第32話 記録者
佐藤直史という人間について。
彼自身よりも彼を理解している人間がいる。
それは両親でも祖父母でもなく相棒でもなく戦友でもなく、他人として接触してから、家族となった人間である。
佐藤瑞希は彼のことを理解している。
「延長戦なの?」
真琴の問いに、だから瑞希は首を傾げる。
「どうかしら」
瑞希の知る直史という人間の本質。
それは公平さを失わないプライドと、徹底したエゴイズムの両立。
そして共通する強固な責任感が、それを成り立たせている。
ついで加えるなら、直史は完全なサディストでもある。
二年前、いや、年で言えばもう三年前か。
本当なら引退して、アメリカから日本に戻ってくるはずであった。
しかし二年間の延長を望んだのは、色々と理由をくっつけていたが、結局は大介に負けたまま終わりたくなかったからだ。
プライドの塊のような夫に、瑞希は機会を与えた。
もちろんそれが、自分のもう一度見たい奇跡であったことも、間違いなく関係している。
これは瑞希にとっても、エゴの発露ではある。
今度はもう、何も残したものはない。
それに故障という、誰にも文句を言われない理由さえもがある。
だが大介に誘われてしまうと、結局はフィールドに戻ってしまうのだ。
「本当に男の人って……」
笑いながら笑みを洩らす母を、真琴はきょとんとした瞳で見つめていた。
9イニングが終了して、勝負がつかなかった。
正直なところ、これは予定していなかった。
直史も大介も、充分にありえるはずが、考えていなかったのだ。
不思議なほどに、そこで終わってしまうことを考えず、それだけにこの事態は予想外でもあった。
「さて、どうすんべ?」
「さすがに勝負がつくまでずっとは辛いぞ。そっちもピッチャーをどうするんだ?」
直史は既に四回、大介と勝負を終えた。
そして無失点であったのだから、ピッチャーとしては勝利したと言っていいだろう。
だがレギュラーシーズンも、ポストシーズンも、直史は一つの基準を持っていた。
チームを勝たせてこそエースであると。
デグロムさんが聞いたら泣いてしまいそうだが、直史はチームの勝利にこだわる。
MLBでは今や、ピッチャーの評価に勝敗の数はほぼ入れられない。
ハイクオリティスタートやクオリティスタートといった、ピッチャーが果たすべき役割は統計で出てきているからだ。
しかし直史の頭の中は、結局甲子園の頃のままだ。
最後に投げるのはエースしかいない、と考えているあたり、実は昭和の人間を笑えないのを、何人が気づいているだろうか。
これ以上投げるのはきついぞ、と思っているのは樋口も同じだ。
あの直史と上杉の投げあい、一点どころか一人も出なかったのは、キャッチャーをしていた樋口としても悪夢であったのだ。
「MLBルールはさすがになしだぞ」
この場にいるもう一人の選手として、そう発言する。
考えている間にも、とりあえずスリーアウトなので、選手たちは守備から戻ってくる。
動かないのはBチームであって、延長をするのかどうか決まっていない。
それに対して審判の国立も、困ったような顔をする。
「なんで9イニングで決まるって思ってたんだろ」
「いや、9イニングで0-0なら、実質俺の勝ちじゃないか?」
「……それは否定しづらいが……」
大介としても、そう言われてしまえば終わりなのだ。
Aチームは結局、直史が一人で投げきった。
過去に対戦した中で、間違いなく最強で最悪の打線であった。
大してBチームは、何人ものピッチャーの継投。
そしてそれなりにランナーは出している。
勝敗だけを言うなら、Aチームというか直史の勝ちでいいだろう。
ただスタンドもざわめき始めているが、ここで終わってしまっていいのか。
「他には延長以外に、タイブレークというのもあるけど」
国立がそう提案するが、それは三人が全員首を横に振った。
タイブレークなどそれこそ、運の要素が大きく絡んでしまう。
グラウンドボールピッチャーである直史には、さらに不利な条件である。
