第118話 ※乗っただけ融合

 三人は傾いた階段を猛スピードで降りながら考察する。

 涼風が言ったことは概ね正しい。理屈を聞いたメルトアも『ああそういえばそうだな』と理解できる程度にもわかりやすい。


 ただ涼風が重さが必要だと言ったのは姿勢制御の難度と摩擦の話で、メルトアが主に思い出していたのは空気の抵抗のことだった。


 ガリレオ・ガリレイはかつて『落下のスピードはすべての物体において同じ』という仮説を証明するための実験をしたが、これは空気中においては決して正解ではない。


 理屈としては水中と同じなのだ。質量は浮力を効率よく切り裂くためにどうしても必要になる。


 少々話が寄り道するが、と前置きしたところで五香は口に出す。


「メル公が下に行く速度は、さっきに限っては上に行くときより早かった。それも自由落下に迫るレベルで」

「お前、降りのときのメルトアは見てなかっただろう」

「昇りの速度がわかってれば簡単に計算できるってェ。つーか計算いらねぇレベルで速かったし」


 メルトア一人なら銃弾をも掴む高速機動能力と、極めて強力な全身のバネを使えば『天井を足場、重力を推進力に変えて下に向かって身体をする』ことは決して不可能ではない。


 が、それでは衝撃が大きくなりすぎると判断したメルトアは出来る限り階段に足を付けて走行したはずだ。


 さて、あまりのスピードと勾配に耐え切れず浮き上がりそうになったメルトアは、一体どうやって階段を効率よく走行するか。


「たまに四つん這いのような感じになってたな? 余も少々はしたないと思ったが、急いでたから」


 つまり『重心』を限りなく下に近付ける。賢人種サピエンスでも猛スピードで坂を上り下りする車を作る際に絶対に意識する基本中の基本だ。

 だがまだ足りない。


「それだけじゃねーよなァ、メル公。お前自身が大したことないと思ってても、もう一つやったことがあったはずさァ」

「ム?」

「そら見ろってェ。階段に目を向ければ結構な頻度でそこかしこにあんだろうがァ」


 メルトアと、メルトアに抱きかかえられている涼風は階段に目を向ける。

 確かに昇りの際には気付かなかった異常性が残っていた。


「なんだこれ。ところどころ粘土みたいに、掌サイズに階段がひしゃげてる……のか?」

「ああ、そうか! 確かに身体が浮きそうになったとき余は階段を掴んでいた!」

「お前のかよ!?」

「そう。摩擦を高める要素なんていくらでも後付けすればいい。体重と坂の角度と面積が足りないのなら、重心を下げてグリップを利かせればいい」

「いや、でもそれができないから私たちはピンチなわけで……」

「問題ねーってェ」


 降りでメルトアの高速機動が使えない以上、階段を使うのはナンセンスだ。何故なら高層ビルにおける階段は〇.五階降りる度に折り返すのだから。

 曲線はスピードを殺してしまう。


 だが、と五香は笑う。


「あるじゃねーかァ。おあつらえ向きに、障害物もカーブもない絶好の坂がよォ!」

「お前、それ、まさか……!」

「ムム?」


 バカでも思いつく五香の絶好の坂に当たりが付いた涼風は顔面蒼白。

 半端に賢いメルトアは無意識で除外していたので首を傾げるばかりだった。


「頃合いだなァ。タイムリミットと言い換えてもいい。この階にすんぜェ」


 コバヤシの手綱を取り、五香は三十五階のある場所に向かって疾走する。


◆◆◆


「というわけで、傾いたビルの壁面を坂に見立てて下に滑走! これがラストにして唯一の脱出手段さァ!」

「バカだろお前」


 限界ギリギリ理想値まで待ったとして、ビルは三十度しか傾かない。

 つまり傾斜六十度。道具なしは想定できない、かなりキツイ山道レベルだ。

 なお、窓は既にメルトアによって叩き割られている。傾くビルの傍にいたいと誰も思わないだろうから、今回は下を心配せずに済んだ。



 さて、六十度の坂になった時点で自壊するという話なのだから、降りるとなると坂は更にキツくなる。

 というかこんなことを考えなくても問題は窓の外を見れば即わかる。つまり――


「坂じゃなくて現状壁だろうがッ!」

「これから坂になる」

「坂になったらアウトなんだよ!」

「ポイントは三つ!」


 議論の時間すらもったいないので五香は説明を始めた。渋々涼風も口を噤む。メルトアとコバヤシは、並び揃って傾くビルを興味深げに眺めていた。

 一応耳を傾けてはいるのだろうが。


「私の体感では二十一度傾いた時点で制限時間は残り三分強。このルートが成功すれば即下に到着なわけだから、あとはメル公とコバヤシの走力でギリ安全圏に行ける計算さァ。

 二つ目のポイントは、ビルは決して平面ではないということ。見ろよォ、窓枠やら何やらで割と凸凹だぜェ?」

「人の足一つ分は余裕程度の幅な……それも横向き想定で」

「三つ目のデカいポイント。それはここがビルの端っこだということ」

「……あー」


 角度が急ならば距離を延ばせばいい。これも坂を想定したルートを想定する際に考えるべき基本の一つだ。

 実際、いくつかの山を昇り降りする電車の路線は山に対してジグザグに敷かれている。


「なるほど。斜めに走れば実質、角度はもっと緩やかになる……というか『緩やかなもの』として考慮してもよくなる。それも確かに物理の基本ではあるが……」


 文字通り『度』が過ぎている。六十九度の坂、かつ三十五階の超高所。工夫はまだ足りない。


「安全性を高めるための工夫? 当然用意してるさァ。重量と重心とグリップの三つを。あ、いや一応面積もかなァ……?」

「そう。この勾配を降りるときに絶対にあってはならないのに確実に起こることは『転倒』だ。それらがないと話にならない」


 もし一回転べば空中に投げ出され、もうどこにも引っかかることなく地面に向かってまっ逆さま。墜落死体の出来上がりになる。


 無策で降りるのはありえない。


「メル公も含めてコバヤシに乗る。筋力的にまあイケんだろォ」

「……うん? それで動けるのなら重量は、確かにかなり稼げるが……」

「そしてメル公だけはコバヤシの腹側にくっついてもらう。あ、いやできればメル公とコバヤシの間に一人くらいはサンドイッチになってもらうかァ」

「……上手く制御すれば重心がかなり下がるな……」

「グリップは問題ない。コバヤシの爪はこのビルの壁に絶対に刺さる」

「根拠は?」

「あれだろう!」


 声を上げたのはメルトアだった。彼女が指を差すのは窓の外、ビルの壁。

 少々身を前に出して涼風が確認すると、ビルの壁には傷があった。まるで巨大な肉食獣が木を登ったときにできるような爪痕が。


「で、その爪痕を作ったのがこの爪になりまーす」

「わおんっ!」


 五香が指示すると、コバヤシは誇らし気に爪を出す。

 確かに粉っぽいものがガッツリ付着していた。


「で。反論タイムは?」

「……あるわけないだろう……!」


 そもそも時間的に、ここに連れてこられてしまった時点で詰んでいた。涼風はもう五香の作戦に乗るしかない。

 涼風は勇気を奮い立たせるため、そして五香に責任を負わせるために声を絞り出す。


「……一世一代のギャンブルだ。死んだら絶対に呪ってやる」

「ああ。一生呪われてやるさァ」


 空前絶後の滑走。時間が来るまで、三人と一匹は死ぬ気で準備を整える。

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