第二十話: 過去を見つめる者 今を見つめる者 ※注意

 ※グロテスクな描写、残酷な描写、性的な描写があります。苦手な方は注意









 ……一拍置いて、ぼとん、と。リョガンの頭部が、呆気なく地面を転がる。横殴りの手刀にてリョガンの首を切り飛ばしたマリーは、ふむ、と頷いた。



「全身をバラバラにしなくても、首を切り落とされれば即死するか。そこらへんは、人間とそう変わらないんだな」



 そうマリーは零した。確かに首を切り落とされれば脳を失うので竜人と言えど即死するが、そこまでしなくても竜人を殺すことは可能であったりする……まあ、マリーたちには関係ないのかもしれない。


 両足と片手を失っても生きていられるこいつを始め、化け物染みた再生能力を持つ竜人とはいえ、だ。再生が間に合わなかったら死ぬし、再生できる怪我にも限度はある。


 再生に使われる体力は有限であり、再生すればするだけ消耗してしまうので、体力が底を尽けば力尽きるのは当然の話なのであった。



「さて、死んでなきゃあ儲けもんだな」



 倒れた少女を抱き抱え、イシュタリアの方へと駆け寄るマリー。イシュタリアからゴミのように地面へ放られた若者が「いてっ!」顔をしかめているのを他所に、マリーは一息に少女の身体からナイフを引き抜いた。



「マリー、私がやっておいて何だけど、もう少し優しくした方がいいんじゃ……」



 若者が不穏な動きを見せないように目を向けていたサララが、マリーの手荒なやり方を見て、思わず眉をひそめる。しかし、マリーは全く気にした様子もなかった。



「どうせ歯止めか何かはしているんだろ? 多少痛かろうが、さっさと抜いて、ちゃっちゃと治した方が早い」

「まあ、それもそうじゃな。この状況で助かるだけ、こやつは運が良いのじゃ」



 ジワッと噴き出した鮮血が、血濡れている洋服をさらに赤く染める。十字の歯止めのおかげで、ナイフの刃は指の関節一つ分程度にしか刺さっていない。治癒術によってすぐに治る程度の傷であった。



「……しかし、この火事はどうするよ? 他の奴らがこっちに来ない以上、どうにかしないと手遅れになるだろうが……お前の魔法術でどうにかなるか?」



 ホワッ、と魔法術の明かりに照らされた少女を見やったマリーは、そう言って立ち上がった。


 今しがたリョガンが隠れていた家の屋根に飛び乗って、火災が起きている辺りを確認する……いまだ、火の勢いは衰えてはいない。


 ……ラステーラの住宅は、レンガやコンクリートを利用した家と、木々を利用した家が不規則に建てられている。


 激しく燃えているのは木造住宅の方で、そちらは早急に消火活動を始めなければならない……のだが、ここで竜人の存在がネックとなる。消火活動に必要な人員が、竜人の存在を恐れてこちらへ来られないのだ。


 まあ、幾らマリーたちが守ると言っても、不安が大きすぎるということなのだろう。


 それをここに来る前に役所から聞いていたマリーがイシュタリアに尋ねたのだが……返って来たのは、呆れ交じりのため息であった。



「お主は時々無茶を言うのじゃ。飲み水ぐらいなら今すぐ用意できるが、これだけ大きくなった火災を収めるだけの水なんぞ、いくら私でも精製出来るわけがなかろう」



 屋根の上に居るマリーに聞こえる様に、イシュタリアは大声で返事をした。もちろん、マリーも大声で返事をした。



「なんだよ、『時を渡り歩く魔女』だろ。雨を降らすことは出来ねえのかい?」

「雨を降らす魔法術なんぞは知らぬ。それに、仮に知っていたとしても、発動するまでに掛かる時間によって、町の半分が炭になっておるじゃろうな」

「……なるほど、それじゃあもうしばらく働くしかねえってわけかい」



 深々とため息を吐いたマリーは、ギュッと『ファイバー』の握り心地を確かめる。現時点で十数か所の同時火災が起きている以上、選択肢はなかった。



「壊すのであれば、考えて壊すのじゃぞ! 下手に壊すと後々アホどもに絡まれるのじゃ」

「文句は、火を点けた竜人に言えっていうだけの話さ」



 そう二人に言い残すと、マリーはとん、と宙を跳んで別の屋根へと飛び乗る。屋根から屋根へ、十数メートルの距離を一蹴りで渡っていくマリーの後ろ姿を見送ったイシュタリアとサララは、仕方ないと首を横に振った。



