第二話: 極寒の洗礼

※暴力的な表現有り、注意要




 ―――――地下15階―――――




 地下11階に降り立ったマリーたちを真っ先に迎えたのは、白、白、白、白、白。極寒の世界とも称されるそれらの階層は、これまでの道中とは打って変わって過酷な世界となっていた。



『氷園の白世界』



 それは、マリーたちが足を踏み入れた地下11階より下を差す通称である。


 その名のわけは、地面だけでなく壁や天井すらも雪と氷で覆われているからだろうか。


 ウィッチ・ローザの明かりを最大限に反射していることもあって、白世界と称されているように、辺りは日の差した昼間のように明るかった。



 ……とはいえ、だ。



 明るいとはいえ、気温は非常に低い。念には念をと持ってきていた耐寒装備が無ければ、5分と活動出来ない程の冷気で満たされている。


 おそらく、自然に冷えているわけではない……明るい分だけ気は楽になるが、そんなものなど物の数にならないぐらいに、ここの環境は過酷であった。


 踏み出した足が、さく、さく、と雪面に跡を付けるようになってから2階分下りた、今。絶えずしんしんと降り積もり続けている雪が、一面の白世界をさらに分厚く塗り重ねていた。



 ほう……と。



 マフラー越しに吐かれた息が、静まり返ったこの世界の中へと溶けてゆく。


 呼吸はゆっくりと、それでいて浅く、胸の奥まで吸い込まないように気を付ける。


 誰に習ったわけでもないその呼吸法は、この環境に適応せんが為に生み出したもの……マフラーに張り付いた霜に、努力の影がちらほらと見られた。



「……起きているか、二人とも」



 俯いていた顔をあげたマリーは、のそりと二人を見やる。その声には力が無く、聞かれた方が思わず心配してしまうぐらいに頼りなかった……のだが。



「……起きているよ」

「……ね、眠く、ない……ぞ」



 返事をしたサララとドラコも、似たようなものであった。特にドラコに至っては、聞き逃してしまいそうなぐらいにか細いだけでなく、今にも消え入りそうであった。



「……お前、半分白目向いているが、大丈夫か?」



 あまりに頼りない返事にマリーは頬を引き攣らせる……気力も無く、白い湯気が立ちのぼる。



「――ほら、ドラコ、目を開けて」



 サララも寒いのを我慢して、槍の柄でドラコを小突くが、「ら、らいひょう……ぶ……」その程度では全く効果がなかった。



「起きてる……起きてる……起きて……おき……おき……」



 異常な眠気が込み上げてくる。


 そうドラコが口走ってから、おおよそ一時間程。そろそろ、限界が近いのかもしれない。



「――寝るな馬鹿! いくらお前でも死ぬぞ!」



 それに慌てたマリーの拳が、ドラコの腹部に叩き込まれる。常人なら悶絶必至の威力だが、竜人であるドラコにとっては気付け代わりになる。



「……、……、……」



 ――だが、しかし、それでもどうにもならないぐらいに眠気が強いのだろう。



 ふらふらと覚束ない足取りに加え、その身体は右に左に、前に後ろに、今にも倒れそうになっている。重力に押し負けている瞼はピクピクと痙攣し、今にも寝息を立てそうな有様であった。



「尻尾と翼を動かして。それなら少しは頭を使うし、気も紛れるでしょ」



 サララの言葉を聞いて、ドラコは支離滅裂な返答と共に特注のファイア・マントに包まれた尾や翼を動かす。


 途端、マントの表面に張り付いていた薄氷がパリパリと弾けながら、ぐりんぐりんと蠢いた。


 この極寒の中、「――寒さ自体は我慢出来る」と言っていただけあって、寒さに関してはあまり堪えていなようなのが、せめてもの救いであった。



「あ、動くのを止めちゃ駄目! 眠っちゃうでしょ!」



 しかし、油断するとすぐに、眠気への抵抗を止めてしまう。繰り返されるサララの怒声に、一瞬ばかりドラコの目も覚める。


 だが、またすぐに、かくん、かくん、と船を漕ぎ始めるドラコの様子に、マリーは白い湯気を立ち昇らせながら通路の先を見つめる。


 しかし、その先に見えている光景が相も変わらず同じものであることが分かり……軽く、舌打ちをした。



(想定外だな……まさか、ドラコが最初にこうなるとは……)



