第8話 決戦日・通過儀礼






 ――ぴょん、ぴょん。ぴょん、ぴょん。くねくね、くねくね、くねくね。



 マリーは、目の前で必死になって飛んだり身をくねらせているサララを黙って見つめていた。


 生暖かい視線を向けられていることに気づいていながら、サララは顔を真っ赤にして両手に力を込める。挟まれた指と太ももに痛みが走るのを堪えながら、右に左に、前に後ろに腰を動かしながら、サララは力いっぱい引っ張り上げた。



 場所は、サララの自室。部屋の中には、サララとマリーしかいなかった。



 今日は、ついにやってきた運命の日。いよいよ地下10階を目指す、作戦決行日だ。既に準備を整え終わったマリーが、サララの様子を伺いに部屋に入ったときから……この光景が続いていた。



「……サララ」



 ポツリと呟いた、マリーの呼び声。別段、いやらしい響きも何も無いその呼び掛けに、サララの肩は弾かれたかのように跳ねた……直後、サララは、ふん、と鼻息荒く両手に力を込めた。



「だ、大丈夫、あとちょっとで入るから! あともうちょっとだから! ほら、あと少し!?」



 妙に必死な様子でサララは腰をクイッと動かすと、マリーへお尻を突きだした。尻房の半分……辛うじて、女の証が隠れることの出来るギリギリのラインにまで引き上げられたワイヤーサポーターが、窮屈そうにサララの尻房を締め付けていた。



(……見えそうで、見えない)



 思わず、下から覗きこみそうになってしまうのを、マリーがギリギリのところで抑えた。さすがにこんな状況でそれをやるのは良くないということぐらい、マリーにも分かっていた。


 さて、サララがちょっと人目に出せない姿になっている理由は、他でもない。ようやく手元にやってきたワイヤーサポーターが、履けなかったからであった。


 寸法を測って作っているとはいえ、元々少し締め付けるように作られるのだ。いざその時になって、足は入ったが、お尻が入らないという話は、まあ、少なくない。


 何度か使用したり洗濯したりすれば、そのうち締め付ける力も弱まり、ちょうどいい具合になる。それまでは多少息苦しくとも、我慢しなければならないのだが……どうやら、サララの場合は我慢以前の問題のようであった。


 お尻から上に進まないことに気づいたのが、今朝方のこと。上のサポーターを着ることは出来たが、下が上手く行かず、今に至るまで、サララはこうして自らの尻房と孤独な戦いを繰り広げていたのである。


 ワイヤーサポーターは、その特性上、他の下着のような伸縮性は無いに等しい。というよりも、ワイヤーサポーターはトランクスやショーツ以上に、ピッタリと身体にフィットするように作られているのだ。


 ワイヤーサポーターが窮屈に感じるのはけっこう当たり前で、着るためには力づくで行うしかない。着るのに四苦八苦すること自体、別段そこまでおかしい話ではないのだ。


 マリーとて、それは同じだ。マリーの場合はある程度慣れている部分もあるので、サララよりはマシだが、それでも履くときは無理やり引っ張り上げて、色々と押し込めるのである。


 慣れない頃……マリーがこの姿になる前だ。かつての己が初めてワイヤーサポーターを履こうとしたときは、それはもう大変で、どうにかこうにか四苦八苦した覚えがあった。



(……最初は毛を剃ってまで、隙間を作ったなあ)



 マリーは、己の全身を締め付けるワイヤーサポーターの感触に、軽く息を吐いた。


 この体型に合う、『スタンダード・ドレス』という防護衣服を着ているので、はた目には見えないが、マリーもしっかり中に着込んでいるのである。ラフそうな恰好ではあるが、中身はハムのように締め付けられているのだ。


 見た目はどうであれ、男の証がしっかりあるマリーだ。着慣れたとはいえ、男特有の下腹部の締め付けに違和感を覚えないと言えば、嘘になる。実際、ブツの居心地は悪い。


 しかし、それでも履かないという選択肢は、マリーには無い。実際問題、この薄っぺらな一枚が生死を分けることもあるわけなので、着て損をすることはないのだ。


 ……とはいえ。



「……なあ、サララ」



 サララの頑張りは認めるが、いつまでもこうしているわけにもいかないのは事実。ちょっと人前に出られない形相のサララを見やると、マリーは部屋のテーブルに置かれたワイヤーショーツを手に取った。



