第116話 ※苦渋(?)の決断

 多少時間は遡る。

 人質交渉において絶対に言っておかねばならないことを真っ先に言ったのは涼風だった。


「それ以上動くと、うちのメルトアがこの子供の頭を引っ叩くぞ!」


 当然、部屋に入ってきたコクリカは硬直する。だが誰の眼にも明らかなほど、メルトアもその発言を聞いて驚いていた。


「そっ……!」


 そんなことをしたら死んでしまうではないか!?

 と、メルトアが自分の思考をそっくりそのまま口にしなかったのは、ここ数日の慣れによるものだった。こういうとき自分は黙っていた方がいい。いるだけで役に立つので功を焦る必要がない。


 この場の誰よりも速くて強いということは、それだけで暴力を前提とした交渉では最強のカードだ。六歳児のメルトアは明確な理屈として理解していたわけではないが、ぼんやりとした概略は落とし込んでいた。


 それに心情的に納得できるかどうかは別として。


 さて、コクリカはと言うと万が一にもパノライラを失うわけにはいかないので、メルトアに殺傷の意図が九割存在しないことは計算できていたものの、残りの一割から動くことができなくなった。


 人質を取られた側にとって、最早『本当にやるかどうか』は問題ではない。『相手にそれが可能かどうか』で物事を判断するしかなくなる。


 いやそれ以前に、コクリカはパノライラに苦痛すら感じてほしくない。単純な親心から、怪我一つとして容認はできない。


「お前たち……それが人間のやること? 人の家に上がり込んで、子供を人質にやりたい放題とか! 外道ここに極まれり的な!」


 本心ならこの場で跪いて『何でもするからパノラだけは』と懇願したい気持ちでいっぱいだったが、この場で弱気を晒すことは敗北を意味する。本当に相手は何でもさせるだろう。


 その場合、パノライラはともかくとして少なくともコクリカの命は保証されなくなる。この場の最善手はわかりやすく、目の前に転がっている。


(メルトアへの泣き落とし……!)


 共犯関係を瓦解させるのは容易い。顔と相手のパーソナリティが割れていれば格段に。

 その場での一番足手纏いになっている人物へ働きかければいい。


 その人物の存在が場の前提となっている場合は致命的だ。


(相手は六歳児。加えてあの動揺しきった顔! 明らかにこの状況についていけてない! ひょっとしたらついていく気すらないのかも! コイツさえ! コイツさえ落とせればどうとでもなる!)


 目の付け所はまったくもって間違っていなかった。メルトアはパノライラのことを傷付けたくないと本心から思っていたし、流石にそんなことを五香や涼風から命令されれば従える自信が無かった。


 もしもコクリカが直接的に『大事な子なので返してください』と言ったら、そこで沈黙を貫き通すことは難しくなるだろうとも思っていた。


 だが――


(五香お姉……!)


 メルトアはそうはならないと信じていた。

 何故ならこの場にいる人間たちの中で、唯一場を俯瞰するように沈黙していた五香の眼から冷静さが消えていなかったからだ。


「……メル公」


 人質を取っている側は比較的自由に動ける。五香はおもむろにメルトアの耳に口を近づけ、要件を端的に伝えた。


「……ん……! いいだろう、そういうことなら。わかった」


 瞬間、コクリカは目を見開いた。相手は子供だからこそ、その変化は一目瞭然だった。メルトアの眼に芯の入った光が灯る。


(……動揺が収まった!? バカな……何を吹き込んだ!?)

「コクリカ・スカイアーチ……だよなァ? 私たちの要求は簡単だ。外に出せ」


 気付けば、五香が交渉の一切を引き継いでいた。

 短時間であっと言う間に隙を潰されたものの、しかし可能性を投げるコクリカではない。

 脛に傷がある者への交渉事の王道は引き延ばし、引き延ばし、引き延ばしだ。


「……すぐには無理。多少時間が……」

「いや? 緊急脱出的なギミックがあったはずだよなァ。一度見たきりなんだけどよォ。あの刺客を差し向けたのお前だよなァ?」


 彼女たちはやはり雨桐と遭遇しているようだ。連絡が一切ないので正確なところは不明瞭だが、やはりあの緊急脱出路を使ったらしい。


(本当に役立たずだなぁ、アイツ! どうする? 素直に渡すか……? いや、でも)


 どうしたものか、と頭を巡らせるコクリカはうっかり自分の白衣の右ポケットを外側から握ってしまう。


「……そこかァ」

「!」


 ねめつけるような視線と、迂闊さを指摘するような言葉。いつの間にかコクリカは、挽回のしようがないほどに追い詰められていく。


(……クソッ! こうなったらもうリスク込々で全部台無しにするしかない。送電はまだ不完全だけど!)


 制止の声がかかるよりも早く、コクリカは逆のポケットからスイッチを取り出し、親指で押した。安全装置はこの部屋に入る前に解除している。


 直後、ズシンと建物全体が揺れる音。


「なっ……おい! 今、何のスイッチを押した!?」

「ちょっとした自爆装置的な。もうコクリカにも取り消しできない!」

「お前! 余計なことをすればメルトアが……!」

「もしその子に傷一つでも付けてみろ! お前たちはコクリカと一緒に心中だ!」

「は!?」


 予想外の行動と発言に二の句が継げなくなった涼風をよそに、五香は床を見ながら何かを確かめるように足踏みしている。

 しばらくして納得したように頷いた。


「……自爆装置……というか、これ自壊装置だなァ。床が傾いてやがる。ちょっとずつ、一定の方向に」

「大正解的な。これは建物の基礎の部分を。ただそれだけの仕掛け。でもこの傾きは建物の重さと重心によらず常に一定の速度で進んでいく。さて。真っ直ぐ立っていることが前提の超高層ビルが、ほんの三十度ほど傾いたところで何が起こるのか。わざわざ説明するまでもないよね」