 地下11階に降り立った直後はまだ、ドラコも軽口を零せるだけの余裕はあった。雪の深さもそこまで気にするほどではなかったし、防寒にさえ気を付けていれば、それでも十分だと口にしていた。


 だが、しかし……地下11階の中を進むにつれて、そうもいかなくなった。


 地下12階へ降りた頃からドラコが強い眠気を訴えるようになり、そこからさらに地下13階への階段にたどり着いた時には、ほとんどまともに話せない状態になっていた。



(なんとか気力だけで地下15階までは下りられたが……階を降りるごとに寒さも増している気がするし、早いところ階段を見付けねえとこちらも持たなくなるぞ)



 もしかしたら、ドラコの……竜人は、ある程度の寒さを感じると、こうなるのだろうか……確証はない。


 だが、可能性は高いだろうとマリーは判断する。



(それにしても、『氷園の白世界』か……ここまで苦しめられるとはな)



 ダンジョンに関しての資料は、事前に手に入るだけ集めてはいた。


 役所が提示してくれるものを始め、噂話に至るまで、とにかく様々な情報を集めてはいた。防寒・耐寒装備も万全……の、つもりであった。



(まさか、ファイア・マント越しですら凍えるとはな……この手袋ですら冷たく感じるとは、夢にも思わなかったぜ)



 問題なのは、事前に得た資料と現実の状況が違い過ぎていたこと。


 つまり、マリーたちが想定していた以上に、『氷園の白世界』は寒すぎた。先人たちは本当に地下14階まで降りることが出来たのかを疑うぐらいに。



 なにせ、アクア・ボトルから出した水が外気に触れた瞬間、ものの十数秒程で凍ってしまう程の寒さである。



 ビッグ・ポケット等の中に入っている間は大丈夫だが、取り出した傍から凍り付いてしまうのだから結局は同じ。というか、唇が張り付いてしまい、飲むだけでも注意がいる。


 また、あまりに外気温が低すぎるせいで、ライター・セットが上手く作動しない。


 しかも安定して動かない上に、エネルギー・ボトルの消費量も通常の倍以上であり、さらには温めた傍から冷めるのを通り越して瞬く間に凍ってしまう。


 ならば、と、ビスケットを取り出しても同様に凍りつく。


 こうなればとオシッコを掛けて溶かそうともしたが、それも結果は同じ。


 黄色い氷柱と薄膜が出来ただけであり、貴重な食料を一つ駄目にしてしまった。加えて、前を広げたことで若干の霜焼けになりかけてしまった。



 ……これは、マズイ。普通の寒さではない。



 降り積もった雪で唇を湿らせることは出来ても、それ以上に体力の消耗が激しい。今はまだ気を張っているから耐えていられるが、喉の渇きと空腹は嫌が応にもマリーたちを苦しめた。



「とにかく足だけでも動かせ。サララ、お前は左を引っ張れ。俺は右を引っ張る」

「分かった。ほら、ドラコ、頑張って歩いて。もうすぐ階段にたどり着けるから」



 とにかく、速く階段へと辿り着かなければこちらも危ない。


 階段の中なら雪も入り込まないし、一時的にではあるが暖を取ることが出来る。そして、少量でも何かを口に入れることも出来る。


 サララと並んでドラコの手を引っ張りながら……マリーは、『寒さ』というものが見せた本当の牙を前に、己の見通しの甘さを酷く痛感していた。


 マリーは、集めた資料を元に準備をした。耐寒体熱装備を始めとして、あらゆる状況を想定して出来るだけの用意を行った。


 その上で、全てが想定以上だったのだ……しかし、それでマリーを責めるのは些か酷な話であった。


 なにせ、真冬の『東京』ですら氷点下を少し下回る程度。マイナス二桁台の気温を体感したこと自体が初めてであり、雪の本当の厄介さに触れたのも今回が初めてである。



 それなのに相応の準備をしろというのが、無茶だったのだ。



 慣れない環境というのは、ただそこに居るだけでも相当な体力を消耗する。未だモンスターの襲撃を受けていないのが不幸中の幸いだが、今ここでモンスターの襲撃を受けようものなら……想像すらしたくなかった。