「マリーの言うことは最も。現状、それ以外に手だてはない」

「それを理解出来るだけの教養があるやつばかりであればいいのじゃが……よし、終わった。ほれ、起きるのじゃ」



 フッと、治癒術の明かりが消える。先ほどよりも血色の良くなった少女だが、意識はまだ戻っていないのか、揺さぶられても力無く目を瞑っていた。



「……イシュタリア。こういうときは、こうした方が早い」

「いや、それは私も知っておるが、いきなり頬を叩くのはどうかと思うのじゃが……あ、鼻血が出たのじゃ」

「………起きた? それじゃあ、顔以外で痛いところはある? 無いなら、今すぐ役所の方に走って。そっちに行けば、多分あなたのお母さんがいると思うから」

「ほれほれ、泣くでない。泣いていいのは下の毛が生えるまでじゃぞ……あ、生えてない? 胸が膨らんできておるようなら一緒じゃ。ほれ、さっさと走るのじゃ」



 ……そうして、走り去っていく少女を見送るイシュタリアとサララから、若者は黙って視線を逸らす事しか出来なかった。



(……ははは、死にかけたガキの傷が治りやがった)



 両足と腕の傷は今しがた塞がったが、今更二人の隙を突こうなどとは思わなかった。全力で挑んでも、勝ち目がない相手だから。



(結局、リョガンは無駄死にしたってわけか……)



 地面に仰向けに寝転んだ若者は、恐怖に染まったままのリョガンの首を、虚ろな眼差しで見つめた。



(ああ……リョガンまでやられちまったか)



 人質無しで、マリーたちから逃げ切ることは不可能だ。それを、次々に血祭に上げられていく仲間たちを見て理解していたリョガン。


 だからこそ、リョガンは人質である少女に強く意識を向けていて……避けられるはずの攻撃を、避けられなかった。


 敗因はいくつもあげられるが、強いてあげるとするならば……人間という存在を舐めすぎたのかもしれない。


 人間と言う存在が、かつて自分たちの祖先を追いやった存在であることを、若者は今更ながらに思い出していた。



(俺たち誇り高き竜人が、こんな小さな人間に全滅させられるなんて……ちくしょう。こんなことになるんなら、ワーグナーの提案に乗って俺も村を飛び出すんだった……)