 コクリカがやったことは意図的なタイムリミットの設定だ。

 もはや正攻法での交渉が成り立たない以上、ここから先は奇策で応じる。後はコクリカ側のブラフのラッシュでどうにかパノライラを解放させるしかないだろう。


 脱出しなければ建物の瓦礫と化すこの状況なら、効果的なものはいくらでもある。


 もしパノライラに傷一つでも付けたならその時点からお前らの内の誰か一人に死ぬ気で付き纏って脱出を阻んでやるぞ、とでも言えばいい。

 この場にいる誰も直ではコクリカの戦闘能力を知らない。かなりのプレッシャーにはなるだろう。


(パノラは大丈夫。三十秒ほど時間があれば自力でこのビルから逃げられる。混乱に乗じてどうとでも――)

「今からお前にパノライラを投げる。しっかり受け止めろよォ」

「……え? なんて?」


 会話の流れをブッた切る言葉が聞こえた気がした。

 次の瞬間、視界いっぱいに広がるパノライラの体躯。


「は? べっ!?」

「ま、マミー!」


 激突、と言うには事前通告による猶予があったので衝撃は少なかった。

 だが隙としてはそれで十分だ。


「出口がガラ空きだ! 逃げるぜェ!」

「……はあ!? 五香、お前、何言って――!」

「メル公、涼風さんを抱えろ! コバヤシが先導する!」

「ああ、付いていくぞ五香お姉!」


 そして本当に五香たちは、一も二もなく逃げて行く。

 コクリカの持っている緊急脱出路に一切目もくれず、パノラを投げつけられたことによる僅かな隙を突いて消えてしまった。


 後に残された二人はキョトン、とその姿を見送るばかりだ。


「……あれ? この町からの脱出が目的だったんじゃ……なかった的な?」


◆◆◆


「いや? 実は必ずしもコクリカ本人に執着する必要はとっくになくなってるぜェ?」

「……どういうことだ?」


 五香は走っているコバヤシに跨り、涼風はメルトアに横抱きされながらその場を離脱していく。

 その道中、五香は涼風たちへのネタばらしに勤しんでいた。


「メル公から聞いた裏っちの消えたときの状況を思い出してたんだよなァ。確か『何かを投げつけられたと思ったら消えていた』だったっけ。でも現場を眺めてみても、その投げつけられたらしい『何か』は発見できなかった。

 その何かは裏っちを外に『弾き出した』んじゃなくて『連れて行った』ような仕組みのアイテムだった可能性が高い」

「それが?」

「裏っちは抜け目ない。こっちに戻ってきたときに、絶対にその何かを持ち帰ってきているはずさァ」

「……あっ! まさか、のか!?」


 まだドクターと合流、ないし連絡しなければ詳細は不明だが、その可能性は高いと五香は踏んでいた。

 ただし、そっくりそのままとは行かないだろうとも考えていたが。


「多分ぶっ壊れているとか……エネルギー切れだとかでそのまま使える状態じゃねーだろうけどなァ。実物を見て判断するしかないと思う」

「あれ? じゃあ、コクリカと対峙したときに出口にやたらと興味を示してたのは……ブラフか?」

「似たようなモンかもなァ。ちょっと揺さぶって手の内を見ておきたいと色気が出ちまった」

「色気って……それで自壊装置を発動させちゃったのか。じゃあ結局、最初の方でメルトアに何かを言って落ち着かせたのは一体……」

「それは本当に簡単さァ。私がメル公に言ったのはただ一つ。『もう人質に執着しなくていい。私が合図したときか、お前が限界だなと思ったときにアイツに向かってパノライラを投げ渡せ』。地味に出口周辺に立たれてたのが邪魔だったしよォ」

「……!」


 メルトアの緊張状態はこれで解ける。何せ人質の処遇を完全に一任したのだ。別に解放しても惜しくないと事前に言えば、メルトアの心理的負荷はかなり軽減できる。


 実際、今のメルトアの表情を涼風が盗み見ると、彼女はとても清々しい顔をしていた。


「……母親と離れ離れになる辛さは今の余が一番わかっている。ありがとう五香お姉。ああ言ってもらって、余はとても助かった」

「礼を言われるほどのことじゃねーってェ。いや本当に。むしろ付き合わせて悪かったくらいでなァ」


 実際、あの場でメルトア含む誰もが一番想定できていた最悪の結末は『メルトアが五香たちを裏切って人質を手放す展開』だ。


 後でメルトア自身が五香たちに対して負い目を感じるし、その負い目を覆い隠すために『あれは五香たちが悪かったから』と責任のすべてを五香に擦り付け始めたら、もう運命共同体としての体裁は二度と取り繕えなくなる。


 亀裂の入った関係性の先にあるのは破滅だけだ。


「私たちに人質作戦は向いてない。あの場にコクリカが到達した時点で、その方向性での最良の結末は用意できるはずもない。パノライラを手放すのは確定事項。後はその前にどれだけコクリカから手の内の情報を毟り取れるかだけが焦点だったってことさァ」

「……」


 ――コイツ、あの短時間でそんな先まで見ていたのか。


 涼風は五香の頭の回転の速さに改めて戦慄する。

 これが明智家の御令嬢。明智五香――!


「で。ごめん。どうやって脱出するかまでは考えてなかったんだけど……さァ」

「……え」

「何かいい知恵ねーかなァ……?」

「……そ……」

「そ?」

「そんな大事な場所で詰めを甘くするなぁーーーッ!」


 顔を青くして冷や汗をかく女子高生に対して、思わず怒鳴ってしまった。

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