第十六話: 予感、あるいは予兆




 ……頭が、痛くなりそうだ。鼻腔どころか、肺の中全てを埋め尽くす濃厚な酒の臭いに、マリーは胸やけしそうな思いで目を覚ました。



 視界いっぱいを埋め尽くす肌と嗅ぎ慣れた臭いに、マリーはほとんど無意識の内にイシュタリアの身体を力づくで退かした。


 相変わらずの酷い寝相に下敷きにされ、サララに力強く抱き着かれ、ナタリアはベッド端から落ちている。その反対側の壁に、もたれ掛るようにして寝息を立てているドラコの姿。


 ……いつもと変わりない朝だ。


 5人で眠るには手狭なベッドの中央から、案の定な光景を見やったマリーは、欠伸を零しながら胸を掻いた。


 昨日はほとんど酒を飲んでいないので二日酔いなどはないが、それでも朝っぱらから酒の臭いに喜ぶほど酒に溺れてはいない。


 ……何気なく視線を床に下ろせば、至る所に転がっている酒瓶が見える。


 そのどれもが空になっており、床を酒浸しにするような事態にはなっていないのが救いだが……酷い惨状であった。



(一昨日からイシュタリアはいったい、どうしたのやら……あんなに前後不覚になるまで酔っ払ったあいつを見るのは初めてだぜ……)



 一昨日もそうだが、特に昨夜のイシュタリアは、まさに酒乱という言葉を体現したかのようであった。


 目に映った酒瓶を次から次へとからラッパ飲みし、嫌がるナタリアに抱き着き、サララの頭を撫で回し、ドラコによく分からない説教をし、マリーには鬱陶しく絡む。


 あまりに様子が変なことに加え、いつもと違う呑み方に何が有ったのかを尋ねても、はぐらかすばかり。


 幸いにも苦情が来るようなことは無かったが、それでも雰囲気が異なるその姿に、サララたちはもちろん、さしもののドラコですらタジタジであった。



 その結果、昨日はイシュタリアが酔いつぶれるまでマリーたちは眠ることも出来なかった。



 下手に一人にしてしまえば誰に絡みに行くか分からないから、マリーたち全員が無理やり酒飲みに付き合わされる羽目になってしまったのだ。


 さすがにイシュタリアのような無謀な飲み方はしなかったが、それでも少しは飲む必要(下手に呑まないでいると、それで絡まれるので)がある。


 簡単に後片付けを済ませてマリーたちが床に就いたのは、いつもよりも遅い時間帯になってしまった。



 いったい……イシュタリアに何が有ったのだろうか。



 その事について眠る前に軽く意見を交わし合ったりもしたが、当然のことながら、分かっているものはいない。『まあ、そういう日もあるだろう』という月並みな結論に至った辺りで、マリーの記憶は途絶えていた。



(やれやれ、酔っ払いの絡み酒はこれだから……それにしても、今日はサララがいるんだな……ああ~、サララのおっぱい超やわらけえうえに、すげえプニプニしてて気持ちいいなあ……よっしゃ、ついでにケツも揉んでおこう……おおう、なんという弾力だ……今度枕代わりに頭を乗せてやろう)



 イシュタリアの件を除けば、いつもとそう変わりない朝を、いつものように迎えたマリーは、いつものようにサララたちを順々に叩き起こし、起床の準備を始めた。


 途中、寝ぼけたサララから熱烈なキスをされてイシュタリアから茶化されたりしたが、そのイシュタリアが二日酔いに青ざめている姿を見て、留飲を下げた。


 それから、いつものように食堂にて食事を済ませる。食後のデザートに舌鼓を打っているサララ含めた女連中(イシュタリアはほとんど食事が取れず、水をがぶ飲みしていた)を眺めていたマリーは、砂糖無しのミルクティーを啜りながら、ぼんやりと今日の予定に思考を巡らせていた。



