を貸す。仲間を担いでいた男は、その場に崩れ落ちるように座り込むと、医師たちに叫んだ「相棒を助けてくれ! ランターウルフに噛まれたんだ!」



「ランターウルフか、分かった! この人の血液型は分かるか!?」

「ああ、俺と同じA型だ! 俺ので良ければ、使ってくれ!」



 血だらけの男を手早く担架に乗せる。医師たちは無事だった男を連れて、急ぎ足で治療ルームへと入って行った。ぼそぼそと、今の二人について話し合う声が、周囲から聞こえてくる。けれども、誰も気分を悪くした様子は無く、怖気づいた者もいなかった。


 それは、見慣れた光景だから。探究者にとっての日常風景だからだ。まだ、生きて戻って来られただけ、目に優しい。酷いものだと、錯乱した男がチームの頭部だけを抱えて逃げ帰ってきたという話があるぐらいだ。



 ……ここは、そういう場所なのだ。



 くるりと、ルーム内を見回す。等間隔に立ち並ぶ柱の中、部屋の中央に立つ柱を囲うように用意された受付所を見つけ、マリーは小走りでそこへ向かった。



「――っ、おっ?」



 途中、踏み出した足から、かくん、と力が抜けた。転げそうになって立ち止まり、視線を下ろす。腰から下の感覚が鈍い。ゆらりゆらりと地面が波のように揺れているような感覚を覚えた。



(やっぱり、こうなるか)



 思わず、マリーは舌打ちをする。その見た目とは裏腹の品の無い仕草に、横を通り過ぎた探究者が、ぎょっとした様子で振り返った。構わず、マリーはもつれそうになる両足に注意しながら、受付前へと立った。黒髪を後頭部へ団子状に纏めた、温和な雰囲気を持つ女性が、ぐるりとドーナツ状の机の中に立っていた。



 人の波を抜け、近づいてきているのは見えていたのだろう。



 マリーが声を掛けるよりも早く、受付嬢はマリーへと視線を下げた。腰から下は、机が邪魔して確認することは出来ない。立っているのだろうな、とマリーはふと思った。



「ダンジョンに入りたいんだけど」

「畏まりました。こちらへ手を置いてください」



 受付嬢が指示した場所には、手のひら大の水晶が、金属の窪みに収まるように置かれていた。魔力波動を調べる装置で、これで探究者登録を行っているかどうかを確認するのだ。



「掌を下にしてください」



 促されるがまま、マリーは水晶の上に手を置いた。ひやりとした冷たさが掌から伝わってくる。



「役所から連絡が来ていると思うけど、入っても大丈夫?」



 そう、マリーが尋ねると、受付嬢は「少々お待ちください」と微笑むと、手元に置いた紙をぱらぱらとめくりながら、視線を机の下へと向ける。役所から届いている魔力波動の情報と、今の情報を照合した結果を確認した受付嬢は、笑顔のまま顔をあげた。



「はい、マリー様ですね。登録のご確認を致しました。チーム、ソロのどちらでしょうか?」

「ソロだ」



 マリーは即答した。一瞬だけ、受付嬢の目じりがピクリと動く。しかし、受付嬢はそれ以上のことを表情に出すようなことはせず、笑みを保ったまま頭を下げた。



「幸運を、お祈りしております」

「幸運……ね」



 皮肉な話だ。そう思ったマリーは、苦笑を浮かべてその場を離れた。背後に視線を感じたような気がしたが、マリーは振り返るようなことはしなかった。



 興味深そうに視線が注がれているのを感じつつ、改めて、マリーは入口へと立った。



 眼前にて広がる巨大な洞窟は、まるで巨大なアリ地獄を想像させる。あるいは、ブラックホールだろうか。何もかもを呑み込んでしまいそうな、圧倒的な何かがそこにあるような気がして、マリーは唾を飲み込んだ。


 一つ、深呼吸をする。勢いに任せてここまで来たが、ここから先で、それは通用しない。勢いのままに突っ走れば、待っているのは確実な死。一歩踏み出せば、完全な自己責任の世界だ。


 震えそうになる四肢を、抑えられない。噛み締めた奥歯がぎりぎりと音を立てる。周りからも、マリーを心配するような視線が向けられる。


 はた目から見れば、ダンジョンの恐怖と迫力に怯える少女にしか見えないマリーの姿は、たいそう庇護欲を刺激されるのだろう。


 しかし、誰も彼も、手を貸そうとはしなかった。力を貸そうとはしなかった。探究者を目指そうとする少女など、訳ありに決まっているからだ。持ち前の安っぽい正義感に駆られて起こる責任を、誰も彼も背負いたくはないのだ。


 先ほどよりも手足に力が入らない。肩に掛けたビッグ・ポケットの紐を、握りしめる。体積以上の道具を入れることの出来る、人類が作り出した道具の一つ。


 その道具をその場に下ろし、中からナックルサックを取り出して背負い直した。採掘道具とオーブしか入っていないビッグ・ポケットは、不安を覚える程に軽い。その軽さを誤魔化すように、紐を締めた。


 本来であれば、この袋の中に解毒薬やアクア・ボトルといった、ありったけの必需品を詰め込んでダンジョンに入るのが普通である。


 今回、お金などの諸事情があったとはいえ、ほとんど着の身着のままでダンジョンへと潜ろうとするなど、おそらく世界広しといえど、マリーだけだろう。


 震えて上手く入らない指先に苛立ちを覚えながら、マリーはナックルサックを装備した。ずしりと指先に感じる重さが、ほんの僅かながらマリーの緊張を和らげた。



(……震えるんじゃねえよ、俺の身体……大丈夫だ、ちょっと降りるだけ。地下一階に行くまでだ。階段付近であれば、いざモンスターがやってきても、逃げることは出来る。焦らず、欲張らず、落ち着いてやればいいだけだ)



 もう一度、大きく息を吸って、吐いた。そして、覚悟を決めたマリーは、おそるおそる一歩を踏み出した。マリーとしての、最初の一歩であった。





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