「――ドラコ、まだ起きてるか!」

「……っ」

「よし、起きてるな! 寝るなよ! いいか、寝るんじゃないぞ!」



 そうやって自らを鼓舞しながら、3人はゆっくりと、確実に前へと進む……とにかく、降り積もった雪が厄介だった。殺意すら覚える程に。


 移動するにしても、何をするにしても邪魔になる。


 似たような状況を想定して専用の靴を履いているというのに、踏み出した足は例外なく膝の辺りまで沈み、それが切れ間なく延々と続いている。


 しかも、場所によって深い部分もあり、足を取られた体勢を崩した回数は両手の指よりも多い。滑りやすい部分もあるようだが、雪が邪魔をして外からは確認出来ない。


 たった十数メートルを進むだけで……さらに厳しさを増していると思われる雪と寒さ……状況は、刻一刻と悪くなっていた。



 ふっ、ふっ、ふっ。



 白い靄が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。吐く息は傍から凍りつき、まつ毛や眉毛はもちろん、ファイア・マントのフードから零れた髪は真っ白に凍りついていた。


 一歩、また一歩と、歩を進める3人……辺りは、静寂に押し潰されてしまいそうな程に、静かであった。


 自らの心臓の鼓動音を感じ取れる程なのに、痛みすら伴うほどに耳鳴りは喧しく、芯まで凍り付く寒さも相まって、声を出すことすら億劫に思えてくる。


 止むことなく降り続けている、雪。風は、ない。ただ静かに、それでいて優しく、雪だけが動いて、しんしんと降り積もっている。この雪が、音を消してしまっているのかもしれない。


 土の中だというのに大粒のそれらは雪面へ同化していく……なのに、降り積もった雪は常に一定の深さを保ち続けている。不思議なことに、積もった雪が自重で固まる様子もない。



 だからこそ、余計に厄介なのだ。



 いっそのこと氷のように固まってしまえば、拳で破壊しながらさっさと進められる。


 しかし、降り積もった雪は水のように異物を呑み込み、舞い上がれば視界全てを覆い隠す壁となる。


 一度無理やり行こうとしてしばしの立ち往生を余儀なくされたマリーたちにとって、強行突破は悪手以外の何者でもなかった。






 ……。


 ……。


 …………いったい、どれだけの時間が経ったのだろうか。



 足を止めたら最期と言わんばかりに無心のままに進むこと、幾しばらく。


 通路の中を進む中、掛け合っていた声もすっかり鳴りを潜め、誰も彼もが機械的に足を動かし続け、いくつかの広間に入った……そんな時であった。



「――マリー!」



 サララの歓声が、辺りに響いたのは。


 弾かれるようにして顔をあげたマリーは、サララが指差す方向へと目を凝らし……思わず、ため息を零した。



 そこには、群れのボスらしき1頭の巨大な獣と、それに従う7頭の獣たちが居た。



 雪のように白い体毛を携えたそいつらは、まるで待ち構えていたかのように、『雪の上で』平然と佇んでいる。


 唸り声をあげるわけでもなく、威嚇するわけでもなく、ただ静かに。


 遠目からでもはっきりと感じ取れる、仄暗い殺気を立ち昇らせながら……その後ろにある階段を誇示するかのように、尻尾をゆらゆらとくねらせていた。



 ――その獣の名は、『スプラット・ウルフ』。氷園の番人とも称されるその獣たちはランター・ウルフの上位的モンスターとも言われている。



 『鬼人』と『聖女』以外の数多の先陣たちが『氷園の白世界』より下へ潜ることが出来ない最たる壁、それが彼らであった。



 ……恐れていた事態が、ついに起きてしまった。



「ドラコ、敵だ、起きろよ」



 獣たちを刺激しないように注意しながら、マリーはドラコを庇うように立ち塞がった。その横で、サララは槍にこびり付いていた雪を振り払い、動き辛そうにしながらも槍を構えた。


