ドラコ編: エピローグ

※少しばかり官能的&暴力的な表現有り




 ――まあ、見つからないのなら外でもいいか。



 こんな時間だし、宿も閉まっているだろうし……そう思っていた私であったが、ナナシに案内された場所は、『東京』の何処にでも見られた建物の内の一つだった。



(……なんだここは?)



 だが、不思議と、私は違和感を覚えていた。


 何に対してのものかは分からなかったが、とにかく変な感じがする。

 そう思いながらナナシに案内されたのは、これまた特別気にも止まらない、ただの扉だった。



「ここは?」

「ここはね、行ってしまえば僕たちの『隠れ家』みたいなものさ。普通の人間は入れないように特殊な仕掛けが施されているんだ」



 ほら、アレだよ。そう言って指差されたところに目を凝らせば……扉の上部に、文字らしき何かが彫られているのが見えた。



「まあ、一言で言えば、ここに居たくはないって無意識下に訴えかける効果があると思ったらいいよ。ごく弱い力だけど、噂が噂を呼んだせいか、今ではここら一帯はずっと前から無人のままさ」



 言われて辺りを振り返り、私は一人納得に頷いた。


 時間が時間なのもあるが、あまりに人の気配が感じられないのは、そういう理由があったのか……これが、違和感の正体か。



「この『東京』には、こういった場所を幾つも用意しているんだ……ここからだと、ほら、あそこの方にももう一つあるんだ」



 その言葉と共に指差した方を見上げる。立ち並ぶ建物の向こう……そこはまだ、私が知らない『東京』の一角だった……ん?



(はて……確かあの方角は、館に来る前にマリーが住んでいた家があったような……)



 マリーの行方が分からなくなったことが分かった当初、確かサララのやつが頻繁にあの辺りに足を運んでいたような……話を耳にした覚えがある。


 ただ、細かいところまでは思い出せない。ほんの僅か、掠める様に記憶の隅に触れたソレに、私は首を傾げた。



「特に何かがあるってわけじゃないけど、何かするときにそういう場所があると便利なんだよ……色々とね」



 ――でも、今はもう僕だけしか知らない秘密の場所なんだ。



 私の心を読んだかのように、ナナシは寂しそうに、それでいて懐かしそうに笑みを零した。



「別にわざわざ集まる必要なんて無かったけど、やっぱり僕たちは寂しかったんだろうね」



 そう言うと、些か汚れた扉に手を掛けて……きぃ、と音を立てた。先導して中に入ったナナシが、暗闇の中で何かをした……と思ったら、ふわりと室内が明るくなった。


 眼前の、隠れ家の内装を見た瞬間……私が最初に抱いた感想は、簡素の一言であった。



「ちょっとお風呂を見て来るから、待ってて。いちおう、そこの保冷庫に色々と入っているから、食べたかったらお好きにどうぞ」



 そう言うと、ナナシは私の横を通り過ぎて足早に浴室へと向かった。と、思ったら、「あ、そうそう――」すぐに浴室の扉からひょっこりと顔を覗かせた。



「隣の部屋にタオルとか『結晶火石』があるから。使いたかったら、自由に使ってもいいから。あ、でも、触ると危ないものもあるから、知らないものは触らないようにね」



 そう言って、またナナシは顔を引っ込めた。


 けれども、今度はそのまま顔を出すことは無く、「ちょっと、埃っぽいかな……」キュキュキュッと何かを動かす音が聞こえてくる。何もすることが無い私は、色気の無い行為だとは思いながらも、室内を見回した。



 ……『カーテン』が掛かった窓はあるが、静かな部屋だ。



 壁に設置された時計を見やれば……思っていたよりも夜遅いのが分かる。と、同時に、この部屋は妙に涼しい。いくら今が夜だとは言っても、だ。


 窓の下に設置されたベッドと、申し訳ない程度に置かれた『ホレイコ』(おそらく、アレがそうだろう)が無ければ、さっきの評価は『何も無い部屋』になっていたかもしれない。


 それぐらいに、この部屋には痕跡が見受けられなかった。『隠れ家』と称するぐらいなのだから、使用の頻度が少なかったのは分かるが……それにしても、だ。



 そのまま……隣の部屋にも足を踏み入れる。



 別に必要なわけではないが、照明のスイッチを手さぐりに、スイッチを入れる。照らし出された室内を見て、私は……また、首を傾げるしかなかった。


 その部屋には沢山の物が雑多に、それでいて無造作に置かれていた。一つも、見覚えはない。


 加えて、その物の大半は透明な……何だろうか、水の膜のような何かに覆われていた。そっと手を伸ばして触れてみる……思いのほか固い感触に、私は目を瞬かせた。



(まるで湧水をそのまま固めたかのような肌触り。それでいて、私の爪を持ってしても傷がつかない強固さ……これはいったい?)



