第二十七話: 語られる過去と深まる謎




「……ふむ、あっという間に熱が下がったのじゃ」



 そのイシュタリアの一言に、ホットミルクを啜っていたマリーはホッと息をついた。『金剛』からワクチンの使用許可が出て、しばらく。


 時間にすれば、投与されてから、まだ数十分程度のこと。


 気持ちは分かるが、いくら過去の英知から生み出された薬とはいえ、さすがに完治と断言するには気が早いところであった。


 しかし、額に当てられたイシュタリアの手を温かいと思えるのは、それだけ熱が下がったということなのだろう。「とにかく、危機は去ったということじゃな」イシュタリアから満面の笑みを向けられたマリーは、ようやく肩の荷が一つ降りたことを実感した。


 そうなれば、自然とマリーたちの視線が無憎へと集まる。


 それも、仕方がないことだ。無憎には大男の件もそうだが、色々と話して貰わなければならないことがあまりに多過ぎたから。


 これまでの騒動を思いだし、マリーたちの視線にも鋭さが混じってしまう。


 ただ、無憎自身は既に腹を括っているようで特に怯えた様子はなく、むしろ斑と焔の方がずっと落ち着きの無さを露わにしていた。


 上半身裸の状態で座り込んでいる無憎。その得物は、どうあがいても彼の手の届かないイシュタリアの後ろに置かれている。


 ……今更、逃げも隠れもしないという無憎なりの意思表示なのだろう。


 それを見ていた斑と焔も、ようやく覚悟を決めたのだろう。マリーたちから一歩離れた場所にて立ち止まると、ジッと無憎を見据えていた。



「……それで、改めてお前の話をまとめるが、バルドクたちが俺たちに依頼した『化け物』ってのはそもそも存在しない。全ては俺をこの場所に引っ張り込む為の九丈の狂言だった……それでいいのかい?」

