エピローグ

 ※暴力的な描写あり、注意要






 ――より良い報告をしておくから、君たちは安心していてくれ。



 そう言って学園に戻って行った源を見送ってから、まだ24時間も経っていない御昼過ぎ。


 館の女たちからの、慈愛と敬愛の込められた優しい手付きで下半身を洗われたマリーの頬から、ようやく赤みが取れた頃……等々力とデュンが、館を訪ねてきた。



「――出来ることなら、三人で内々の話をしたい」



 開口一番、そう提案した等々力に従って、場所を広間からマリーの自室に移して、しばらく。


 用意された椅子に腰を下ろした等々力とデュンの視線を感じながら、マリーは、ぼんやりと湯気立つお茶を眺めていた。


 肌に触れる大気の温かさが、春の陽気を感じさせる。学園に入学した時はもっと肌寒かったのになあ、とどうでもいいことを思い出しながら、マリーは淹れて貰ったばかりのお茶を、音を立てて啜る。



 ――あー、やっぱマリアの淹れてくれたお茶は美味い。



 喉を通って行く独特の苦みに、マリーは食後のため息をつく。これに関して限定すれば、サララではなくマリアの方に軍配が上がる。


 一日の長というやつなのだろうが、これだけはサララも真似が出来ない、マリアだけが作り出せる味である。



 ……まあ、本音を言えば紅茶の方が好きなんだけど。



 そう思うマリーであったが、手に入らなかったものは仕方がない。


 紅茶は何だかんだ言っても趣向品の一つ。『新種交配機』によって昔よりも作りやすくなったとはいえ、まだまだ供給が追い付いていないということだろうか。


 ずずず、と再びお茶を啜る。


 そして、深々とため息を吐くと、等々力の肩がピクリと跳ねる。それを確認したマリーは、もう一度ため息を吐くと、等々力たちへ向き直った。



「それで、わざわざサララたちに席を外させたってことは、そういう話だと考えていいんだな?」

「……面目ありませんが、そのように考えてもらって結構です」



 尻つぼみに力が弱まっていくその声と、「ええ、そういう話です」と言った具合の、相変わらずの態度を隠そうともしていないデュンの姿を見て、マリーは苦笑する。


 別に怒っているつもりはないんだけど。


 そう言いたくなったが、おそらく逆効果だろう。部屋の外で聞き耳を立てているであろうサララたちに意識を向けながら、マリーはそっとテーブルにカップを置く。そして、黙って等々力を見つめた。


 ……だが、等々力は話を切り出そうとしない。隣に居るデュンは等々力に全てを任せているのか、我関せずと言わんばかりに出されたお茶を手に取っている。



 こ、これはよっぽど話し辛い内容なのか。



 ここに来て、少しばかりの不安を覚えたマリーは、「と、ところで、今日は何用で来たんだい?」自分から話を切り出すことにした。



「報告なら監視員である源からそっちに伝えていると思うが、もしかして俺から直接言わないと駄目とか、そういうこと?」



 余計なことは話さないようにお願いはしていたけど。例えば、薬のこととか、『地下街』の場所とか。その言葉を、マリーは唾と一緒に飲み込んだ。



「――あ、いや、そういうことじゃないんですよ。源さんは話しておいた方が良い事と、黙っておいた方が良い事の区別が付けられる方ですから、そこらへんは私共も心配しておりません」

「……それじゃあ、何しに来たんだ?」



 首を傾げながら、マリーが聞き返す。途端、等々力は言い辛そうに口を噤む。


 だが、何時までもそうしていられないことは分かっているようで、しばしの間モゴモゴと言葉を噛み締めた後……実は、と本題を話し始めた。



「前に話した、イルスン講師の件なのですが……覚えて、いらっしゃいますよね?」



 イルスン……聞き覚えのある名前に、マリーはポツリとその名を復唱した。



「………………あ、ああ、あいつか!」



 たっぷり15秒程左右に首を傾げた後、脳裏に浮かんだ男の姿にマリーは手を叩く。直後、イルスンから受けた数々の嫌がらせが脳裏を過ったマリーは、天を仰いだ。



「そうだ、そうだった。そういえば、そんなことを出発前に話していたなあ……」

「ま、まさか、忘れていたのですか?」

「忘れていたわけじゃない。ただ、思い出せなくなっていただけだ」



 頬を引き攣らせている等々力に、マリーは真剣な眼差しで力説する。「……忘れていると何が違うのかしら」等々力の横でポツリと呟かれたデュンの疑問は、華麗に聞き流された。


 話と場の空気を切り替えるかのように、おほん、と等々力は一つ咳をした。



「それでですね、そのイルスン講師に関して、マリーさんにお伝えしておかなければならないことがありまして……その、あの……」

「……もういいから。そんなところで勿体ぶられても気になるだけだから、さっさと言ってくれ、怒らないから」



 そこで言いよどむ辺り、だいたいの答えは察しが付いた。


 けれども、万が一ということもある。夜空に輝く星のように頼りない願いに、マリーは身を乗り出して――。



「イルスン講師はそのまま教職を続けることになりました」



 ――がっつりと圧し掛かった現実に、ペタリとテーブルにもたれ掛った。その反応も予想していたのだろう……申し訳なさそうに、等々力は頭を下げた。



「我々も代わりとなる講師を探したのですが、結局一ヵ月探しても該当する人物が見つからず、またこれ以上講義に穴を開け続けるわけにはいかないという理由もありまして、イルスン講師は続投という形になりました」