「ふんぬ! ふんぬぉぉぉ!」



 色気も糞も無い気合の声に合わせて、サララは54回目となる賭けに出る。ただでさえ赤くなっていたサララの顔が、さらに赤くなる。それは、興奮しているからでも何でもなく、無酸素運動における、体温の上昇によるものであった。



「最後! 最後にもう一回ぃ!」



 サポーターを抓んだサララの指が、ギリギリと音がしそうな程に力が込められる。清水を思わせる、柔らかくも静かな表情が見る影もなくなっていた。


 まあ実際、サララの言うとおり、確かにあともう少しだろう。あともう少し、引き上げることが出来ればOKだ。それは、マリーとてよく分かっている。


 しかし……そのもう少しが、あまりに遠かった。少なくとも、マリーがサララの部屋を訪ねてから今まで、ワイヤーサポーターの位置は、指一本分も上に進んでいないのだ。


 時間こそ数分程度しか経ってはいないが……このままだと、何時になるか分かったものでは無い。


 なにせ、入れ違いで出て行ったシャラとマリアが『アレはどう足掻いても無理だ』と口を揃えたぐらいだ。実際、傍で見守っていたマリーも同意見である。



「とりあえず、今回は諦めろ。多少防御力は落ちるが、下着の代わりになるワイヤーショーツもあるんだ。そっちは締め付けも多少楽になっているし、そっちにしろよ」



 ワイヤーショーツとは、そのままパンツとしても兼用できるワイヤーサポーターの一種だ。サポーターよりもいくらか締め付けが弱く、防御力も落ちるが、サポーターよりもはるかに履きやすいように作られている。



「ふう、ふう、ふう……うん、そうする。待たせてゴメン」



 ようやく、諦めたのだろう。額に薄く汗を滲ませたサララは、マリーに一言謝ると、マリーが居るにも関わらず、その場で一気にサポーターを下ろした。


 前かがみになったことで、弾力と瑞々しさを思わせる尻房が、ぷるん、とマリーの前に晒される。それどころか、そのまま無造作に片足ずつサポーターを脱ぎ去ると、くるりとマリーへと向き直った。凄まじい吸引力となったデルタ地帯に、マリーの視線が吸い寄せられた。



「そっちの、貸して」

「……え、あ、はい」



 乞われるがままマリーは、ショーツを手渡す。自然と、視線がそこに固定してしまうのを抑えられなかった。陰りがどうとか、上半身はサポーターのおかげで大丈夫であったとか、そういう次元の話では無い。くっきりと、女の形がマリーの前に晒されているのである。ちょびちょびと生えた毛に守られた亀裂が、しっかり見えているのである。



(こ、こいつ、マジで俺のこと男だと思っていねえんだな……)



 ごくりと、マリーは唾を飲み込んだ。女のそこを見ること自体は初めてでもないし、色々弄った経験はあるが、さすがサララみたいな年頃のものは、見たことが無い。大人の形でも無く、子供の形でも無い……何ともアンバランスなそれに、マリーはくらりと血がのぼってくるのを実感した。



「よっこいしょ」



 脱いだときと逆の手順で足首を通し、ずりずりとショーツを引き上げて行く。ショーツの内側に取り付けられたクロッチの位置を合わせながら引っ張っている様は、なんというか……見ていて、不思議な気分になってくるのを、マリーは実感した。



「――っ、よし、入った」



 ふん、とサララが気合を入れると同時に、ショーツが最後まで上に引き上げられた。ぱちん、と音を当ててショーツが肌に張り付く。隠されたことで、ある意味強調された足腰のラインが、マリーの視界に晒される。サララはそのまあ気にすることなく、ベッドに置かれたプレートに手を伸ばしていた。



(……まあ、とにもかくにも、出発まであともう少しってところかな)



 部屋の隅に立てかけられた、槍が、キラリと光を反射する。刃先の色が紫掛かった、シャラから譲り受けた『遅毒槍』を横目で見やったマリーは、ふう、とため息を零した。






 ―――――地下一階―――――





 カチャカチャと、わずかに角ばり盛り上がったビッグ・ポケットと、防具とがすれ合う。思洞穴のような通路を通る二人の足音が、一定のリズムを取っていた。


 前日の時とは違い、今度はしっかりと装備を整えてきている。そのせいで、いくらか二人の首に掛けられたビッグ・ポケットの重さが増しているのだが、二人は気にすることなく前進を続けている。