「ああ、そうだ。その証拠に、被害を受けたと訴えたやつらは全員『強硬派』の連中だ……戻ったら、確認してみるといい」



 はっきりと、無憎は頷いた。驚愕に言葉を無くしている斑と焔と同じく、マリーたちにとってもにわかに信じがたい事実であった。


 それを聞いた瞬間は冗談だろうと笑い飛ばそうとしたが……この期に及んで、そんな嘘を言う理由があるのだろうか。


 そう思ったマリーたちは、とりあえずは無憎の話を信じることにしたのである。



「しかし、腑に落ちぬのう」



 腕を組んで唸り声をあげていたイシュタリアは、ガリガリと頭を掻いた。



「ここのやつらを騙し、無憎という協力者を用意してまでマリーを狙う理由……のう、マリーよ。お主、本当に恨みを買ったりはしてないのじゃな?」

「だから、していないと言っているだろ。そりゃあ妬みぐらいはされることしている自覚はあるけど、だからってここまで大掛かりなことされる覚えは無い」

「むう……まあ、それもそうじゃな」



 マリーの言うことは最もであった。


 収入の面においてピンキリの激しい探究者という仕事は、多かれ少なかれ不公平感や嫉妬というものが至る所で燻っている。


 実力が物を言う世界なのは事実だが、天運の要素が大きいというのを否定できないのも、また事実。


 探究者として10年間経験を積んだ者が、6か月の新人に実力と収入を追い越されるという話は、そこまで珍しい話ではない。


 成らざるを得なかった探究者からすれば、数ある選択肢から探究者を選び、かつ成功した『恵まれ者』は……傍にいるだけで嫉妬を覚える相手なのである。



 これはもう、どうしようもない事だ。



 故に、そういった、そうなるしかなかった探究者たちからすれば、マリーが典型的な『恵まれ者』に映ってしまうのは仕方がないことであった。


 ……とはいえ、だ。


 マリーの言うとおり、嫉妬する者やちょっかいを掛ける者がいたとしても、ここまで大掛かりなことをするやつはいないのも確かだ。


 何せ、あまりに規模が大き過ぎるし、何より酔狂すぎる。マリーたちの正直な気持ちは、訳が分からないことが増えた、それだけであった。



「……無憎。お前は本当に、九丈が俺に固執する理由を知らないんだな?」

「ああ、知らん。そもそも俺は地上から人間を連れてくること事態が嫌だからな」

「……そういえば、そんなこと言っていたなあ、お前」

「『ツェドラ』にお前たちを連行したのも、九丈がそうしろと強く俺に言ったからだ。俺自身はお前らに何の恨みもない……それに関しては、俺が悪かった」

「……いや、だからっていきなり頭を下げられても困るってば」



 額を地面にこすり付けんばかりに頭を下げる無憎を見て、マリーは苦笑した。同時に、出会った時のことを思いだしてマリーはさらに苦笑を深めた。


 思い返してみれば、確かに無憎はマリーという存在よりも、人間を嫌っている節があった。もしマリーのことを知っていたら、わざわざあんな言い方をするだろうか。


 もしかして、あの段階ではまだマリーのことを九丈から言われていなかったのではないだろうか。


 そんなことをつらつらと考えていると、無憎がゆっくりと顔をあげる。額に付いた泥に思わず咽そうになったが、マリーは何食わぬ顔で気づかないフリをした。



「……他には何か聞きたいことはあるか? 俺は口下手だから、何から話せばいいか分からん……聞きたいと思っていることがあるなら、何でも言ってくれ。俺が答えられることなら、答えよう」



 無憎の顔には、何ら怯えの色が見られない。


 あくまで、平静な態度でいる。何とも御立派な度胸を持つ無憎に、マリーたちは互いの顔を見合わせ……「それでは、質問なのじゃ」とイシュタリアが手をあげた。



「そもそもの大前提なのじゃが、お主と九丈の関係を一言で表せば、何なのじゃ?」



 ふむ、と無憎は首を傾げ、頷いた。



「一言で言えば、持ちつ持たれつの関係だ。九丈は俺の名前を借りて、俺は九丈の差し出した物が欲しかった。ただ、それだけだ」

「物とは?」

「……薬だ」

「薬? どんな薬かのう?」

「それは……っ」



 そこで、無憎はいったん言葉を止めた……しかし、先ほども言った通り黙秘するつもりはないようだ。


 少しばかり、覚悟を固めるかのように視線をさ迷わせた後……軽く唇を舐めてから、固い表情のままに口上を続けた。



「若返りの薬だ」



 ……若返りときた。イシュタリアは首を傾げた。



「それは言葉通り、若返る薬ということかのう?」

「そうだ。そのままの薬だ。飲めば、肉体が若返る。俺はやつからその薬を受け取る代わりに、やつに名前と力を貸していたに過ぎん……今にして思えば、ずいぶんと馬鹿な事をしたと後悔している」



 そう呟いて、無憎は俯いた。どうやら、無憎と九丈の関係は仲間とかそういうものではなく、もっと即物的な関係であったようだ。


 とはいえ、今更二人の関係がどういうものであろうとそれ程意味はない。次に手を上げたのは、マリーであった。



「結局あの大男の正体をお前は知っているのかい?」

「……確証は無いが、九丈が関係しているのは間違いないだろう」



 やっぱり……マリーは表情を歪ませた。



「ちなみに、根拠は?」

「……実物を持ったことが無いから何とも言えんが、その若返りの薬とは別の薬を、九丈は持っている。それらしき薬を使っているのを、何度か見掛けたことがある」



 チラリと、無憎が振り返る。それを見て槍を構えるサララを他所に、無憎は地面に転がっている己の衣服を指差した。



「そこに脱ぎ捨てた俺の衣服に、まだ使っていない若返りの薬が入っている。それを見てくれ」



 そう無憎から言われて、駆け寄ったナタリアが脱ぎ捨てられている服に手を突っ込む。


 しばしの間、ゴソゴソと中を探った後、「――あったわ」と取り出したのは、ナタリアの手の中に納まる程度の小さな小瓶であった。


 ……うっすらと色の付いた小瓶の中に、液体が入っているのが見える。


 それをチャプチャプと揺らしながら戻ってきたナタリアに、無憎は「それが、若返りの薬だ」と指差した。



「それで、一回分だ。一日に一度だけ使用すれば、若さを維持することが出来る。俺は……俺が今この肉体を保てているのは、単にそれのおかげだ。もちろん、努力はしたつもりだがな」



 グッと、無憎は己の毛深い拳を握りしめた。傷痕やタコで凸凹となったその手足は、この場の誰よりも太く逞しい。


 大人の2,3人を一撃でのしてしまいそうな立派な体格は、体毛の上からでも確認出来るぐらいであった。



「初めてそれを使った時のことを、俺は今でも昨日のように覚えている。昨日まで重かった獲物が軽々しく振るえて、気力と体力が身体から溢れそうになる感覚……一度それを味わったら、もう駄目だった」