 近づいてくる二人の少女の気配、若者は暗い未来に泣きたくなった。










 ……パチパチと火の粉が舞い散る路地裏を、一人の竜人が駆け抜ける。



「――何なんだよ……何なんだよ、あの化け物どもは!」



 彼はかつてドラコの弟を名乗り、現在、ラステーラに攻め入った竜人たちの唯一の生き残りであった。


 久方ぶりに掻く冷汗が、じっとりと背筋を流れる。かつてない程に高鳴っている心臓の鼓動は、興奮から来るものではなく……恐怖から来るものであった。



「あんなの、どうやって勝てっていうんだよ!」



 誰に言うでもなく、叫ぶ。始めは、愚かにも歯向かった人間がなぶり殺しにされる様を、見物するつもりであった。


 自らの手を汚らわしい人間の血で汚したくはないが、人間が苦しみぬいて息絶える姿は見たい。歪に歪んだ憎悪によって生まれた欲求が、弟の足をあの場に縫い止めたからだ。


 注意すべきなのは空を飛び回るワーグナー……つまり、姉の存在だけだ。


 空を飛ぶことは出来るが、それ事態は苦手な竜人の中でも、鳥のように自由自在に空を飛び回ることが出来る数少ない存在……それが、彼の姉だ。


 姉に見つかれば、例え彼が逃げに徹したとしても、逃げ切れる確率は低い。それぐらい、姉の実力は竜人の中でも別格なのだ。


 空を飛び回る姉の勇姿に見惚れると共に嫉妬を覚えながらも、その時、弟は逸るような気持ちで身を隠していた。


 そして、始まった一方的な虐殺の時。


 弟は、すぐに命乞いをするであろう少女たちの姿に、オーガズムすら覚える程に興奮していた。場所が場所であったなら、今すぐ自慰に走る程に息を荒げながら、ジッとその時を待った。



 ……そして、15分と経たずに決着が付いた頃。足元にアンモニア臭の水たまりを作った弟は……一目散に町の南端……外への出口へと走り出していた。






 ……。


 ……。


 …………そして、今に至る。


 兎にも角にも、今あいつらに見つかるわけにはいかないし、姉に捕まるわけにもいかない。神具がこちらに有る以上、いずれこちらの勝利は確実だが……それにはあと少し時間が居る。



(念のためにあちこち火を放っていて良かった……そっちに手を回している間は、こちらへの注意を逸らしているはずだ……!)


『いくら竜人でも、炎の中に逃げ込もうとは考えない』



 おそらくは人間たちが考えそうなことを逆手に取った彼の行動は、今の所うまく行っていた。



(このまま逃げ切れれば、我らの勝ちだ!)



 もう何度目かになる路地裏を突き進み、自分でもどこを走ったのかすら覚えていない。既に辺りの景色は一変し、右、左、後ろ、前、目に映るほとんどの家が、うねる様に炎の舌を天へ伸ばしていた。


 凄まじい熱気に、竜人の身体は汗でベタベタに濡れている。


 この汗は、熱に強い竜人の肌をさらに守ってくれる特殊な汗だ。しかし、次から次へと浴びせられる熱風の前では全く役に立たず、じゅう、と尻尾の先端が焦げる痛みに、弟は顔をしかめた。


 ……さしものの竜人とはいえ、前後左右から火あぶりにされるのは堪える。


 竜人だからこそ、ここまで力尽きることなく走って来られた。これが人間であったなら、とっくの昔に熱風で倒れているところである……それも、時間の問題か。


 いくら熱に強い竜人とはいえ、燃え盛る家々の真ん中、それも炎の中を突き進むのは人間と同じく自殺行為なのだ。


 体のあちこちからは火傷による鋭い痛みが走り、肺へと取り込まれた煙によって、胸の奥をわしづかみされているかのように息苦しい。


 胸に抱くようにして抱えた神具だけが、弟の心を支えていた。



「――っ、み、見えた!」



 そうして走り続け、家々の隙間から出口を見つけた時、弟は心の底から安堵した。南端の出口にほど近い大通りは、壊滅に等しい状況であった。


 さすがに燃えカスになった家はまだ出ていないようだが、既にいくつもの建物は原型が分からない程に炭化しており、こうしている今も一軒の家が崩れ落ちたところであった。



「よ、よし、これなら……」



 弟の気が、少しばかり緩んだ時に、その声は頭上から降り注いだ。



「こそこそと何をしているのだ……我が弟よ」

「――っ!?」



 ほとんど反射的に、弟は前に跳んだ。転がる様にして路地裏から飛び出すと、ずどん、と今しがた立っていた場所に突き刺さった騒音と、砂交じりの突風が背後から吹き付けられた。


 ゴロゴロと地面滑る様にして転がった弟は、急いで立ち上がった。そのまま駈け出そうとした足が、止まる……仁王立ちする姉が、眼前に立ちふさがっていたからである。



「お前のことだ。戦況が悪くなれば、ここへ逃げてくるだろうと思っていたが……昔から変わらぬやつだな、弟よ」



 燃え盛る町の中でひと際輝く、炎のように眩い髪。竜人たちの間では憧憬の的であった立派な四本角と、ナイフのように形よく伸びる両耳。光沢すら見える手足の鱗に、いったいどれだけの女たちが嫉妬を覚えたことだろう。