 ……それを見て、ボスである巨獣を除いた獣たちが一斉に立ち上がる。


 ゆらり、ゆらり、尻尾を揺らしながら、7頭はゆっくりと歩み寄り始め……足を、止める。次いで、その中の4頭がその場で前傾姿勢を取り……動かなくなった。


 その後ろに、残った3頭が控える。けれども、その3頭はただ控えているわけではない。油断なく鼻を鳴らし、音を拾い、ガラス玉のような瞳で……ジッと、マリーたちを見据えていた。



(――いやらしい手を使ってきやがる)



 その布陣を見て、率直に二人はそう思った。


 いち早く状況に気づいたサララが槍を振るって挑発するだけでなく、マリーも危険を承知の上で距離を詰める……が、スプラット・ウルフたちは『待ち』の体勢を崩さなかった。



(この状況……かなりまずい)



 思わず、マリーは舌打ちをした。せずにはおられなかった。



(動かざるを得ない状況が来るまで動く気はない……か。本能でそうしているのか、それとも偶然か……的確にこちらが嫌がる戦法を取りやがった)



 氷園の番人の渾名は、伊達ではない……ということなのだろう。


 数の点でもそうだが、片や慣れない環境に消耗して、片や万全の状態だ。そのうえ、今のマリーたちは本来の動きの半分もまともに出せないばかりか、地の利は完全に相手にあった。


 しかも、マリーたち側はただ立っているだけでどんどん体力と気力を消耗していくのに対し、相手はほとんどそれがない。


 このまま持久戦に持ち込まれれば、先に動けなくなるのはマリーたち。そして、その後に待っているのは……確実な死だ。



「サララ」

「――気を付けて」



 それが分かったマリーは、サララを傍まで下がらせた。


 そして、サララの警戒を邪魔しないように気を付けながら、雪を拾っては握り固め……ようとしたのだが。



(……やっぱり駄目か)



 掴んだ雪は、ポロポロと砕けて落ちる。


 ならば、そう思って両手で作ってみる……が、結果は同じであった。多少なりとも形にはなるが、これでは牽制にすら使えない。


 せめて氷ならば……いや、それも駄目だ。辛うじて投げつけられるだけの耐久力はあるだろうが、それでも強度は脆く、この足場の悪さではまともに当てることも出来ないだろう。



(俺もそうだが、サララも疲れを隠せなくなってきているし……ドラコも、このままでは……)



 チラリと、マリーはサララを見やる。平気な顔を装ってはいるが、サララもかなり消耗している。


 なのに、それを億尾にも出さずに闘志を漲らせることが出来るだけでも大したものだが……。



(……多少の消耗と危険は、やむおえん……か)



 しばしの逡巡の後、そう判断したマリーはおもむろに魔力を練り上げる。



「サララ、あいつらが襲ってきたら、俺が体勢を整えるまででいい。持ち堪えてくれ」

「――マリー、それは……」



 思わず、サララは待ったを掛ける。確かに、変身したマリーの力は無双の一言だ。スプラット・ウルフたちが束になろうとも、息一つ乱さずに瞬殺してしまうだろう。


 だが、欠点も多い。


 変身途中の隙もそうだが、何よりも体力の多大な消耗が……しかし、サララが意を唱えたのはそこまでであった。マフラーの奥で悔しそうに唇を噛み締めながらも、状況がそれを許さないことを理解したのだろう。