 ……頭から掛けられた言葉に、マリーは何の反応も示さない。しかし、話は聞いているようで、うん、うん、と小さな声で返事はしている。


 それが分かった等々力は、隣で我関せずなデュンを恨めし気に軽く睨みつけると、話を再開させた。



「上層部はあまり話を大きくしたくないらしくて、イルスン講師とあなたの確執は、双方の個人的な喧嘩という形になりました」

「……いいよ、うん、もう面倒だからそれでいい」



 心底やる気の無さそうな返事に、等々力は視線を彷徨わせた。



「そ、それと、もう一つ……物凄く言い難いことなのですが……」



 これを……消え入りそうな声で、等々力は椅子の横に置いていた己の鞄から、一枚の用紙を取り出した。


 顔をあげたマリーがそれを受け取り……紙面に書かれていた文字に沿って視線を動かし、内容を理解した瞬間、額に血管が浮き出た。



「……おいこら、これは何の冗談だ」



 三オクターブ程下がった、マリーの声。



「は、はい」



 ビクン、と等々力の肩がはねる。額に浮かぶ大粒の汗が、滝のように滴り落ちる。


 青ざめた顔に浮き出た汗を、震えるハンカチでゆっくりと拭った等々力を……マリーの、赤い瞳が睨みつける。


 スッと、マリーは受け取った用紙を等々力に見える様に置く。


 そこに書かれた文字から意図的に視線を外している等々力をもう一度睨みつけると、一番上に書かれている文字を指先で叩いた。



「復唱」

「えっ」

「復唱」



 ……ごくりと、等々力は唾を呑み込んだ。



「しゃ、『謝罪文』……です」

「そうだ、謝罪文だ。俺の見間違いじゃない」



 こつ、こつ、こつ、こつ、言い聞かせるように、マリーは文字を叩いた。



「あんたの言うとおり、ここには謝罪文という文字が書かれている。その文字の下は内容を書く空欄と、一番下に名前を書く空欄がある……つまり、これがどういうことか分かるよな?」



 こつん、とひと際強く文字が叩かれた。



「俺が、イルスンに、謝罪するということだ。まさかとは思うが、この用紙は当然イルスンにも渡っているんだよな?」

「…………」



 等々力は、何も答えなかった。マリーの視線が隣に動くが、向けられたデュンも何も言わなかった。


 それだけで、十分過ぎる程に答えを察したマリーは、深々とため息を吐くと……満面の笑みで、用紙を等々力に押し付けた。



「帰れ、そして、俺は今日限りで学校を辞める」



 その言葉と共に腰をあげたマリーは、扉へと踵を返した。「会うのもこれが最後だ、玄関までは見送ってやろう」振り返ることもせず言い切ったマリーに、等々力は慌ててその腰に抱き着いた。



「ま、待ってください! 今辞められたら、おそらく上の連中はマリーさんに授業料等の費用を請求してくると思います!」

「――はっ? なんで俺に請求するんだ。俺への嫌がらせで周りに迷惑を掛けたのも、そのせいで苦情が出たのも、全部あいつがやったことだろ?」



 ピタリと足を止めたマリーに、等々力は大きく息をつく。


 しかし、状況を即座に思い出した彼は縋る様に、それでいて留める為に、懇願の眼差しでマリーを見上げた。



「彼がどうやって上に話を通したかは知りませんが、上層部の間ではそうなっているのです。今ここで辞めてしまえば、学園側はあなた個人の『一方的な都合で退学した』と判断して、掛かった費用を請求してくるでしょう」

「そんなバカな話があるか。おい、イルスンの野郎を俺の前に連れて来い、俺が直々に話を付けてやる……!」

「わー! わー! 待ってください! 暴力は、暴力だけは駄目です! それをしたら最後、無条件であなたが悪くなってしまいますから!」



 抱き締めた腕に力を込めながら、等々力は必死にマリーを思いとどまらせる。とはいえ、等々力自身も今回の結果には思うところがあるのだろう。



「あなたの気持ちはよ~く分かります! 分かりますけど、ここは一旦抑えてください」



 何度も何度も謝りながらそう繰り返すその姿に、マリーも幾分か我を取り戻すことが出来た。


 だが、多少冷静になったとしても、納得できていないのは一緒である。


 いや、むしろ、冷静になった分だけ向こう側の理不尽さと横暴振りを改めて理解してしまい、腸が煮えくり返りそうであった。


 ガリガリと、マリーは頭を掻き毟る。今朝方サララに整えて貰った白銀色の髪をぼさぼさにしてから、それじゃあ、と代案を出した。



「だったらどちらでもいいから、別のクラスに変えさせてくれ。それだったら向こうも手出しは難しくなるし、こっちも無用な衝突を避けられる」



 マリーとしては、それがせめてもの折衷案であった。同時に、それぐらいは了承して貰えるだろうと思っていたのだが――。



「残念だけど、それは出来ないわよ。だって、イルスン講師が変えるなって言っているから」



 ――意外な方向からNoを突きつけられた。



 見れば、それまで我関せずのスタンスを貫いていたデュンが、どうしようもないと言わんばかりに両手で天を仰いでいた。



「あの人、学園の中ではけっこうな発言力があるのよ。だから、あの人がクラス替えをさせないと言ったら、もうどうしようも出来ないのよ……あんまりな話でしょうけど、私たちではこれ以上どうにも出来ないのよ」