 人間にも通じるであろう美しい顔立ちは幾人もの男たちを虜にし、幾人もの男たちが姉の横顔を見てため息を吐く様を見てきた。


 かつては誇らしさすら覚えた姉が、侮蔑に満ちた瞳を己に向けていることに……弟は奥歯を噛み締めるしかなかった、



「我は少し、お前を甘やかし過ぎたのかもしれぬ。このような馬鹿を仕出かす程に愚かだったとは思わなかった」

「ね、姉さん……!」

「……いつ以来だろうか。お前が我のことを姉と呼んでくれたのは……」



 固く縮こまった舌をどうにか動かし、弟は声を絞り出す。ようやく出せた声は自分でも驚く程に情けなく震えていた。



「思い出そうにも、我の記憶にはもう、その時のお前はおぼろげだ。声はおろか、顔すら思い出せない……ただ一人の、血の繋がった姉弟だというのにな……」



 昔を懐かしんでいるのだろう。どこか寂しそうに微笑む姉の姿は、こんな状況だというのに……胸が震える程に美しい。そう、弟は思った。



「……弟よ」



 だからだろうか。一歩こちらへ近づいた姉の動きに、彼は強く反発した。



「――ち、近寄るな!」



 ギュッと胸に抱いた神具が、りん、と音を立てる。何もしていないのに時折鳴る不思議な鐘。神竜様より与えられた、人間を滅ぼす為の力。


 これだけは……これだけは、奪われるわけにはいかないのだ!



「姉さん、なぜ、仲間たちを……俺を、俺たちを裏切ったんだ!」

「……裏切っては、いない」



 そう答えた姉の顔は、無表情であった。感情を感じさせない姉の顔に、「この期に及んでふざけるのはよしてくれ!」弟の感情が爆発した。



「姉さんは裏切ったんだ! 仲間たちを……俺を……裏切ったんだ。姉さんのせいで皆は死んだ。みんな、姉さんのせいで死んだんだぞ! それが分からないのか!」



 内心に渦巻いていた怒りを、姉へと叩きつける。思考の隅で『あいつらに見つかってしまうかも……』と警報が鳴っていたが……我慢できなかった。



「姉さんさえ……姉さんさえこちらに付いていてくれれば、勝てたんだ! 仲間たちも死なずに済んだんだ! 仲間を殺したのは……!」

「本当に、そう思っているのか? 我が弟よ」

「……っ!」



 ともすれば、炎のざわめきに掻き消えてしまいそうな、微かな声で呟かれた姉の囁き。顔をあげた姉の瞳に浮かぶ隠しきれない憤怒に、今の今まで怒声を放っていた弟は、瞬時に気圧された。



「お前には分からないのか、弟よ。お前たちが行ったのは、祖先の悲願でもなければ、我らの本願でもない。過去から続く柵に囚われた大馬鹿者たちによる私刑……お前たちがやったことは、それだ」

「違う! 俺たちは祖先の怒りを――」

「ならば何故、我の力に頼ろうとするのだ! 愚弟め!」

「――っ!」


 ――愚弟。愚かな、弟。



 姉から叩きつけられた、生まれて初めてと言っていい罵倒に、弟は喉元まで出かかっていた言葉を呑み込まされた。



「なぜ、我に頼る! なぜ、神獣に頼る! なぜ、神竜様に頼る! それ程の信念が有るのであれば、なぜ自分たちだけで戦おうとはしなかった! なぜ、いつまでも村の中で燻っていたのだ!」

