幕間 探偵の雛

 明智五香がまだ小さかったころ、三つ編みと眼鏡は姉のトレードマークだった。


 五香本人は、姉や四麻などの年上の親戚女性連中から揃って『もっと髪を伸ばせばいいのに』と言われても、男の子と見紛うような短い髪でいる方が好きで、長い髪なんて風呂の時間が長くなるばかりでいいことなんか何も無いと思っているくらいだった。


 それに、何となく短い髪の方が格好いい気がした。理由は単純で、そのころ同じクラスにいた短い髪の体育会系男子の人気が高かったからだ。


 可愛いと思っていた隣の席の女の子も、隣のクラスの顔しか知らない女の子もみんなその男の子が大好きだったので、五香もできることなら髪はずっと短くしていたかった。


 スポーツを頑張ったりもしたが、こちらは同じクラスの女子にすら鬼ごっこで負けるほどで、あまり成果は上げられなかった。


 自分の好きな物、もといそれを好きな自分が世間的には異質だということに気付いたのはクラスメートとの話の途中で何となく。


「五香ちゃんったら変なの。女の人は女の人と結婚できないよ」


 一字一句違えず覚えている。好きだった女の子に面と向かってそう言われたのだ。からかわれた、とか嘲られた、とかそういうニュアンスではない。さも当たり前のことを確認するかのような軽さだった。


 子供心ながら、剥き出しの内臓を引っかかれたような最悪の気分になった。ただの世間話で、その言葉自体に悪意はまったく無いのはわかっていたがそれでもやり場のない怒りが湧いた。


 だからふと、それを見たときは心が湧いた。

 八つ当たりの対象を得たそのときの気分は、さしづめ新しい玩具を親から貰ったような最高の気分だった。


(……万引き……)


 例の体育会系の男の子が、コンビニで漫画を万引きしているところを見かけた。単独犯だ。つい最近発売されたばかりの単行本を服の下に潜り込ませている。


 そして、誰にも気付かれることなく彼はコンビニを後にした。


 。気付かれないように、こっそりと。

 この気付かれないように証拠を抑えるという技能は彼女の家系に伝わる遺伝的能力の一つなのだが、そのことについて五香はまったく考えなかった。


 誰に教えられるまでもなく、彼女は探偵の雛だった。


 そこから先の五香の計画は五秒で構築された。

 ガミガミ怒鳴ってばかりで大したことも教えられない教師の携帯を、本人に気付かれない内に拝借。パスワードは(あくまで五香にとってはの話だが)無防備に目の前で打っていたので知っていた。


 教師の携帯に自分の撮った動画を、海外のサーバーを経由して転送。

 教師のSNSにを動画に添付させてネットの海に流した。


 後は教師の携帯を、退勤に使う道の途中、それも交番の近くに落とせばいい。指紋は全部拭き取ったので問題は無いし、これらの作業は一日どころか一時間も経たない内に行った。


 誰が携帯を操作したのか、と疑われたときに真っ先に上がるのがその教師だという事実は変わらない。多少不自然ではあろうが、そこまで考えられる人間ばかりではないことも五香は計算済みだった。


 果たして、次の日にはすべてが明るみに出た。

 顔までバッチリ映っていたので、男子は言い訳のしようがなく。

 教師の携帯から教師のアカウントで投稿されていたので、こちらも処分は秒読みで。


 緊急の全校集会で、五香は笑いを堪えるのが大変だった。


 後々にクラスメートから、その男子の噂を聞く度に最高の気分になった。


 曰く、四六時中電話が鳴り響くので電話線を切った。

 曰く、家に罵詈雑言の書かれた張り紙がいつの間にか張られていた。

 曰く、母親から『どうしてこんなことをしたの』と毎日のようにそしられる。


 曰く、曰く、曰く。


 その男子はやがて学校に来なくなった。教師はギリギリのところでクビは免れたらしく、その内に学校に復職するらしいが。

 数週間もすると流石に八つ当たりにも飽きたが、その段階になってやっと気付く。


(……みんな元気が無い?)


 特に、発端のクラスメートの笑顔がどことなくぎこちなかった。他の誰も気付いていないようだったが、五香には気付けた。

 可愛い女の子のことなら、何だってわかると自負していた。


「どうした?」


 二人きりになる状況を作ってから、笑顔がずっと曇っていると伝えた。

 すると、彼女はくしゃりと顔を歪め、さめざめと泣き始める。


「わからない。どうしてこんなことになっちゃったの?」


 再びのショックだった。

 彼女は何と、あの男子の家族に起こっている惨状について本当に嘆いていた。


 一度間違ったら一生責められないといけないの?

 償うチャンスすら与えられないの?

 みんな何がそんなに楽しいの?


