第41話 お仕事です
二月に入るとNPBではキャンプが始まる。
この数年直史は、ほとんどこれには注目していなかった。
いや、大学時代なども、ほとんど意識していなかったのだが。
強いて言うなら大介の一年目や、武史の一年目ぐらいは、どうなるものかと見ていたが。
なんだかんだ試合ではなくキャンプの始まりが話題になるあたり、やはりまだまだ日本では野球というスポーツのパイは大きい。
そのパイを大きくしてしまった自覚もなく、直史はニュースを見たりしていた。
「五年の間にかなり、戦力も変わったなあ」
MLBにいた頃は、それに集中するためあえて、日本の野球のニュースは耳に入れていなかった直史である。
ただMLBのニュースなども、ネットのスポーツチャンネルでは、ちゃんと報道されていたりする。
甲子園や神宮で対戦したメンバーは、かなりもう減っている。
30代の前半というのは、野球選手にとって一つの壁のようなものなのだ。
ここから己の肉体との勝負となっていく。
また純粋に肉体の衰えとは別に、故障なども多くなってくる。
回復力も若い頃とは比べ物にならず、若い者はいいな、などと思ったりもする。
また一緒にプレイしていた選手が、解説者になっていたり、あるいはコーチになっていたりする。
プロ野球選手のセカンドキャリアというのは、なかなか難しいものだ。
平均値だけを取ってみるなら、一般的なサラリーマンの方がよほど安定しているだろう。
ちなみに直史の場合は、NPB時代の二年だけで、収入としてはそれに近い金額を稼いだ。
税金が大きくかかるため、所得としてはまだ負けていただろうが。
MLBにしても最初の三年は、NPBよりははるかに巨額の年俸であったが、それでも成績に見合ったものではなかった。
最後の二年だけは、およそ年間70億ぐらいになって、ようやく実績に見合ったもの、といわれたが。
加えて直史は、MLB年金の対象者にもなった。
年間におよそ10万ドルぐらいであるのだから、充分に老後は生きていけるだろう。そもそもこれが、アメリカ滞在の期間延長をした表向きの理由であるのだし。
結局のところプロ野球選手でも、セカンドキャリアは必要なのだ。
直史はそれに関して、臨時コーチとして呼ばれていたりする。
ずっと野球をやってはいたが、それでも直史は野球に関して、自分がやることを重視していた。
なので地元の千葉の球団を、それほど応援しているわけではない。
応援するとしたら、当然ながら大学時代からスタジアムが変わらない、古巣のレックスである。
もっとも代理人としてオファーをしてきた鬼塚は、千葉のチームであるのだが。
レックスがオープン戦で東京に戻ってきたら、臨時コーチとして来てくれとは言われている。
だが直史が出来るのは、フォームのビデオを見て改善点を示すぐらいだ。
だいたい日本のプロ野球は、MLBで新しくなったことが、五年から10年は遅れて入ってくる。
さすがに昨今のネット社会においては、その速度も変わってきているのだが。
下手をすれば動画研究の素人の方が、正しく分析をしたりしている。
実際にセイバーは、素人ではないがプレイヤーではなかった。
直史は個人としては、プロ野球には関わるつもりはない。
レックスにはわずかに愛着があるが、地元球団を無視するというのも気にかかるのだ。
そもそも直史はもう、金には困っていない。
自己実現願望や承認欲求はあるが、それは自分の中だけで完結している。
ごく身近な大切な人間以外からは、特に評価など求めていないのだ。
それに今更誰がなんと言おうと、直史のピッチャーとしての価値は、永遠になくならないものである。
佐倉法律事務所は基本的に、日曜日と水曜日が休みとなっている。
ただ相談程度であれば、ある程度は時間に融通を利かせる。
今日も直史と瑞希は、無事に仕事を終わらせた。
現在の佐倉法律事務所は、瑞希の父が所長であり、その友人に、そして40代の弁護士が一人と、三人で仕事を回していた。
ちなみに弁護士だけではなく、従業員は他にも二人ほど雇っている。
