第99話 父と母と子
タイミングが悪かったのか良かったのか。
ただもしもあと少し早く明史の疾患が判明していれば、二人は三人目の子供を作ることを避けていただろう。
今回も特に頑張って作ろうとしていたわけではないのだが、避妊をやめればすぐに妊娠してしまうあたり、二人の体の相性はいいと言える。
ちょっと言い方がおかしいかもしれないが。
瑞希としてはタイミングが悪かった、と思っている。
この少子化の時代、余裕のある家庭であるならば、三人目を作ってもいいだろう。
明史がおとなしい子供で、それが余計に育児に手間がかからなかったというのも理由の一つではある。
だが明史はおとなしいわけではなく、運動に適した体ではなかった。
真琴のように致命的なものではないが、心臓の疾患。
今後は定期的に、様子を見ていかなければいけない。
心臓の疾患としては実は珍しくはない。
ただ当然ながら本来の性能を満たしていないので、体を動かすのは不得意になる。
明史が生来あまり動き回らなかったことは、そもそもすぐに疲れていたからだ。
一時は動き回らない、他の疾患なども想像していたが、言葉の受け答えが出来るようになるのは平均よりもずっと早かったし、コミュニケーションに問題があったわけでもない。
ただ本を読むのを途中で止めるのを嫌がる、というありきたりなこだわりはもっていた。
真琴があれだけ元気なのだから、下の子はおとなしくてもいいな、と思っていたのが瑞希だ。
育てる側としては、おとなしい子供の方が、楽なことは決まっている。
ただ明史は泣き喚いて自己主張をするという、そういうことも少なかった。
今から思えば、ああいったわずかな感情の上下による体力の消耗も、心臓の負担になっていたのだろう。
波乱万丈の人生とは言える。
直史と結婚したことが、その最大の理由ではあるのだろう。
真琴は自分が子供の頃、死に掛けていたことを知っている。
もう大丈夫だからという理由で、普通に子供の頃から聞かされていたのだ。
今でも子供であるが、もっと子供の頃からである。
そんな真琴であるので、弟の明史のことについても、しっかりと知らされた。
「アキ、そんなに悪いの?」
「かなり注意しないといけないな。全力で走ったりするだけで、いや普通に走ったりするだけでも、心臓に負担がかかるんだ」
普段から通常異常に頑張っていて、それでもやっと普通の性能しか発揮していない。
それが今の明史の心臓である。
真琴はまだ死に慣れていない。
そんなものに慣れたくもないだろうが、子供のうちから自然と慣れていた直史などは、そういう点でメンタルが強いとは言える。
野球の試合になど、いくら負けてしまったところで、死にたくなどならない。
本当の死に立ち会っていると、そう思えるようになるのだ。
「真琴、お父さんたちは、明史が良くなるか、手術をするようになるまで、明史のことを第一に考えないといけない。それに今、お母さんは赤ちゃんがいる」
そのめでたい話は、既に聞かされている真琴である。
「だから真琴の世話を、お婆ちゃんたちにある程度してもらって、お父さんたちは明史のために色々なことをしないといけない。だから急で悪いけれど、真琴には大人になってもらわないといけない」
こんな言い方で伝わるのか、直史としてもあまり自信はなかったのだが。
ただ父の強い視線を向けられて、真琴は強く頷いた。
「私がしてもらっていたことを、アキにもしてあげるんだよね?」
ならば自分は、それを応援しなくてはいけない。
なにしろ自分は、お姉ちゃんなのだから。
明史の早熟さに対しては、あまりお姉ちゃん力を発揮することも出来なかったが。
「私は大丈夫」
この日、真琴はごく自然に、大人への階段を一歩上った。
やらなければいけないことは多いな、と直史は整理している。
明史の体調管理はもちろんだが、瑞希もまた妊娠中なので、注意が必要だ。
医師とは話し合った上で、どういった環境にすればいいのか。
完全にずっと、安静にしているだけというわけにもいかないだろう。
とりあえず体を使った行動などは、極力控える必要があるだろうが。
手術をしなければ他に手段はない、という真琴の時に比べればまだ、随分と希望は多い。
ただ最悪、状態が悪くなる前に、手術をする必要が出てくるかもしれない。
その場合は場所が問題であり、手術の難易度もそうであるが、成功したかどうかを判断するのに、少し時間がかかる。
まずはセカンドオピニオンで、状態の確認をしてもいい。
さらに言うなら、海外の医者に診てもらってもいいだろう。
日本の心臓移植や、心臓の手術に関しては、世界トップレベルである。
だが金さえ出せるなら、アメリカでさらに高度な手術をやってもらうことも出来るのだ。
そういったことまでコネクションがあることに、直史は感謝している。
日本にいたままであったなら、そんな伝手はなかったのだから。
(俺は父親で、夫なんだから)
もちろん瑞希の母も、前のように手伝ってはくれるだろう。
しかし子供たちを最大限に守るのは、直史の仕事である。
直接的には手助けしてもらうのが難しくても、精神的に楽になるために、直史は周囲の人間にそれなりに、事態を打ち明けている。