 担ぐようにして槍の柄を肩に置いたサララが、油断なく周囲に視線をやりながら、静かにマリーの後を歩いている。ふらふらと、水平を向いた刃先が揺れる。武器があるおかげか前よりも、呼吸・発汗、共に正常の範囲を維持しており、サララの精神状態はまずまずの状態を保っていた。


 それは、マリーも同様であった。呼吸のリズムを常に一定を保ち、あらゆる方向からの襲撃を警戒する。いくら慣れた階とはいえ、万が一はある。そういう心構えは今も昔も変わらないし、忘れていないマリーは、リラックスこそするが、気を緩めないように気を付けていた。



 ……ウィッチ・ローザの明かりが多数の影を作っては、形を変えていく。



 地上とは少し違う、ひやりとした空気が二人の頬をくすぐっている。ここに到着してから、幾ばくか。「極力戦闘を避けて、下の階に降りよう」という意見の元、二人は黙って地下を目指していた。


 ……とても、静かであった。薄幕で覆われた中を泳いでいるかのような、不思議な空間の中、最初に唇を開いたのは……サララであった。



「……ねえ、こんなときに聞くのもなんだけど、いい?」



 二人の間にあった静寂を破ったサララは、おそるおそる、そうマリーへと尋ねる。マリーの警戒を邪魔しないよう意識していたせいで、サララの声は聞こえるか聞こえないかというギリギリの声量であった。



「ん、なんだ?」



 無駄口と怒られるかな、と思って口にしたサララの言葉は、思ったよりもあっさりとした様子でマリーは返事をした。「えっと、その……」言いよどむサララの姿を、マリーはチラリと横目で見やった。


 何時敵が襲いかかって来るか分からないダンジョン内において、音というものは、モンスターの存在を発見する為には非常に重要な要素だ。


 視界はどう頑張っても前方と横しか把握することは出来ない以上、音というものは、それこそ360度、あらゆる方向からの情報を知ることが出来る貴重な情報だ。


 ダンジョン内を移動する際は常に無言のまま行動し、必要の際は最低限の会話に留めるのが理想とされているぐらいだ。少なくとも安全が確保された場所でないときは、黙っているのが鉄則なのである。


 しかし実際の所、ずっと無言のまま移動を続けるというのも、なかなに疲労が溜まる。特に景色が変わるようなことは無いし、モンスターと遭遇すれば、嫌でも疲労は溜まる。



 どこかで、精神の紐を緩めるポイントを作らなければならないのだ。



 一人で探究することに慣れたマリーにとって、『緊張を解く己だけの方法』を見つけているので、別段、そこまで気にすることではない。


 しかし、探究歴日数が片手で数えられるサララの場合、少し考える必要がある。マリーのように、『ここは安全なので、気を緩めてもいい』と思ったところで、いきなり気を緩めることは出来ないからだ。


 今はまだ、肉体的にも精神的にも余裕があるので大丈夫だろうが……それが分かっているマリーは、特にサララを戒めようとは思わなかった。



「なにか尋ねにくいことか?」

「う~ん、そう言われてみれば、そう……」

「実は俺、男なんだぜ」

「それは知っているから……そうじゃなくて……」

(その男の前で、当たり前のようにケツ見せるくせに……)



 再び言いよどむサララを見て、マリーは内心ため息を吐いた。どう考えても、サララがマリーを本当の意味で男と思っていないのは、明白であった。


 カリカリと、マリーは頭を掻いた。さらりと揺れる銀白色の髪が、ウィッチ・ローザの光に煌めく。清廉を思わせる涼しげな匂いに顔をあげたサララは、パッと交差した視線に、ごくりと唾を飲み込んだ。



「マリーは、さあ……」

「んん?」



 静かに、マリーは足を止めた。合わせて、サララも足を止めた。



「なんで、ドレスなんて着ているの?」



 サララの視線が、マリーが身に纏っているスタンダード・ドレスへ向けられる。その視線を追いかける形で自らの身体を見下ろしたマリーは、「ああ、これか」と頬を掻く。



 まあ、そう思うのも当たり前だよなあ、とマリーは思った。



 マリーの今の出で立ちを一言で言い表すのであれば、『袖の付いたワンピースを着た美少女』だ。それも、お世辞抜きで可愛らしい、細かな刺繍が入ったワンピースドレス。


 場所が場所で無ければ、そういった趣味の人達から視線を集めること間違いないであろう恰好。両手に装備したナックルサックや、首もとやスカート部分から覗く両足に見えるワイヤーサポーター、両足を守る専用のブーツに、首に掛けたビッグ・ポケットなどの武骨要素を差し引いても、注目を集めるだろう……それが、今のマリーの姿であった。