「……分かった」



 絞り出したその声には、自身に対する不甲斐なさが満ちていた。



「でも、無理はしないで」

「大丈夫、ほんの一瞬の間だけだ」



 そうマリーが笑みを浮かべた直後、その身体は光を放った。


 ビクッと総身を震わせる獣たちと、槍を構えるサララ。一触即発の極寒の空気の中、もこもこと経ち籠る濃霧がマリーの身体を覆い隠す――その瞬間に、全てが動き出した。



 ――それは、閃光が如き一瞬の出来事であった。



 ぱしゃん、と粉雪を蹴飛ばした獣は、軽やかに雪の上を跳ねる。


 その数、四つ。


 まるで空を貫く矢のように雪上を滑空したウルフは、足場の悪さを全く感じさせない動きで一気にサララへと迫った――と同時に。


 後ろで控えていた3頭が、ぼう、と吠えた。



 ――途端、迎撃しようと構えていたサララの眼前が弾け……視界全てが、雪で真っ白に染まった。



 それは遺伝子に刻まれたと言っても過言ではない、彼らの狩りの手法であった。と、同時に、それはかつてこの地を訪れた探究者たちを窮地に陥れた、スプラット・ウルフ特有の戦法でもあった。


 先兵である4頭が、まずは突撃する。それに相手が気付かなかったらそのまま攻撃し、相手の前列を崩す。


 身構えたら、後ろに控えた3頭が目くらましを行い、混乱に乗じて4頭が死角から攻撃する。


 これまで幾人もの命を刈り取ってきた白い影が、これまでと同じようにその首を噛み切ろうと飛び掛かる……のだが。



「――ぬん!」



 結果は、これまでと同じようにはいかなかった。


 凍えきった空気を切り裂く、サララの気合の一閃。


 それは視界を覆い尽くそうとしていた白雪を振り払い、不可視の斬撃となって迫り来る四頭の身体を切り裂いた。



 ――浅い!



 鮮血を飛び散らせながらも素早く反転して着地した4頭を前に、サララは舌打ちをする。


 さすがは番人というべきか。堪えた様子もなく、再度粉雪を撒き散らして迫る獣たちを前に、こぉ、と気功を練り上げたサララの槍が。



 “地走り”!



 ひゅん、と空を切り裂いた。


 一拍遅れてひと筋の線が積雪の上に跡を残す……直後、血飛沫が舞うよりも早く1頭の身体が真っ二つに分かれて、雪の上を転がった。


 『グングニル』によって飛躍的に威力が増した一撃は、スプラット・ウルフですら悲鳴をあげる間もなく絶命に至らしめたのだ。



 ――ごぁ!



 咆哮と共に再び、サララの足元の雪が破裂する。その勢いに思わず手で庇うサララの眼前は、またしても飛び散る雪の壁が遮っていた。



「――っ!」



 そう、仕留めたのは、まだ1頭だけである。


 白い壁の向こうに隠れた残りの3頭を前に、サララは淀みなく流れるような動きで槍を背中と腕で挟むように構えると、半ば強引に腰を落とし――。



 “暴れ昇竜”!



 立ち上がりながら上半身の捻りを駆使した、薙ぎ払い。


 すぱん、と積雪ごと凍り付いていた地面をも跳ね上げる斬撃が、最も接近していた一頭の身体を引き裂き、他の二体をも呑み込む……サララはぐらりと体勢を崩して手を付いた。



 ――しまった!



 そう考えたときには、もう遅かった。


 慌ててサララは立ち上がる……のと同時に、二頭がサララの横を駆け抜ける。そして、その巨体は雪を削りながら反転し……爛々と仄暗く輝く眼光が靄に包まれたマリーを捉える。


 そこは、マリーの身体が邪魔になる……サララが危惧していた位置だった。そして、これこそが狙いだと言わんばかりに殺意を漲らせた一頭が、いち早くマリーへと――。



「――がぁ!」



 飛び掛かろうとした獣のよこっ腹に、目を覚ましたドラコが体当たりした。


 もつれるようにして竜人と獣が雪の上を転がり、のた打ち回る。ドラコの行動は獣にとって想定外だったのか、思わずと言った調子でマリーへの攻撃を止めた。


 それは、致命的な隙であった。


 牙をむく獣ともみ合いになりながら隙間を縫うようにして放たれたドラコの轟炎が、動揺していた獣を呑み込む。ぽう、と辺りが山吹色に明るくなると同時に、火だるまになった獣が雪の上を転がった……のだが。