 見た目から想像していたものよりはいくらか重いそれを、手に取って眼前まで持ち上げる。


 すると、中に収められている物が僅かに動いた。これはまさか……中は水なのか?



「――それはね、数百年以上前に広く使われていた、『メディカル・キット』って呼ばれる医療装置の一種だよ」



 背後から掛けられた声に、私は思わず肩をびくつかせた。振り返れば、「あ、ごめん、驚かせちゃったかな?」申し訳なさそうに頭を掻くナナシの姿があった。



「……数百年前、だと? そんな昔のものには見えないが?」



 聞き捨てならない単語に意識を向けると、「ああ、それは保護液に浸しているからね」ナナシは特に隠す様子も無く答えてくれた。



「理論上、千年ぐらいは保存した当時のままを保てるらしいよ。使えるかどうかは開けてみないと分からないけど、多分、今もいけると思う」



 ――にわかに信じがたい話だ。



 しかし、ナナシの顔は嘘を言っているようにも思えないし、この場で嘘を言う理由も思いつかない。まず、本当のことなのだろう。



「――気になるなら、使ってみるかい?」



 言われて、私はそれに視線を落とす。どうやって使うのか全く見当がつかない分、私の好奇心がかなり疼いていたが――。



「いや、今は止めておこう」



 ――私は、首を横に振った。「別に、遠慮しなくてもいいよ」そう言って私の手からソレを受け取ろうと、ナナシが手を伸ばしてくる。



「別に、遠慮などしていない」



 だが、私はそれを無視して装置を元の場所に置くと、そっと伸ばされたナナシの手を取る。


 すると、ナナシは不思議そうに首を傾げた。とぼけているのか、それとも本当に分かっていないのか……多分、後者だろうな。



「湯は、用意出来たのか?」

「え? あ、いや、まだ途中……いちおう、シャワーなら使えるよ」

「よし、ならば行くぞ」



 どこへ、とは言わなかった。手を引っ張れば、「え、あ、あの!?」ナナシは驚いたようだった。


 けれども、その足取りは決して私の邪魔にはならない。むしろ浮き足立っているように感じ取れた。


 浴室の扉が開いているからなのか、それとも湯の温度が高いからなのか。


 脱衣所の中は熱気がもうもうと立ち籠っていて、これから行う行為を嫌が応にも意識させられたような気がした。



 ――ごくりと、喉が音を立てた。



 それがあんまり大きくて、私はらしくもなく喉元を押さえ、振り返る。すると、そこには私と同じように喉元を押さえた、ナナシの姿があった。



(お前も……緊張、しているのだな)



 私だけがそうではなかった……肩に圧し掛かっていた何かが、軽くなったような気がした。と、同時に、私にもそういった女らしさがあったことを自覚する。



(よく考えたら)



 足が震える……死の気配以外でそんな感覚を覚えたのは、生まれて初めてのことだった。



(実際にするのは、これが初めて……か)