「そ、それは、俺たち竜人の数は少なく、子供も出来にくいから、まずは数を増やしてからで……げ、現に、俺たちの数も増えていた! 全ては順調だったじゃないか!」



 はは……ドラコは、鼻で嗤った。



「その結果、村のやつらはどうなった。我はお前が知る通り、生まれてこの方肌の温かさを知らぬ身綺麗なままだが……村の奴らは違うだろう?」



 威圧された弟は、しどろもどろに言い返す。だが、その程度では全く意味が無かった。



「子供の数が年々減っていくのを防ぐ為に、長老たちは来る日も来る日も子作りを繰り返すばかり。我が背丈の半分も無い女子が、我よりも年上の男に股を開き、我の半分も生きていない男子が、我の倍以上を生きた婆を相手に腰を振る……それが順調なことだと言うのか、我が愚弟よ」

「し、仕方がないことじゃないか! 全ては祖先の悲願の為に――」

「我も、お前も、村の奴らも、祖先の為に生かされているわけではない! 我らは、我らの為に生きて、戦わなければならないのだ! それが何故分からぬのだ、愚弟よ!」



 力強い罵声をぶつけられて、思わず弟は肩をすくめる。幼い頃、悪さを働いたときにも厳しく躾けられたが……あの時は有った言外の愛情が、今は全く感じられなかった。


 ……縮こまって何も言わなくなった弟を見て、姉……ドラコは、深々とため息を吐いた。


 その、ため息にビクッと肩を震わせた弟の情けない姿に、もう一度ため息を吐きそうになって、ドラコはそれを呑み込んだ。



「もはや、問答は無用だ」



 ハッ、と。これまでとは異なる声色に、弟は顔をあげる。


 そこにあったのは、ドラコから向けられる明確な敵意であった。一歩距離を縮めたドラコに合わせて、弟は慌てて一歩退いた。



「全ては、間違っていたのだ。神竜様が降臨なさった時、我らは断るべきだったのだ。我らの力で、我らなりに人間へ戦いを挑むべきだったのだ」



 一歩、ドラコが距離を詰める。その気になれば一瞬で奪い取れるのに、それをしないのは……おそらくは最後の温情なのだろう。


 だが、この場においての温情に、いったい何の意味があるというのか。近づいてくるドラコを前に後ずさりながら、弟は血が出る程に唇を噛み締めた。


 ――悲しかった。

 心の奥底では今も変わらず愛情を抱いている姉から、全てを否定されて。


 ――悔しかった。

 ここまで言われても、姉のことを嫌いになれない自分を。


 ――怒りたかった。

 最愛の相手に理解してくれない憤りを、全く受け入れてくれない姉に。


 ――泣きたかった。

 他の誰を相手にしていたときですら、片時も胸の奥から離れなかった姉の笑顔。それを向けてくれない……運命の悪戯に。



(……もう、いいよ)



 りん、と鐘が鳴った。それは弟の耳にしか聞こえない音色。神竜様から秘密裏に渡された神具の脈動。


 りん、りん、りん、時折しか鳴らなかった鐘が、まるで弟の鼓動に合わせる様に激しく鳴り始める。



(何を言っても、姉さんは俺の話に耳を傾けてくれない。何を言っても、姉さんは俺の気持ちを受け入れてはくれない。どうあっても俺を受け入れてくれないのなら……)



 全てが、許せなくなった。

 訳の分からないことを言って受け入れてくれない姉も。


 こんな状況へと導いた運命も。

 今ものうのうと生きている人間たちも、何もかもが。


 りん、りん、りん、りん、りん、りん。


 徐々に強くなっていく鐘の音に、弟の身体は震える。背筋をのぼってくる寒気を堪えるかのように、己の身体を抱きしめて神具をその胸に強く抱き抱えた。



「俺を否定するのなら……もう、いらない……」

「……? どうしたのだ、おとう――」



 ――りん!