 そう言って、デュンはお茶を啜った、



 ……さすがに気に食わない相手であるとはいえ、今回の顛末は理不尽な話だと思っているのだろう。



 以前のような悪口は無く、ただただ気の毒そうにマリーを見つめるだけであった。



 ……無言のままにマリーは視線を落とす。



 それに合わせて、無言のままに視線を逸らした等々力が目に入り……呆然と立ち尽くすマリーを見て、デュンは深々とため息を吐いた。



「いっそのこと、『イルスンから学ぶべきことは無い』ってあなたが周囲に証明出来ればいいのにね。それだったら、上層部も『それなら仕方がない』って納得できる理由になるんでしょうけど……」



 ポツリと呟かれた、その言葉。それに、マリーは顔をあげた。



「それだ」

「えっ?」

「そうだよ、初めからそうすれば良かったんだ。いちいち穏便に片付けようとするからややこしくなるんだ」



 以前から寝る前ぐらいに考えたりしていた、ある計画。考えるだけで実行に移すことはないだろうなあ、と思っていたそれを、現実のものとして考えるようになったのは、この一ヵ月の間ぐらい。


 実行に移すのは今しかない、このタイミングしかない。


 天啓とも言うべきその直感に、それまでとは打って変わって満面の笑みを浮かべたマリーは、部屋の外で待っているサララたちを呼ぶ。首を傾げる等々力たちの顔が青ざめる、数分前のことであった。







 『東京』の空を染め上げる赤い夕陽が、ユーヴァルダン学園の校舎脇に設けられた広場を山吹色に満たす。時には魔法術の大掛かりな実験の為に、ある時は探究者志望の実技訓練の為に使用されてきたその広間には今、大勢の生徒たちと教師陣が集まっていた。


 客席……という言い方も何だが、広間を囲うようにして設置された客席は、半月状の作りとなっていた。


 何時もなら疎らにしか埋まっていない席も、この日に限って満員御礼。特等席とも言うべき最も見晴らしの良い席は、ユーヴァルダン学園のお偉方がきっちりと席をキープしていた。


 どのお偉方も、一癖も二癖も腹の中に抱えていそうな風貌だ。


 比較的年若い者から、片足が棺桶に入っているのではないかというご老体まで。年間の行事ぐらいにしか姿を見せない彼ら彼女らの登場に、自然と生徒たちの視線が半分ほど集まる。



 ……しかし、もう半分は違っていた。



 お偉方のことなど興味の無い偏屈者も中にはいたが、そのもう半分は広間の中央にて互いを睨んでいる……二人の男性と、三人の少女に向けられた。


 片方は、最近何かと話題に上っているイルスン講師と、その弟子『釜李(かまり)』。彼は、数多くいるイルスンの弟子の中で、最も将来を期待されている男である。


 固く引き締まった肉体に支えられた確かな技術が生み出す槍術は、1流と呼んでも差し支えない実力者である。



 もう片方は、言うなれば場違いの一言でしかない集団であった。



 何時もの『ドレス』を見に纏ったマリー、鍛錬用の木槍を携えた私服姿のサララ、麦わら帽子を被った黒い『ドレス』のイシュタリア。




 これを場違いと言わず、どう言えばいいのか分からない出で立ちであった。




 ざわざわ……と。どよめきにも似た囁き声が、客席の至る所から聞こえてくる。


 曰く、「ふざけているのか」。曰く、「正気の沙汰とは思えない」。曰く、「色仕掛けするつもりなのか?」、などなど。



(まあ、そりゃあそうようね)



 それらの声に耳を澄ませていた黒髪の美少女、マーティは、豊かな膨らみに押し上げられた衣服を隠すように腕を組むと、にらみ合っている二組を見つめた。



「いやあ、まさかマリーちゃん、イルスン先生と直接対決するとは思わなかったわ。久しぶりに顔を見られたし、せっかくだからお話しようかと思ったらコレでしょ……何事かと思ったわよ」

「ふん、大方色仕掛けが効かなかったから、手を変えたのだろう」



 マーティの隣に座っていたイアリスが、吐き捨てるようにそう言った。


 あまりに苛立ちを隠そうとしないその態度に、彼女の隣に座っていた馴染の男、カズマが「いやいや、それはあり得ないってば」と言って苦笑した。



「それだったらこんな大事になんかしないだろ。イルスン先生ならまだしも、あそこにいるのはよりにもよって、あの鎌李だぞ」



 カズマの指先が、イルスンの前にて佇んでいるポニーテールの男を指差す。


 その場にいる者全員が知っている程の強者である彼は、サララと同じような木槍を携え、寡黙に精神を統一させていた。



「槍を巧みに操り、魔法術士としても一流の戦士。イルスン先生の一番のお気に入りと言われた男の登場だ……確か、武術の腕前はイアリスと同じぐらいじゃなかったか?」

「前は、な。今は私の方が上だ」



 ふん、と鼻息荒く胸を張ったイアリスに、マーティとカズマは顔を見合わせると……揃って苦笑する。


 二人の記憶が正しければ、確かお互いの戦績はほとんど互角で、どちらの方が強いとは断言出来ない戦績であったはずだ。



 ――負けず嫌い、ここに極まれり。



 その言葉が同時に脳裏を過る……カズマは、「でもさ、これはヤバいんじゃねえの」イアリスの言葉を聞かなかったことにして話を続けた。



「よりにもよって、あの鎌李だぞ。相手が女だろうが子供だろうが、こういうことには一切手を抜かないやつだ……マリーちゃん、下手したら骨の2、3本は砕かれるんじゃねえのか?」