 場所が、悪かった。


 焼けたのは分厚い毛皮だけであり、降り積もった雪が火を消してしまった。たいして堪えた様子も無く起き上がったその獣は、再び靄の中に居るマリーに狙いを定めた。



 ――ぞわりと、サララの背筋に怖気が走った。



 守らなければ、私が、マリーを守らなければ。そうサララが声なき悲鳴をあげた……直後、ぼん、とサララの目の前で雪が弾け舞い、白色の壁がサララを阻んだ。



 ――ああああっ!



 雄叫びが、極寒の世界に木霊する。マリーの喉に食い込む獣たちの爪と牙……それを想像した瞬間、もうサララの頭は冷静さを失っていた。


 だからこそ、悪手だと分かっていながらも、サララは構わず雪壁の向こうに居るであろう一頭に狙いを定め……『グングニル』を、投げた。


 しゅん、と舞い散る雪の隙間を潜るようにして走る、ひと筋。


 それは寸分の狂いもなく目標へと迫り、ぱしゅ、と飛び散る鮮血と共に飛び掛かった一頭が雪の上を転がった――瞬間。



「――がはっ!?」



 凄まじい衝撃と激痛が、サララを襲った。連なる熱が背中を斜めに走るのを自覚すると同時に、サララは雪の中へ叩きつけられる。強かに打ちつけられた雪の冷たさが、辛うじて気絶をさせなかった。



 ――息が、詰まる。声が、出ない。熱が、更なる激痛に変わる。



 痛みを伴う怖気に歯を食いしばりながら、サララは無我夢中で反転し――振り下ろされていた獣の腕を、寸でのところで受け止め……絶句した。


 サララを見下ろしていたのは、先ほどサララが放った『暴れ昇竜』によって深手を負ったスプラット・ウルフであった。


 真っ白な体毛は真っ赤に濡れて凍りつき、至る所に裂傷が見られる。左目に至っては眼球が潰れて体液が滴っており、粘液と共に眼孔から零れ落ちていた。



 ――ごああ!!



 手負いというにはあまりに深手の傷。普通なら即座に息絶えてもおかしくないダメージ……なのに、獣は己の死に怯えることもなく、咆哮と共に大口を開け――閉じた。



「――っ!」



 がちん、と牙が噛み合う音をサララははっきりと聞いた。ギリギリのところで避けたサララの耳に、血の臭いが混じった生臭い熱気が、ふしゅう、と吹きかかった――直後、獣の猛攻が始まった。


 右、左、左、右、左、右、右、右、左、右、左……爪が、牙が、サララの顔面を、体を、足を、切り裂こうと雪を掻き毟っていく。


 そのたびにファイア・マントが残照のように飛び散る中、サララは血まみれの手足で懸命に捌き続ける。


 手足の感覚は、既に無い。痛みすら感じなくなっている手足はただただ重く、鈍く、脳天まで響く痺れが息を詰まらせる。凍りつく血と皮の、ぺりぺりと剥がれる音が嫌に頭に響く。


 破けたマントは、既に防寒機能を失っていた。その下の防寒着も破れ、ワイヤー・サポーターにも寒気が浸み込んでくる。骨の髄まで突き刺さる極寒は、サララの身体から瞬く間に体温を奪っていく。


 まるで、背骨の中に氷を詰められたかのような錯覚を、サララは覚える。徐々に、動きに陰りが見え始めているのを、サララは自覚していた。


 まともに力の入らない手足を必死に駆使して捌き続けるが……このままでは、いずれ殺される。



 ――ごあっ!