過去に甲子園で体験しているが、あれはさすがにご免被りたい。
「12回でいいだろ。そっちはまだタケが投げればいいし、なんなら上杉さんをもう一度出してもいい。ただしその時点で0-0なら俺の判定勝ちということで」
「お前がそう言うんなら仕方ないか」
樋口が意外に思った条件で、直史と大介は納得している。
ただ純粋に考えれば、そこまでにパンクしても、それはそれでということなのだろうか。
Aチームが全員ベンチに戻り、Bチームが大介の説明を受けて、とりあえずピッチャーは武史が出る。
そして国立が、マイクで説明をする。
事前に延長を想定していなかったため、その協議のためのストップ。
話し合いの結果としては、12回までの延長を認めるというもの。
もしも0-0で終わったならば、Aチームの判定勝ち。
それはこの試合の趣旨を考えるなら、確かにそうだろうと言えるものであった。
ここで微妙なのは、0-0なら判定勝ちだが、1-1にでもなればどうなのか、ということには言及されなかったことか。
ただ審判と説明をしている国立さえも、そんなややこしいことにまでさらに突っ込みを入れるのは、怖くて仕方ないのであった。
延長戦の開始が正式に宣言された。
なんとなく誰もが、普通に延長戦があるとは考えていた。
しかし高校野球、NPB、MLB、WBCとどの大会でもシリーズでも延長戦はあるが、草野球にはそんな決め事はない。
今更ながらこれが、草野球だと気づいた人間がどれだけいただろうか。
高校野球なら15回、もしくはタイブレーク導入。
NPBなら12回、MLBでは最近ならタイプレーク、WBCでもタイブレーク。
だが草野球ならそんなルールはない。
元々この試合には、ピッチクロックだのそういう細かいルールもなかったが。
この延長戦は、瑞希は少し不思議に思った。
直史はもう充分に、相手を封じたではないか。
しかし過去の記録を思い出すと、大介に逆転サヨナラホームランを打たれたシチュエーションを思い出す。
あれは延長に入ってから打たれたものだ。それまでのイニングにも点を取られているが。
直史のプライドを完全に満たすには、ひょっとしたら似たシチュエーションの、延長戦まで封じ続ける、というのが条件になるのか。
あの逆転劇は、確かに結果としては敗北ではあったが、味方の援護の少なさや、延長まで一人で投げきっていたということで、実質的には勝っていたも同然などと言われていた。
実質的には、というのでは不満であって、実際に勝っていないといけないのか。
直史は完璧主義過ぎる。
しかしここからあと3イニング。大介には必ず最後に回ってくる。
そして大介がホームランではなくとも、出塁したとしたらブリアンに。
瑞希はその身近で、直史が実はブリアンにも相当、注意して投げているのを知っている。
あとは織田あたりで、つまりはホームランを打たれた選手だ。
自分に対して求めることが厳しすぎるのだ。もっともそれを達成してしまうのだから、悪いとも言えない。
引退後は弁護士をするのだが、野球とは違って完全な決着などつきにくい職業である。
いや、法律に則って淡々と処理するなら、問題ないのだろうか。
野球以外のことに対して、直史がひたすらこだわったことは、司法試験への勉強ぐらい。
そう思った瑞希だったが、もう一つあったなと思って顔を赤くする。
高校から大学にかけて、特に一人暮らしの大学時代、二人は随分と爛れた生活を送っていた。
あの時の瑞希の肉体への追及は、ひたすらひたむきであった。
プレイ自体はノーマルであったので、なんとか耐えられはしたが。
仕事に慣れたらもう一人、などと家族計画を立ててはいる。
しかしそれは積極的な夜のお誘いであり、瑞希としてはあまり自分が馬鹿のような雌になってしまうのは、本当に恥ずかしいことであるのだ。
(サディストだからなあ……)
瑞希がマゾでなかったら、とても耐えられなかったことである。
延長戦が決まって、そしてとりあえず10回の表は武史が引き続き投げる。