 心配だぜ。そう言外に滲ませたカズマの言葉に同意するかのように、マーティも目じりを下げた。



「とはいえ、どちらにしてもこれで噂通りか、あるいは本物か。そのどちらかであることが、はっきりと証明されるわ……もうすぐね」



 そう、マーティが話を〆た直後――。





『さて、それじゃあ始めましょう。いちおう言っておきますが、いちおう声は皆さんに聞こえるようになっております……いいですね?』

『おう、これで言い逃れも誤魔化しも出来ねえな』





 広間に掛けられた大域魔法術によって増幅された二人の声が、客席全体に響いた。


 突如鳴り響いたその声に、思い思いに談笑していた生徒たちも、教師陣も、お偉方も、一様にイルスンたちへと視線を向けた。



『ところで、今回のコレは『私の下で学ぶことは無い』ということを証明したいが為に頼んだと聞いているのですが……冗談ですよね?』

『冗談でこんなことしないさ。全て、事実だ』



 あっけらかんと言い放ったマリーの言葉に、ざわっ、と客席が揺れた。客席という遠目からでも、イルスンの放つ雰囲気が少し変わったのが分かった。



『それはそれは、なんでまたこんな大掛かりなことを?』

『普通に言ったって、まともに取り合ってくれねえだろ。だったら、無理やりにでも認めさせなきゃならない場所まで引きずり出すしかない……別に変な話じゃねえだろ』

『それで、勝負の方法は、限りなく実戦に近い方式の武闘試合ですか……私は構いませんが、だからといって3対2ですか。そこはせめて、2対2にするべきところでしょう』



 イルスンのその言葉に、確かに、という言葉がちらほらと上がる。かく言うマーティも思わず呟いてしまい、イアリスに至っては「情けないやつだ」と辛らつな評価すら下した。



『何を言っているんだ、戦うのは俺一人だぞ』

『……はい?』



 だが、マリーの返事は生徒たちの予想を、イルスンの予想の斜め上を行っていた。


 マリーたちを除き、その場にいた全員がぽかん、と大口を開ける。けれども、マリーは気づいていないのか、逆に不思議そうに首を傾げる始末であった。



『後ろの二人は、付き添いだ。片方は治癒術を習得している魔法術士で、片方は腕の立つ槍術使いだ。どちらも凄腕で色々と危険な二人だが、今回ばかりは手出しさせないつもりだから』



 紹介された二人は、元気よく手を上げた。



『はい、槍術使いのサララです。マリーに傷をつけたら、もれなく私のコレがあなた達二人の脳天を砕きます』

『魔女のイシュタ……のう、その紹介の仕方に微妙な違和感を覚えるのじゃが、私の気のせいかのう?』

『気のせいだ……さて、と。それじゃあ、そろそろ始めようか』



 答えながら、マリーはナックル・サックを拳に嵌め、おもむろにイルスンと鎌李に対して構える。赤い夕陽に照らされた白銀色の髪が、黄金のようにきらめいた。



『構えなよ、イルスン講師に弟子一番。元々は俺の不注意な発言が招いたことだから、今までのことを蒸し返すつもりはない。だが、いい加減こっちも我慢の限度ってものがあるんだぜ』



 ……静寂が、広間全体を包んだ。



 イルスンと言えば、学園でも屈指の腕前を誇る魔法術士。鎌李と言えば、二つ名こそ本人が嫌がっているから付けられていないものの、その実力はイアリスに並ぶとされている凄腕である。


 加えて、魔法術の腕前も、一流といって差し支えはない。


 正面からぶつかって勝てる人間がいるのかと囁かれるぐらいの実力である鎌李を前に、堂々たる言いぐさ。客席の全員が、言葉を無くすのも仕方が無かった。



『……ふ、ふふ、ふふふふふふ……』



 頬をそよいで行く風が、ふわりと時間を動かす。物音一つが嫌なぐらいに通ってしまう中、俯いたままのイルスンから笑い声が零れたかと思ったら、ゆっくりと顔をあげ……憤怒に顔中を紅潮させた。



『そこまでデカい口を叩くのであれば、相応の覚悟は出来ているのでしょう……分かりました! ならば、こちらもあなたの意を汲んで、全力でお相手致しましょう!』



 怒声と共に、イルスンは身に纏っていたマントを振り払う。彼が本気でマリーを相手にするつもりであることを示す、『蝶凡の杖』と呼ばれるロッドが、夕日を浴びてキラリと輝いた。



『御託はいいから、さっさと来い。特別に、お前たちが攻撃した瞬間からスタートってことにしてやるから』

『――鎌李! 構えなさい! この子に大海というものを教えてやりましょう!』



 燃え上がる怒りの上から投げ込まれた油。さらに頭に血を昇らせたイルスンが、弟子の名を叫ぶ。



『…………』



 呼ばれた弟子、鎌李は、無言のままに槍を構える。


 その後ろにイルスンが移動し、魔法術発動の為の準備に入る。実にオードソックスな陣形であった。



『あんたが鎌李か……なるほど、イルスン先生が自慢するだけのことはあるんだな』



 ポツリと呟かれたマリーの感想が、客席にも届く。「――あ、あいつ、鎌李さんになんて口を……!」憧れているのか、それとも別の意味があるのか、客席の至る所から、そんな声があがる。


 命知らずで馬鹿なやつだ……そう、客席に居た誰もが思った。


 特等席から見下ろしているお偉方も、事情をほとんど知らない生徒たちも、事情をある程度知っているマーティたちも、同じことを思った。



 ――けれども、せめて最後まで見届けてやろう。イルスンと鎌李に挑む馬鹿な小娘の姿を。



 そう誰しもが同じことを考えると共に、客席に座る全員の視線が……おのずと広間の中央へと集中した。


 ゆらり、ゆらり、構えた木槍の先端が、獲物の隙を伺うかのように揺れる。


 鎌李の鋭く研ぎ澄まされた眼光がマリーの全身を舐める様に這い回り、その背後では準備を終えたイルスンが、魔法術の発動を今か今かと待っている。



 この勝負は、一瞬で決着がつくだろう。マリーの敗北という形で……全員が、同じことを考える。



 張り詰める空気。必然的に静まり返る客席。全員が、倒れ伏すマリーの未来を予感する。まさに大人と子供と言っていい体格の差……決着は、それこそ次の瞬間に――!