「――っ!?」



 目の前の獣ではない、離れた所から聞こえてきた雄叫びに、サララの喉がひゅう、と音を立てる。


 猛攻を捌きながらもほんの一瞬、そちらへ視線を送ったサララは……こちらへと悠然と歩み寄って来ている3頭に、愕然とした。



 ――死の予感が、死への恐怖が、明確に脳裏を過った。



 このままでは、マリーを守りきれない……それを改めて思った瞬間、サララの頭から全てが消え――気づけばサララは立ち上がっており、サララを襲っていた獣は雪の上を転がっていた。



 ――何が起こったのかは分からない。



 けれども、背後から伝わる温もりとその気配を理解した瞬間……サララの意識は、フッと暗闇の向こうへと消えた。






 ……。


 ……。


 …………冷え切ったサララの身体を、己のファイア・マントで包み込む。



 すぐには温まらないが、それでもないよりははるかにマシだ。サララの身体を、変身を終えたマリーは優しく抱き抱え……悠然と、歩き始めた。



 振り続ける雪と冷気が、マリーの肌を撫でていく。なのに、何故だろうか。マリーの身体も、手足も、髪の毛すら、凍りつく様子が見られなかった。



 ――痛みを覚える程に冷えた雪の中に、どす、どす、とマリーは平然な顔をして足跡を残していく。



 ほう、と吐かれた吐息が凍りつく中を、まるで堪えた様子を見せないその姿に……迫ろうとしていた3頭が、足を止めた。


 獣たちの顔に動揺の色はなかった。だが、彼らは強い危機感を覚えていた。


 自分たちが束になっても敵わない……どんな戦法を使っても勝負にすらならない存在を前にしているのだということを、この瞬間に理解していたからであった。



「――大丈夫か、ドラコ」

「……あ、ああ、大丈夫だ」



 例えマリーが、彼らに対して背を向けていたとしても、「しかし、とにかく眠い……どうしても、我慢出来ない」いつの間にか回収していた『グングニル』を杖代わりにして立ち上がるドラコを気遣っている最中でも……彼らは、マリーの首に噛みつく光景を想像することが微塵も出来なかった。



「ドラコ、俺の背中に乗れ。お前ももう限界だろう……何をするにしても、ここを抜けないとどうにもならん、サララを一刻も早く手当しないと……」



 その言葉に、ドラコは深々とため息を吐いた。



「……情けない。まさか私が足を引っ張ることになろうとはな」



 だが、拒否はしなかった。『グングニル』の刃に気を付けながら、言われるがまま抱き着くようにしてマリーの背中に飛び乗ったドラコは、一言頭を下げた後……マリーの肩口に顔を埋め、そのまま寝息を立て始めた。



(……地下15階にして、満身創痍……か。目覚まし代わりの洗礼にしては、ずいぶんと重すぎだろ、おい……)