観戦している人々は、この延長戦を歓迎しながらも、とても疲労してしまっていた。
素晴らしい作品ではあるが、見るのに体力が必要な、映画や文学というものは存在する。
精神を整えていなければ、しっかりと受け止められないものはあるのだ。
直史の投げる試合というのも、そういうものだ。
いつパーフェクトが達成されるのか、あるいは途中で途切れてしまうのか、観戦するのに緊張感を強いてしまう。
気軽に娯楽として楽しむなら、大介のバッティングの方がいい。
このあたり選手としての人気が、大介の方が高いという理由になるのか。
もっともバッターの方がピッチャーより、人気は出やすい傾向なのが、MLBではあるのだが。
残り3イニングである。
直史の球数は、既に100球を軽く超えているが、MLBでもポストシーズンに入れば、それぐらいは投げることは少なくなかった。
先に一点でも入ればそれで終わりだが、Aチームの10回の表は、下位打線から始まる。
もちろん普通のチームの下位打線に比べれば、はるかに攻撃力は高いのだが。
七番の鬼塚から始まる打順。
それを見つめるのは、自分にも打順が回ってくる九番の蓮池。
今更ながら、二刀流を目指した方が良かったかな、などと思っている。
NPBで近年、二刀流が可能であったのでは、と言われたのは上杉、本多、蓮池あたりである。
事実上杉などは、プロ一年目は三割と七本を記録した。
それ以降は打率は下がったが、年に五本以上はだいたい打っている。
蓮池はパ・リーグであるので、まさに二刀流をするなら、DHが使えはしたのだ。
ただ個人的にそこまでやろうとは思えず、ピッチャーに専念したが。
170km/hのストレートと対戦する機会。
蓮池は直史が途中でパンクした時、代わりに投げるつもりであっただけなのだが、こんなことならあっちのチームに行っておけばよかったか、と今更思う。
ただ上杉だけが特別扱いされているのは、ちょっと蓮池としては気に障ったのである。
(小サトーのボールは、ジャストミートすれば飛ぶとは言われてるしな)
一発が出て試合が決まる可能性は、それなりに高い。
ここで決めてしまえば、裏を直史は抑えるであろう。
ただこの試合に向けて少しバッティングの練習もしたが、かなり実戦から遠ざかっている期間は長かった。
(12回まで、投げられるのか?)
ベンチの中の直史は、かなり疲れた気配を見せる。
だがベンチから出て行くと、そんな気配は失せてしまうのだ。
怪物の最後の試合。
それを見つめる視線には、色々な意味が含まれていた。
10回の表、先頭打者は七番の鬼塚。
武史との付き合いは、高校入学からである。
身体能力は高いが、野球というスポーツはそこそこ。
それが当初の鬼塚の、武史に対する評価であった。
もちろん一年の春に140km/hオーバーを投げられるというだけで、才能の塊のようなものではあったが。
鬼塚が武史の最大の特徴と思えるのは、その爆発力だ。
スロースターターということもあり、そこそこはムラがある。
だがあの夏、桜島実業を相手に投げた試合で、一気に爆発的な成長を遂げた。
無意識の枷を破ったとでも言えばいいのか。
いまどきかなり珍しい、オーバースローに近いフォーム。
だがそこから、ホップするボールを超スピードで投げてくるのだ。
今ではMLBの枠にとどまらず、世界的に見ても五指に入るピッチャー。
(随分と差がついたもんだな)
そうは思うが鬼塚は、自分の出来ることをするだけである。
2イニング目を投げる武史であるが、むしろ今の方が楽である。
いくら事前に肩を温めていても、やはり実戦で投げていって、調子を上げるのが望ましい。
試合の前に肩を作るというのは、それなりに肩を消耗させる。
もちろんキャッチボールから始めて、急な負荷をかけなければいいのだが。
結局は集中力の問題なのだろう。
直史や上杉、また真田などといったピッチャーは、すぐにメンタルが試合用に切り替わる。
武史にはそういった機能がないのだ。
ただし武史には、他にはない力がある。
