第87話 ※たった五秒に過ぎなくとも

 迫ってくる煙の量が明らかに増えている。膝を付いて息を荒げるメルトアを介抱しながらも、涼風はそれを正しく認識した。


(クソッ! このタイミング! どう考えてもあっちはメルトアの様子を見た上で煙を増やしている! 今度こそ私たちを殺す気……!)


 しかし、そこでやっと涼風は相手の裏の意図を読むことができた。


(……あれ? 待てよ。これが毒ガスだとして、私たちを殺す気だったなら、最初のドクターへ変装した上での接近は何の意味があったんだろう。最初からこれを使えばいい話だぞ……?)


 辻褄が合わない。

 そこから、目の前のこの煙が本当に毒ガスなのかどうかに疑問が及ぶ。


(いや待て待て待て! そういえばこのガス、見た目があまりにもあからさますぎる! こんなアホみたいに濃い紫の毒ガスがあるか!? しかも床を這うように進んで来るんだぞ!? 本当に私たちを殺す気なのか……?)


 今時、神経ガスの類に限っても『肌に触れるだけでアウト』な物が多数ある。

 ソマン、サリン、タブン等が代表例。だがこれらのガスはこんなふうに焦らすような充満の仕方はしない。

 殺す気ならもっと早く散布する方法などいくらでもある。


 涼風は自分の目が恐怖で曇っていたことを自覚した。

 目の前のこれは毒ガスである可能性は極めて低い。目的があるとすれば、メルトアと涼風を怖がらせること。または単純に目眩ましだ。


(最初から相手の目的が変わってないと仮定するなら……!)

「……相手はただこっちに近付きたいだけだなァ……このガスに毒はないってェ」

「!」

「あの棚の下敷きの死骸もどきも考慮に入れた上での予想だけどなァ」


 足元から声が聞こえた。

 涼風だけでなくメルトアも驚き、振り向く。


 五香が薄目を開けて二人のことをぼんやり眺めていた。


「起きたのか!?」

「いや……声だけは微妙にずーっと聞こえてた……ような気がするなァ」


 耳聡いと言うべきか、気絶していた最中も現状を把握するのに事欠いていなかったようだ。声は小さいが、喋るのに不自由はしていない様子もある。治療を受ければきっと大丈夫だろう。


 そんな余裕があればだが。


「……五香お姉。何か作戦とかはあるか?」

「私がこのザマじゃかなり限定されちまうなァ。ごめん。自分の脆さを軽く見てた。まさかこんな形で足引っ張っちまうなんてよォ」

「いや! 違う! あれは余が……!」

「時間が無い。反省会は後にしようぜェ。やることは結局、たった一つだけさァ」

「……それは……!」


 五香はわずかに首を巡らせ、メルトアに微笑みかける。


「お前は間違ってなかったよ。それだけは私が保証する」


 それだけで十分だったのだろう。五香はまた、電池が切れたように眠りについた。


「……やることはたった一つだけ……」


 その言葉の意味するところは、メルトアにも一応理解できた。

 やることは結局一つだけとも言っていた。


「ふうっ……ちょっと体力は回復した、かもな」


 強がりだ。それも子供相応の、薄っぺらな強がり。

 だがメルトアにはそれで十分だった。


(五香お姉が何を考えていたのか。余にはまったくわからない。気遣いか。同情か。それともまさか本心か。だが、たった一つだけ余にもわかることがある)


 身体に張り付いた霜が熱によって昇華する。消耗した目に生気が戻る。

 誰の目にも明らかだった。メルトアはまだ、戦える。


(ドクターを待つという選択は変わらない! そして、ここまで言われたなら応えねば王女としての誇りが廃る!)


 二本足で立ち上がり、迫る煙に向かって構える。

 弱気だったメルトアは、あと少しだけ強がりを続けなければならない。

 勝てないのならば、せめて時間を稼ぐ。それがメルトアの選択だった。


「……ム? 一つじゃないな。これでは二つだ」

「は?」

「何でもない!」


 短い時間でも今回は煙の発生点が多い。少し話しただけでも、もう煙は目前だ。逃げることも、もうできないだろう。


(敬意を表そう。これは余ではどうにもできない相手だ! もう煙を処理することもとてもできそうにない! 壁も床も、どこに誰がいるのかわからない状況では壊すことはできない! 巻き添えになりかねないからだ!)


 だが、あと一回だけなら使える手がある。

 メルトアは呼吸を整え、煙をまた吸い込みにかかる。


「なっ……やめろメルトア! お前の身体に何が起こってるのかはわからないが、多分健康に良くないぞ!」

(知っている! だが余は五香お姉の言葉を信じる!)


 この煙に毒がないのであれば、吸い込んでそのまま焼却しなければいい。


「……なっ……!?」


 メルトアは煙を吸い込んで、そのまま息を止めた。煙の焼却は行わない。

 自然、会話ができなくなったが、メルトアはかなり苦しそうだった。


「むぐー! むぐぐぐぐー……!」

「ええっ、これは……大丈夫なのか!? 大丈夫なのか!?」


 毒性がないのは本当らしい。嘔吐反応は一切見られない。

 ただ単純に膨大な空気をため込んだまま息を止めているこの状態が苦しいだけのようだった。


 煙はまたしても消し去ることができた。

 だが、この状態ではこれが正真正銘の最後だろう。

 相手もそれを理解している。また煙が同じように発生し始めた。


「ぐっ……もう、今度こそダメだ……!」


 思わず涼風の口から弱音が出てしまう。

 それを裏で聞く雨桐はようやくか、と胸を撫で下ろしていた。


(時間にしてたかだか五秒くらいだったネ。所詮は殺人処女クソガキ。どれだけ強かろうが私の敵じゃないヨ)


 早く、早くと煙幕の中で小さく呟く。

 涼風の胸に毒針を突き立て、五香をメルトアからかっ攫う準備ができるのを今か今かと待ち続ける。


(さあ! 早く! さあさあさあさあ!)


 早く、早く、と呟き続けて。


(あれ?)


 ふと疑問に思った。

 どうしてここまで急いでいたのだったか。急に気になってしまった。


 援軍が来るから?

 それは状況からして間違いないとわかりきっていたことだ。もっと別に、何か理由があったような。


 雨桐自身も気付かないような恐怖の対象が近付いてくる、そんな予感があった気がする。


(ええと、でもそれ……今気にするようなことだったっけ?)


 それは後から考えると虫の知らせというヤツだったのかもしれない。

 急に、廊下側の壁に衝撃と音が走った。


 ドン、と。


(ん?)


 この壁は防音だ。余程のことが無い限り、こんな音は鳴らない。例えば。


(んんんんんんん!?)


 壁に巨大な刃物が突き刺さりでもしない限りは。


「……!」


 メルトアの目が大きく見開かれた。


(来た!)


 更に数度、壁が見えない刃によって切り裂かれる。乱暴に、乱雑に、壁の向こうに誰がいるかなど一切考えない無思慮な手付きで。


 そして切り込みの入った壁を、何かが突き破って入ってきた。


「つぅぅぅいぃぃぃたぁぁぁぞーーーッ!」


 銀髪。頭に黒い角。全身褐色肌の全裸の少女。

 通称ドクターと呼ばれる、メルトアとは別方向の怪物モンスターが、状況を終わらせるために乱入した。

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