第九話: 気づいてしまった違和感
ウィッチ・ローザの淡い明かりが、ぼんやりとダンジョン内を照らす。静まり返ったそこは、ともすれば何も存在しないのではないかと思えてしまう程に、時間が止まっていた。
しかし、何も変化が無いというわけではない。風の動きも無ければ、明かりの強さも変わらないが、よくよく意識を傾ければ気付けることは沢山ある。
土の香りに混じる血潮の臭い。至る所で繁茂する固有植物の存在と、所々に見られる様々な足跡。時折感じ取れる、残照とも言うべきモンスターの悪臭。
それら全てに目を、耳を、鼻を澄ませながら、今日も大勢の探究者たちがエネルギー採取に勤しんでいる。
そして、そんな人たちが活動するダンジョンの中。抜きん出た剣技でもって、迫り来るモンスターたちを一刀にて仕留めるイアリスの姿が、見受けられた。
総身をくねらせ、固い鱗をきらめかせながら空中を泳ぐ、ケイマー・ウオ。
最も探究者の命を奪っていると言っても過言ではない、ランター・ウルフ。
階段や通路の出口付近で待ち伏せして襲い掛かる、バロック・アント。
驚異的な突進によって、強固な盾ごと探究者を破壊する、モーヴァ。
ある意味代表的と言っても過言ではないモンスターを前に、一歩も引くことなく、魔法剣『アルテミス』を振るう剣士。
きらめく鎧を鮮血で汚しながらも、イアリスの無双的活躍は、称賛の眼差しを向けられる程であった。
「光明剣!」
そしてまた、魔法剣『アルテミス』が光を放つ。絶大な切れ味を見せるソレは、残影を残しながら、モンスターたちを次々に両断していく。
細腕から繰り出される凄まじい威力の斬撃に耐えられるモンスターなど、この場にはいなかった。
「よーし、そのまま囮を頼んだぞー」
そして、その傍で。イアリスが縦横無尽に暴れ回っている間、マリーは何をしていたかと言えば……。
「あー何もしなくてもいいって、とっても楽ちんだぜー」
朽ちたモンスターの死体から、ひたすらエネルギー採取。次から次へと仕留めて行くイアリスの後を付いて行き、放出されたエネルギーを採取するだけ。本当に、ただそれだけであった。
その姿をはた目から見れば……まあ、アレである。そう見られる可能性はマリーも分かっていた。
けれどもマリーは、あえてイアリスに手を貸そうとはせず、ひたすら採取作業に勤しみ続けていた。
なぜ、戦闘に加わらないのかと問われれば、理由は二つ。
一つはイアリスが他者と連携を取るのが思いのほか(というわけでもないが)下手くそであるということ。
もう一つは、単純にこのやり方の方が、色々と効率が良かったからである。
(うーん、最初はどうなるかと思ったが、コツを掴めば意外とこいつのコントロールは楽だな)
もう下手にイアリスをコントロールせず、適当なところで無理やり切り上げよう。
そうマリーが覚悟を固めたのは、ダンジョンに入った直後の事だ。
最初は適当なところで殴ってでも止めるかと思っていたわけで……オーブにエネルギーを回収したマリーは、いつの間にか遠くに行っているイアリスを見やって、思いっきり苦笑した。
状況を確認せずに、さっさと先行する剣士……猪と言われる所以である。普通に考えれば、戦力を分断しない為にも真っ先にイアリスの元へ向かわなければならない状況だ。
だが、マリーはあえて追わなかった。どんどん小さくなっていく金髪の後ろ姿を見送りながら、エネルギー採取作業を続ける。
そのまま、マリーはその場で大人しく待つ。好機と言わんばかりに飛び掛って来たモーヴァを正面から粉砕。いつの間にか近寄っていたアメーバが自滅。
そんな光景を横目で見やりながら、マリーはイアリスの消えた通路へ視線を向けていると――。
「お、今回はちょっと早いな」
――通路の奥から、ひょこ、とイアリスが戻ってきた。
先ほどまでの猛進さはどこへやら……心細そうに周囲を見回しているイアリスの視線が、マリーを捉えた。
途端、イアリスの表情が太陽のように輝いた。
それを見て二度目の苦笑をするマリーを他所に、イアリスは思い出したようにキリッと表情を引き締めると、足早にマリーの元へと戻ってきた。
「こら、ちゃんと付いて来てくれないと危ないではないか」