 胸全体を覆うプレートや、長時間の移動を考えた専用のブーツを装備したサララからすれば、マリーの装備は軽装以外の何ものでもない……探究初心者であるサララの疑問は、ある意味最もな質問であった。



 言いづらそうにサララは唇を噛む。一拍置いてから、唇を開いた。



「別に、似合っていないわけじゃない……というより、私以上に凄く似合っている。うん、凄く似合っている、可愛い」

「……あ、うん、ありがとう、全然嬉しくないけど」

「いくらダンジョンに慣れているからといっても、こういうときに着てくるのは……ちょっと。そういう服を着るときは、家にいるときにしてほしい。せっかく綺麗な服なのに、汚れてしまうのは勿体ない」

「……ああ、うん、何から口を挟めばいいか分からんけど、とりあえずちょっと待て」



 マリーは頬を引き攣らせながら、身振り手振りでサララの内心を否定した。次いで、深々とため息を吐くと、「とりあえず、歩きながら説明するよ」とサララを促して、歩みを再開した。


 頷いたサララが、マリーの後を追い掛ける。振り返って、サララが付いてきているのを確認したマリーは、後ろ手でひらひらとスカート部分をはためかせる。



 ――あらやだ、可愛い。



 ひらひらと舞うスカートに、サララは場違いにも頬を緩めた。マリーからすれば、それはただ己が着ているドレスを見てくれという意味でしかない。


 しかし、綺麗に伸びた銀白色の髪と、絵本から抜け出したかのような、白いバラを思わせる美しい外見のせいで、マリーの動作は、はた目から見れば、ただ可愛いだけであった。



「とりあえず、サララの誤解をまず解いておく。いちおう、このドレスはちゃんとした防具だからな。そこのところ、勘違いするなよ」

「……え?」



 ハッと我に返ったサララは、驚愕に目を見開いた。しかし、直後に、不思議そうに首を傾げた。



「……内側に鉄板でも縫い付けているの?」

「そんなもん付けてみろ、俺は5分で動けなくなるぞ……ほら、ちょっとここ見てみろ」



 くるりと周囲を見回して、モンスターが居ないのを確認したマリーは、振り返ってドレスの胸元を、指で引っ張った。ちょいちょいと手招きされたサララは、促されるがまま、そこへ鼻先を近づけた。



(……マリーって、本当に男……なのかな? 凄く良い匂いがするんだけど……)



 くん、と香るマリーの匂いに、サララは鼻を鳴らした。



「裏地に刺繍が入っているんだが、見えるか?」



 頭上からの声に、目を細める。さすがに暗くてはっきり確認は出来なかったが、裏地の中で盛り上がっている線が見えた。



「……あ、見えた……んん、なにこれ? 縫い目が文字みたいに見える」

「みたい、じゃなくて、それは、れっきとした文字だ、縫い目じゃない。『魔術文字式』って呼ばれる特殊な文字を、丈夫な繊維で刺繍しているのさ。俺やサララが持っているビッグ・ポケットと同じ原理で、装着者の魔力を吸って効果を発揮しているんだよ……まあ、スタンダードっていうぐらいだから、大した効果は期待できないけどな。それでも、そんじゃそこらの防具品より高いんだぜ、これ」

「へえ……でも、なんで普通の防具にしないの? 私と同じプレートにすれば、動きやすいはず」

「……ああ、うん、それは、なあ……」



 そそくさとサララから身を離したマリーに、残念そうに唇を尖らせるサララ。気づいた様子も無く、改めて周囲を見回したマリーは、手招きをしてから歩き出した。



「……重すぎるんだよ」

「えっ?」



 ポツリと呟かれたマリーの言葉に、サララは顔をあげた。サララの視界に、マリーの後頭部が映った。



「サララが装備しているプレートですら、俺には重すぎるんだ。今みたいに魔力コントロールしている間はなあ、平気なんだよ。けれども、一度解いたら最後、まともに動けなくなるんだよなあ……サララみたいに気功術が使えれば話は別だが、使えない俺ってば、貧弱だから」