 噛み締めた奥歯が、ギリギリと音を立てる。握りしめた指先が皮膚に食い込み、じんわりと掌を赤く染めてもなお、無憎は固く拳を握りしめる。まるで、何かを振り払うかのように……。



「無憎……そんなものを使わなくとも、お前は十分に若々しかったではないか……それに、見た目だって何も変わってはいないのに……」

「――見てくれは変わらなくとも、肉体は衰えるのだ」



 憐れみを込めて向けられた斑の慰めを、無憎は一言で切って捨てた。



「身体が重く、力が出せなくなる。手足のように扱えていた得物は掲げることすら辛くなり、走ることに億劫さを感じるようになっていく……今だから言うが、俺は明日が来るのが怖かった。明日になれば、さらに身体が衰えていくのが怖かった」


「努力はした。だが、老いは止められない……そんな時、九丈が俺を訪ねてきた。若返りの薬を携えて……名前を貸してほしい、と俺に言った。俺は、それに縋り付いた。誰しもに訪れる現実から、逃れようと思った」


「その薬がどういう物なのかは分からなかったが、決して触れてはならない類の物であることだけは理解出来ていた……なのに、俺は欲望に負けた。何が、何が誇りか……俺は、大馬鹿者だ……己の所業を隠す為に、お前たちに大見得を切ってまで嘘を付いて……その挙句が……様は無い」



(まあ、様が無いのはそうなんだけど……大馬鹿者である自覚があるだけマシか)



 そう、白けた眼差しを向けるマリーたち。無憎も、そういう視線を向けられていることは理解している。


 だから、今更許しを乞うつもりも無ければ、理解して貰おうとも思っていないのだろう。無憎の強い意志に、斑と焔は静かにその手を下げた。



「誰が何と言おうと、俺は――」

「……それで、その九丈が持っている別の薬を使うとどうなるんだ?」



 ――言い訳は、後にしてくれ。



 その言葉を、マリーは寸でのところで呑み込む。何やら長くなりそうな雰囲気に、マリーは待ったを掛けた。


 そこで、ようやく我に返った無憎は、「す、済まない」と軽く頭を掻くと、「俺も人伝に盗み聞いた限りしか知らないが……」と話を再開した。



「まずは気持ちの変化が起こるらしい」

「気持ち?」

「ああ、そうだ」



 ジッとマリーを見上げると、指を1本立てた。



「とにかく、前向きな気分になるらしい。体力は漲り、頭も冴え、自信がつくらしい。それが、第一段階だ。そこからさらに薬を使用すれば……」



 するりと、無憎は指を2本立てた。



「次に訪れるのは筋肉の膨張……言ってしまえば、鍛錬を積まなくとも身体が大きくなるらしい……とはいえ、俺は一度もそれで身体を大きくしたやつを見たことはない……正直、今の今までただの噂だと思っていた」

「……あんたは、それを使おうとは思わなかったのかい?」

「思わん。そんなことしなくとも、肉体さえ若返れば、俺にとってはそれで十分だった」



 そう吐き捨てるように言い放った無憎は、ハッと我に返って目を伏せた。「……すまん、話を続けよう」軽く頭を下げてそう続けると、3本目の指を立てて……下ろした。



「そこから先にも何かが起こるらしいが、俺は知らない。九丈にそれとなく尋ねたことはあるが、『そんなものは無い』としか答えてくれなかった……多分、実際はアレになるのだろう」



 チラリと、無憎の視線が向けられた先。


 そこに何が横たわっているのかを理解しているマリーたちは、あえて見ようとは思わなかった。


 ただ……後悔の念と共に頭を抱える無憎の姿から、目が離せなかった。



「やつが俺に隠れて何かをしているのは薄々分かっていた。だが、薬の力によって、無気力だったやつらが目を輝かせて鍛錬に励む姿を見て……俺は、何も言えなかった。一部の素行が悪くなったとしても、それでも目を地上に向け、勇気を持って地上に出ようとする者が増えるなら……俺は、目を瞑ることを選んだ」