開口一番、イアリスはそう言った。
「お帰り、今回は早かったな」
「む、そうか、それは良かった……んん、いや、それとこれとは話が……」
褒められて得意顔になったところで、マリーは決めの一手を放つ。
「この調子で頼むぞ。お前の剣技は見ていて惚れ惚れするからな」
「え、あ、そ、そうか? あ、あんまりこういうので褒められたことがないから、そう言われると照れるぞ……」
テレテレ、テレテレ、テレテレ。
はにかんだ顔で気恥ずかしそうに頭を掻くイアリスに……マリーは、やっぱり苦笑を抑えられなかった。
そう、マリーが見つけたイアリスのコントロール方法は単純明快……褒め殺しと、適度な放置であった。
(まさか、一人になると心細くなって戻ってくるとは思わなかったぜ。思わずお前は犬かと言ってしまった俺は、多分悪くない)
何やら「よし、ならばもっと見せてやろう!」と言って調子に乗り始めているイアリスを宥めながら、マリーはやっぱり苦笑を抑えられなかった。
付き従うから、駄目なのだ。以前の時は、一人飛び出し続けるイアリスを抑えようと傍を離れなかったから、失敗した。
誰か一人でも傍に居ると調子に乗るタイプ。それが、イアリスなのだ。
適度に離れるのが重要なのだ。そうすれば、そのうち心細くなって戻ってくる。構うのであれば、その時に構うのが良い。すぐ調子に乗ってしまうから、それぐらいがイアリスには丁度良いのだ。
これを見つけ出した時から、マリーに掛かる負担は驚く程減っている。おかげでマリーは、これ以上ないぐらいに楽々とエネルギー採取に勤しめられたのであった。
ちなみに、マリーの戦い云々は、今の所イアリスの頭からはすっぽり抜けてしまっている模様。面倒だから、そのまま忘れたままにさせているマリーであった。
「……そういえば、今は何時かねえ」
ふと、マリーは懐から時計を取り出す。所持しているオーブも幾つか確認し……踵をひるがえした。
「いつの間にか昼を回っていたみたいだな。そろそろ上に戻るぞ」
「む、そうか……私はまだ頑張れるぞ」
「よし、それじゃあお前ひとりで頑張れ。俺は上に戻って、最近出来たとかいう近場の店に行く」
「水臭い事を言うな。私も同伴しよう」
一人でがんばれ、の部分に反応したのか。
それとも、最近出来た、の部分に反応したのか。
幾分か慌てた様子で後を付いてくるイアリスを見やりながら、マリーは笑みを帽子で隠した。
……足音が、響く。
時折飛び掛ってくるモンスターを相手にしながら、マリーとイアリスは地上階へと向かう。地上階まで、もうしばらくといったところか。
「そういえば、お前ってなんで探究者なんてやってんだ?」
「――っ」
しばし無言の時間が流れた後。思い出したように尋ねたマリーの一言に、イアリスの歩調が一瞬だけ乱れた。
「んん? あれ、聞かれたくない質問だったか? だったらスマン」
「……いや、別に、そうではない。ただ、少しばかり驚いただけだ」
もしかして、踏み込んではならない部分を突いてしまったのだろうか。
そう思ってマリーが頭を下げると、イアリスは困ったように首を横に振った。初めて見せる色合いの表情であった。
「なぜ、急にそんなことを?」
「深い意味なんてねえよ。ただ、ほらさあ、お前って美人だろ」
美人……淀みなく自然に断言されたイアリスは、思わず目を瞬かせる。「私が……美人?」呆然と呟いたイアリスに……マリーは半眼になった。
「お前まさか自分は美人じゃないとか、美人だと思ったことはないとか、寝言ほざくつもりじゃねえだろうな?」
「……いや、そういうつもりはない。ただ、面と向かってそう言われたのは初めてだから、少し驚いただけだ」
ほんのりと赤らんだ頬は、緊張から来るものではないのだろう。
何とも可愛らしい反応に、今度はマリーの方が目を瞬かせた。
「なんだ、お前ってけっこう初心なんだな」
「今まで私に声を掛けてきたやつは、回りくどいというか、遠まわしに褒めてくる者ばかりだったからな。正面からまっすぐ突かれるのは少し照れ臭い」
ふう、と息を吐いたイアリスは、動揺を抑えているのだろう。周囲を見回してモンスターの襲撃を警戒すると、もう一度息を吐く。