 どうすればいいかは知っている。


 どうやればいいかも分かっている。


 何せ、嫌というほど見て来たからだ。老若男女の区別なく、肉と肉が混ざり合うかのような交わりを、幼い頃から幾度となく眼にしてきたから。


 しかし、見て来ただけだ。この身で体感したことは、一度もない。改めて実感するその意外な何かに、私はまた、らしくもなく顔が熱くなるのが自分でも分かった。



「えっと、脱ぐよ」



 私が何も行動を起こさないことに焦れたのか、あるいは沈黙に耐え切れなくなったのか。


 ナナシはそう言って私から逃れると、私の視線を受けたまま、おもむろに身に纏っている衣服を無造作に脱ぎ捨てた。



 ――露わになったナナシの裸体に、私は思わず瞬きを忘れた。



 傷一つ、痣一つ、汚れ一つ見当たらない。磨きに磨いて完成された言わんばかりの滑らかな肌は、男とは思えないぐらいにどこまでも綺麗であった。


 そして、見た目から大体の想像はついていたが、やはり華奢だ。


 脱げば骨格の形から男だとは分かるが、おおよそ男らしい体つきではない。マリーには悪いが、服さえ変えれば誰が見ても女にしか見えなかった……ただ、一部分を除いて。



「あ、あんまり見ないでよ……。さすがに、ちょっと恥ずかしいから、さ」



 そう言って、ナナシは身をよじって私の視線から逃れた。しかし、私は見てしまった。


 その小さな両手では到底隠しきれない、固く張り詰めたモノが。交わる為に大きくなったそれは、私の記憶にある誰よりも大きく、雄の臭いを放っていた。



「……お、大きいのだな」



 想定していたやつとは別物を前にして、自然と上ずってしまった声。自分が出したものだとは最初、私は分からなかった。



「え、あ、そ、そう?」

「そ、そうだ……少なくとも、私の故郷にも、それ程のモノを持っている奴は、数えるぐらいしか居なかった気がするぞ」



 それを指差しながら言うと、ナナシは「あ、ごめん。僕は肉体制御が下手な方だから、加減が出来ないんだ」そういって身じろぎをした。



「さすがに彼のように上手には出来ないよ」

「……? 彼、とは誰だ?」

「え、いやだな、君の知っているマリーに決まっているじゃないか」



 ――なに? 今、こいつは何と言った?



「……もしかして、知らないのかい?」



 何がだ……その言葉は出なかったが、意志は伝わったようで、ナナシは驚いたように目を瞬かせた。



「『受け継ぐ者』であるマリーも同じことが出来るというか、あの人ならこんな一部分だけじゃなくて、姿かたちはもちろん、性別だって自由に変えられるはずだよ」

「……え?」

「いや、だから、あの人は僕たちの完成個体みたいなものだよ。僕たちが出来ることは、あの人も当然……ああ、そうか、出来ないって思い込んでいるのかも……あれ、でもそうなると……」



 意味が分からずに首を傾げるばかりの私を他所に、ナナシは一人何事かを呟き始めた。



「なんであんな回りくどいやり方を……『彼女』のことだ。もしかしたら、面白そうだからとかそういう理由か……いや、しかし……それでは不確定要素が多すぎるし、本来の目的に影響が……もしや、『彼女たち』の誰かが細工を……それならば合点がいくが、しかし何のために……」



 口を挟む隙が見当たらず、黙って何度も頷いているナナシを見ていると……「まあいいか、考えるのは止めよう」視線が、また私に向いた。



 ……



 ……



 …………それから……まあ、色々有った。色々頑張ったし、互いにぎこちなかったのは否定できない。




 とにかく、滅茶苦茶だった。



 ――最高だ、と。



 私に圧し掛かりながら、ナナシはポツリとそう零す。真っ赤になった顔が、私の顔のすぐ横に並ぶ……その言葉は、本当なのだろう。


 疲れと汗がまみれている顔でありながらも、満面の笑みでそう言ってくれたナナシに、私は何とか頷いてその頭を撫でる。


 すると、ナナシは私に抱き着いたまま呼吸を整え始め……待て。



「おい、私の上で寝るな。それと、せめて汗ぐらいは流してから寝ろ。色々と臭いが混ざって酷いことになっているぞ」



 翼と尻尾を動かして、ナナシの身体を揺さぶる。しかし、ナナシは「ん~……起きてから、する……」そう言って私の忠告を聞き流すばかりで、一向に動く気配が見られなかった。



「おい、まさか貴様、起きるまでこのままでいろと?」

「……お風呂なら、用意出来てるから……」



 もう、喋るのすら億劫なのだろう。ぽつり、ぽつりと呟かれるナナシの声は、徐々に小さく、何を言っているのか分かり難くなっていく。



「そのまま……帰ってもいいし、適当に……しててもいいよ……隣の部屋に……『ガイド・ドール』……あるか……ら……」

「『がいど・どーる』? なんだそれは?」

「喋る人形……説明……してくれる……」



 そこでナナシは、眠気が限界に達したようだった。「……お休みぃ」それだけを言い残すと、そのまま静かに寝息を立て始めた。


 ……今まで溜めこんでいた鬱憤を晴らした反動だろうか。その眠りは深く、何度身体を揺さぶっても、反応すら返って来なかった。



(こいつ、抱いた女を放っておいて一人寝るとは、随分な……いや、もういいか……)



 ナナシの額に張り付いている髪を、何となく指で払う。


 露わになった寝顔を見てしまったせいか、怒る気にもならなかった。


 これもまた、抱かれたからなのだろうか……そうかもしれない。



(まあ、こんな時間までやれば、さすがに疲れるか。私ですら、くたくたなのだからな……)