「――えっ?」



 ――客席の内心と驚愕の一声が、一致した。なぜ一致したのかと言えば、鎌李がため息と共に構えを解いたからであった。


 あまりに自然で、それでいて迷いの無いその動き。


 鎌李の後ろにいたイルスンも、客席にいた誰もが、一瞬、眼前にて起こっている状況を理解出来ず、鎌李が何をしたのかが分からなかった。



『……? 何のつもりだ?』



 当然、マリーも驚きに目を瞬かせる。それも、仕方がない。


 何せ、眼前の男は真剣勝負の最中、何の前触れも無くいきなり戦うことを放棄したのだ。


 マリーでなくても、その行動を疑問に思うのが当たり前であった。



「何が起こったのかしら?」

「……さあ、しかし、何かが起こったのだろう」

「さすがに相手が女の子だから、気が引けたとか?」



 ポツリと呟かれたマーティたちの会話が切っ掛けであった。囁くようにあがっていたざわめきが、徐々にどよめきへと姿を変える。


 それは次第にお偉方にも伝わり始め、「――茶番を見せるつもりだったのか!」と早まる人を周囲が宥める光景が見られ始めた。



 ……とはいえ、だ。



 何が起こったのか、と鎌李の体調を心配する声と、さすがに女の子を相手するのは嫌なのか、という声が大きかったのは、まあ仕方がない話であった。


 なにせ、傍目から見れば『女の子相手にむきになる大人』にしか見えないのだから……まあ、それはそれとして、だ。



『ど、どうしたのですか、鎌李?』



 我に返ったイルスンが魔法術を中断して鎌李に駆け寄る。


 だが、鎌李はイルスンの問いかけに答えることなく、黙ってマリーと……その後ろに佇むサララとイシュタリアを見つめている。


 寡黙で努力の男は、周囲から向けられる心配と怒りと困惑の視線をまともに受ける。


 けれども、彼は意に介した様子もなく、しばしの間マリーたちを見つめた後……フッ、と頬を緩めた。



『参った、俺の負けだ』



 …………えっ?



 ポツリと、鎌李がそう言った瞬間、客席に走った動揺は、言葉では言い表せられなかった。


 あまりに突然の降参宣言に、それまで続いていた客席のどよめきが一瞬で静まり返る程であった。



『……は? いや、冗談だよな?』

『冗談で勝ちを譲るつもりはない』



 思わず問い返したマリーに、鎌李は笑みを浮かべたまま首を横に振る。『降参だ。だから、お前の勝ちだ』そう一方的に言い残すと、鎌李は呆然と佇んでいるイルスンを他所に、踵を返した――。



『ま、待ちなさい! 勝手に勝負を決めるとは、どういうつもりですか!』



 ――直後、師匠であるイルスンが鎌李の前に立ちはだかった。



『まさか、相手が子供だから戦えないと言うのですか!?』



 困惑しながらも、怒りに目じりをつり上げる。器用な表情を浮かべたイルスンに、鎌李は改めて横に振った。



『俺がそんなことをする人間でないのは、師匠が一番よく知っているでしょう』

『ならば、なぜいきなり降参などしたのですか? せめて、その理由を聞かせなさい!』



 その部分に関しては、客席に居る全員が思っていることでもある。


 説明を求める声が至る所からあがっていることに目をやった鎌李は、『そんなの、説明するまでもありませんよ』深々とため息を吐くと、改めてマリーへと振り返った。



『あの子が、俺よりも圧倒的に強いからです』

『……はい?』



 いったい、今日この時だけで、この広間に集まった人たちは何回呆気に取られただろうか。


 混乱のあまり言葉を無くしているイルスンを見て、鎌李は苦笑してマリーを……マリーたちを指差した。



『あの子たちは、俺よりも、師匠よりも強い。どう足掻いたところで負けが見えているのが分かったから、勝負を降りた。ただ、それだけのことなんです』

『……はい?』

『例えるなら、俺がネズミだとすれば、あれは猛獣です。俺が人間だとすれば、あの子は巨人です。それぐらいの差が、俺とあの子の間にはあるのです。だから潔く負けを認めました』



 それは、客席にいる生徒たちはもちろん、イルスンの恣意的な報告によって、マリーの実力を半ば疑問視していた一部のお偉方と教師たちにとって、にわかには信じられない言葉であった。



『師匠……最初、俺が師匠から事の顛末を聞いたとき、師匠と同じことを、世界を知らぬ馬鹿者だと思っていました……ですが、今、こうやってあの子と向かい合うことで、俺は痛感させられました』