そして、しばし無言のままでいた後、「そういえば、最初の質問に答えていなかったな」話を変えるかのようにポツリと呟いた。
「なんで、探究者をやっているか、だったな」
「別に言いたくないなら言わなくてもいいぞ」
「いや、言いたくないわけではないんだが……まあ、言ってしまえば名声だな。金より何より、私は名声が欲しいのだ」
「……へえ、そうか」
「意外に思うか?」
「まあ、多少はな。でも、別に珍しい話でもないし、考えてみたらそこまで驚くことでもねえな……ていうか、その恰好見れば納得する」
名声……その言葉に、マリーはそれ以上何かを言おうとは思わなかった。
なぜ名声を欲するのか、そのことに薄らと興味が湧いたが……マリーは唇を閉じることを選んだ。
「マリー、お前は、なぜ探究者になろうとしたんだ?」
「俺かい? 俺は単純に金の為、生活の為さ」
イアリスからの質問に、マリーは包み隠さず答える。今更隠したところで意味は無いし、生活の為に探究者になる人なんて珍しい話ではない。
「生活の為……か」
何か、考えているのか。ポツリと呟いたイアリスに、「そうだよ」マリーは答えた。
「まあ、他の方法で生活出来たんならそっちでもよかったんだけどな……諸事情により、俺には探究者以外の道が無かったのさ」
実際、この体になってしまった時……マリーに残された道は男娼か探究者か、その二つぐらいしか選択肢が無かった。少なくとも、当時はそれしかないと思っていた。
なにせ、この体になる前から探究者一本で生きてきた身である。
コレ以外の生き方を知らないし、コレ以外に成れる程頭も良くなかったし、頼れる相手もいなかった。そして、身体を売るのだけは嫌だと抗った結果が、今だ。
(……まあ、その結果色々あったけどな)
その言葉は、あえて口に出そうとはしなかった。
不躾な視線に晒されることから始まり、後ろの処女を奪われたり、全身ズタボロの死に掛けになったり、そんなことまで語る必要もないだろう。
……よくよく思い返せば、俺も大概不運な人生を送っている気がする。
これまでの日々を思い返しながら、マリーは己の半生をそう評価する。思わず零れ出た苦笑いを、抑えることなど出来なかった。
「……その道を選んで、後悔したことはあるか?」
恐る恐る、その言葉が似合う言い方で尋ねてきたイアリスに。
「あるよ」
一言、マリーは答えた。
「でも、この道で良かったと思うこともある」
次いで、言葉を付け足した。
「この道を選んだからこそ、手に入れた物が……いや、違うな。手に入れたっていう言い方は間違いだな」
己の思考を整理するように、軽くマリーは首を横に振った。
「この道を選んだからこそ、俺は色々な物を得て、与えられた。なんとなく、俺はそう捉えているよ」
「……与えられた、か」
神妙な面持ちで、イアリスはマリーの言葉を繰り返す。
「……とはいえ、もしかしたら」
けれども、ふと、マリーはあの時に思いを馳せた。
「探究者以外の……違う道が、あったのかも分からんな」
自ら言葉にしてみて、マリーはとんがり帽子のつばを摩る。今にして落ち着いて考えてみれば、他にもいくつか道はあったのかもしれない……そう、思う日が無いと言えば、嘘になる。
もし、あの時マリーが身体を売る道を選んでいたら。
あるいは、運よく別の仕事に就けていたら……『探究者としてのマリー』ではなく、『別の生き方をしているマリー』になっていたのかもしれない。
そうやって過去に思いを馳せていると――
「探究者になる前は、何を目指していたんだ?」
――ポツリと、そう尋ねられた。
「……何を?」
首を傾げて見上げれば、イアリスと視線が交差する。イアリスは、「幼い頃の夢の話だ」そう捕捉した。
「探究者になったのは、選択肢が無かったから。では、それ以前は何を目指していたんだ?」
「……探究者になる、前?」
「そうだ。考えたことぐらい、夢に思ったことぐらいはあるだろう?」
イアリスの瞳にも、声にも、下心は見られない。その質問がある種不躾なモノであるということすら、頭には無いのだろう。純粋な好奇心だけが、イアリスの視線に込められていた。
……夢、か。