 時計を見て、呆れると同時に納得してしまう。今は捨てた我が故郷の男たちですら、一晩ずっと致すような者はいなかった。


 それをナナシは行ったのだから、私を放って寝息も立てもするだろうて……。



(やれやれ、これでようやく終わりか……それにしても……ああ、疲れた)



 大きな欠伸が、零れる。ナナシには悪いが、それが、私の偽りならない本音。


 確認していないから何とも言えないが、おそらくは傷が出来てしまっているのだろう。


 いちおうは私を気遣おうとする時もあったので、そんなに深い傷ではないだろうが……まあ、すぐに治るからいいか。了承したのは私だし、こいつも時期に慣れるだろう。



(それにしても、酷い臭いだ。まずは身体を洗わなくてはならないな)



 とはいえ、洗うと相応に痛みが走るだろうが……大きなため息が、自然と私の口から零れた。







 ――。


 ――。


 ――――大きな、背中だ。



 前を進む母様の背中を見て、私はふと誇らしく思った。


 村の誰もが尊敬を抱き、村の誰もがその美貌を褒め称え、村の誰もが賢者として一目を置く、その背中。


 子供とはいえ、小さくて頼りない自分のものとは大違いだ。


 何時か自分もそうなりたい……その背中を、追い越してやりたい。目の前を行く背中を見つめるたび、そう己に誓う。


 だが、それと同時に何時も思い知らされることがある。


 それは、母のように成れるのかという漠然とした不安。どうあがいても母のようにな成れないという、己の不甲斐なさ……大好きな母を思い浮かべるたび、私は歯痒い情けなさを感じずにはいられなかった。


 同じ年頃の子たちからは一線を引かれ、決して聡明ではない自分では、大人になっても追いつけないだろう。その背中を何となしに眺めながら、私は慣れた敗北をまた、受け入れる。



 ……母はそんな私の気持ちに気づいていないのか、気にも留めた様子も無く前を歩いている。



 私が背負った獲物よりも一回りも二回りも大きな獲物を、汗一つ掻かずに担いでいる……さすが、母様だ。


 到底、頭で敵う相手ではない。このうえ唯一の自慢である力ですら負けてしまえば、ますますもってどうにもならなくなる……私も、負けてばかりでいられない……!


 己を鼓舞して力を入れると、背負った獲物の鮮血が尻を伝って足首へと滴り落ちるのが分かる。しばし遅れて、ぷん、と迸る血の匂いに釣られて、幾重もの飢えた視線が全身へと突き刺さるのを感じた。



 ――自然と、ため息が零れる。またか……という言葉が、頭を過った。



 いいかげん、力の差というやつを覚えればいいのに……その言葉を、私は喉元の辺りで堪えた。


 己の力も弁えず、自分たちが何を追いかけているのかも分からない、下等な生き物……私にとって、彼らは地を這う彼らは食い物でしかない。



 所詮は、食われる為に生まれてきた、哀れな生き物たち。



 お前らがどれだけ我らを狙おうと、その牙も爪も、決して我らの心の臓には届かない。どうせ、村に着くころには諦めていずこかへ消えるだろうが、それまで延々と後をつけ回されるのも鬱陶しい。