 そう言うと、鎌李は笑顔でマリーの前に歩み寄る。思わず警戒するマリーをしり目に、鎌李は深々と頭を下げた後……おもむろに、手を差し出した。



『ありがとう、マリー・アレクサンドリア。俺は君と巡り合えたおかげで、己の未熟さを知れた。世界は広く、如何に己がおごり高ぶっていたのかを教えられた』

『お、おう、よ、よくわからんが、どういたしまして……な、なんか思っていたのと違うんだが……い、いいのかなあ、これで……』



 想定外のまま突き進もうとする展開に、首を傾げるしかないマリーはとりあえず差し出された手に、握手をする。『ああ、そういえば、君の願いはコレだったな』目を白黒させているマリーを見て鎌李は頷くと、客席にいるお偉方へと振り返った。



『見ての通り、イルスン講師の弟子である俺は、マリー・アレクサンドリアに敗北した』



 魔法術によって増幅された鎌李の声が、お偉方へと向けられる。


 びくっ、と身構えるお偉方を他所に、鎌李ははっきりと言い切った。



『よって、彼女は『イルスン講師の講義を受ける必要が無い優秀な生徒』であることが証明された』



 今まで以上のどよめきが客席から上がる。『な……な……!』展開に付いていけず、屈辱に声を震わせるイルスンの姿が有ったが、弟子である鎌李が気にした様子はなく……マリーに笑顔を向けた。



『それでは、マリー・アレクサンドリア。俺と試合をしてくれ』

『……え?』



 ……え、いや、なんでそうなる?




 いよいよもって、マリーは展開に付いていけなくなった。


 客席に座る全員の心の声までもが、一致する。マリーはもちろん、完全に蚊帳の外にいたサララたちですらも同様の思いであった。



『俺は師匠から受けた厳命は一つだけで、それは今さっき終わった。これからやるのは、個人的な申し出だ……ぜひ、手合せしてもらいたい』



 ズイッと顔を近づける鎌李。客席からでも瞳が輝いているのが想像出来るぐらい、その声は興奮に弾んでいた。



『え、あ、うん、いいけど』

『そうか! 受けてくれるか!』



 最初の印象を180度変えてしまう朗らかな笑みを浮かべた鎌李は、小走りでマリーとの間に距離を作ると、実に嬉しそうに木槍を構えた。



『では、ルールは先ほどと同じだ。俺が攻めるから、君は俺の攻撃を捌き、反撃してくれ!』

『あ、はい』

『加減はしなくていい! 俺も、全力でいく!』

『あ、うん、よろしく……あれ、なんか俺の考えていた展開と違う気がするんだが……』

『――いくぞ!』



 そう鎌李が叫んだ直後、鎌李の姿がぶれた……と錯覚してしまう程の速度で一気に接近した鎌李の木槍が、マリーの胸部へと放たれた――。



『――っ!?』



 ――が、マリーには遅かった。



 常人なら認識すら出来ない速度で迫り来る槍を、それ以上の速度でかわしたマリーは、木槍の柄を一撃で叩き折る。鎌李の目が、驚愕に見開かれた。



『はやっ――!?』



 そのままの勢いで踏み込んで、腹部に一発。反射的に防御に回った鎌李であったが、間に合うわけがなかった。



『そいや』



 ぼぐん、と重たい打突音が、客席にまで届いた。


 くの字に身体を折り曲げ、放物線を描いた鎌李の身体は……先回りしていたサララとイシュタリアが、危なげなく受け止める。



 ――途端、鎌李の様子を確認したイシュタリアの目じりが吊り上った。



『こら! 手加減しろと事前に言ったじゃろ!』

『すまん! けっこう手加減はしたつもり!』



 両手を合わせて御免なさいをするマリーを他所に、二人は、手慣れた様子で鎌李の身体を地面に下ろす。


 イシュタリアは素早く治癒術を発動させ、サララは素早く鎌李の口の中に指を突っ込んで舌を引っ張り上げた。


 ……実に鮮やかで、迅速な救命処置である。


 この分だと、ものの数分で動けるようになるだろう……だが、客席からは鎌李を心配する声は無く、静まり返っていた。


 何故なら、眼下で起こった現実があまりに現実離れし過ぎていて、誰もが理解を無意識に拒んでしまったからだ。



「……えっと、夢を……見ているのか?」



 ポツリと呟かれた誰かの言葉に、生徒たちの半数が思わず頬を抓る。そして、今しがたの光景が現実であることを理解し……完全に言葉を無くした。


 弟子を目の前でやられたイルスンですら、まん丸に見開かれた瞳で、治療を受ける鎌李とマリーの顔を交互に見つめる。かたん、と掌から落ちた『蝶凡の杖』が、地面を空しく転がった。



 ……しかし、だ。



 目の前で起こった出来事を否定することは、出来ない。


 時が経つにつれて生徒たちの視線が、教師たちの視線が、お偉方の視線が、徐々にイルスンへと向けられるようになる。


 この騒動はそもそも、イルスンとマリーのいざこざが原因なのだ。


 発端がどちらであれ、当事者であるイルスンが場を収めるのが当然の帰結であった。


 背中に突き刺さる幾百もの視線に気づいたイルスンは、慌てて転がった己の武器を拾う。次いで、そのまま魔法術でマリーと戦う……かと思ったら、鎌李を置いて足早にどこかへ走り去ってしまった。