その瞳を向けられたマリーは、しばしの間、虚空へと視線を向ける。動揺とまでは行かないが、イアリスから投げかけられた質問に、マリーは知らず知らずのうちに思考の坩堝へと意識を沈ませていった。
夢……夢……俺の……夢……。
グルグルと、その文字が脳裏で回転する。
最初に思い浮かべたのは、美味しい食事であったが、すぐに夢では無く欲求であることに気づいて候補から捨てる。
次に思い浮かべたのは、豪華な家。
だが、広い家に住みたかったのかと言われればそうでもない、という結論を出して、それも候補から捨てる。
次に思い浮かべたのは、女だ。
年齢の幅は広く、誰が見ても美人だと評する女たちが己に跪く光景を夢想し……これも違う、と内心首を横に振る。
思考は記憶を探り、記憶の奥にある思い出を探る。
ドラコと出会う前、ナタリアと戦う前、イシュタリアと出会う前、サララと出会う前……徐々にその手は遡り、マリーがマリーへと成り果てた時を超え、さらにその過去へと遡る。
己の身一つで戦う日々、初めて家を借りて感慨深く涙を流した時、右も左も分からずに恥を晒した時……記憶はさらに遡る……が、そこでマリーは、おや、と首を傾げた。
(……変だな、俺って何時から探究者になろうと思ったんだ?)
探究者を目指そうと思った切っ掛けの部分が、何時まで経っても浮かんでこない。記憶はどんどん過去へと遡り、己がまだ両親の庇護の下に居た時まで潜るが……全く、掠りもしなかった。
――あんまり些細なこと過ぎて、忘れてしまったのだろうか?
考え過ぎて出てきた頭痛を無視して、改めて記憶を探ってみる。しかし、どこを探しても、どれだけ深く潜っても、それらしい記憶は見つからない。
まるで、そこだけぽっかりと穴が開いたかのように、何も捕まえられなかった。
……ひやりと、背筋に冷や汗が流れた……ような気がした。
それと同時に、何となくではあるが……頭の痛みが強くなったような気がして、帽子の上から頭を軽く押さえる。
大きく息を吸って、吐く。
胸中に湧いて出た感情を吐き出すと、「言いたくないなら、言わなくてもいいぞ」勘違いしたイアリスが、申し訳なさそうに頭を掻いた。
それを、マリーは軽く手で制す。不思議そうに首を傾げるイアリスを無視して、マリーはもう一度記憶の奥を探る。
今度は己だけでなく、己との関係があった全ての人達のことも思い浮かべ――。
(――あれ?)
――脳裏を過った違和感。
ソレが手がかりかと思い、過ったソレを追い掛け……そして、絶句した。瞬間、マリーは血の気が引いて行く感覚を、嫌という程に実感した。
(……顔が)
ごくりと、マリーは唾を呑み込む。いつの間にか酷くなっている頭痛。帽子と角度のせいで顔色がうかがえないイアリスの、「……どうした?」心配そうな声が聞こえた……が。
(……思い、出せない……?)
マリーの頭は、それだけで埋め尽くされていた。
(顔だけじゃねえ、輪郭も、声も、名前も、何もかも思い出せねえ……なんでだ、居たっていう記憶はあるのに、そこから先が何も思い出せねえ!?)
瞬間、これまでのモノとは比べ物にならない鋭い痛みが脳裏を走る。思わず顔をしかめたマリーは、それを抑えるかのように指先へ、力を込めた。
堅物だった父親の顔も、気弱な部分があった母親の顔も、身体の弱い幼馴染の少年の顔も、近所に住んでいたお姉さんの顔も、何も思い出せない。
(まさか……いくら何でも、それを忘れることなんてあるのか?)
知らぬ間に早くなっている鼓動の上に、手を当てる。感応するかのように激しさを待つ頭痛に、マリーは歯を食いしばって堪えた。
それらが、居た、という記憶はある。けれども、それ以上が無い。断片的なものはあるのに、それら全てが繋がらない。
まるで、上から貼り付けられたかのように、全てが薄っぺらいハリボテのようだ。
――何か、覚えていることがあるはずだ。
朦朧とする意識の中、マリーはさらに記憶の奥へと潜り続け、抵抗するかのように酷くなる頭痛を、必死で堪える。
心臓の鼓動が、さらに早くなる。今にも爆発するのかと思わんばかりに鼓動を繰り返す。冷や汗が止まらない……寒気も、だ。
いつの間にか足を止めたマリーは、それでも記憶を探るのを止め――。
『おはよう、――――』
――っ!?