 そう、マリーが自嘲した直後。二人の前方……ちょうど、通路を出たあたり……位置的に、通路の出口を出てすぐの真横。そこから、ころころと石が転がってきた。出口から見える範囲から推測する限り、出口の向こうは広いようだ。



 ――ピタリと、マリーは足を止めた。



 つられて足を止めたサララは、肩に置いた槍を素早く持ち直して、マリーに背を向ける。右手を腰の位置、左手を軽く伸ばした状態で槍を構えた。緩んでいた空気が、一気に引き締まった。


 背後からの襲撃に備えて、油断なく刃先を虚空へと向ける。視界に広がる代わり映えの無い光景に、モンスターの影は見つからない。それを確認したサララは、背後にいるマリーへ尋ねた。



「……ランターウルフ?」

「……いや、違う。ランターウルフだったら、すぐに突っ込んでくる……別のモンスターだな」



 視線を前方から外すことなく、足元に落ちている石を手さぐりに掴み取る。マリーの手では少し余る大きさのそれを、最小限の力で、出口の辺りへと放った。


 フワッと、放物線を描いたそれは、とすん、と音を立てて地面を転がる。ごろごろと静かに転がって行くそれが、一定の位置……出口を出て少し先まで転がった辺り……っ!


 瞬間、壁の向こうから飛び出してきた物体が、転がっていた石を、地面ごと、一撃で粉砕した。ばきん、と響き渡った轟音と共に、砂煙が巻き起こる。直後に発せられた、嫌に耳に残る奇声に、振り返ったサララの肩が思わず跳ねた。



「モーヴァだ」

「モーヴァ?」



 先日の時では遭遇しなかった始めてのモンスターに、サララは視線をマリーへ向ける。サララの言葉に、マリーは腰をわずかに落とし、軽く前傾姿勢を取った。



「こいつは攻撃の初動が早い。まともに食らうとプレートごと骨を砕かれるからな……気を付けろ!」



 マリーの声が、通路に響く。物体の正体は、モーヴァと呼ばれる、全長1メートル近くに及ぶ、四足歩行のモンスターであった。


 鳥を思わせる鋭いクチバシに、トカゲのような身体。人間の体をバターのように引き裂くであろう、研ぎ澄まされた刃が四肢の末端に生えている、何とも奇妙な外見のモンスターだ。


 石を獲物か何かと勘違いしているのだろう。モーヴァは執拗なまでに石の有った辺りを攻撃し、そのたびに、どす、どす、と地面に陥没跡を生み出していた。



「サララ、構えろ!」

「――っ!」



 知らず、竦んでいたサララの意識が、マリーの声で我を取り戻す。そうだ、これは実戦なのだと、サララは不甲斐ない己に活を入れる。


 ひゅう、と器用に槍を両手で回しながら、気を練り上げて気功術を行う。改めて、サララは迎撃態勢を取った。


 のたうつようにクチバシで石を粉砕していたモーヴァの動きが、止まる。


 のたのたと、先ほどまでの激しい攻撃が嘘であったかのように、モーヴァは身体をマリーたちの方へと向けた。



「来るぞ!」



 サララは、身構えた。



「いいか、受けようとするな、避けることだけを考えろ。避けることだけに全神経を集中しろ」

「うん!」



 のたのたとその身を動かしていたモーヴァの手足が、止まった。静かに、モーヴァの手足が……手足の筋肉が盛り上がる。ぎょろり、無機質な冷たさが灯る瞳が、二人へと向けられた。



 …………来る!


 そう、二人が予感した直後。



 モーヴァの手足が地面を踏み砕くと同時に、モーヴァの身体が発射された。巨大な砲弾と化したそれを、マリーは素早く身体を捻って避けた。



(――っ、は、速っ!?)



 けれども、サララは反応しきれなかった。マリーの指示通り、避けることに意識を集中させたまでは良かったが、想定以上の速度で迫るモーヴァの突進は、サララの回避速度を上回った。



 ――避けきれない!