 そこまで言い終えた辺りで……無憎は、横たわっている亡骸を見やった。


 その瞳に思い浮かべている感情が何なのか、それはマリーたちからはうかがい知ることは出来ない。けれども、それはけして良い感情ではない事だけは、察することが出来た。


 ……内容だけを考えれば、何とも信じがたいものである。


 しかし、無憎を見る限りでは、到底嘘を付いているようには見えない。そして、ここに来てようやくマリーは、無憎と相対した時に覚えた違和感の正体を理解することが出来た。



(道理で、無憎を見てあいつを思い出したわけだ……薬の成分に似た部分でもあるのかねえ……)



 駆け寄って来たナタリアから受け取った小瓶を、黙って見つめる。こんな少量の液体が、あの大男を作り出すとは……いったい、どういう作用が働いたらそうなるのだろうか。



「……イシュタリア、まだ抗ウイルス剤は持っているか?」

「持っておるのじゃ……ほれ。あ、そのカップは空じゃな、貸すのじゃ」



 ふと気になったマリーは、イシュタリアから受け取った薬と、若返りの薬を見比べてみる。


 どちらもただの液体なのに、どうしてこうも役割が変わるのだろうか……そっち方面の学は無いマリーは、首を傾げるばかりである。



「……この薬は、いつもどこで手に入れていたんだ?」



 その言葉に、無憎は顔をあげた。後悔の気持ちでいっぱいになっていた顔を無理やり戻しながら、無憎はグッと歯を食いしばった。



「……俺はいつも九丈から手渡しされていた。他の奴らのことは知らんが、おそらく他の奴らも九丈から直接受け取っているのだろう」


 ――なるほど。



 とりあえずは納得することにしたマリーは、ふと、斑と焔へ視線を向けた。



「いちおう聞いておくが、そこのお二人はこの薬については知っていたかい?」



 小瓶を、斑と焔へ見える様に掲げる。当然二人は首を横に振り、無憎からも「その薬を知っているのは『強行派』だけだ」と声があがる。



 ……つまり、だ。マリーは頭の中で情報を整理する。



 この薬は『地下街』の中でも極一部でしか流通しておらず、その薬の正体と出所を知っているのは……現段階では九丈ただ一人になる。



(何とも、腑に落ちない話だな)



 そう、マリーは思って、ミイラと成った亡骸たちを見つめた。


 いくら九丈しか薬の在り処(あるいは製造方法)を知らないとはいえ、どうして彼らは大人しくしていたのだろうか。


 無憎たちから聞いた話では、その九丈という男……腕が立つような男ではなく、どちらかといえば頭を使うタイプの男だという話である。


 九丈が大男みたいな屈強な人物だったならともかく、素行の悪くなった彼らが、どうして九丈から薬を奪おうとはしなかったのだろうか。『東京』ですら、麻薬欲しさに売人を殺す事件はあるというのに。


 そして何より……魚の骨のように突き刺さった違和感に、マリーは首を傾げる。その違和感の正体が、全く掴めなかった。



「どう思う?」

「分かっているのはあの大男の正体と、それを作り出す薬の存在と、その薬を用意している九丈という男の情報だけ……現時点では何も、としか言えぬのう」

「……だよなあ。それにしても、薬……ねえ」



 とはいえ、だ。


 色々と気になる点や腑に落ちない点はあるが、これであの大男の正体は化け物でも何でもなく、その薬を使って変身を遂げた亜人だということは分かった。


 全てを知っているのは九丈ただ一人で、無憎にも話していないことが多々ある。


 その無憎がまだ何かを隠しているのなら話は別だが……マリーは斑たちと話している無憎を見て、違うな、と首を横に振った。



「無憎……そんなものを使わなくとも、お前は……」

「気安い慰めはよしてくれ、斑。お前たちには分からなくとも、俺自身が一番それを理解していた。理解、させられていたんだ……」

「無憎……お前……」



 互いに掛けるべき言葉が、言うべき言葉が思いつかないのだろう。


 なじるわけでもなく、貶すわけでも無い……『どうして?』という斑と焔の無言の問いかけに、無憎はただただ俯くことしか出来ないようであった。



(あんまり隠し事出来そうな感じじゃなさそうだしなあ……策略とか嫌いそうな雰囲気出しているし、多分こいつはこれ以上のことは知らんだろ)