 ……これには、その場にいる全員が吃驚した。



『おいおい、弟子の一人があそこで倒れたっていうのに置いて行くやつがあるか』



 全員の気持ちを代弁したマリーが、頭を掻きながらそう呟くと……思い出したようにお偉方へと顔を上げた。



『なんか思っていたのと大分違う展開になったけど、これで納得して貰えたかい?』



 ……静かに、お偉方は頷いた。


 というか、マリーを最も毛嫌いしていたイルスンがこの場を逃げ出した以上、彼ら彼女らがマリーを邪険に扱う理由は無かった。


 それどころか、こうして本物の実力を見せつけられた以上は、だ。


 お偉方の彼ら彼女らとしては、『マリー・アレクサンドリア』は、是非とも逃がしてはならない人材にしか映っていなかった。



 ……なんという勝手なやつらだ。



 向けられる視線を見て、そう率直に思ったマリーは、だが、あえてそこを突っ込もうとは思わず、『まあ、納得してくれたならそれでいいさ』そのまま話を続けた。



『そして、ここからは許してやる為の条件なんだが……ん、なんだよ、その顔は……まさか、このままハッピーエンドで終わると思っていたのか? ここまで人をこけにしておいて、それで済むわけねえだろ』



 ざわめきがお偉方の席から上がる中、すびしっ、とお偉方を指差した。



『なあに、俺の条件は3つだけ。そんなに大それたものじゃないさ』



 その言葉と共に、マリーは高々に3つの条件を突き付ける。


 その条件に最初は不満ながら了承を示したお偉方も……最後にマリーが言い放った言葉に、唖然とした。



『――とまあ、そういうわけだ。馬鹿と笑うなら、笑うがいい。アホと蔑むなら、蔑め。だが、誰が何と言おうと俺はやってみるつもりさ』



 マリーは、高らかに宣言する。



『ダンジョン最下層……『鬼人』と『聖女』でも辿り着けなかった、その場所へな!』



 月明かりのように儚く、美しいその顔。夕日に照らされたマリーのそこには、太陽のような朗らかな笑みがあった。











 ――後年、諸説ある『マリー・アレクサンドリア』の歴史について、ある学者はこう語った。



 誰しもが、その場所は空想の世界だと思っていた

 誰しもが、人の手ではたどり着けない場所だと思っていた。

 誰しもが一度は願い、諦める……そういう夢なのだと思われていた。


 だが、『彼』の宣言によって、時代が移り変わる。


 夢を、空想のままでは終わらせない。

 空想を、願いのままでは終わらせない。


 おそらく『彼』が始まりだったのかもしれない。

 『ダンジョン踏破』という、途方も無い夢を現実にしようとしたのは。


 一つ、学園設備の自由使用(無料)。同時に、講義の参加自由。

 二つ、賛同者も(ただし、それはマリーが決める)同様の処遇とする。

 三つ、そのかわり、エネルギー採取などで実績を残す。


 それは、『マリー・アレクサンドリア』が突きつけた三つの条件。



 当時は最も名門だとされていたユーヴァルダン学園の広間にて。

 当時の校長含めた経営者に突き付けられた、宣言であった。

 ダンジョンの謎を解明する、『本当の探究者』が現れたのは。


 この宣言が全ての切っ掛けだったのかもしれない。


 誰しもが一度は願い、本気としなかった『ダンジョン踏破』という夢。

 それを本気で叶えようと宣言した探究者は。

 おそらく、『マリー・アレクサンドリア』が最初ではなかろうか。



 分厚い本に囲まれたその学者は、にやり、と。


 齢数百歳にも千数百歳にも達しているという噂の、可愛らしい笑みを浮かべたその魔女は、取材記者たちの質問に、そう答えたのであった。














 ……その日の夜の、ラビアン・ローズ。



 浴室前の脱衣所には、いつものように数人の女たちがたむろしている。


 日中の汚れを落とし終ってぼんやりと脱力している者。

 ゆっくりと時間を掛けて髪を乾かしている者。

 用意しておいたミルクを一気飲みする者。


 皆が皆、思い思いに暇を楽しんでいた。


 その中でも、ひと際異彩を放つ亜人の女と、ひと際幼い風貌の少女……ドラコとナタリアは、湯気立つ裸体をそのままに、備え付けられた椅子に腰をおろしたまま、ボーっと天井を眺めていた。



「……前から思っていたけど、ドラコの鱗って大概な固さをしているわよね」

「なんだ、いきなり?」



 喉を鳴らしながら水筒を傾けていたドラコが、振り向く。ぷるん、と揺れる膨らみに目を細めたナタリアは、軽く目を瞬かせた後、「いや、身体洗っているのを見て思ったんだけど」視線をあげた。



「あなたって、鱗を洗う時、束ねたロープの切れ端で洗っているでしょ? あれって痛くないのかなって思ってさ」

「ああ、あれか。あんなの痛くはないぞ。まあ、鱗以外は洗いにくいから、肌の部分はタオルで洗うがな」

「へえ、やっぱりそうなんだ」

「前は面倒だからそれで全部洗っていたんだが、血相を変えたマリアたちに止められてしまってなあ。おかげで今は、少し時間が掛かっている」

「いや、そりゃあそうでしょ。同じ光景見たら、私も同じことするわよ」

「だが、タオルでは身体を洗った気がしないのだ」

「ああ……なんていうか、身体が頑丈なのも良いことばかりじゃないのね……んん、あれ?」



 視界の端に映った人影に、ナタリアが振り返る。


 見れば、二時間ほど前に入浴を済ませたはずのサララとイシュタリアが、風呂に入る用意を始めていた。


 ゴソゴソと、少しばかり赤らんだ顔で衣服をカゴに放り入れる二人。


 傍に置かれた袋を開けたイシュタリアが、手慣れた様子で中の物を桶の中に移している。


 剃刀、ピンセット、石鹸などなど、普段二人が使っているのとは違う、見慣れぬ物ばかり……つまり、高級品ばかりだ。


 準備を終えたサララがその桶を持つと、二人は意味深に頷き合うと……そそくさと浴場へと入って行った。




 ……あれって、確かB.E.L製の高いやつじゃなかったかしら?



