第35話 ※近づく危機、思わず忌避
安いホテルの協定には穴がある。要は泊っている者に身体的な外傷が無ければいい。
仮にホテルの内装がハリケーンの通過後のごとくグチャグチャになったとしても、宿泊客の身体に一切の傷が無ければ協定違反とは見なされない。
そもそも、四麻は三丁目に来たばかりだ。この町のシステムを知っているとは思えない。何を目的にここに来たかは知らないが、それならば付け入る隙はある。
恩を売るだけの余剰も、独占禁止法に触れかねないほどに。
(まあとは言っても……ベランダのガラス戸を壊す気は無いけど)
ヒビが入る程度で構わない。そうすれば寝てても気付く程度の音は出るだろう。
第一、涼風が持っているのは子供の自由工作を多少パワーアップさせた程度の自作弓矢だ。材料はその辺の激安の殿堂で買える竿状の物オンパレードと、ゴム状のものを何本も編んで作った弦だ。
ゴムの耐久度的にも一発撃てれば上等。二発目からは命中率に不安が出てくる有様だ。威力など最初から度外視している。
(……向かいのビルの屋上から狙い打てる場所に泊まってくれてありがとう。さてと、あとはこの矢文を射って……!?)
矢を番え、ベランダを狙っているときに涼風の眼に映ってはいけないものが映った。
ほぼ下着同然の四麻が、あの森精種に迫られている。
見るからに熱烈に貪られる五秒前と言った風情だ。あまりのことに身体が強張ってしまい――
「あっ」
弓を引きすぎた。
気付いたときには既に遅く、番えられた矢はシミュレーション以上のエネルギーでもってテイクオフ。
ベランダのガラスを粉々に叩き割った。
「……ひえ」
あの森精種がこちらを睨みつける。
その瞳に揺らめく感情は地獄の底のような色をしていた。
ともかく、逃げるしかなさそうだ。
◆◆◆
「私たちの宿に
ジョアンナがあの緑色のマントを着込み、玄関に走って靴を履き、急いでベランダへと走っていく。
「あ、ちょ、ジョー! 待て!」
「ごめんなさい五香! 続きは後で気が向いたら!」
「き、期待できない類の約束! いやそうじゃなくて今飛んできた矢が――!」
バサリ、とベランダの手すりを足場にして、あっと言う間にジョアンナは消える。
「……手紙、括り付けられてたんだけどなァ……」
薄着しか纏っていない身体に、外の空気が染みる。
ここも通常の歌舞伎町と同じく暑いのだが、それでも心は寒かった。
後に残されてやることが無かったので、矢に括り付けられた手紙を五香は取り外し、読み込む。
「……『この町のルールを知らなければ死ぬ』……?」
手紙は、そんな一文から始まっていた。
「……あ、やっべ」
全文を高速で読み込み、その結論に至った。
やり口がバカ過ぎただけで、あの狙撃手は敵ではない。
どころか、味方だ。しかもこの町で活動するには必要になる類の。
「ちっ」
スイッチが入った五香は急いで服を着る。
あの狙撃手がジョアンナに気絶でもさせられたら最悪だ。
貴重な情報提供者なのだから。
◆◆◆
追った結果、相手がどうやら
いかに空が暗いとは言え、歌舞伎町三丁目はイヤと言いたくなる程照明が強い。見失うことはまずありえない。
相手はジョアンナが森精種だと知るや否や、風下に風下に逃げていくが、それでも視覚と足で十分追いつける。
「……結構人が多いわね……」
本物の歌舞伎町並みではないにしろ、走るジョアンナと狙撃手を怪訝そうに見るのは上等なスーツやドレスに身を包んだ、いかにも上流階級の人間ばかりだった。
それと混じって人間ではありえない臭いも流れてくるが、これは良くわからなかった。
(……? 何人か……人に混じって変なのがいる……?)
見た目は人。挙動も人。だが、それだと明らかに辻褄が合わない臭いだ。それが通常の人間の隣に、当たり前のように佇んでいる。紛れ込むように何人も。
激しく気になるが、今は狙撃手の確保が先だ。
どうにかして捕まえたい。
(……銃、使うべきかしら?)
それなら早く済む。安易な手に頼ろうか、とジョアンナは逡巡するが、やめにした。
ジョアンナの方が僅かに足が早い。
「……ちっ!」
裏路地に入った狙撃手がくるりと身を翻した。
このままだと逃げきれないことに気付いたらしい。
相対して顔を拝む。相手はどうやら女性のようだ。
ジョアンナにとって初めて見る顔だった。
服はどこかの工場勤務なのか薄汚れたツナギ。髪は後ろでバレッタで留めている。先ほど手に持っていた弓はおそらくどこかに投げ捨てたのだろうか。今はどこにも見当たらない。
つまり、あれを武装とは最初から認識してはいないようだった。
(私を誘ったのかしら……何のため? 残った五香に別動隊が近付いてるとか……それなら裏切に任せれば多分大丈夫でしょうけど)
マントの裏の銃に意識を向ける。
相手が何をする気だろうと、一瞬でカタを付けられるように。
「お前っ……!」
黙っていると、ツナギの女が口を開く。
その表情から読み取れるのは、恐怖だった。
まだ何もしていないのに、こんな表情を向けられる謂われはないのだが。
「どうしてあの明智四麻と一緒にいる!? わ、私を追ってきたのか!?」
「え?」
「……くそっ。くそっ! 覚えてないか! お前! 十一月三日の深夜三時だ! そのときにお前、私から――!」
隙だらけだったので距離を詰めて腹に蹴りを入れて黙らせる。
「げぴゃぼっ!?」
ツナギの女はそのままザコの如く、あっさりと意識を手放してその場に転がった。
隙があるのならそれを突くに越したことはない。どんな実力者だろうと気絶してしまえば如何様にも調理できる。
「……うん。勝利ね!」
「ジョー! 待て! そいつは……!」
肩で息をする五香が遅れて裏路地に辿り着くが、白目を剥いて気絶するツナギの女を見てすべてを悟った。
どうやら遅きに失したらしい。
振り向いたジョアンナは、落胆した五香の姿を見てぎょっとする。
ジョアンナの注文通りブレザー制服だが、ボタンがところどころ外れ、スカートもズリ落ちる寸前という惨事がそこにある。
「あなた、服くらいちゃんと着込みなさいよ! ブラ見えてるわよ!」
「急いでたんだ、仕方ねーだろォ! くそっ!」
珍しく五香は毒づいた。
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