 その問いに五香は一切答えることができなかった。

 この悪意の波を引き起こしたのは紛れもなく五香だからだ。


 自分は何か間違ったことをしたのではないか。

 そう思うのに時間はかからなかった。


 その疑念が確信に変わったのは、それまでこの話に何の関わりも無かった自分の姉が怪我をしたと聞いたときだった。


「あーだだだだだ……完璧痣になっちゃってるよ」


 胴体、右脇付近への強い打撲。幸い内臓にも骨にも傷は無かったが、見ているだけで痛くなってくるような大きな青痣に息を忘れる。

 原因は自分の住んでいるマンションの最上階から身投げをしようとした、とある男子を寸前で助けたこと。受け身も何も考えずにかけよったため、欄干に思い切り身体を打ち付けたことだった。


 飛び降りようとした男子は、あの体育会系男子だった。


「絵の世界におけるアイラインって知ってる? 要は目線って意味なんだけど。写真や動画の世界にも当然それはあってさ。あの動画、どう考えても小学生レベルの身長の目線から撮られてた」


 急に姉の話題が変わった。だが、何を言い始めたのかは五香にだけはわかっていた。

 声色に糾弾の色は無い。無いが、喉が段々と渇いていく。


「コンビニのガラス窓の反射にまで気を遣ったあのアングルはまさに見事。しかも相手に気付かれないのも点数が高い。でも私はあなたがやったと自身を持って言える。何でだと思う?

 クラスメートの女子のほとんどが気分を落ち込ませていたにも関わらず、あなただけがむしろ上り調子……上機嫌だったからだよ」

「それだけじゃ……」

「根拠が弱いって? いや、そうとも言えない。だってあなたが上機嫌になったの全校集会で学校のみんなが動画流出を知る前からだもん」


 本当に良く観察していた。

 決定的な証拠は何一つとして残していないにも関わらず、家族の様子をじっと見ていた。それだけで姉はすべてを見透かす。


 反論しようと思えばまだ反論できる。

 だが、姉が傷付いたという事実が五香を苛む。もう隠す気が一切無かった。


「……ごめんなさい。お姉ちゃん。ごめんなさい……!」

「いいよ。この事実に真っ先に気付いたのが私で良かった。あの家族も、もうすぐ引っ越すってさ。もし彼がその先で自殺したとしても、もう五香ちゃんの耳にそれが入ることは絶対に無いよ」

「……え」


 怒らないのか。

 涙を落としながら姉の顔を窺う。彼女の顔に浮かんでいるのは、妹に対する慈しみのみだった。


「私はさ。最初から五香ちゃんのことしか心配してないよ。あの男の子が死んだら流石に五香ちゃんも凹むだろうなと思って、ずっとそれとなく見張ってたんだよね。だからタイミング良く助けることができたんだ。まさか、ここまでギリギリになるとは思わなかったけど」


 宙ぶらりんになった小学生を引き上げるのは苦労したよ、と姉は笑う。


「ねえ五香ちゃん。私は……いや、私たちは探偵なんだ。真実を真っ先に見つける者。正義の味方じゃない。自分が助けたい誰かの味方。

 だから、この力は徹頭徹尾好きな誰かのために使う。私の場合はあなたのために」

「私のため……?」

「五香ちゃんはさ、力の使い方を知らないとね。まさかこんなに早く開花するとは思わなかったけど。流石、私の妹」


 ぎゅう、と姉は五香を抱き締める。頭を撫で、愛おしそうに。


「……真実はただ暴くだけじゃダメだって、今回で身に染みたでしょう? これからゆっくりコントロールしていこう」


 姉の胸の中で沈黙する五香は、子供ながらに理解した。

 この姉は、五香の罪過を正す気はない。むしろ能力を評価するばかりだ。

 だが、五香自身も自分の罪を誰かに喋る気がない。そんなことをすればあの男子のように、親や姉に迷惑をかけてしまう。


 今回のことはもう、五香の胸の中に仕舞っておくしかないのだ。その罪悪感がどれだけ重くなったとしても。


「……ねえ。五香ちゃん。聞かせて。あなたは誰を助けたい?」

「え」

「この家ではね、それぞれに守りたい何かがあるのよ。だから真っ直ぐ立っていられる。だから道を間違えない。あなたの魂を守るためにも、あなたの大事な物を再確認することは重要なことよ」


 抱き締める手を緩め、姉は五香の目を覗き込む。

 影が深くなったその顔は、底知れない好奇心と、五香への愛情しか窺い知ることができない。


「あなたは誰を守りたいの?」

「……私は――」


 そのときの答えに、五香は満足している。

 だが、姉としては不満だったようで、これを聞いた後で僅かばかり姉が不機嫌になったことを覚えている。


 少なくとも五香は『お姉ちゃんを守りたい』と言えなかったからだ。


 現状を鑑みて、それだけでは足りないとしか思えなかった。


「……みんなを守りたい。家族も、友達も、それ以外も。じゃないと巡り巡って、また近くにいる人が傷付くから」


 姉の顔から一瞬だけ笑顔が消える。

 それでも、これだけが本心だった。


「お姉ちゃん含めて、みんなを守りたい」


 それは決意だった。

 過ちを犯したからこその、強い意思だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る