おおかたの人間からは受け入れられる直史であったが、一緒に働くこの先輩弁護士たちからは、微妙な感情を抱かれている。
さすがにそれは直史も察していた。
体育会系からは、文化系として見られる。
そして文化系からは体育会系として見られる。
もっとも本人としては、常に文化系のつもりではある。
ただここまで近い存在であると、どうしても嫉妬の念が湧くのだ。
直史はもう、一生を食っていくだけの財産がある。
それにやろうと思えば、弁護士以外の仕事も出来る。
瑞希もまた、アメリカ時代は弁護士業など出来なかったが、執筆活動でしっかりと稼いでいた。
そもそも出した書籍が今でも、それなりのベストセラーとしてまだまだ売れているのだ。
だからこそ直史は、弁護士としての自分の仕事は、新しく開拓する必要がある。
今までの経営規模からすれば、三人も弁護士がいるのなら、それで充分であったのだから。
本当は直史と瑞希が入った時には、40代の弁護士は自分の事務所で独立しようか、という話もあったのだ。
それが真琴の病気が明らかになったため、中止になったりもしたわけで。
地域に密着してはいるが、それほど大々的な仕事が舞い込むことはない。
離婚調停や、国選弁護などもそこそこ受ける、街の小さな弁護士さん。
もっとも直史の仕事は、弁護士としての視点から、日本の野球の環境を語るものになるのかもしれない。
弁護士が弁護士として活動するためには、いくつか条件がある。
まず大前提として、弁護士会に所属していなくてはいけない。
この会費がそこそこ高いため、昨今の若手弁護士は特に、滞納している者がいたりする。
かつて3%程度であった司法試験の合格率は、制度改革以降は30%以上ともなり、弁護士は余った状態であるため、仕事の取り合いが起こっているのだ。
もっとも実は地域差が大きいため、地方ではそれなりに弁護士は不足している。
東京と大阪と名古屋の三大都市圏などに、六割の弁護士が集中している。
特に東京に四割以上の弁護士がいるのだ。
もっともこれはそれだけ、東京には巨大弁護士事務所があったりもするわけだが。
また直史や瑞希のように、副業をする場合は、届出が必要である。
この副業は一般的な倫理から見て、認めがたいものというものは認められない。
だが過去には困窮した弁護士が風俗で副業を行っていた、などという例もあったりするのだ。
直史のマスコミに対する活動や、瑞希の執筆活動などは、世の中に露出している弁護士を見れば分かるとおり、問題はないのである。
ただ直史が野球の臨時コーチをすることなどはどうなのか。
これも特に問題にはならなかった。
もっとも問題にはならなかったが、話題にはなった。
なにしろ前例のない存在であったので。
ちなみに直史はプロ野球選手であった期間も、弁護士としての登録はずっと続けている。
そうしないとオフシーズンに手伝う場合に、問題となったからである。
さて、そんな直史に対して、鉄也はコーチとまではいかないが、中学生の選手について意見を聞いたわけである。
直史としてはフィジカルやテクニックなどは、中学生では判断のしようがないと思っている。
だが問題なのは、将来に対するマインドだ。
目的意識がなければ、人はなかなか上達しないものなのだ。
それでも直史はボランティアで、投球分析などはしてみた。
アメリカにいた頃に、自分のピッチングを分析するにおいて、様々なソフトを買っていた直史である。
ただそれを活用するためには、綿密なデータが必要となる。
千葉SBCにおいて、そのデータをしっかりと収集する。
そして出した結論としては、スリークォーターの角度をあと少し下げる、という程度のものであったりするのだ。
直史は自分のコントロールに関しては、ほとんど困ったことはない。
球速アップのために一気にパワーを増やした時は、散々にフォアボールを出したこともあるが。
一試合だけで通算成績が大幅に悪化したという、笑えない事実がある。
だがそれすらも、一日でほぼ修正完了。
肉体のコントロールという点に関して言えば、直史は確かに天才であるのだろう。