 ドラコの声をかき消すように、ひと際強く鐘の音が鳴った。



「全て……全て、滅びてしまえ! 人間もろとも、滅びてしまえ!」

「――っ!? い、いかん!」



 延々と受け継いできた怨念が、弟の口から放たれる。


 それは、ドラコにとっては初めてとなる、弟への強い警戒。


 直感的に弟から距離を取り、青空へと飛び立ったドラコが弟へ振り返る。


 ――その、瞬間。


 弟の胸に抱かれた神具から、凄まじい光が迸った。









「――ん、なんだアレ?」



 3件目の木造住宅を物理的に破壊したマリーは、視界の隅で立ちのぼる光の柱に目を止めた。


 朝の陽ざしの中でもはっきりと分かるソレは、どこまでも高く天へと伸びている。まるで光の放流と言っていいソレは、天へと伸ばした腕から雲を引き込み始めていた。


 方向から見て町の南端にあるのは分かるが、あそこにあのような光を生み出すモノはあっただろうか。


 少なくとも、マリーは思い出せない。一瞬、イシュタリアが何かしたのかと失礼な想像を働かせたが……それにしては、様子が変だ。



「なんだろうかねえ……すげえ嫌な予感がするぜ」



 背筋を走る感覚は、ただの寒気なのか、それとも……それが何なのか見当もつかないマリーは、まだ燃えていない屋根の上に飛び乗ると、光の柱へと一目散に跳んだ。


 兎にも角にも、何か良くない事が起きようとしている。それも、物凄くとびっきりの悪い事が。


 嫌なことに、そういった予感は不思議な程に当たる。これから起きようとしている何かに、マリーは我知らず冷や汗を流した。








 ――時を同じくして、その異変に気づいたのはマリーだけではなかった。



「イシュタリア……光が渦を巻いている! あ、雲も引っ張っている!」

「いちいち言葉にせんでも分かるのじゃ……それにしても凄まじい魔力じゃのう。まるで、嵐のように暴れ回っておるようじゃ」



 人質を取った件のこともある。竜人の残党がいないかどうかをしらみつぶしに探していたサララたちは、高くそびえ立つ光の柱に足を止めていた。


 ふわりと、浮き上がる様に吹いた風が、光の中へと引きずり込まれている。光だけで構成されていた渦は瞬く間に霧を発生させ、あっという間に巨大な霧の塊を形成しようとしていた。



「ちょ、ちょっと待ってよ、まだこっちは着替えが済んでないんだから!」



 その二人の後ろから、妙にスッキリした様子のナタリアが遅れてやってきた。その身体は、まるで今しがた激しく運動をしていたかのように汗でテカテカと濡れていて、何一つ服を身に纏っていなかった。