「――お、いたいた。どうやら深酒なんかはしていないようだな……一人を除いて……」

「……あ、久しぶりだな、マージィのおっさん」



 マージィが食堂に姿を見せたのは、ちょうどマリーがミルクティーを飲み終えた辺りであった。


 ドラコが荷物持ちになったことと、『そろそろ一人での仕事に身体を慣らしておかないとな』というマージィの意志で引率者の役を降りてから、しばらくぶりであった。


 久しぶりと言っていいマージィの登場に、ドラコを除く女性陣(イシュタリアは、マージィが来てすぐにトイレへと走って行った)からも笑顔がこぼれた。


 特にナタリアの喜びようはかなりのもので、自らが食べていたケーキの最後の一かけらを、マージィへと差し出していた。


 ドラコだけは数回顔を合わせただけなので、多少は警戒しているようではあったが、そこらへんはマージィも理解していた。



「何もしたりはしねえから、いちいち睨んで来るなよ」



 ドラコに手を振りながら、差し出されたケーキを一口で平らげたマージィは、マリーへと向き直った。



「すまねえが、ちょっと付き合って欲しい」



 ピクリと、マリーの肩が跳ねた。じろりとマージィを見上げると、今まで見たことがないぐらいに張りつめた何かが、瞳の奥で燻っているのがマリーには分かった。



「……何か、あったのか?」

「何も無かったら、こんな朝早くに来たりはしねえよ」



 なるほど、それもそうか。マリーは苦笑した。



「急ぎの用かい?」

「大至急だ。確証を持っては言えないが、今回はお前たちと一緒に行動することになるかも分からん」



 剣呑さすら覚えるマージィの表情に、マリーは居住まいを正した。ドラコが来てからマージィとの仕事の回数は減ってきているが、それでも交友は続いている。今日が休養日であることは、マージィも重々承知のうえのはずだ。


 それでもマリーの元に駆け付け、半ば脅しとも取れる忠告をするということは……そうしなければならない重大な何かが、起こったということだ。



「……よくないことが起こったかい?」

「正確に言えば、起こるかもしれない、だな。出来れば今すぐ俺と一緒にギルドに向かってほしいんだが、いいか?」



 ふむ……マリーはチラリと女性陣を横目で見やった。「マリーに任せる」と言うサララに、ナタリアも追随する。


 ドラコも、言葉こそ無いもののマリーの意志に従うつもりなのだろう。無言のままに席から腰をあげると、マリーの後ろに立った。



「ドラコ、お前も来るのか?」

「私は、お前の望むままに従うだけだ。お前が行くのであれば、私も行こう」



 ……いくら雰囲気が弟(若い頃の弟)に似ているとはいえ、本当にドラコはマリーに対して甘い。


 改めてそれを実感したマリーは、内心苦笑しながら椅子から腰を上げた。



「先に聞いておきたいんだが、おっさんが持って来た厄介事は、あいつと一緒か?」

「あいつって、菊池の兄ちゃんのことか?」



 マリーは頷いた。マージィの話を受けたいのは確かだが、先客はそっちだ。なので、マリーとしてはそっちを先に済ませておきたかった。



「それだったら、別のやつに頼むそうだ。この件はギルドと役所の合同依頼だから、あいつも知っているぞ。なんで合同になっているのかは向こうに着いてから説明するから、今は聞くな」



 あえて、マージィは経緯をぼかして話した。現時点でマージィが話せることは少ないし、なによりここは食堂の一角だ。


 わざわざ話に入り込んでくるようなやつはいないが、それでもこっそり耳を澄ましているやつは少なからずいる。


 ……さすがに、こんな場所で話す内容ではないし、下手に話が広がってパニックが起きる事態は避けたい。


 なんとなくではあるが、そんなマージィの思惑を察したマリーは、「そっか」とだけ軽く答えた。



「だったら、こっちとしても話は早い。これから準備するから、マージィのおっさんは待っていてくれ……あ、それと――」



 イシュタリアにも話を通しておかなければならない……のだが、そのイシュタリアは今頃便器に顔を突っ込んで色々と吐き出している頃だろうか。


 多少の不調であっても、すぐにイシュタリアは回復するだろう。とはいえ、さすがに万全の状態というわけではないが……まあ、いいか。



「……イシュタリアが戻ってきたら、上の自室に来るように伝えてくれ。場合によってはイシュタリアの着替えが済んでから降りてくるから、けっこう待たせることになるからな」

「――おう、分かった。俺のことは気にせず、準備を入念にな」



 思いのほかあっさりマリーが引き受けたことに、マージィは思わず安堵のため息を零した。


 事情が事情なので突然のお伺いとなったわけだが、何とか第一関門は突破だな……とマージィは一人胸を撫で下ろした。


 そして……あっ、とあることを思い出したマージィは、二階へと続く階段を上っているマリーの後ろ姿へ声を張り上げた。



「それと、今回の経費は全部役所とギルドが立て替えるらしいから、出し惜しみなんてしないでくれってよ!」



 ――ピタリと、階段を上っていたマリーの足が止まった。当然のことながら、マリーが止まればサララたちも止まる。


 マージィの言っていることを理解しているのはマリーだけなのか、サララたちは不思議そうにマリーを見つめていた。



(……おいおい、そういう後出しは勘弁してくれよ)



 経費全部向こう持ちの採算度外視のお願いごと。なんと、厄に満ちた言葉だろうか。ギギギ、と。錆び付いたブリキの如く振り返ったマリーは……引き攣った顔でマージィへと振り返った。