その言葉が、その声が、脳裏を過った瞬間。頭部が引き千切られたかと錯覚する程の激痛に、マリーはとうとうその場に膝を付いた。
『どうやら、今日は――――大丈夫のようね』
こみ上げてきた感覚に任せて、ぐおぇ、と胃液を吐き出す。誰かの声が聞こえたような気がしたが、マリーの意識はソレに全て向けられていた。
『さあ――――実験――――私の為に――――』
意識が霞む。暗転する視界の中、ブツリと目の前の光景が切り替わっては、また戻るを繰り返す。その切り替わった光景という名の幻覚に、マリーは目を向ける。
『よくやったわ――――ついに――――完成した――――』
何かが、話をしている。人なのか、そうでないのか、とにかく幾つもの影が、一つの影を取り囲んで話をしている……いや、それは、会話というより独り言に近かった。
『長かった――――ついに――――始める――――』
なにせ、話しているのは取り囲む影だけ。囲まれた影は、語りかける影たちに頷くことしかしていない。何とも奇妙な光景だ。
『全てを――――あなたは――――失われる――――』
『けれども――――全ての――――同じ――――』
『たどり着ける――――大丈夫――――あなたなら――――』
一方的に告げていく影たちの言葉に合わせて、徐々に、徐々に、頷いている方の影の輪郭がはっきりしていく。真っ黒だった影は少しずつ色合いを取り戻し、その姿をマリーの前に――っ!?
……えっ?
――瞬間、マリーは痛みも吐き気も忘れて、言葉を無くした。
切り替わった幻覚の向こうに映る光景。その先にいる、囲まれた影。見慣れない……始めて見る衣服に身を包んだ、その者の姿は。
『それじゃあ、私はここで待っているわ』
『はい――様』
マリーと、同じ顔をしていた。
その事実に、マリーの喉は引き攣る。これ以上ないぐらいに見開かれた目から涙が零れ、引き攣った喉から悲鳴が飛び出した。
「――りしろ!!」
直後、衝撃が頬を走った。
同時に、スイッチがブツリと切り替わるかのように、視界が切り替わる。
それまであった痛みと吐き気が幻だったかのように収まり、マリーの意識は急速に我を取り戻す……そこで初めて、マリーは眼前にて強張った顔をしているイアリスの姿を認識した。
「……イアリス?」
「……その様子だと、もう大丈夫のようだな」
思い浮かべた言葉を、そのまま口に出す。それを聞いて、ようやくイアリスは安心したのだろう。心から深々とため息を吐くと、そっとアクア・ボトルの口をマリーへ向けた。
「口をゆすげ。それが終わったら、まずはここを出よう」
有無は言わさない。そう言外に告げているかのように、とぽぽ、とボトルから水が零れ落ちる。それをマリーはぼんやりと見つめながら……そっと、ボトルの口に両手を差し出した。
……。
……。
…………あれから、幾しばらく。
茫然自失であったマリーも、水を飲み、休憩をしたら動けるようになっていた。それからマリーとイアリスは、一切の無駄話をすることなく、地上階への道を進んでいた。
マリーは、イアリスに何も言わなかった。
イアリスも、マリーにあえて尋ねはしなかった。
マリーの方は、今しがたの幻覚が何なのかを考えるだけで手一杯であり、イアリスの方は、不用意に尋ねるべきことではないと直感的に察したからであった。
だからこそ、二人は自然と無言のままであった。
そして、そのまま行きよりもいくらか短時間で、地上階へと繋がる通路を進み……広場に入ってすぐに、足を止めた。
「……むむ、行き止まりか」
行き止まりにぶち当たってしまうことは、ダンジョン内においては多々あることだ。
なので、さっさと引き返そうかと思った二人であったが……広場の隅にて固まっている集団を見て、思わず目を瞬かせた。
「……何だと思う?」
首を傾げながらも尋ねられたマリーは、「さあね」と首を傾げた。
「行き止まりで鉢合わせっていうのも、けっこう珍しいな」
ダンジョンの通路は基本的に、迷うような作りにはなっていない。
行き止まりなどは当然あるが、根気よく進めば必ず地下階へと繋がる階段にたどり着く構造となっている。
そういうものだから、ダンジョン内で探究者同士がかち合いやすい場所も、おのずと限られてくる。しかし、休憩するにしても、ここはけして安全とは言い難い。
「……ちょっと行ってみるか?」