「…………」



 いったん立ち止まって振り返るが、それでも気配は消えない。母様なら、それだけで追い払えるのに……まだ私では、迫力に欠けるのかもしれない。



 視線一つで追い払えない己の不甲斐なさに軽く舌打ちをする。



 放っておけと母様は言っていたが、どうせ邪魔なのは同じことだ。男たちがやっていたように、私もアレをやってみようか。


 そう決めた私は、軽く地を踏み鳴らして大きく息を吸って――



「――がぁ!」



 一つ、吠えてやった。



 途端、辺りの木々に居た鳥達が一斉に飛び立った。遅れて、こちらを見つめていた幾重もの気配が離れて行くのを感じ取った私は……一つ、満足気に母様の後を――。



「――ワーグナー」



 追いかけようとして、足が止まった。何時の間に戻ってきていたのか、先に行っていたはずの母様が私の方へと歩み寄って来ていた。



「母様、戻ってきてくださったのですか?」



 思わず、笑みが零れた。もしかしたら、大人たちがやるように追い払ったことを褒めてくれるのだろうか……そう思って母様に駆け寄った――途端。



 ――無言のままに、頬に拳を振るわれた。



 あまりに突然のことだったせいか、私は避けることも身構えることも出来ず、生い茂る草原の中を転がった。



 一瞬、何が起こったのか分からなかった。



 痛みが頬から破裂したかと思ったら、ぐるん、と世界が回った。それが分かった時には、固い何か……傍にあった樹木へ、強かに背中を打ちつけていた。


 殴られた……しばし遅れて、それを理解する。


 ぐらりぐらりと揺れる世界が暗転し、口の中いっぱいに痛みと固い何かと血の味が広がる。何故、と私が思った時……ゆらぐ景色の中で、私を見下ろすようにして立つ母様と目が合った。



 ――怒っている! 母様が、怒っている!



 瞬間、私の中から痛みが消えた。


 何故、殴られたのかという疑問も消えた。


 言葉も無い。顔に出ていたわけでもない。



 ――だが、私には分かった。



 分かってしまったからこそ、私はまず真っ先に身体を丸めて、その場に縮こまった。


 普段は誰よりも心優しく慈悲深い母様だが、教えを授けるときだけは誰よりも厳しくて恐ろしくなる。とくに、狩りにおいては村の誰よりも厳しく、時には血を吐くまで罰を与えることすらある。


 それは、誰であっても例外ではない。


 男はもちろん、女であっても、年老いた者であっても、子供であっても……娘である私であっても、容赦なく拳を振るうのが、母様であった。



「ワーグナー……何故、頬を打たれたか、その意味が分かるか?」

「……っ!」



 それを知っていて、何度もこの身に受けたからこそ、私は母様の問いかけに何も答えられなかった。何を答えればいいのかも、分からなかった。



「……分からぬか?」

「……わ、分かりません……」



 でも、答えないわけにはいかない。母様には、やり過ごすという方法が通じないから。


 母様は、自分の力が相手にどんな結果をもたらすかを常に理解している……だから私は、思ったままをありのままに答えた。



「顔を上げよ、我が娘……ワーグナー」



 言われて、顔をあげる。そこにあったのは、芯まで震え上がらせる母様の眼光だった。



「我が娘よ、お前は今しがた、我らの後を追う獣たちを追い払ったな?」



 もしや、追い払ったことが……余計な事をしてしまったのだろうか。


 そう思って恐る恐る頷くと、「――ならば、問う」母様は静かに口を開いた。



「獣たちを追い払う時。お前はその時、どう思った?」

「……何も、思ってはおりません」



 正直に、答えたつもりだった。


 それが私の答えだと微塵も疑問を抱いていなかった。



「嘘を付くな。お前は、考えただろう」



 けれども、母様は一言で私の答えを否定した。「えっ?」目を瞬かせる私を他所に、母様は担いだ獲物を傍に置くと、そっと私の眼前に腰を下ろし……おもむろに、私の目を覗き込んできた。



「『下等な生き物』だと、思っただろう? 『たかが食われるだけの生き物』だと、思っただろう? お前の威嚇には、それが滲んでいたぞ」



 言われて、思い出した。そういえば、そんなことを考えていたような気がする。



「我が娘、ワーグナーよ。私がお前に罰を与えたのは、獣を追い払ったからではない。お前の、その内より湧いた傲慢さを戒める為だ」



 ……意味が、分からなかった。



 傲慢さと言われても、彼らは私たちにとって、ただの肉でしかない。毎日のように我らの腹に収まり、我らに歯向かうことも出来ない哀れな生き物。


 彼らが、我らに戦いを挑め――。



「馬鹿者。それが、傲慢だと言うのだ」



 ――私の心を読み取ったかのように、母様はため息を吐いた。


 次いで、これを見ろ……そう言って私の前に差し出したのは、母様が担いでいた、『下等な生き物』であった。



「胸の奥に留めて置きなさい、ワーグナー。我らは、お前の言う『下等な生き物』に生かされているに過ぎない、小さき存在でしかないのだ」



 ――私は、驚きすぎて返事をすることすら出来なかった。



 あまりに驚きすぎて、思わず気が触れてしまったのかと疑ったぐらいに、母様が放った言葉を受け入れられなかった。



「考えてみるのだ、ワーグナー」



 そんな私の心を、母様は分かっていたのだろう。新たな罰を与えられて当然な私の反応を見ても、母様はそれを咎めなかった。



「仮に、お前の言う『下等な生き物』が、この地から全て消えたとしよう。そうなったとき、我らはどうなると思う?」



 どうなる……どうなるって、それは……それ、は?