 その温もりを感じながら、マリーは内心ため息を吐いた。


 と、同時に、マリーは心の中にあった『ダンジョン』に対する己の慢心を戒め……おもむろに、獣たちへと振り返った。



 ――瞬間、ボスである一頭を除いた3頭の肩が、びくんと跳ねた。



 それに構わずマリーが歩を進めた直後、彼らはこれまでとは打って変わって尻尾を丸めて反転し……巨獣の傍へと駆け寄った。



 ……ボスである巨獣に睨まれても、震えるばかりで動く気配を見せない。



 軽く唸り声をあげてもなお、震えるばかりの3頭……それを見て、巨獣は何を思ったのだろうか……無言のままにのそりと立ち上がった。


 寝そべっている時点でも分かっていたが、やはりそのボスは他と比べて明らかに巨大であった。


 生物兵器や『神獣』と比べれば蟻のように小さいが、それでもその身体は並みよりははるかに大きく、人一人ぐらいなら軽く丸のみ出来る程であった。



 ……水晶のように透き通った黒い瞳が、マリーを見下ろす。



 その目を見て、何故だろうか……自然と、マリーも巨獣の前で立ち止まった。頭の中で急き立てる声がしたが、気付けばマリーの足は止まることを選択していた。



「…………」

「…………」



 時間にすればほんの十数秒ぐらいのことであった。


 黙ってマリーを見下ろしていた巨獣は不意にマリーから視線を逸らすと、のそりと巨体を揺らして……道を開けた。


 その先には、マリーたちが目指していた……地下へと続く階段があった。



「…………」



 無言のままにマリーは巨獣から視線を逸らすと、階段へと歩き始めた。


 サララの落とし前をつけてやろうという気持ちは確かにあったが、今は自分の気持ちよりもサララのことだ。


 そう判断したマリーは、ボスと彼らに対して警戒を続けながらも急いで階段へと――。



『哀れなり、受け継ぐ者よ。己が生まれた理由すら知らず、『彼女』が強いた運命に操られるか……そうまでして長き苦難の道へ進むのならば、もう我は止めぬ』



 ――踏み入れた足が、ピタリと止まった。



 振り返ったマリーが見たものは……己を見つめる、巨獣の澄んだ瞳であった。



『出来うるのならば、お前をここで楽にさせたかった。人間として振る舞うお前は、人間としてその生を終えるべきだったのだ。その娘と共に、ちっぽけで、儚い生涯を送るべきだったのだ』

「……どういう意味だ?」

『滅びは、万物に訪れる絶対真理。何人もその真理から逃れることは叶わない。我も、『彼女』も、何時かは朽ちて滅びる存在……流転こそ万物の定めなのだ』

「…………」

『忘却を恐れた『彼女』はもはや、この世界を律する調停者ではない。ただただ怯え狂った哀れな存在でしかなく……だからこそ『彼女』は滅びを受け入れられなかったのかもしれない』

「……お前は、俺が何者なのかを知っているのか?」

『知っているとも。だが、ここでお前に伝えたところで我に利はなく、既に入口は固く閉ざされた。お前にはもう、『彼女』の元へ向かうほか道はないのだ』



 言われて、マリーはしばし目を瞬かせ……大きく目を見開いた。振り返って、今しがた通って来た先を見やり……ギリギリと、奥歯を噛み締めた。



『……そこの階段の途中にある広場の壁を探れ。よくよく目を凝らせば、少しばかり色の変わった部分がある。そこを壊せば、お前たちの言う『隠し部屋』があり……『アイテム』は無いが、そこに傷を癒す暖かな泉が湧いている』


「えっ」



 ハッと、マリーは顔をあげた。



『その娘を助けたいのであれば、その泉に娘を浸せ。死んでさえいなければ、それで治る。そこの竜人も、身体さえ温めれば本来の力を取り戻すだろう……完全に冬眠に入る前に、身体を温めてやるのだな』



 そう言うと、『我を殺すのであれば、好きにするがいい。もう、我は飽きる程に生を堪能した』巨獣は寝そべりながら億劫そうに眼を瞑った。



『来る日も来る日も、ここは変わらない。延々と同じ景色だけが続き、昨日と同じ今日が繰り返される。お前が来たということは、すなわち我の役目は終わったということ……ならばもう、眠ることが許されるということだ』

「…………」

『……我は、あの子が羨ましかった。例えそれが狂乱を招いたとしても、ほんの僅かな時間とはいえ友を作り、愛を与えられ、広い世界を生きたあの子が……な』



 ……その言葉を最後に、巨獣は何も言わなくなった。



 まるで心の臓を止めたかのように動きを止めた巨獣の傍には……残った4頭が寄り添うように、その身を摺り寄せると……静かに、動かなくなった。


 ……しんしんと降り積もる雪。それだけは絶えず、動き続けている。真っ白な体毛に降り積もっていく雪はやがて小山となり、巨獣を完全に覆い尽くすだろう。


 しばしの間、その光景を見つめたマリーは……何も、言わなかった。


 ただ、一度だけ迷いを見せる様に視線をさ迷わせた後……おもむろに、階段を下り始めた。






 現在、地下16階へと続く階段の途中。

 マリー:体力消耗、無傷

 サララ:衰弱、重症

 ドラコ:冬眠成り掛け、軽傷

 『鬼人』と『聖女』の最終到達階:地下54階(非公式)

 マリーたちが目指す最下層まで、後――。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る