瑞希の両親にはとっくに話してあるし、事務所の人間にも話した。
もっともそれは瑞希の妊娠というのもあるので、話さざるをえなかったのだが。
直史の側ももちろん両親や祖母には話した。
ただ弟妹たちに話すのはどうか、とそれなりに迷ったのである。
大介には伝えるな、という前置きをした上で、ツインズには話した。
いざという時はやはり、アメリカに行って手術をする、という選択肢があるからだ。
日本にもゴッドハンドと呼ばれる心臓手術の名手はいるが、明史はまだ子供なので、普通の医者では難易度がさらに上がる。
これがアメリカの最先端医療になると、AIの補助を受けて医者が執刀するらしいが、まだ人間の手の方が上回っているらしい。
ツインズはそこから、情報を集め始める。
また彼女たちはアメリカの社交界にも出ているので、そういった関係から高名な医者につながったりもする。
アメリカであるのに、病院で一番腕が立つ医者が、日本人であったりもする。
単純に日本に比べて、若手の執刀回数が多いのだとか。
ただ小児科の医者となると、さらに数は少なくなるらしい。
二人としてはどうして、という気持ちがある。
また真琴に続いて明史までもと考えると、嫌な思考が脳裏に浮かんだりもする。
自分たちや武史の子供たちは、そういった疾患のない健康体ばかりだ。
すると原因は、母体である瑞希の方にあるのではないか、などというものだ。
もちろん二人は瑞希のことを認めているし、原因というのも考えにくい。
ただ女子会などとした時に、瑞希の体についてはいくつか、秘密の話もしたのである。
ちなみに武史には話さないことにした。
しかし恵美理の方には、ツインズから連絡が行っている。
恵美理は恵美理で、父親の筋から独特のコネクションを持っている。
この心臓疾患に関しては、出来るだけ多くの医師の話を聞いて、今後はどうするかを決めたいと思うのが自然なことだろう。
武史は役に立たないのでハブられた。
ただしこれは、大介に対しても同じことである。
大介もやはり、こういったことにまでは詳しくはない。
なので下手に心配をかけるよりは、という話になるのだ。
直史がやはり連絡を取ったのは、セイバーが相手であった。
アメリカの財界の中でも、その存在感を増しつつあるセイバーは、当然ながら多くの情報を持つことになる。
また彼女自身が知らなくても、知ってそうな人間にはどんどんと心当たりが出来てくるようになるのだ。
金があつまるのと同時に、情報が集まる。
結局またも、恩師とも言える存在に、直史は頼ることになる。
『恩師と言うほどでもありませんが』
セイバーは電話の向こうで謙遜した。むしろ本人は、謙遜でもなく単なる事実と思っているわけだが。
『諸々の診断記録や撮影したものを送ってもらえれば、こちらで手配しますよ』
「助かります」
見えているわけでもないのに、直史は頭を下げた。
セイバーとしては直史の人生こそが、まさに波乱万丈であると思う。
幼少期に両親を亡くした自分や、若くして失われたイリヤ、またサクセスストーリーを歩む大介。
こういった才能というのは、それほど山があったり谷があったりはしない。
小さな困難は確かにあるが、成り上がっていくのがこのあたりの主人公だ。
イリヤは声を失うという、大きな谷が確かにあったが。
それを考えると直史は、本人の選択なので文句も言えないだろうが、確かに山も谷もあるし、アスレチックまである。
高校時代も単純に野球に熱中していたかというとそうでもないし、大学時代は学業を優先して、野球はそれほど身を入れていなかったはずだ。
出している結果が結果がなので、誰も信じないだろうが。
頑なに、自分は天才ではないという。
セイバーとしても、天才という言葉はあまり好きではない。
イリヤのことはさすがに、天才だと思っていたが。
セイバーはコネクションをたどって、名医と呼ばれる心臓手術の専門に、これを診てもらったりもした。
だがその返事は、おおよそ日本の医師と同じであった。
確かに悪化の兆候が見えたら、すぐに手術をするべきだろう。
しかし今の段階で手術をするのは、リスクがかなり大きい。
経験からすると、術中死もありうる。
今の段階で手術は勧めない、とのことであった。
真琴の場合とは違う。
可能か不可能か、それとも可能性がどれぐらいなのか。
真琴は手術以外に生きる選択肢がなかったので、手術の難易度はともかく選択自体は難しくなかった。
下手に可能性がいくつにも分岐しているだけに、決断しづらいのだ。
だが容態が安定したら、手術をするべき、という医師も多かった。
穴が自然と塞がるということはあるが、手術で塞いでしまう方が、確実ではあるからだ。
しかし心臓の筋肉にメスを入れて正しい機能とする技術。
これは機械でも確実には分からないものであるらしい。
本人の問題ではないが、周囲が彼に試練を与える。
運命というものは、実に気まぐれである。
直史も瑞希も、その社会的な立場や影響力、名声というものを基にするならば、確実な成功者である。
だがそれは個人の幸福を意味したりはしない。
