第31話 クライマックス

 まだチャンスは終わっていない。

 客観的に見れば、ワンナウト一二塁。

 確かに長打が一本出れば確実に一点であるし、打球によっては短打でも悟が帰ってくる。

 バッターボックスにはこれまた粘り強い小此木。

 しかしこのイニング四人目のバッターに対して、武史は完全に全力で抑えにいく。


 右バッター相手には、武史のツーシームは効果的である。

 それでも小此木の打球は、強さを伴って一二塁間を襲った。

 しかしここでまだ、交代していないセカンドの西岡は、見事にキャッチ。

「一つ!」

 わずかに二塁送球も考えたが、タイミングは微妙。

 よって一塁でアウトを取って、これでツーアウトとなる。


 まだチャンスは終わっていない。

 ツーアウトになったがランナー二三塁と、どんな形であれヒットが出れば一点になる。

 福沢は立ち上がって、各ポジションに確認を行う。

「ホームじゃないぞ! 基本は一塁!」

 ツーアウトなのだから、バットに当たったら三塁の悟は突っ込んでくる。

 一塁が空いているのだから、フォースアウトにはならず、タッチの必要がある。

 なので普通に、バッターでアウトを取ればいい。


 六番の孝司がバッターボックスに入る。

 まだチャンスは終わっていないというか、これが最大のチャンスである。

 それにランナー三塁は、相手のミスでも一点が入る。

(タケ先輩の球、パスボールとかしてくれないかな)

 そんな一点であっても、一点は一点だ。


 この試合を終わらせる。

 いつパンクしてもおかしくない直史に、延長戦を投げさせたくはない。

 孝司の決意は固いが、決意だけで打てるなら、世の中はそんなに甘くないのである。

 ここでストレート主体に投げて、最後は高めの球に釣られた。

 三振で結局、ランナーがホームを踏むことはなかったのである。




 九回の表が終わった。

 そして九回の裏は、大介の四打席目が回ってくる。

 Bチームの攻撃は八番からで、福沢に代わって誰かが代打となるのだと思っていた。

 しかし福沢がそのまま、ベンチから出てくる。

 つまりこれは、Bチームも延長を覚悟したということか。

 バッティングだけなら福沢より優れた選手は、Bチームのベンチにはいるだろうに。

 それにキャッチャーも、このまま福沢でいくということだろう。

 他にもキャッチャーはいるのだが、考えてみれば武史のボールを捕れるかは、上杉に慣れている福沢以外は微妙だ。


 つまりそれは、延長に突入したら、武史が2イニング目を投げるということだろうか。

 確かに武史がたったの1イニングでは、あまりにももったいないというのはあるだろう。

 いくら優れたNPBのピッチャーを集めたといっても、MLBも含めてトップ5にいるであろう武史よりは、やや落ちると考えていい。

 上杉が4イニングも投げたのだから、他のピッチャーでもいいだろう。

 本気で試合に勝つつもりなら、武史をそのまま使った方がいいのは確かだ。


 もっともそういったことは全て、この九回の裏が終わってからである。

 八回までで既に100球をオーバーしている直史。

 しかし集中力は維持している。

 樋口としては九回の表に、一点も取れなかった責任は感じている。

 だがそんな過去は捨ててしまって、今はバッターを打ち取ることに全てのリソースを割くしかない。


 八番の福沢は、コンビネーションで内野ゴロを打たせた。

 そして九番として出てきたのは、セカンドの西岡と代わるためか、長打よりも打率と出塁率の高い高津が出てきた。

 高卒から数年を二軍で暮らした後、直史がいなくなってからNPBで活躍し始めた選手である。

 大介の前に、ランナーを出しておきたいということだろうか。

 確かにランナーが一塁であったりすると、ホームラン以外でも一点が入るかもしれない。

(あんまりデータがない選手なんだよな)

 しかしそういう選手にも、人間の身体構造上の限界はある。

 コースと緩急を使って、最終的にはアウトローを見逃しさせて三振。

 悔しがっているが、ここまでは前座だ。




 ツーアウトランナーなし。

 しかしながら打順は一番に戻って、大介の四打席目がやってきた。

 この試合ここまで、Bチームはなんだかんだ言いながら、大介の出塁以外はランナーが出ていない。

 結局直史は、大介さえいなければ、この試合もパーフェクトをしていたのである。


 前の二人に、四球ずつを使っている。

 一点でも取られたら終わりな展開になっていたため、長打力があまりないバッターでも、甘い球は投げられなかった。

 しかし体力も、そして集中力も、充分に残っている。

 ここから削りに削って、大介をアウトにしなければいけないのだが。


 苦しい。

 こんなにも苦しいのに、それなのに楽しい。

 スポーツで特筆すべき成果を残すためには、おおよそマゾの気質が必要だ、などと言われたりする。

 自分の体を苛め抜くことに、耐えなければいけないからだ。

 直史はそんなことは考えず、淡々とメニューをこなしていくだけであった。

 そもそもあまり筋肉が太くならないので、マッチョへの憧れもなかった。

(まったく、本当ならこんなこと、やる必要なかったのにな)