(我らの食べる物が……無くなる?)



 その答えを思い浮かんだ途端、私は先ほどとは別の理由で言葉を失くした。今まで考えたことも無かったその事に、私は生まれて初めて考えを巡らせた。



 『そんなことは有り得ない』 



 そう、母様の言葉を一笑する。だが、その直後に、私の中で。



『なぜ、有り得ないと言い切れる?』



 その疑問が出てくる。もし、食べ物が無くなれば……我らは……我らは……。



「所詮は竜人など、その程度の存在に過ぎぬのだ……私も、お前もな」

「――か、母様……?」

「お前が見下した者の血肉を得なければ、お前は生きてはゆけぬ。それが、摂理であり、我らの定めだ」

「せつ、り……」

「見下すなとは言わぬし、誇りを捨てろとも言わぬ。決めるのは全て、お前の心。ただ、そのことを覚えておくのだ、ワーグナー……」



 母様の声が、私を世界に引き戻す。顔をあげれば、怒った母様の……ではなく、時折私の前にだけ見せる、悲しみに揺れる母様の瞳であった。



「敬意を払うのだ、我が娘よ。命に、敬意を払うのだ」

「けい……い?」

「この世界に生きる全ての生き物は、繋がっているのだ。どんなに小さくとも、どんなに儚くとも、どんなに弱くとも……その命は全て、一つに繋がっているのだ」

「……この、こいつとも……ですか?」

「嫌か?」



 そう尋ねられた私は……頷いた。


 それを見た母様は……静かに、私の頭に手を置いた。



「……そうだな、嫌と思うのも無理はない。なにせ、今の今まで食物とでしか捉えていなかったものなのだから……嫌と思うのは、当然のことだろう」

「母様……」

「今はまだ、それでよいのかもしれない……だが、忘れてはならぬぞ。生きるということは、何かの命を食らうということ。姿かたちは違うことはあっても、何人もその定めは変えられない……その意味を、お前なりの答えが出せるまで、胸の奥に留めて置くのだ」



 それを、母様は怒らなかった。だが、私はむしろ怒られた方が楽だと思った。


 何故なら、頷いたときに浮かべた母様の顔が……悲しみに目を細めたから。



 ――痛かっただろう、立てるか。



 そう言って差し出された母様の手を取って、立ち上がる。そして、再び私に背を向けて歩き始めた――。



「何故、私にそれを教えるのですか?」



 ――その歩みを、私は止めた。母様は変わらず背を向けたままだったが、「教えてください、母様」私は構わず尋ねた。





「――かつて、滅びから逃れようと、もがく者たちが居た」





 しばしの沈黙の後。ようやく戻り始めた鳥達の声が聞こえ始めた頃……ようやく母様は振り返ったが、私の疑問に答えてはくれなかった。



「命に対する敬意を忘れ、己が以外を下等と蔑ろにし、自然の摂理から外れてまで生き延びようとした……強くて愚かな生き物たちが居た」

「……その、生き物とは?」



 母様は、答えなかった。ただ、珍しく困ったように笑みを浮かべた後、「さて、昔話はこれぐらいにしよう」突然、そう言った。


 困惑する私を他所に、母様はしばし視線を彷徨わせた後……おもむろに、私を見つめて。



「我が娘、ドラコ。お前には、辛くて苦しい決断を強いてしまった」



 私の……『私』の名を呼んだ。



 その瞬間、私は『私』になって、『私』は私となった。



 と、同時に、世界が変わった。


 気づけば私は見慣れた私になっていて、母と同じ目線に立っていた。



「けれども、私が、心から誇りに思える程に」



 その声に、私はようやく我を取り戻す。見れば、母は私の眼前に立っていて、今にも涙が零れそうな程に潤んだ瞳を、私に向けていた



「大きく、強く……なったな」

「――っ!」



 そう言われた瞬間、私は走り出していた。



「――母様!」



 大きく広げられた、母の腕の中へ。こみ上げてくる涙をそのままに、私は力いっぱい母を抱きしめ……母に、抱きしめられた。



「ごめんなさい、母様、ごめんなさい……私は、私は……我が弟を……我が同胞たちを見捨てて……!」

「よいのだ、ドラコ。お前は、何の過ちも犯してはいない。全ては、彼らの目を覚まさせることが出来なかった、私の責任なのだ。お前は、やれるだけのことをやったのだ……自分を、責めるな」