 そう結論付けたマリーは、隣に立っているサララに質問の場所を譲ろうとするが、サララは静かに首を横に振るだけであった。


 どうやら、マリーとイシュタリアの質問でサララが疑問に思っていたことのだいたいが解決したようだ。


 ドラコとナタリアに目線をやれば、二人もサララと同様に首を横に振っている……と。



「そういえば、さっきからお主らの話している『強硬派』、『急進派』、『穏健派』とはいったいなんなのじゃ?」

「……なんだ、まだ知らなかったのか?」



 今更、と言いたげに目を瞬かせる無憎に、イシュタリアはかりかりと頭を掻く。「そういえばお伝えしておりませんでした」と頭を下げる斑と焔に、無憎はしばしの間見つめ……ふむ、と頷いた。



「説明の前に、お前たちが、この『地下街』についてどれだけ知っているのかを聞きたい……『食糧区』については知っているか?」



 マリーたちは、首を横に振った。


 その横で、斑と焔が、静かに頷いている……それを見た無憎は、「では、1から説明する」特に何かを言うでも無く話を続けた。



「お前たちも知っての通り、『地下街』には多種多様の亜人が暮らしている。その俺たちの胃袋を満たしている食糧のほとんどは、『食糧区』と呼ばれる場所で生産されている……そうだな、だいたいの場所はココだ」



 地面にカリカリと、指で大雑把な『地下街』の地図を描くと、ある一点を指差した。


 それはまだマリーが行ったことがない場所であり、斑たちからも全く聞かされていない部分であった



「この『食糧区』には、この『地下街』を作った『女神』と『三賢者』が生み出したとされる、多種多様の果実と木の実を毎日実らせる不思議な木々と、食肉となる獣が出現する『巨大穴』、そして、常に新鮮な水を生み出している『泉』がある。俺たちはそれを『地下街』の共有財産として大切に管理してきた」



 指差した場所を、無憎は軽く指で叩く。ぽつんと開けられた穴は、おそらく『巨大穴』の位置を指し示しているのだろう。



「『女神』? 『三賢者』?」

「この『地下街』を作り上げた神と、俺たちの祖先をこの地に導いた三人の亜人を差す言葉だ。『食糧区』の木々と『巨大穴』と『泉』は、その神の力によって生み出されたと言い伝えられてきている」

「……え、ちょっと待て、聞き間違いならいいんだが、なんだそのお伽噺に出てきそうな代物は……なに、つまり何もしなくてもここのやつらは生活出来るわけ?」



 さらりと流しそうになった事実に、マリーが食いついた。


 思わずといった様子で身を乗り出そうとするマリーを、サララが慌てて抱き留める。マリーは病み上がりなのだ、無理はいけない。


 普段なら背中に触れる膨らみに意識を向けるところだが、今のマリーはそちらに目を向ける余裕はなかった。それぐらい、たった今無憎が語った内容は衝撃的であった。



「俺が地上に出て獣を獲っていた昔と違って、今は地上へ向かう者はほとんどいなくなった。そういう理由もあって割り振られる量は減ってきているが、まあ、均等に割り振られている」



 そう無憎に言われて、マリーは焔に目を向ける。焔が黙って頷いたのを見て、マリーはようやくそれが事実だということを受け入れた。


 信じがたい事実だが、本当にここではそうなっているようだ。



「……よし、もう俺らが受けた一切合財の諸々を許してやろう」



 ふと、マリーは笑みを浮かべて無憎へと片手を差し出した。満面の笑みが付いていた。実に可愛らしい笑みであった。下心を察してくださいと言わんばかりの笑みであった。



「……お前たちに迷惑を掛けたのは事実だが、さすがに木々はやれんぞ。アレは俺だけの問題ではなく、この『地下街』全体に関わる問題だからな」



 笑顔のままに、マリーは舌打ちをした。そして、その笑顔を一部も崩すことなく斑と焔に向けた。なぜか、二人は肩をびくつかせた。



「斑、焔……お前たちは、どう思う?」



 ごくりと、二人の喉が鳴った。



「さ、さすがにこればっかりは……今ですら、決して余裕が有るわけではありませんから」



 うんうん、と頷く焔は斑の後ろに隠れている。何をそこまで怖がるのだろうか、とマリーは舌打ちしながら思った。



「ならば、許してやる理由は微塵もねえな」

「……時折見せるその素直な欲望、私は結構好きじゃぞ……しかし、ほれ、そこの『人形師』も呆れ顔になっておるから、少し自重するのじゃ」



 あっさりと決断するマリーに、傍観していた源も白けた眼差しを向けてしまうのを抑えられなかった。


 イシュタリアに至っては、むしろマリーの明け透けの無いお強請りに頬を引き攣らせる有様である。


 マリーの頭に顔を埋めてうっとりしているサララはもちろん、モンスターであるナタリアと、亜人であるドラコは特に何も言ってはいないのだが……この3人に常識を求める時点で色々と負けなのかもしれない。