 桶から飛び出した道具の一つに見えた、見覚えのあるロゴ。ナタリアの記憶が正しければ、確かそれはけっこうな値段のする高級品だったはず。


 なんで、そんなものを持って来たのだろうか。それも、一度入浴を済ませた後の二度目の入浴に、わざわざ……?


 不可思議な行動をしている二人に、ナタリアは首を傾げた。



「イシュタリアはまだしも、サララがこの時間に入ってくるのは珍しいわね……何かあったのかしら?」



 ポツリと呟かれたその疑問に、二人のいつもと違う様子に気づいていた女たちも一様に首を傾げる。彼女たちも、同様のことを考えていたようだ。



「あ、しかも今さっき桶に入れていたの、思い返したら全部B.E.L製じゃないの」

「……………っ」

「何なのかしら……マリーに何か言われたのかしら?」

「……っ、……っ」

「……? ねえ、ドラコってば……って、何してんのよ?」



 返事が返ってこないことにナタリアは振り返り……目を瞬かせた。


 見れば、ドラコは顔を真っ赤にして笑いを堪えているところであり、実に珍しい光景であった。



 ――こいつ、何か知っているわね。



 思わず半眼になるナタリアと、様子を伺っていた女たち。


 当然、それに気づいているドラコは、待て、と手で向けられる無言の問いかけを制止する。


 そして、しばしの間必死に笑いを堪えた後……ようやく息を吐いた。



「それで、ドラコは何を知っているかしら? というか、何でドラコが知っているのよ?」



 隠し事はせず、さっさと答えろ。


 そう言外に滲ませた質問に、ドラコは笑みを浮かべて首を横に振った。



「知っている、というよりは、聞き出した、と言う方が正しい。今日、マリーたちと入れ替わるように源のやつが尋ねて来たのは覚えているな?」

「ああ、あいつから聞き出したのね……それで?」

「そうだな……まず、あの二人の行動には、根本的にマリーが関わっている。それは、分かるな?」



 うん、とナタリアたちは頷く。「それを踏まえた上で話を変えるが……」そう、ドラコは話を続けた。



「ナタリアたちは、マリーが学校の講師から嫌がらせを受けていたということも知っているな?」

「うん」

「それじゃあ、マリーが何故、講師から嫌がらせを受けるようになったか……その理由は分かるか?」

「……確か、不用意な発言をしてしまったから……じゃあなかったかしら?」



 うろ覚えな記憶を頼りに、自信なくそう答えたナタリアに、ドラコは正解だと頷いた。



「それでは、その不用意な発言というものが何なのか、ナタリアは知っているか?」

「ああ、そんなの……んん?」



 ……あれ?



「そういえば、そこら辺りは何も聞いていないわね……ねえ、みんなは知っている?」



 全く分からなかったナタリアは、同じように考え込んでいる女たちに尋ねる。


 しかし、彼女たちも知らなかったようで、皆が皆、一様に首を横に振るだけであった。



「まあ、そうだろう。ある程度は話してくれたマリーも、そこら辺りは頑なに話さなかったからな……知らなくて当然だ」

「勿体ぶった言い方しないで、さっさと教えなさいよ。私、そういう待たされ方は嫌いなのよ」

「ああ、分かった……まあ、一言で言えば、だ」



 ツイッと、ドラコは指を人差し指を立てた。



「マリーは、言うなれば講師の自慢話に口を挟んでしまったのだ」

「自慢話?」

「お前よりももっと凄いやつを知っている……そう、言ってしまったそうだ」



 それが、いったいサララとイシュタリアにどう繋がるのだろうか……未だ疑問符を頭上に飛ばしているナタリアたちを見て、ドラコは「つまりだな」ついに確信部分を話した。



「マリーは講師にこう言ったのだ。『あんたよりも、家のイシュタリアの方が万倍も優れた魔法術士だな』……とな。そして、駄目押しに『あんたの弟子よりも、うちのサララの方が優れているぞ』……と言い切ったらしいぞ」



 ぷふっ、と女たちの間から笑みが零れる。しばしの間、呆然とドラコの言葉を呑み込んでいたナタリアは……深々とため息を吐いた。



「ああ、うん、えっと、つまり――」

「つまり、マリーが嫌がらせを受ける原因となったのは、そういうことだ」



 コレで全てだ。そう言うと、ドラコは大浴場へと続く扉を見つめた。


 今、そこで色々と準備を進めている二人を想像する。「あの様子だと、知ったようだな」そして、堪え切れないと言わんばかりに笑みを零した。



「あの二人からすれば、まさか外でマリーがそんなことを言っているとは夢にも思わなかっただろう……存外、嬉しかったのだろうな」



 椅子から立ち上がったドラコは、おもむろにサララたちの着替えが入っているカゴを手に取る。


 ゴソゴソと中身を漁ると……中から、それはそれはセクシーで布面積の少ない、そういう目的の下着が出てきた。しかも、全く使用された形跡の無いやつであった。



「……今晩だけは、マリーの部屋に近づくのは止めとくわ」



 何だかなあ……そう言って脱力するナタリアに、ドラコはにやりと笑みを浮かべた。



「ああ、そうしておけ。さすがにアレに割り込むのは無粋というやつだろう」



 その一言に、話を聞いていた女たちも、ついに堪えきれなくなって笑い声をあげた。

 





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