そんな直史は現役時代、日米のボールの違いについて色々と考えていた。
NPBとMLBのボールの違いについてということだが。
実際は国際大会でも、MLB主催のWBCと、そうではないワールドカップなどでは、使われるボールが違う。
とにかく滑りやすく、やや重く、やや重心が不安定で、やや大きいのがMLBのボールだ。もちろん基準内には収まっているのだが。
それに対してNPBのボールは投げやすいが、それなのにNPBの選手では、ピッチャーが一番MLBでは活躍しやすい。
その理由についても、おおよそ言われている。
MLBの公式球は、縫い目の高さが高いのだ。
それだけ変化が大きくなりやすいのである。
特に顕著なのはナックルであろう。NPBで成功したと言えるナックルボーラーはいない。
またこれは、NPBのスタジアムが、ドームであることも関係しているのだろうが。
風向き、空調などが整えられたドームでは、それらの影響を受けるナックルは、あまり変化しない。
高校野球では坂本が使っていたが、その舞台は全て野天型の球場であったため、ある程度は変化があったと言っていいだろう。
ナックルはアンダースローと同じように、ピッチャーが最後に行き着く希望である。
そんな分析はともかく、直史はSBCで計測されたデータを分析する。
その結果として分かったのは、やはり腕をもう少し下げるということ。
そして効果的であろう球種は、ツーシームであるのでは、ということだ。
現在投げているのは、チェンジアップとスライダー。
中学生であれば、この二つがあればおおよそ、組み立てには苦労しない。
苦労して七色の変化球などと欲張ると、たいがいは壊れる。
直史になれる人間は、滅多にいないのだ。あるいは今後二度と現れないかもしれない。
ボランティアでこんな仕事もしてみたが、直史は基本的に情実と合理の両方を持っている人間だ。
古くからの関係性で何かを頼まれると、確かに力にはなる。
だがそれはあくまでも個人としての力で、自分の権力やコネに無理やりねじ込むということはない。
仕事などに関しては、極めて合理的で冷静だ。
弁護士という仕事上、とにかく人間の情念に関しては、色々と関わってしまうことが多いのだが。
そんな直史に対して、割り当てられた仕事が一つ出てきた。
簡単に言えば離婚調停である。
直史にやらせるには、完全に畑違いのようでもあるが、他は瑞希まで仕事で埋まっているので、仕方がないとは言える。
離婚調停は精神的な疲弊を別にすれば、それほど難しいものではない。
ただこれは瑞希の父が、直史の仕事に対する姿勢を見ようとするものでもあったのかもしれない。
佐倉法律事務所の顧客は、まず第一には地域の商店組合などがある。
地元中小企業の中でも、法務部を持てない大きさであれば、やはり顧問弁護士になっていたりする。
結局弁護士というのは、伝手やコネに信用がものを言うのだ。
そして信用は、積み上げてこそ成立する。
事務所近辺はそこそこ人口密集地で、オフィスなども多い。
すると地域密着型で、長年そこにある弁護士事務所が、信用されるというわけだ。
また今までとは違う用件に関しても、新たな弁護士に頼むというのは、はばかられるものがあったりする。
そこで身内の恥である、離婚調停なども知っている弁護士にお願いする。
逆に身内の恥であるので、普段の弁護士を使わないということもあるそうだが。
直史としてはこの仕事を割り振られたことを、不服には感じていない。
だがこういった感情面が大きな案件は、経験豊富な円熟した弁護士の方が、夫婦もお互いに安心できるのではないか。
そうも思ったが、両者が共に事務所の弁護士と、ある程度の顔見知りであったりする。
するとこれまで接触のなかった、直史や瑞希の方が適切であろう、という考えなのであろうか。
内容としては既に長年、仮面夫婦となっていた家庭で、夫側が浮気をしたのだという。
それで妻側が離婚と慰謝料請求をしているというわけだ。
これだけを聞けば有責は、夫側に100%あることになる。