 とはいえ、さすがにマリーも欲望を露わにし過ぎたと自覚したのだろう。


 我に返ったのか、おほん、と白けた場の空気を正すかのように一つ咳をすると、「――さて、どこまで話していたっけ」脱線した話を無理やり戻した。



「それで、その『食糧区』と各派はどう繋がるんだ?」

「各派の根本的な目的は皆同じ、この『地下街』をどうしていくかということに尽きる。各派の違いは、言うなればその目的に至る道筋の違いでしかない……まず、俺や九丈を含めた『強硬派』は、大雑把にいえば地上への進出を最優先にすべきだという考え方だ」



 ――当然、その過程で邪魔となる人間は全て排除するという考えが前提だ。



 そう続けた無憎に、ピクリと眉根を反応させたマリーたちであったが……口を挟もうとはしなかった。



「もう一つは、斑を筆頭とする『急進派』だ。現状をある程度維持しつつも積極的に地上へと進出すべきという考え方だ……『強硬派』と決定的に違うのは、人間の居住圏には極力手出ししないという点に尽きる。そして、最後の『穏健派』は……」



 チラリと、無憎の視線が動いた。しかし、すぐにマリーへと向けられた。



「既に察しが付いているだろうが、焔を筆頭とする『穏健派』だ。これは他の二つと違い、言ってしまえばこちらから促すのではなく、自ら奮起して行動を起こす者が増えるまでは現状維持に勤めようという考え方だ」

「なるほど、若さを求めようと思ったのは、そこらへんが原因のようじゃな。さしずめ、自分がなんとかせねばと考えたのじゃろう」



 そのイシュタリアの一言に、無憎は静かに目を伏せた。



「今の若いやつらは何だかんだ理由を付けて、一度も地上に出たことがないやつは多い。加えて、年寄りを含めても全体の半分ぐらいが地上の光を見たことすらない……俺には、どうしても不安を拭い去ることが出来なかった」

「……まあ、黙っていても飯と水は手に入るし、あの距離を徒歩で行くのは辛いな。乗り物を動かす度に血を必要とするとなれば、及び腰になるのに仕方がない部分はあるんじゃねえの?」



 いくら必要だからって、毎回血を抜かれる方にしたら嫌だろう。そう言外に述べたマリーに、無憎は分かっていると首を縦に振った。



「それを含めて、ここの温い空気しか知らないあいつらが心配でならなかった。人間に見つからずに今までやってこられたのは確かだが、だからといって、これからもずっと見つからない確証はない。そう思って発破を掛けたこともあったが……ダメだった」

「まあ、こんな環境じゃあ危機感なんて湧かないわなあ。その点については、あんたの危機感は最もだろうさ」



 実際問題、食べる物が無償で手に入るというのは大きい。気温や空気は常に安定しているから、雨風に晒される恐れもない。


 物理的にも精神的にも閉鎖的である面は否定できないだろうが、それでも命の危険に晒されることは早々無いだろう。


 見てくれを気にしなければ、それこそ死ぬまで自由気ままに生きることが出来る場所。


 なるほど、亜人たちがひっそりと閉じこもるわけだ……と、マリーは納得に苦笑し、そして……深々とため息を吐いた。



「なんだ、結局は俺をどうにかしたい九丈ってやつが、全部仕組んだことだったってわけか……もうわけわからんぞ」



 肩を落とすマリーの背中を、サララとイシュタリアがそっと撫でられた。「まあ、そういうこともある」と、くしゃくしゃとドラコの手で髪をかき回される感触に、マリーはさらに力が抜けそうになった。