保守的に封建的で、しかしながらどこか牧歌的な直史。
その幸福の基準は、もっと身近なところにあった。
歴史に名前を残したりしたいわけではない。
ただ祖先から引き継いだものを、次代に渡していく。
それが直史の根本的な望みである。
人間社会の根本は、家族というものにある。
別に独身であったりするのが悪い、というわけではない。
ただ人間という生物もまた、他の生物に等しく本能があり、社会性があるため子孫を残していこうとすることになる。
直史も瑞希も、己の家庭が上手くいったところで育っていたため、自分でも家族を構築するのに無理はなかった。
それでも一人っ子の瑞希としては、不安なところもあったのだが。
直史が考えたのは、任せられるところは任せる、というものだ。
身内の手伝いがあればありがたいが、それがなくとも金さえあればどうにかなる。
そもそも日本の場合なら、政府の支援もそれなりにあるのだ。
瑞希の場合は自分が育児をするより、働いて稼いで、それで家事や育児は専門家にある程度任せる、という手段を取っていた。
ただ佐藤家の場合は、実質二年で四人の子供を産んだ、大先輩が姑として存在していたわけだが。
瑞希と直史の母の関係は、悪くはない。
むしろ世間一般の基準であれば、いい方だとも言えるだろう。
だがライフスタイルの関係で、あまり協力することが出来なかった。
それでも何かのイベントのたびには、協力は出来ていたのだが。
直史は遠い未来のことを考える。
その未来というのは、自分が死んだ後のことまでをも含む。
おそらく自分はもう、寿命の三分の一は使ってしまった。
これから後に、どういった未来が子孫に訪れるのか。
基本的に直史は、古い人間であるのだ。
可愛い娘であっても、いずれは嫁にいくのだと、想定している。
長男の明史が、普通に家を継ぐ。
そう思っていたのだが、こういう事態になってしまった。
直史はもちろん、明史の回復に全力を尽くすつもりではある。
しかし同時に、家を継いでくれる人間がいなくなるかも、と思うとそれも絶対に避けなければいけないと思うのだ。
真琴が婿を取るか、あるいはまだ性別も分からない、瑞希の胎内の子供が男の子であることを希望するか。
子供たちと共に、長く続いていた家というものを守るのが、直史の頑迷なところである。
正直なところ、本当にそれを子供たちが、継いでいく必要はない。
ただ自分は、この実家の墓に入るのだと、そう決めている。
残された人間が、死者の望みに縛られる必要などはない。
直史はそれが、自分に合っていると考えただけだ。
自分の信念を、誰にも押し付けないということは難しい。
常に直史は、自分がそう見せていないか、気をつけるところはある。
ただ明史のおとなしい性格であると、普通に田舎に暮らしてもいいのではないか。
その程度のことは普通に考えていた。
なんなら今時古いが、見合いでもしてくれればいいのでは。
そんなことも夢想していたのである。
明史という子供は、自己主張があまりない子供に見えるだろう。
だが多少は内弁慶であるが、親戚の集まりでも喋ることは喋るのだ。
本などから知識を得る読解力は、相当に優れている。
そして自分が死ぬ可能性が高いということも、理解していた。
死とはなんなのだろう。
ある程度の生活水準がある家庭に育てば、誰でも一度は考える問題であるのかもしれない。
ただそれが自分に直接に迫っている、という一桁児童は少ないだろう。
明史にとっても死というのは、本の中の出来事であった。
生まれつき体が弱いとは分かっていた。
ただそれを多少は不便だと考えても、絶望したことなどはない。
本質的にインドア派なのだと、周囲も本人も思っていたかもしれない。
実は佐藤家においては、それは珍しいことだ。
なにしろ田舎育ちであると、自然の中で遊ぶことが多かったので。
明史は本の中の世界に夢中になる。
他よりも早く字を読むことを憶えて、ルビの振ってあるマンガなどは、簡単に読めるようになった。
このあたりは直史も、自分が家にあったマンガを読んで、漢字が読めるようになったため、むしろ推奨していたりした。
家には他に、文字だけの本もたくさんあった。
その中には母である瑞希が書いた本もあったのだ。
身近に本を読んでいるという人間がいると、子供も本を読むようにはなりやすい。
真琴などは外で遊んでばかりのようにも見えるが、マンガ程度であれば普通に読んでいる。
ただ明史が純文学にこの年齢で手を出したのは、直史や瑞希もかなり引いていたのであるが、読書をする少年は、それには気づいていなかった。
そこでまた、死とはなんだろうと考える。
自分は平均よりも、死にやすい人間であることは分かった。
ならば生きている間に何をするべきか、それを考えた方がいいのだろう。
明史はそんなことを考えて、とりあえず読書欲を満たす。
「せめて30歳ぐらいまでは生きられないものだろうか」
達観したように呟く幼児は、実のところまだ単に、かっこつけているだけなのであった。
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