「母様、かあさま、かあさま……私、私、母様になろうと……母様のようになろうと思った……思ったのに……なれ、成れなかった……!」

「当然だ……私がお前に成れないように、お前が私に成れるわけがない。お前は、お前以外の何者でもないのだから」



 涙が、止まらなかった。でも、それ以上に嬉しかった。



 また、母に会えた。


 また、母の腕に抱かれることが出来た。


 大きくなった己を、母に見せることが出来た。


 それが、たまらなく嬉しかった。


 このまま、時が止まってしまえばいい。本気で、そう願った。



「――駄目だ、我が娘。お前は、生きている者は、最後まで生き抜かなければならないのだ」



 けれども、母はそんな私の内心を見透かしたかのように、静かに首を横に振った。


 次いで、言い聞かせるように「――いいか、我が娘よ。これから言う事を、よくお聞き」私の頬に両手を当てた。



「我が息子と、決着を付けるのだ。あやつはまだ、ダンジョンの中で生き長らえている」

「――えっ」



 今、何と言った? 母は、今、何と言ったのだ?



「もはや我が息子は、竜人ではない。いや、それどころか、生き物ですらない。アレはもう息子ではなく、外も中も弄られてしまった、ただの化け物だ」

「――な、何を……何を言っているのですか、母様……?」



 意味が、分からなかった……あいつが、生きている。


 それだけでも驚きのあまり言葉を失くす程なのに、化け物になった……だと?



「お前には、辛い役目を押し付ける。だが、どうか聞き届けてくれ、我が娘よ。愚かな母に免じて、どうか……!」



 だが、母の顔は嘘を語っていなかった。


 迷いに迷ったその目には、深い苦悩が刻まれている。


 それが分かる程に大人になってしまった私に……最初で最後の母の願いを断ることなど、出来るわけがなかった。



「分かりました、母様」

「――おおっ……!」

「元はと言えば、あの時に仕留められなかった私の落ち度。最後の最後に臆してしまった私の弱さが招いたこと」



 静かに、母の手を離す。そして逆に、涙で濡れた母の頬に、両手を宛がった。



「だから、母様は待っていてください。私が必ず、あいつを母様の腕の中へ返します」



 そう、私は母に誓い、静かに頭を下げ――。






 ――。


 ――。


 ――――頬に触れる、暖かな熱気。フッと我に返った私は、しばしの間、ぼんやりと湯気立つ浴室内を見回した後……ようやく、自分が風呂に入っていたことを思い出した。



(……夢……いや、違う。あれは、ただの夢ではない)



 顔をあげる。途端、頬を伝って水滴が流れ落ちる……しばしの間、ぽつぽつと滴り落ちるそれを眺めていた私は……軽く頭を振って立ち上がると、浴室から出た。


 押し込めていた尻尾と翼を脱衣所いっぱいに広げて、水気を落とす。今ではすっかり慣れた、身体を早く乾かす為の行為……それを当たり前のようにしている自分が、今更ながら不思議に思えた。



(拭くもの、拭くもの……確かナナシは、ここから取り出していた覚えが……ああ、あった)



 棚の奥にまとめて置いてあったタオルを手に取り、手早く身体を拭いていく。最初は慣れなかったが、今では翼もある程度自力で拭くことが出来る。


 それもこれも、館で暮らすようになってから、散々マリアたちに教えられ、叩き込まれたおかげだろう……彼女たちは、そういう点では容赦がない。



(……っと、酷い臭いだな)



 脱衣所の扉を開けた途端、入って来た臭いに顔をしかめる。風呂に入る前は気づかなかったが、すごい臭いだ。あまりに酷過ぎて、思わず浮かべた涙をそのままに窓へと走って、叩きつけるように窓を開けた。


 途端、私は降り注いだ光に目を細める。


 見れば、既に日は高く昇っており、建物の彼方からは人間たちの喧騒が聞こえてきていた。身体を戻して時計を見上げ……納得した。



 ……思っていた以上に長く、風呂の中で寝入っていたようだ。



 道理で腹が空くはずだと思いつつ、床に転がっていた巻布を拾う……が、ふと、気になった私はそこに鼻を当て……肩を落とした。



(我ながら、酷い臭いだ……これでは、もう使う気にはならん)



 いちおう、使えないことはないが……さすがに、己が発情した痕跡を振りまいて歩く度胸は、私には無かった。



(だが、どうしたものか。裸で出歩けば、またマリアたちに何と言われるか分かったものではないし……)



 ナナシを叩き起こそうか……いや、止めておこう。


 ナナシの寝顔を見て、私は苦笑した。


 先ほど寝入ったばかりなのに、今起こすのは少々かわいそうだ。それに、これだけ深く寝入っているのだ。起こしたところで、使い物にはならないだろう。



 ……とはいえ、どうしたものか。



 おそらくここを知っているのはナナシだけだろうし、やつが起きるまで待つとなると日が落ちているだろう。館へ戻るにしても、一度あいつらに挨拶ぐらいはしておきた……ん?