 今回の仕事がでっち上げであった以上、依頼内容の進捗に関わらず、マリーには最初に提示されていた報酬を受け取る権利がある。


 相手が亜人であろうとそれは当然の権利であり、『地下街』を統括する斑と焔はマリーに報酬を支払う義務がある……のだが。


 ぐったりと脱力していたマリーは、むくりと背筋を伸ばした。


 そして、申し訳なさそうに佇んでいる斑と焔、そして、裁きを待っている無憎を見やって、二度目のため息を吐いた。



「それで、お前らはどうしたいんだ?」

「えっ?」



 驚いて目を見開いた三人を前に、マリーはスッと目を細めた。



「えっ、じゃねえよ。九丈が俺を狙っている以上、はいそうですかと帰るわけにもいかんだろ……なにせ、俺の家を知っているんだからな」

「……というと?」

「俺は速やかに九丈をぶっ殺す必要がある。それについて、お前らはどう対応するのかと聞いているんだよ」



 ――沈黙は、一瞬のことであった。



「ワシは、あなたの判断にお任せしようと思います」



 ……自然と斑に向けられた無憎と焔の視線が、その老骨に突き刺さる。けれども、斑は狼狽えるような姿は見せず、むしろ鋭い眼差しを二人に返し……マリーへと、静かに頭を下げた。



 ――思わず立ち上がりかけた無憎を、斑は手で制した。



 そして、そのままの状態で……斑は、「これは本来ならば、ワシらが自らの手で、同胞の非道を正さねばならないところ」と、語り出した。



「九丈が何をしようとしているのか、ワシには見当が付きません。しかし、無憎の言うことが本当なのだとしたら、おそらく九丈はその薬を使って多数の兵士を用意しているはずでしょう」



 それは、推測というにはあまりに確証を得た予感であった。


 実際、ここに大男が来た時点で、九丈は無憎を含めた全員の口を塞ぐつもりであった可能性は高いのだ。


 どのような手を使ったのかは知らないが、マリーを『地下街』に連れてきて大男を送り込むことから始まり、それが失敗したら、今度は合法的にマリーを捕らえようとする。


 結果、それも失敗に終わり、隠れ蓑として使っていた無憎が手元を離れ、そして遣わした者も撃退された。


 九丈は、もう分かっているのだろう……いや、分かっている。


 『三貴人』である斑と焔が事実を知り、自らを罪人として捉えようと動き出そうとしていることを……おそらくは待ち構えているであろう九丈を思い、斑は人知れず拳を握りしめた。



「率直に聞かせてください。ワシらが動いたとして、無事に九丈を捕らえられると思いますか? あの怪物を従えているだろう九丈を、捕らえられると思いますか?」

「……さあね。お前らの戦力がどの程度か分からんし、答えられる話じゃないな」



 ただし……そう、マリーは続けた。



「双方無事に済まないのは確かだろう……あっちが同胞と思って手加減するのかは分からんけど、もし向こうにその気が無かったのなら……間違いなく、大勢の死者が出るだろうな」



 それを聞いて、斑はおもむろに膝を付けた。そして、焔と無憎が止めるよりも前に……また、額を地面にこすり付けようとした瞬間――。



「――何か、物音がした」



 ――ピクリと耳を震わせて暗闇の向こう……『地下街』へと続く戻り道を見やったドラコに、マリーたちの視線が一斉に集まった。それらの視線をドラコは手で制して目を瞑り、ジッと耳を澄ませる。



「足音?」



 ナタリアの問いかけに、ドラコは首を横に振った。



「足音では無い。音もはるか遠くの方だ……しかし、大きい。何かは分からないが、何かが起こったのは確かだ」

「……『人形師』、お主の『人形』で、何か掴むことは出来るかのう?」



 振り返ったイシュタリアの言葉に、源はハッと目を見開き……己の腰に抱き着いている『人形』を見やった。



「――テトラ、今の物音の原因を探ることは出来るか?」



 こくり、テトラは静かに頷いた。



「はい、ディグ・源。音波振動識別センサーから習得できた情報を統合した結果、66%の確率で落盤、あるいは通路の一部分が崩れたと推測できます」

「なに!?」



 あまりに衝撃的なテトラの言葉に、ギョッと源は目を見開いた。耳を澄ませていたマリーたちも、ギョッと目を見開いた。斑たちも驚きに目を見開いた。



「――とりあえず話は後だ、まずは戻るぞ!」



 そう声を張り上げたマリーの指示に、サララたちは一斉に行動を開始した。


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