 股から垂れ下がっている性器が、ブラブラと身動きに合わせて揺れる。粘液と白濁液で汚れたそれは、まるで主の機嫌を表すかのようにご機嫌に垂れ下がっていた。



「いつまでもダラダラと楽しんでいたナタリアが悪い。それに、ほら……あれが見える?」

「え……なにあれ? 光の柱?」



 小脇に抱えていたドレスに手早く袖を通していたナタリアは、サララが指差した方向を見て絶句した。



「あなたがそんな反応を示すってことは、あなたも知らないことなのね」



 そう言ってサララがため息を吐く横で、ジッと渦を眺めていたイシュタリアの目つきが……鋭くなった。



「……しまった、やられたのじゃ!」

「え、何が?」

「竜人どもめ! これが狙いだったのじゃな!」

「いや、だから何がなのかしら?」



 キョトン、と首を傾げるナタリアに、珍しく焦りを隠そうともしないイシュタリアが、強く声を荒げた。



「お嬢ちゃん! ナタリア! すぐにマリーを見つけて、ここを離れ――」



 焦燥感に満ちたイシュタリアの声は、渦の向こうから飛び出したとてつもない爆音にかき消された。


 それだけでなく、堪える間もなく訪れた凄まじい突風に、3人の身体は青空へ投げ出された。彼女たちの悲鳴は、誰の耳にも届かなかった。









 ――ぐるぐる、と。視界が、回転する。青色、赤色、山吹色、木色、白色、様々な色がらせん状に線を描き、視界の隅に消えて、また現れる。


 強い力に手足を動かすことすらままならず、身体のあらゆるところから衝撃が伝わってくる。ドラコは、己が激しくどこかに身体を叩きつけられているのを知覚した。



「――っ!!!」



 数回、十数回、数十回、視界が暗転を繰り返した頃。無我夢中で繰り出した腕が地面にヒビを入れると共に、ようやくドラコの身体は動きを止めた。


 そうして、ゆっくりと……ドラコは仰向けに倒れた。


 グルグルと回転する視界からは、まるで情報が伝わってこない。揺れに揺らされた三半規管からは激しい抗議があがってきており、吐き気となってドラコの意識を揺らす。


 ……何とか堪えようとしたが、駄目であった。


 うつ伏せになったドラコは、ごぼぉ、と胃液混じりの血液を吐き出す。二度、三度、独特の酸味と臭いを放つ胃液を吐き出したドラコは、ぜえぜえと息を荒げていた。



(何が……起きた?)



 胃液を吐いたことで多少は回復した頭で、思考を巡らせた。


 記憶に有るのは弟の身体から立ちのぼる圧倒的な光。直視するのが難しい程の強い光の後、凄まじい勢いで広がっていく大量の霧。


 渦を描くようにして球体になった霧の塊に、注意深く接近した……そこまでは、覚えていた。しかし、そこから先の記憶が上手く思い出せなかった。



(思い出せ……私は何を見た。あの瞬間、何を見たのだ……!)



 砂嵐の記憶の奥を、必死に探る。渦を描く霧の球体に近づいた後……その後、何かを見た。大きな何かだ……しかし、見覚えはある。


 あれは何だった……あれは見た覚えがある……姿かたちは違っていたが……確かに見たことが有る。そう、あれは確か……。


 ――その、瞬間。


 フッと脳裏に浮かんだ映像に、ドラコの顔は凍りついた。


 まさか……いや、バカな。いくら何でも早すぎるし、あまりに大きすぎる!


 そうして否定しようとして、ふと、ドラコの背筋に震えが走った。


 混乱していた脳がようやく復帰を終えたおかげで、ドラコは初めて……背後に感じる巨大な存在に意識を向けた。


 嘘だ、まさか、どうやって。


 否定の言葉がいくつも脳裏を駆け巡る。しかし、その程度でこの悪寒を止めることが出来るはずも無く……ドラコは、恐る恐る振り返った。



「……ははは……思っていたのとは少し違うが、私の考えは間違っていなかった……今、それをはっきりと思い知ったよ……」



 そして、引き攣った笑みを抑えられなかった。



「……何が神獣だ……こんなものを我らは神の使いと崇めていたとはな……これはもう、自然の良きものではない。ただの……化け物だ……」


 その言葉は、誰の耳にも届くことはなかった。








 ラステーラの南端。そこには南の森へと続く出入り口があると同時に、今回竜人たちの襲撃を受けた場所である。言い換えれば、最も被害が大きい場所だ。


 出口にほど近い場所は軒並み放火されており、マリーたちが竜人相手に戦闘を始めた時には、既に30件以上の家々が、激しく炎上していた。


 その後も火の勢いは弱まることはなく、マリーが消火活動を始めた時には、その数は50件に達していた。


 その為、マリーは火を消化するのではなく、これ以上の被害を出さない為の処置……すなわち、壊すという消化を行っていた。


 しかし、光の柱が立ち上り、霧の渦が生まれてすぐに、最南端に位置する十数件の建物は完全に鎮火された。柵に燃え移っていた火も完全に消え去り、町に入り込んでいた熱気はほんの少しだけ少なくなった。


 ……それは、なぜか。


 それらの建物の上に、マージィたちが見た『山』のせいである。『山』は、何の前触れも無く、この日、突然ラステーラの南端に姿を見せたのだ。


 『山』は、大きかった。その高さはラステーラの北端から確認出来る程に大きく、その姿は武骨な造形のトカゲに近かった。


 頭の先から尻尾の先まで、軽く三ケタメートルに達している。胴体を支える四本の脚は家一軒……いや、家五軒を覆い隠せる程に大きかった。


 大きさに見合った体重によって、潰された家は原型が分からない程に粉々に砕かれてしまっている。足の裏も頑丈なのか、レンガとコンクリートで作られた家を踏んでも、びくともしていない。