 ふと……隣の部屋へと続く扉に、視線が止まる。


 ……そういえばナナシのやつ、隣の部屋に『がいど・どーる』があるからとか、わけの分からんことを口にしていたが……もしかしたら、そっちに何か代わりになるものが置いてあるのだろうか。



 ……まあ、この際だ。隠せるなら何でもいいか。



 そう判断した私は、寝ているナナシにシーツを掛けてから、早速中へと入る。半日ぶりに入るそこは相も変わらず物で溢れかえっている。ともすれば尻尾やら羽がぶつかりそうで、そのどれもが私の知らない何かだった。



(ふむ……確かあいつは、喋る人形がどうとか言っていたな)



 以前、ナタリアから見せて貰った人形の姿を思い浮かべる。さすがに全く同じではないだろうが、近しい形をしているだろう。というか、違っていたらもう探しようがない。


 人形、人形……呟きながら、手近の物を引っ張り出していく。


 その一つ一つが、この『東京』でも見掛けたことがない不思議な形をしている。いったい何に使うのか、その見当すら思いつかない物ばかりだ。



(もしこれをイシュタリアのやつが見ていたら……やつのことだ。興奮して喧しくなっていたかもな……ん、これは……?)



 私の後ろに、小さな山が三つほど出来た頃。積まれた物の向こうからポツンと姿を見せたのは、別の部屋へと続く新たな扉の取っ手であった。



(思っていたよりも広いのだな)



 早速中を見ようと取っ手に指を掛ける……が、扉はビクともしない。物が邪魔をしているのかと思って確認したが、それらしい物は一つもなかった。


 そのまま、開かない扉の前で考えること、しばらく。「――ああ、横に開くのか」ふとしたことでそれに気づいた私は、気を取り直して扉を開ける。


 直後、中からごろん、と転がり落ちたのは……私よりも頭一つ分以上小さい、人間の女の子だった。



「――っ」



 あまりに想定外のことに、声なき悲鳴をあげて飛び退く。


 その拍子に、脇に退けておいた様々な物がぶち当たって床に転がったが……知ったことではなかった。


 倒れたまま動かない女の子を警戒しながら、全身の力を漲らせる。


 向こうを向いたままの女の子から視線を外さず、何時でも迎撃できるように身構えて、その時を待った。



 ……。


 ……。


 …………んん?



 待った……のだが、一向に動きを見せない女の子に、思わず首を傾げる。


 恐る恐るその頭に手を伸ばし、頭を軽く突く……が、それでも動きを見せない。



 ……さすがに変だ。



 そう思った私は、おもむろに動かない女の子に近寄る。その頭に手を掛けて、ごろりと仰向けにさせた……瞬間、私はまた首を傾げた。



「……テトラ?」



 ポツリとその名を零してしまうぐらいに、その子は、あまりに似すぎていた。『源』と名乗っていた男の傍から離れず、『テトラ』と名乗っていたあの子と、……不気味なぐらいに、全く同じ顔をしていた。



 ……何故、あいつの人形がここにあるのだろうか。



 記憶が正しければ、前に源と会ったときにも変わらず、その腰にテトラがしがみ付いていたはず……ああ、そうか、同じやつを源のやつが作ったのか。


 私は、納得に頷いた。まさか、ナナシと源が……意外な繋がりだ。


 失礼だろうが、正直そう思った。しかし、女の子の正体が分かった以上、警戒する必要はない。こいつに、用意して貰えば問題はかいけ……あ。



「起こし方は……どうすればいいんだ?」



 ……嫌な予感を覚えた。



 試しに揺さぶってみる……が、駄目。


 試しに叩いてみる……が、駄目。


 試しに声を掛けてみる……が、駄目。



 ……その後、結局何をしても起こすことが叶わなかった為、ナナシが起きるまで、臭いがまだ入っていないこの部屋で大人しくする他なかった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る