ただ仮面夫婦としての期間に、既に夫婦関係は破綻していたとなると、やや話は変わってくる。
夫婦関係の破綻については、両者も認めている。
あとは問題になるのは、夫がどれだけ妻側を裏切ってきたか、などによるか。
そもそも浮気と言っても、どこからが浮気かという基準は、それぞれによって感情的には違ったりする。
一般的には性交渉があれば、ほぼ浮気として数えられる。
ただこれを証明することが出来ていない。
夫側もこれを否定しているし、妻も確たる証拠を揃えているわけではないのだ。
もっとも夫側も、条件によっては離婚に応じる、という話は出ている。
応接室でぎゃあぎゃあとお互いをあげつらう夫婦を見ていて、直史は内心ではため息をついたりする。
離婚調停ならば、そもそも持っていくのは家庭裁判所だ。
そう思っていたのだから、夫婦喧嘩を見せられても、弁護士としてはどうしようもないのだ。
要するに裁判所に行く前に、弁護士に話を聞いてほしい。
こういう話になるわけであり、また手続きもしてほしい、というものであるのだ。
単なる離婚調停であれば、別に弁護士が必要なわけではない。
他の仕事もあるわけだが、直史は事実をとりあえずまとめていった。
まず夫婦間に既に愛情はないということ。
そして特に妻側に、もう関係を再構築する意図がないということ。
それを受けて夫側も、単純に離婚自体には応じるということ。
子供がいないため、その点では障害はないということ。
たったの五年の結婚生活で、こうも破綻してしまうということなのか。
直史はむしろ、自分の家庭を顧みて、こんなことにならなくてよかったと思った。
メジャーリーガーなどのスーパースターは、それなりに離婚が多いのだ。
結局離婚調停には持っていかず、夫婦の協議離婚で決着した。
慰謝料うんぬんというのは、証拠がないので請求が難しい。
そもそも確たる証拠がないのに離婚とまで至るのなら、今後の夫婦生活を営むのは難しいであろう。
直史としてもこんなことに、時間をあまり割いているわけにはいかない。
なのでこういうパターンでは、とあっさり事例を出していったのだ。
基本的に共働きであったため、財産分与が問題となる。
そして家事の配分が妻側に多かったため、その分を夫側から渡す、という形にする。
そもそも有責による離婚であっても、それほど巨額の賠償金を得るのは、実際のところ難しい。
夫側が大金を稼いでいた、というでもいうなら話は別だが。
ちなみにこの夫側の大金というのは、まさにプロスポーツの選手に当てはまることであったりする。
弁護士としての手続きなどは請け負ったが、基本的にさほどの儲けにもならない仕事ではあった。
これが本当に夫の不貞があれば、もっとえげつない話に発展していたのだろうが。
実際のところの関係は、直史は口にしなかった。
知り過ぎないことも、弁護士としては重要だと思ったからだ。
所長である瑞希の父に報告すると、お疲れ様という応えが戻ってきた。
そして娘や所員を除いて、ちょっと居酒屋になど誘われたりもした。
「離婚を扱ってみて、どう思ったかな?」
「どうと言われても……」
直史としては、妻の父に感想を言うのは難しい。
「うちにとってはかなり遠い世界の出来事かな、と」
「けれど僕は、真琴の手術があった時、この先の二人は大丈夫かなと不安には思ったんだよ?」
「そうなん、ですか?」
確かにあれは夫婦生活において、一番大きな出来事ではあったが。
「君がMLBに行くと決めた時も、どうなるかは不安でね」
直史としては、普通に瑞希はアメリカにまで着いてきてくれると思っていたのだが。
これまでの直史は、一般人の想像から、離れた世界に生きてきた。
しかしこの先は、分かりやすい現実の中を生きていく。
それほど変わらない気がするのだが、というのが直史の感想であったが。
マウンドから降りたエースの影響は、まだまだ周囲を騒がせることになりそうである。
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