 一瞬の間に判断したサララは、迫り来るモーヴァに向かって、咄嗟に刃先を向ける。そのまま紫刃がモーヴァの肉に突き刺さる直前、サララは右手の柄を下方に押し、左手を引いて、腰を下げながら身体を逸らした。



(だ、駄目だ、逸らしきれない!)



 けれども、そこが限度であった。



「おぐぅ!?」



 逃しきれなかった衝撃が、重さという威力になる。サララは歯を食いしばって、両手に力を込めた。寸でのところで威力を受け流した槍の柄が、しなった。シャラから受け継いだ業物でなければ、槍は真っ二つに折られていただろう。


 痺れに放してしまいそうな手を気合いで誤魔化して両足で踏ん張るが、すぐに耐え切れずに膝が曲がる……サララの身体は、呆気なく力比べに敗北した。



「ぐっ、かはっ!」



 そのまますれ違うように後方へと飛んで行ったモーヴァに引きずられるように、サララの身体は石ころのように地面を転がった。



「――サララっ!」



 白い光、黒い光、茶色い光、瞬く間に暗転を繰り返す視界に、サララの意識は混濁する。持っていた槍も手元から放れてしまう。マリーの声が通路に空しく響くも、サララの耳には届かない。


 5回程回転を繰り返し、土の味が口内いっぱいに広がった辺りで、転がっていたサララの身体は動きを止めた。サララの全身が、土気色に染まっていた。



(……ぐ、ぐう、不覚!)



 自分が今、どんな体勢になっているかもサララには分からない。目を瞑っていても分かる、強い眩暈。痛みを堪えて目を開ければ、サララの視界にマリーの姿が映った。



「サララ! 立ち上がれ、すぐ傍だ! サララが仕留めるんだ!」

(わ、私が……、た、立ち上がるんだ!)



 マリーの声援に、サララのぶれていた意識の焦点が合わさる。ようやく、己がうつ伏せの体勢で横たわっているのを理解した。



「う、う、く、くう……」



 痺れと痛みが残る身体をどうにか動かし、身体を起こす。ふらつきながらも立ち上がると、ぱらぱらと、体中にこびり付いた土が零れ落ちた。口の中で舌を蠢かし、べっ、と砂交じりの唾液を吐き捨てた。



「大丈夫か、まだいけるか!?」

「――っ、うん!」



 マリーに返事をしつつ、横目で、いまだ体勢を整えていないモーヴァの存在を見やる。どうやらモーヴァ自身も思いのほか跳び過ぎたようで、なかなか体勢を立て直せていないようであった。


 サララは辺りへと視線を向け……落ちていた遅毒槍を拾い上げた。右に、左に、槍を回して、気持ちを切り替える。槍を腰だめの位置、一文字にて構えた。



 ……静かに、サララは大きく息を吸った。そして、ゆっくりと吐いた。



 シャラとの鍛錬にて培われた、気功術を補助する為の呼吸法。呼吸のリズムと共に気を全身の末端に送り、戻す。先ほどよりもずっと濃厚な、気のコントロール。


 サララの瞳が、もたもたと体勢を整えているモーヴァの横腹を捉えた。



「――っ!」



 一歩分、身体を前に倒す。直後、強烈な踏み込みによって生まれた轟音と共に、地面が足型に窪む。腰を捻り、柄の表面を、手が滑る。



「せいっ!」



 空気の壁をも貫いて繰り出された一撃が、モーヴァの横腹に突き刺さった。ドッ、と鈍い音と共に突き刺さった部分から、鮮血が飛び散る「クァア!?」と奇声をあげたモーヴァの身体が、あまりの威力に浮きあがった。


 それだけに留まらず、今度は先ほどと逆。モーヴァは鮮血と悲鳴をあげながら地面を滑空すると、激しく全身を地面に叩きつけながら土壁にぶち当たった。


 土煙が、ぱらぱらと舞う。サララは、刃先に着いた体液を振り払うように槍を回転させると、再び姿勢を落として、槍を一文字に構えた。



(手ごたえはあった!)



 壁に激突したままの体勢で横たわっているモーヴァを、サララは注意深く見つめる。伝わってきた感触から、放った一撃がモーヴァの骨を砕き、内臓を切り裂いたのは分かっていたが、相手はモンスター。非常識な生命力を見せても、不思議ではない。



 来るなら、来い! どんな攻撃も、打ち払ってやる!