「おい、俺たちはあくまで狩猟者だぞ。間違っても、戦争とか派閥争いとかをしに行くわけじゃねえからな。そこのところ、はき違えるなよ」



 言外の牽制。しかし、マージィは……ニヤリと含みのある笑みを浮かべた。



「ああ、分かっているよ。お前たちに頼むのは、何時もの通り……モンスターの討伐だ」

「……なら、いいんだけどよ」



 何故だか、釈然としない。しかし、そう言われてしまえば、納得するしかない。


 後悔の色を滲ませたマリーが階段を上って行くのを見つめていたマージィは……静かに、頭を下げた。









 その後……ぶっ倒れて永眠してしまいそうなぐらいに顔色の悪かったイシュタリアも、トイレから出てきたときにはいくらか顔色が良くなっていた。


 死人同然から、くたばりぞこない程度の違いしかないが、それでも『時を渡り歩く魔女』であるのは間違いない。


 くたばりぞこないとはいえ、その力は本物だ。「まあ、援護ぐらいは出来るからのう」とは本人の弁だが、援護して貰えるだけでも十分過ぎた。


 ……しかし、二日酔いから完全に回復したわけではない。


 何時もより明らかに頼りなくなっている足取りを見て、仕方なくマリーがイシュタリアをおぶってギルドへと向かうこととなった。


 ……ちなみに、それはイシュタリアからの要望であった。


 ナタリアはイシュタリアが購入したアレを背負っているので無理であり、マリー以外はノーサンキューのドラコ、装備やらが邪魔をして諦めざるを得なかったサララ……まあ、そういう結果となってしまった。


 仕方がないこととはいえ、道中のサララからの視線が恐ろしい物になったりしたのだが、何も言うことはなかった。昨晩の異様なまでの酒乱騒ぎを見ていたからで、「……今回は我慢する」ということで決着が付いたから。


 そうして、ギルド前にて。



「俺はお前たちの後に来て欲しいってことだから、しばらく町をぶらついてから来る」



 ……と、言い残してどこかへと向かったマージィに手を振って見送ったマリーたちは、早速ギルドへと足を踏み入れた。


 その後は、ほとんどいつもの通りの流れ作業である。すっかり見慣れたギルド長室に通され、すっかり顔馴染となったギルド長と軽い挨拶を交わす。


 ……ギルド長ご自慢の髭が、今日はどこか艶が無くなっているのが気になったが、まあ、もはや慣れたものである。


 そして、湯気立つお茶が人数分配られる。当然のようにドラコの分がない事に、もう誰も突っ込まない。


 ドラコ自身が言外に拒否しているのもそうだが、ギルド長の全身からにじみ出る、『竜人』に対しての憎悪がそうさせたのだろうか。



(……はて、最初にドラコと対面した時は、もっと態度が柔らかかったような気がするんだが……今日はやけに険悪な態度を隠そうともしていないな)



 不可解な態度にマリーは首を傾げながら、何とも言えない重苦しい沈黙が続くこと、しばらく。


 いいかげん話を切り出して貰えないかなあ……という空気がマリーたちの間から漏れ始めてきても、ギルド長は張り詰めた表情で強く唇を噛み締めていた。



(このお茶うめえなあ……嫌だなあ、どう考えてもご機嫌取りじゃねえかよ、これって……)



 あっという間にお茶を飲み干したマリーは、静かに椀をテーブルに置く。事情をある程度は知っているであろうマージィから何も聞いていないので、正直なんで御呼ばれしたのかも分からないのが今のマリーたちだ。


 ――さっさと話を切り出したいが、切り出したら切り出したで、凄い面倒事に巻き込まれそうな気がする。


 直感とも言うべき予感を覚えていたマリーは、黙ってギルド長を見つめるが……ギルド長は、相変わらず黙ったままだ。


 いつの間にか会話できる程度にまで回復したイシュタリアの「……黙っておるのであれば、茶菓子ぐらい用意して欲しいのじゃ」という一言に、ようやくギルド長は固く閉じていた唇を開いた。



 ――そこからは、まるで酔っ払いの戯言であった。



 話が始まった初めの数分でマリーが覚えた率直な感想が、それであった。しかし、ギルド長の額に浮かぶ幾つもの汗を見て、その考えをすぐに改めた。


 マリーたちが知る由もないことではあったが、その内容はマージィが菊池に語ったのと、ほぼ同じであった。


 にわかには信じがたい内容に、最初はいつもの調子で聞いていたマリーたちも……徐々にのめり込む様にギルド長の言葉に耳を傾けるようになった。


 途中、職員がお茶のおかわりと茶菓子を持ってくる場面もあったが、誰もがそちらには目をやろうとはしなかった。



「――というわけなのだよ」



 全てを話し終えて、気が緩んだのか。ギルド長は深々とため息を吐くと、すっかり温くなったお茶を味わうように、音を立てて啜った。ギルド長室の中には、重苦しい沈黙で満たされていた。




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