マリーの提案に、イアリスは静かに頷いた。
はてさて、何が起こっているのやら……興味を抱いた二人はそそくさと集団へと歩み寄る。集団の一人がそれに気づいて二人を指差し、一斉に視線を向けた。
――途端、集団が安堵したのが二人には見えた。
それに訝しげな視線を向けずにはいられなかった二人だが、ひとまずは残りの距離を駆け寄る。
(……なんだ、学園の生徒じゃないか)
近寄って見れば、それがすぐに分かった。
道理でこちらを見て安堵するわけだ……と思いつつ、とりあえずマリーは一番近い場所に居た男に声を掛けた。
「どうしたんだ?」
「いや、あの、地上への階段が見つからないんだ」
「え、階段が?」
男の話に、二人は首を傾げた。通路の位置が変わったりすることはあるが、階段そのものに変化があったという話は聞いたことがない。
単純に行き止まりではなかろうか。そう思って聞いてみると、「俺たちも最初はそう思ったんだ」男は青ざめた顔で首を横に振った。
「引き返して階段を探してみたんだが、結局はココに戻って来ちまう。確証は言えねえけど、ここらへんに地上への階段があるはずなんだ」
「この場所に、か?」
男から言われて、マリーは広場を見回す。しかし、マリーの目には階段らしきものは何も映らない。イアリスも同様のようで、「階段など、どこにも無いぞ」と、首を傾げている。
「――あ、帰って来たわよ!」
男の後ろに居た一人の女が、マリーたちの後方を指差す。振り返れば、数十人にも及ぶ集団があった。遠目からでも分かるぐらいに落ち込んでいる顔ぶれを見て、マリーの目じりが鋭くなる。
「……むう、あれもうちの生徒だぞ」
目を細めて集団を確認したイアリスに、男が「二手に分かれて調べていたんだ」と説明を入れる。その声に力が入っていなかったのは、戻ってきた人たちの顔色を見たからなのだろう。
「……駄目だ。ここら一帯をしらみつぶしに回ってみたが、どこにも無い。やはり、この広場に階段があったとみて間違いない」
無事に戻れたことに対する軽い挨拶を交わした後、真っ先に青ざめた顔で話を切り出したのは、薄汚れた鎧を見に纏った髭面の男であった。
「しかし、この広場には階段はおろか、それらしきものは何も無いぞ。良く探したのか?」
「探したよ……でも、本当に無いんだ。階段は、無い。どこにも、見当たらない……どうなっているんだ……」
強い不安を感じているのだろう。
落ち着きなく辺りを見回す髭面の男の姿に、辛うじて平静を保っていた他の生徒たちにも動揺が伝染し始めている。
それは『妖精』とて例外ではないようで、彼女もまた不安そうに瞬きを繰り返し、唇を噛み締めていた。
……名門であるユーヴァルダン学園の生徒とはいえ、彼らはまだ若い。
地上への出口を見失うという異常事態を前に、全員が何をするでもなく右往左往するばかりであった。
「――他には、何か無かったのかい?」
ただ一人、マリー・アレクサンドリアを除いて。
(……くそ、頭の芯の痺れた感覚は、まだ残ったままだっていうのに……)
不調を隠しながらも、マリーはそう毒づきたくなった。正直、少しばかり身体が重く、出来ることなら大人しくしておきたいところ。
しかし、狼狽する生徒たちを見やれば、そうも言ってはいられない。今はとにかく行動せざるを得ない状況である事を、嫌でも理解させられる。
……その場に居る全員の視線が、マリーへと向けられた。
けれどもマリーは気にせず「有ったのか?」再度尋ねると、髭面の男は慌てたように記憶を探り……「そ、そういえば」、と手を叩いた。
「モンスターと、一度も遭遇しなかったんだ」
「一度も? 向こうが気付かなかったとかではなくて?」
少しばかり奇妙な話だ。タイミングと運が噛み合えばそういうこともあるのだろうが、なにぶん、彼らの人数は数十人規模だ。
それこそ、たまたま拾ったガラス瓶が札束に化けるよりも確率は低く、幸運で片付けるには些か腑に落ちない。
「いや、遭遇しなかった。だから俺たち、こんなに早く戻って来られたんだ」
髭面の男の言葉に、マリーはふと思い返す。
そういえば、己が動けなくなっていた時もモンスターに襲われることはなかったなあ……と。
イアリスに尋ねてみれば、「そういえば、あの時は襲われなかったな」そんな返事をされた。気配も、その時は全く感じなかったらしい。
(……もしかすると?)