 そんな気持ちでサララはさらに気を引き締めると……横たわったモーヴァの身体から、ふわっ、と光球が浮き上がった。直後、サララの目が大きく見開かれた。



「……えっ」



 ため息にも似た驚きが、サララの唇から零れる。その光球が何なのか分からない程、サララは無知ではない。先日、マリーの傍で散々確認した、エネルギーだ。



「……た、倒した?」



 ぽかん、とサララはふわふわと浮き上がった光球を見つめる。そのサララの肩に、ぽん、と手が置かれた。



「やったな」

「……マリー」



 振り返った先に、マリーがいた。マリーは満面の笑みでサララの肩を数回叩くと、ふわふわと浮き上がっている光球を指差した。



「ほら、早くオーブに収納しないと、拡散して消えちまうぞ。倒しただけじゃあ、タダ働きだぜ」

「え……あ、うん」



 マリーに促されるがまま、首に引っ掛けて背中側に回していたビッグ・ポケットを前側に引っ張る。そこまでやって、ふと、サララは持っている槍をどうしようかと、困ったようにマリーを見やった。


「……あ、ああ、はいはい。槍は預かっておくから」

「お願い」



 察したマリーが手を差し出す。サララは素直に槍をマリーに預けると、己のビッグ・ポケットに手を突っ込んだ……中々見つからないことに焦れてしまいそうになるものの、なんとかオーブを取り出す。自然と、はやりそうになる心のままに、サララは小走りで光球へと足を進めた。



「周囲は俺が警戒しているからなあ」



 背後から掛けられた声に、サララは「ありがとう」と返して、光球の前に立った。とても暖かな光だというのに、熱は一切伝わってこない。ふわりと空中を漂っている光球に向かって、サララはオーブを近づけた。


 途端、浸み込むようにして、オーブの中にエネルギーが吸い込まれた。



「あっ……」



 サララの唇から、ため息が零れる。それに、どんな感情が込められているのか、それはサララにも分からない。ただ、呆然と光が灯っているオーブを、見つめた。



「どうだい、初めてのエネルギー採取の感想は?」



 掛けられた言葉に、サララはハッと我に返る。振り返ると、そこにはニヤニヤと笑みを浮かべたマリーの姿があった。その手には、アクア・ボトルが握られていた。



「ほれ、口の中がじゃりじゃりしているだろ。気持ち悪くなる前に、口の中洗っとけ」



 言われて、サララは改めて口内に感じる異物の感覚に、眉根をしかめた。苦み……とは少し違う、何とも言えない無機質な味に、強い嫌悪感を覚える。


 さっき唾液を使ってある程度吐き出したのだが、その程度では完全に取り除けなかったようだ。軽く舌を動かすだけで、口内の至る所から違和感が伝わってきた。


 ありがとう、そう、サララはマリーにお礼を言ってからボトルを受け取……ろうとした手が、空振った。首を傾げたサララの前で、マリーはため息を吐いた。



「そのまま口づけたら、ボトルの中に砂が入るだろ。土の味って、少量でもけっこう出るもんだからな……飲めなくなるわけじゃねえが、わざわざ不味くすることもねえだろ」



 マリーの言葉に、なるほど、とサララは頷くと、持っている槍を地面に突き刺して固定する。マリーの前に両手を差し出すと、マリーはアクア・ボトルの封を開けて、中に入っている水を手に振りかけた。


 傾けたボトルから透き通った水が、パシャパシャとサララの手に当たって跳ねる。なんだか勿体無いとサララは思わないわけでも無かったが、もう遅いので大人しく水流の中で掌を擦り合せてから水を手に溜めて、啜る。数回程、土混じりの水を地面に吐き捨ててから、サララは手を離した。



「ほら、オーブを戻してやるから、背中向けろ」



 ぴっぴっ、と手を振って自然乾燥させているサララは、マリーからそう言われて、おとなしく背中を向けた。




「それにしても、やるじゃねえか。まさか、一撃で倒すとは思っていなかったぜ……気功術もそうだが、槍術もすげえんだな、サララは」



 首に掛けた紐が引っ張られる感触と共に、ビッグ・ポケットの口が開かれたのが、サララには分かった。



「……マリーが、助言してくれたから」

「それでも、倒したのはサララだ。俺じゃない」



 首を横に振るサララの言葉を、マリーは一言で切り捨てた。



「モーヴァは、ランターウルフに並ぶ要注意モンスターでな。ランターウルフのように群れで行動することは無いが、あの突進の威力は体感して分かっただろ?」

「うん、凄い威力。受けてみて分かった。あれは、受け流すぐらいしか出来ない」



 本当に凄い威力だった。痛みこそ治まったものの、いまだサララの全身には、ダメージの熱気が燻っている。今後に影響を及ぼさない程度のものではあるが、毎度毎度これでは、とてもではないが最後までもたないのは想像するまでもない。



