第90話 ※彼女の名は空虚
ドクターには一応戸籍上の本名はある。殺し屋というアウトロー極まりない職業の中にあっては名前など足枷にしかならず、実際捨てている同業者も何人か知っているのだが、彼女はそれを捨てられずにいた。
そこには深い理由など無く、ただ単に一匙のセンチメンタリズムがあるというだけだ。将来本当に好きになった人ができたらその人だけに教えたらロマンチックかな、くらい軽い動機。
殺し屋になった理由も今となっては思い出さない。覚えてないわけではないが二十年近く前の話な上に、思い出しても一切愉快ではないので。
人間の進路を決めるものなど大抵の場合似たようなものだろう。生まれ、環境、流れだ。
故に彼女は憎悪する。
立派な家に生まれ育ち、明るい未来が約束された五香を。
自分の行為に疑問を持たず、迷いなく正義面できるジョアンナを(特にこっちは性格も好きになれない)。
殺す
ただしメルトアは子供なので別だ。
子供はいい。綺麗な物でも汚い物でも、無警戒に心に引き込んでくれる。
彼女の目に映る自分だけは『ピンチのときに駆け付けてくれる大人のヒーロー』だといい。そう願う。
そう願うが故に。
目の前の狐目のタスキ掛け着物女をすぐにでも殺したい。
◆◆◆
(ふーん。煙の中でも案外、目を凝らせば人がいることくらいはわかるもんだね。これ以上離れたら無理かもだけど)
慣れればおそらくもっと自由に戦える。現実に、目の前の女は煙幕の中で自由に動くための訓練をしているはずだ。だからメルトアを翻弄できたし、ドクターの攻撃を二度も退けている。
(……相性が悪いかなー。ウチの
おそらく彼女の目には、ドクターの透明な爪がハッキリと見えている。
(ウチのスライムは出す度に光の屈折率が空気と同値になるよう設定されてるけど、こうも空気以外の物が混ざった空間だと完璧に丸見えになっちゃうんだよなぁ)
出した直後には必ず引っ込めるように努めていたが、無駄だったようだ。相手はドクターが飛び出して来ても逃げられるギリギリの間合いから飛び出そうとしない。
着物の内側をゴソゴソと漁っているが、おそらくあれは中距離から攻撃できる武器を探しているところだろう。
そうはさせないと、ドクターは相手の息の根を止めるつもりで突進する。
「もういい。死ね」
「暗器その二。組み木檻」
ガキン、と爪が阻まれた音と手応え。
いつの間に作ったのか、檻状の柵が彼女の身体を守っていた。ただ檻なので隙間がある。彼女はそこから腕を伸ばして、先程使った掌の爆弾をドクターの顔に向かって放った。
「ぎっ!?」
多少距離があったので頭が風船みたいに割れることは無かったが、眼球がグシャグシャに破裂したため視界が一時的に奪われる。
(また逃げる気か!? しょうもないことを……!)
違う。
理性的な思考の裏で浮かんだのは本能が出した否定の二文字。
(殺気が消えてない……!?)
ドクターは距離を取るためにバックステップ。スライムを盾の形に変え、目の再生に努めた。
「!」
意図的ではなかったが、そのモーションがドクターの危機を救った。ガムシャラに突っ込むでも爪を振り回すでもなく後ろへ飛んだその動作が『間合いの調整』に見えたため、雨桐は様子見せざるを得なかったからだ。
(……あとちょっとで首をふっ飛ばせたはずだったのに! 忌々しいネ!)
組み立て式防御柵、商品名『組み木檻』を片付け、雨桐は距離を取り、新しく煙幕を焚く。
タイミングを逃した以上、次の手を考えるしかない。
(大丈夫。あの爪がこっちの防御手段で防げることはさっきの戦いで予想できていたこと。相手だって化け物じゃない! 人間ネ! 私でも勝てる! 手数の多さだけが獄死蝶での私の長所ヨ!)
雨桐が算段を付けている間に、ドクターの眼球が回復した。
(来る!)
ドクターは自覚できていないが、煙幕による効果によって普段の素早い挙動が僅かに鈍っている。
雨桐はその隙を突き、次こそ相手の首を爆破するつもりだった。いかに
(さあ。次は一体どんな手で……?)
次の手を考えていた雨桐は拍子抜けした。また爪を展開させて突っ込んできている。
(……?)
また組み木檻で防げばいいだけの話なので用意はしておくが、解せない。効かない攻撃を何故また仕掛けて来るのか。
雨桐はまたベストなタイミングで組み木檻を展開させ――
「……ヒヒッ!」
「――」
笑い声が聞こえた直後、右目の視界が途切れた。
雨桐は最初、相手が何をしたのかどころか、自分が何をしたのかすら理解できなかった。
気が付いたら、雨桐は仰向けに倒れている。
「は……?」
違和感を覚え、うっかり素手で自分の右目周辺を触ってしまう。
ぬとり、とした手触り。そして尋常ではない痛み。
「……ぎいっ……あ、あ、ああっ……!?」
右目を触らないよう覆って、蹲る。自覚した途端、思い出したように激痛が噴き出して来た。
右目が完全に刺し貫かれている。とめどなく血が溢れて止まらない。
「あっれー? 本当に勘がいいなぁ。脳幹ごとブチ抜く気だったのに。まさか飛びのかれるとは。でもまあ、いいか。痛くてもう逃げるどころじゃなさそうだし」
それは雨桐の持っていた情報が不十分だったからこその有効打だった。
つまり雨桐は、ドクターの透明な爪のことを『変形するものだ』という認識をしていなかった。頭のどこかに仮説の一つとして浮かべていたとか、その程度で済ませてしまっていたのだろう。
ついでに、ドクターは爪の出し入れををできるだけ『瞬時に出現、消滅』したように見える程早くしていた。かなり疲れるが、このブラフも功を奏したためドクターは得意に笑っている。
「残念だね。もしここにいるのがピストルちゃんやメルトアならそこまで酷い怪我はしなかっただろうけどさぁ……ウチはウチだから」
「……!」
死が雨桐に悠然と歩み寄る。ただし、その右手に備わっているのは爪ではなく、サーベル状に細く長い一本の剣だった。
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