脳裏に浮かんだ『女』の姿に、マリーは思考を巡らせる。
どうやったのかは検討もつかないが、何かしら関係している可能性はあるのかもしれない……そう、マリーは推測する。
(……一度目に現れたあいつは、俺を死なせない為に最低限の力を授けた。二度目に現れたあいつは、俺の為に出来うる限りの助言を授けた……そして、今のこの状況……何かしらの意図がある――っ!?)
何気なく辺りを見回したマリーの目が、大きく見開かれた。それに気づいたイアリスたちもそちらへ視線を向け……マリーと同じく、目を見開いて絶句した。
――いつの間にか、であった。
何かが、広間の中央に、一目で異形だと分かる外見のそいつが、悠然と佇んでいた。
マリーたちは反射的に武器を構えるが……その視線には、困惑の色が多分に含まれていた。
そいつは、何とも異質であった。筋骨隆々の女の上半身に、下半身は獣のそれ。幾つも伸びた鋭き角、ゆるやかに振られる尻尾……初めて相対する化け物であった。
(……ただのモンスターじゃねえな)
その姿を見て、マリーはドラコのことを思い出す。しかし、すぐにマリーは違うと判断した。
眼前にて佇むそいつから感じ取れる何かが、亜人とは違っていて、おそらくモンスターとも違う……そう、マリーは直感した。
「――はぐれ者」
ポツリと、生徒の一人が呟く。
けれども当の『はぐれ者』は、武器を構える生徒たちなど、眼中には無い……そう言わんばかりに、そいつはマリーたちに一瞥をくれると、とん、と地面を蹴って……通路の向こうへと消えた。
……逃げた?
そう、誰かが呟く。引き返してくる可能性にしばし身構えていたが……何時まで経っても、戻って来る気配は……それが合図となって気が抜けるのを、生徒たちは抑えられなかった。
「何だったんだ、今のは?」
「はぐれ者だろ。しかし、はぐれ者って初めて見たぞ」
「でも、前に噂に上がっていたやつとは全然姿が違うわよ」
「どうだっていい。それよりも、これからどうするかだ」
口々に話し合いを始める生徒たち。まるで、統一性が無い。人数による余裕もあるのだろうが、中には煙草らしきものを取り出す者もおり……この場にあった僅かな緊張感すら、欠片も残さず霧散してしまった。
……いや、違う。
緊張感が霧散したのではなく、押し寄せてくる不安から目を逸らしたいだけだ。その証拠に、彼らは冷静に話し合っているように見えるが……その内容は、てんでバラバラなことを話し合っていた。
「……アレが何か、知っているか?」
……その中でも、辛うじて。意識をそのままにしていたイアリスが、油断なく辺りを見回す。
同じく気を緩めていないマリーも、同様に辺りを見回し……何気なく足元へと視線を向けた瞬間、マリーは反射的に叫んでいた。
「お前ら、今すぐここから――」
だが、遅かった。
そして、マリーは判断を誤ってしまった。
この場合、生徒たちなどに気を配らす、傍のイアリスを引っ張って脱出すれば良かったのだ。
マリーが見たのは、いつの間にか地面に出現していた、その場にいる全員を囲う程の巨大な魔術陣。
素人であるマリーにも分かるぐらいの、複雑な魔術文字式が彫り込まれた、巨大な石床。
何時の間にそこにあったのか、それとも初めからそこにあったのか。
それすら考えることも出来ない刹那の瞬間、魔術文字式に光が灯る。
「――えっ?」
生徒たちの呆気に取られた声と共に、閃光が如き光を放った魔術陣の後に残されたのは……何も無い虚空。時間にして、瞬きにも満たない出来事であった。
そして、その直後に地響きと共に壁の一部が崩れだし……階段が顔を覗かせたのは、マリーを含めたその場の全員がその場所から姿を消してから……わずか、数十秒後のことであった。
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