「だが、付け入る隙はかなりある。モーヴァの場合は、突進の後だ。固いクチバシや頭皮を攻撃するのは困難だけど、横腹はまだ柔らかい。特に突進の後で体勢を崩しているときは、狙うのが楽だろ……俺が避けろと言ったのは、そういうわけなんだよ」

「納得した……マリーでも、あの突進は止められないの?」

「ん~、止められるかと聞かれれば、止めることは出来るぞっていうのが答えだな。ただ、それは面倒だから、やらないだけだ……よし、前向け」



 くるりと、サララは振り返って、首を傾げた。さらりと揺れた黒髪に、マリーの手が伸びる。サララはされるがまま、マリーの手櫛を受け入れる。


 正直、気恥ずかしさを覚えないわけでもなかったが……それ以上に嬉しい気持ちが大きかったサララは、あえて自らの手でやろうとはしなかった。


 ぱらぱらと、前髪にこびり付いた砂が零れ落ちていく。目に入らないように目を瞑るが、すぐにここがダンジョンであることを思い出し、見開く。子供のような落ち着きの無さに笑みを浮かべたマリーは、それを声に出さないように意識しながら、サララの瞳を見つめた。



「何でもかんでも、正面からぶつかればいいってもんでもないってだけのことさ。楽はできるときに楽をしないと、後々まで体力が持たないからな……まあ、狙えるときは狙う程度で、やりやすいようにやったらいいと俺は思うぞ」



 モーヴァの場合もそうだが、ランターウルフだって戦い方を工夫すれば、消耗せずに倒すことは可能だ。もちろん、弱点を正確に突く為には相応の能力を要求されるので、誰も彼もが弱点を狙えるとは限らない。


 例えば、サララとマリーがやったように、突進を誘ってモーヴァの体勢を崩すやり方は、モーヴァを相手にする限り、非常に合理的な方法である。上手く行けば、ほぼ無傷で勝利することも出来るだろう。



 だが、タイミングを誤って突進を受ける危険性もある。



 モーヴァの突進の威力はかなりのもので、マリーが言ったようにプレートごと肋骨を砕くことが可能な破壊力だ。それを受け止めることが出来るマリーがおかしいのであって、普通は受け流すようなことはせず、避けることに徹するべき攻撃なのである。


 かりかりと頭を掻いたマリーは、くるりとサララへ背中を向ける。ウィッチ・ローザに照らされた銀白色の髪が、淡い輝きを見せる。マリーが男であることを知ったら、全世界の少女が嫉妬してしまいそう……そんな、後ろ姿であった。



「さて、と。それじゃあ行くか……まだまだ先は長いぜ」

「うん、頑張ろう」



 サララは、垂直に立った遅毒槍を地面から引き抜く。軽く、刃先に付着した土を振り払うと、それを再び肩に乗せた。直後、サララの唇から「あっ」と声が零れた。



「どうした?」



 歩き出そうと踏み出した足が、止まる。振り返ったマリーが尋ねると、サララはポツリと呟いた。



「洗浄するの、忘れていた」

「洗浄?」

「槍の、刃先」

「……ああ、なるほど」



 合点がいったマリーは、頷いた。長らく洗浄が必要な武器を使用していなかったので忘れていたが、そういえば、そうだったなあ、とマリーは思い出す。



「……うーん、とりあえず先に地下への階段を目指そうぜ。何時までもここにはいられないからな……階段まではそう遠くないだろうし、洗浄は安全地帯に行ってからでもいいか?」



 サララは頷いた。



「大丈夫、構わない。この槍はとても錆びにくいらしいから、ちょっとぐらいなら大丈夫だと思う」

「そうか、それなら良かった。よし、錆びない内に急ごうぜ」

「うん!」



 深く頷いたサララの姿に、頷き返したマリーは、歩みを再開させた。その後ろを、サララは無言のままに追いかけた。




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