劇場型と言えばいいのだろうか。相手が強い時にこそ、その限界を超えてピッチングが上限を突破する。
その意味ではこの回は、下位打線でさらに心の準備が出来る。
11回の表は、もしやってくるなら一番の織田から。
10回の裏はブリアンとターナーがいるので、直史であっても確実に打ち取れるとは限らない。
九回の表の武史のように、ランナーがしっかりと先までたまったら、何かの拍子に点が入ってしまうことはある。
それが野球なのだ。
鬼塚はトップを小さく作り、武史のボールをどうにかカットする。
もっとも本人としては、出来ればポテンでもヒットがいいのだが。
武史は基本的に、イニングが進むほど、そのピッチングにパワーが増してくる。
100球を過ぎてもまだ、球威が落ちないのだ。
ただ三打席目や四打席目になると、ある程度はボールに目が慣れてくるということもある。
それでも終盤より、序盤の方が点を取られることは多い。
下手に球数を増やすと、逆にパワーアップしてくる。
どこのゲームのラスボスだ、と鬼塚などは思う。
いまどきはラスボスでなくても、ダメージを与えれば普通に、パワーアップしてきたりするのだが。
結果としては三振。
やはり高めに投げられると、ストレートの威力がとんでもない。
真ん中だと思って振りにいったら、だいたいは高めいっぱいに入ってくる。
こんな化け物を倒すのは、やはり上位打線に任せるしかないのか。
交代して最初のイニングは、確かにバッターのレベルが高かったこともあるが、あとわずかで一点という場面まで作ってしまった。
武史としてもこんな、レギュラーシーズンの中の一試合ではなく大々的なイベントの中では、さすがに負けたくない。
嫁や息子の見ているところでは、負けたくないのだ。
それが夫であり父親である武史の、平凡な感性である。
鬼塚が少し粘ってくれたことで、ようやく本格的に肩が動くようになってきた。
こうなったらあとは、油断さえしなければいい。
そう思ってやらかすのが、武史という人間なのだが。
直史や上杉と違うのは、確実性である。
メトロズにいる間は、打線も強力であるため、負け星がつくことは滅多にないだろう。
だが次の契約の時には、間違いなくメトロズではもう、武史の年俸は払えない規模になる。
そこまでの成績を、ずっと残してきたのだから。
直史のように、かれこれ年換算で6000万ドルオーバー、というのはさすがにないかもしれない。
それにセイバーが実質的なメトロズのオーナーになったからには、武史も手放さないかもしれない。
ただ武史自身が、ニューヨークであればラッキーズでもいいかな、とは思っているのだ。
今のニューヨークの二つのチームは、ラッキーズの方が年俸に余裕がある。
メトロズがとにかく、金を惜しんでいないということもあるだろうが。
八番の緒方も三振でしとめた。
これで二者連続三振であり、次は普段は、もうピッチャーしかしていない蓮池である。
しかしこの蓮池は、なんなら二刀流でもいけるのでは、と言われていた選手だ。
実際に高校の頃は、外野も優れた身体能力で守り、甲子園でしっかりとホームランを打っている。
チームの事情もあったが、真田でも無理であった、甲子園の頂点に立っている。
もっともそれを言えば、武史の年代は甲子園を、春夏合わせて四連覇しているのだが。
(雰囲気があるよな。ピッチャーだからって甘く入ったら、身体能力だけでスタンドまで持っていくんだろうな)
身長が高いこともあるが、NPB時代はデカスロンをやらせれば、一番になるであろうと言われていたのが蓮池だ。
テレビの企画などにも出て、その身体能力はむしろ、純粋なフィジカルが必要な競技に向いていると言われた。
おそらくアメリカでずっと育てば、野球以外のスポーツをやっていたのではないか。
ツーアウトからでも、一人で一点が取れる選手。
それが続いていく限り、ピッチャーには安堵している暇はないのだ。
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