 全身の体表面は強固な鱗で覆われており、なおかつ、衝撃以外にも強いのだろう。優に1000℃を超えるであろう家屋のファイアーを下腹部に受けながらも全く堪えていない辺り、それが伺える。


 三件の家屋を噛み砕けそうな巨大な顎が、鈍い音を立てて開かれる。人間が三人、手を繋いでも端から端まで届かないサイズの巨大な瞳が、ぎょろりと辺りを見回した。



 ……何が起きたのだろうか?



『山』は、何が起こったのか分からなかった。獲物を求めて森の中を歩いていたら、突如目の前を光が埋め尽くし、ふと気づいたら視界全てが真っ白な霧で覆われていた。


 軽く首を振って霧を払おうとしたが、どんどん霧は濃くなるばかりで、いっこうに振り払える気配はない。苛立った『山』は、かつて敵を葬った咆哮を天へと放ち、鬱陶しい霧を追い払った……まではよかった。


 だが、その後が分からない。いつの間にか晴れていた霧の向こう……周囲を見回せば、眼下に広がっていた木々は夢だったかのようになくなっている。


 その代わりにあるのは不味そうな土で出来た何かと、木々で形作られた何か。ぎょろぎょろと視線を彷徨わせるが、獲物の影すら見当たらない。



 ……ぐぅぅぅぅぅぅ。



 込み上げてくる空腹に、『山』は唸る。『山』にとっては、軽く鳴いただけのつもりであった。


 しかし、たったそれだけで、崩れかけた建物がカタカタと振動する。


 中にはガタガタと崩れ落ちるモノもあり、『山』は順々にそれらへ視線を向けていく……ピクリと、鼻腔をくすぐった臭いに、『山』の鼻がひくひくと動いた。



 ……『餌』の臭いだ!



 目覚めてから、初めてとなる『餌』の臭い。土と焼けた木々の臭いが邪魔をして、微かにしか感じ取れないが……確かに『餌』の臭いだ。


 くんくん、と鼻を鳴らして臭いの出所を探る。程なくして、その視線が地面に散らばっている『餌』を見つけた……が、『山』は落胆の色を隠せなかった。


 地面に散らばっている『餌』は全て死んでいる。臭いも味も薄いそれらを全てかき集めて食べたとしても、空腹を満たすにはあまりに少な過ぎる……『餌』は、生きているやつを直接食らってこそ美味いというもの。



 ……ふと、『山』の瞳がある地点で止まった。



 それは、点々と続く血の臭い。数多の臭いに紛れて届く、食欲を誘う香り。それこそ、意識を向けなければ絶対に気づかなかったぐらいの、わずかな痕跡。


 その痕跡を辿って、『山』はゆっくりと顔をあげて……ニヤリと、笑みを浮かべる。はた目から見れば全く変わっていなかったが、この時『山』は確かに笑みを浮かべていた。



 ……なんだ、向こうに『餌』がいっぱい集まっているじゃないか。だったら、こんな食べ時を逃した『餌』よりも、生きの良い『餌』を食べるとしよう。



 ラステーラの、中心部。普段は市場が開かれており、今は大勢の住人たちが避難している地点。そこに集まっている『餌』を見やった『山』は、じゅるりと涎を垂らした。


 ギルドや役所があり、マリーたちが決して竜人たちを通そうとしなかった場所へ……こみ上げてくる食欲に促されるがまま、マージィたちが『山』と呼び、竜人たちが『神獣』と呼んだ怪物が、動き出した。



 ……。


 ……。


 …………ラステーラの存亡を掛けた戦いの第二幕が、幕を開けようとしていた。




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