第81話 ※ドクターテリブル

「ぬ……むむむむむ……むむむむむむむぅー……!」


 ドクターとの電話を切ってから、メルトアからは落ち着きが消し飛んでいる。

 更に包帯が増えた五香の周りで、気絶している彼女の周囲を行ったり来たりを繰り返している。


「だ、大丈夫か? 死んでないか? 息はまだ……しているな。あと何時間くらい大丈夫なのだ?」

「少しは落ち着け。子供みたいな心配をするな」


 涼風は、バリケードのされた部屋の入口を見る。

 ひとまず怪我をした五香は涼風が担ぎ、殿はメルトアが務め、どうにかパノライラから逃げることに成功した。


 今は、そこそこ大きな倉庫室で息を潜め、ドクターが来るのを待っている状態だ。床にはメルトアのコートを枕にした五香が、超最低限の治療を受けた状態のまま眠りについている。


 包帯の材料は五香が持ち歩いていた四麻のスーツだ。メルトアの筋力なら素手で破けるので苦労はしなかった。


「それよりも問題は、ドクターってヤツより先にあの町長が来る可能性が高いってことだ。場所も伝えてないのに本当にここに来れるんだろうな?」

「そこに限っては大丈夫だ。余にもドクターの位置はわかる」

「……そういえば、足止めで一度は別れたはずなのにお前も五香の位置がわかったな? 一体どうして……」

「それはまあ、色々と」


 ここに来て歯切れが悪くなった。

 不思議と、この混竜種の女は秘密とは無縁だと思っていたのだが、やはり彼女にも話せないことはあるようだ。


「……しかし、静かだな。余らのことをあまり積極的には追いたがってなかったようだし、一体何をしているのだ? あのパノライラとやらは」

「さあな。その辺りについては私もよくは知らない。だがあの焼死……」

「ん?」


 そういえば、バタバタしていたせいでメルトアは焼死体のことを一切知らないのだった。あの後すぐに部屋を出たので結局一体たりともそれを見なかっただろう。


 胸糞悪いので、知らない人間へ積極的に話す内容ではない。涼風は口を噤んだ。


「……何でもない。それより、件のドクターとやらを待とう。あとどのくらいで来るかわかるか?」

「わかるぞ! あっちを見ろ!」

「あっち?」


 と、素直に向いているとメルトアが後ろで何かをしている気配がした。

 特に何の変哲もない資料棚(あるいは資材棚だろうか)を見ていても、まったく何もわからなかったのでメルトアに振り向くと、メルトアの顔が先程よりも華やいで見える。


「もうこのビルに着いているようだったな! きっともうすぐだ!」

「……ん?」


 何をしたのかはわからなかったが、確信だけは感じる。

 このビルに着いているという言葉に嘘は無い。涼風の視点からは、メルトアがそんな気休めを言えるような人間ではないことは明らかだった。


「そうか。ならそんなに固くならずに待っていれば助かるか」

「病み上がりのジョアンナも来るだろうしな。不甲斐ない。ゆっくりしていてほしかったのだが……」


 ガタン!

 そんな金属質の大きな音が聞こえてきたのは、希望が見えて来た矢先だった。


「……!」


 次いで、何かが落ちて来るような音。

 息を潜めながら、涼風は己の失策を悟った。


(通気ダクトか……!)


 相手が使ったのは、おそらく小柄な人一人がやっと通れるサイズのダクトだ。

 パノライラの体格では入っても詰まる危険性があるからと完全にスルーしてしまっていた。


(……バカか私は! 相手が一人だけじゃないことを知っていたはずなのに!)


 まだ目的のコクリカを見ていない。ひょっとしたらパノライラと共謀して、自分たちの始末をしに来たのかもしれない。


(でも何故? 私たちに始末される覚えなんか……!)


 そこまで考えて、涼風はかぶりを振る。

 始末される原因なんていくらでもあるからだ。始末する以外に使い道がある人間もいる。


(四麻と同じ明智家の御令嬢。三丁目の秩序を乱した張本人たち。セントラルビルへの侵入者。心当たりがありすぎるか!)


 生唾を呑み込み、様子を見る。やがて通気ダクトから倉庫室へと入ってきた人間のシルエットが遠目に確認できた。

 そこにいたのは、中学生くらいの背丈の邪鬼種イビル。パーカーに身を包んだ見慣れた姿。


「やっほ。遅れたねメルトア」

「お前は……!」


 件のドクターとやらだった。メルトアが呼んだ頼みの綱。彼女の言うことには医療行為ができる人間。

 連絡をしてからそうそう時間は経っていないにも関わらず、かなり早い到着だった。息もまったく上がっていない。


「五香ちゃんはそっち? すぐに治療するから見せてくれる?」

「ああ。頼む。よかった、私たちでは手に余って――」


 ガタン、とそのとき涼風の目の端で何か大きな物が動いた。


「は?」


 大きさの割に速かった。まるで加速が付いた車のように。

 それはメルトアが担いだ資料棚で、次の瞬間にはとなった。


「えっ」

「えっ」


 困惑にポカン、としたのも束の間。ドクターに吹っ飛んだ資料棚が豪奢な激突音を上げる。僅かに遅れてドクターの悲鳴も上がった。


「ぎやあああああああああああっ!?」

「ええーーーッ!?」

「……しまった。強く投げ過ぎたか?」


 己の失敗に、メルトアは冷や汗をかく。涼風の見立てでは、どう考えてもそこではないが。


「な……ななななな……何を……何をして、お前……何?」

「あぶ、あぶあぶ……危な……!」

「ん?」


 ドクターの動揺した声が聞こえてきたのでそちらを見ると、どうやらすんでのところで逃げきれたらしい。腰を抜かしつつ、それでもドクターは無傷だった。


「ちょ、メルトア!? 一体何を――!」

「すまない。ドクターに言われたのだ」

「え? ウチに?」


 は? と疑問を顔に出したのは涼風だけだった。

 その瞬間、ドクターの驚きの表情は凍る。先程までの狼狽が嘘のように消え、ただメルトアの瞳の奥を推し量るような表情に。


「ドクターにはこう言われた。『誰かに治療してあげるとか助けてあげるとかこっちに来れば助かるとか言われたら、それはキミを騙そうとしている悪いヤツだ』と。この先何を言われたかはうろ覚えだが、確か『その辺のものを投げつけて帰らせちゃえ』とも言っていたな」

「……何を言ってるの? ウチは悪い人じゃないよ。さ、早く五香ちゃんを見せて」

「次は当てるぞ」


 涼風はふと、メルトアの顔色を見る。


「……ッ!」


 脅しているというのに、実際それができるだけの力も十二分にも持っているというのに、メルトアはドクターを見て明らかに怖がっていた。

 それは本当に、これ以上近づいて欲しくないと顔に書いてあるようで――


「……本人じゃ、ない……?」


 その可能性に涼風の背筋も凍る。

 見た目も声もドクターそのもの。そのはずなのにメルトアがここまで怖がっているということは、バカげた答えしか残らない。


「偽物……!?」


 無表情のドクターは、尚も佇んでいた。幻のように消えもせず、そこにずっと存在している。

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