 それなのにやっている自分は、やっぱりおかしいのだろうか。


 四打席目。

 延長をどうするかはともかく、まずはこの勝負には負けられない。




 あと一人、という言葉は観戦する誰の心にも浮かばない。

 相手が大介だから、というわけではない。当たり前だ。

 九回の裏ツーアウトランナーなしでも、あと一人打ち取れば勝ち、という状況ではないのだから。

 0-0のままここまできて、むしろ延長戦の方が現実的になっている。


 直史と大介の対決を、統計で見てみれば、既にこの試合一度は出塁している。

 だから残りの三打席は、大介が打ち取られるのが自然、とも言えるのだ。

 もちろんここまでに直史が、強力打線を相手に、消耗していることなどの条件もある。

 それでも球数だけを見れば、まだ110球と無理な数字ではない。


 直史に残っている力はどれぐらいなのか。

 また体力的なものではなく、肘はまだもつのか。

 この試合、直史としては珍しいことに、失投があった。

 それがツーシームとそれなりに肘に負担がかかるボールであったため、樋口としては懸念はしている。


 残っている球種を考えれば、ある程度の博打をしていかなければ、大介は打ち取れない。

 いっそのこと歩かせることも考えるなら、もう少しピッチングの幅は広がるが。

(とは言ってもぎりぎり外れる程度だと、普通に放り込んでくるからな)

 それに直史相手の大介なら、ボール球には手を出さないかもしれない。

 ならば球数を増やし、カウントを増やすだけのボール球は、かえって直史が不利になる。

(面倒なやつらだな)

 だが、これは二人だけにしか許されていない特権だ。


 野球というのは団体競技である。

 だがピッチャーとバッターの対決は、特にランナーがいなければ、ほとんど個人競技の場面となる。

 短打までなら許す、という考え方もあるだろうし、ブリアンにターナーが後ろにいても、歩かせたほうが楽だ。

 しかしこの二人の対決がなければ、そもそもこの試合に意味がない。


 メジャーからトッププレイヤーが、日本人選手のみならず参加したこの試合。

 だがそれらは全て、舞台を整えるための脇役である。

 それらがいなければ成り立たないが、それでも脇役だ。

 助演男優賞は上杉か樋口であろうか。




 何から投げていくか。

 他のバッター相手ならば、試合が進めば進むほど、前の打席の布石などが活きてくる。

 だが大介を相手にすると、使える球はどんどんと減っていくのだ。

(初球はストライクが取りたいけど)

 樋口の出したサインは、ある程度は予測の範囲内であった。


 静かなセットポジションから、トランス状態に入る。

 どれだけの力が自分に残っているか、それは考えない。

 だがここで抑えなければ、それはもう負けである。

 素早いクイックモーションから投げられたのは、遅いカーブ。

 完全に緩急を取るためのカーブが、ストライクゾーンの中を落ちていった。


 大介はこれを見送る。

 ツーストライクからならカットしていただろうが、ここはまだ見送る。

 コールされたのはストライクであったが、それはそれで間違いではない。

 下手に打ちにいって、それでミスショットなどをしたら、そこには後悔が残るであろう。


 大きく息を吐き、バットをくるりと一回転させて、またぴたりと止める。

 樋口からの返球は、直史の胸元にぱしりと入った。

(静かだな)

 時間が引き延ばされて感じてくる。

 音が既に消えている。

 実際にここで、応援もすることなく、ただ対決を見ている観客はとても多かったのだが。


 大介には何も聞こえない。

 耳が痛くなるほどの静寂の中、音を捉えるための機能が停止し、脳が時間を引き延ばしていく。

(打てるのか)

 そう自分に呟くが、打てるかどうかではないだろう。

 打つかどうかだ。


 カーブが投げられるのは、ある程度予想していた。

 カウントを整えるためもあるが、大介の視界に落ちるボールを見せるために。

(フラットストレートはまだ使ってないな)

 あれは分かっていてもミスショットする、代表的なボールだ。

 だが踏み込みやリリース位置から、大介ならまず対応できる。

 さあ、二球目はどう投げてくる?




 二球目に投げるべきはシンカー。

 だが普通のシンカーではなく、ツーシームに近い高速シンカーである。

 直史は緩急を使うために、高速シンカーはあまり使わない。

 確かに変化量はあるが、速いため緩急差をつけにくいのだ。

 だが左打者に対しては、このシンカーは効果的のはずだ。


 静寂の中、己の心臓の鼓動がうるさい。

 わずかなコントロールミスも許されない今、その鼓動も抑え込んで投げていかないといけない。

(重要なのはコース)

 軽々と足を上げて、深く踏み込んで、そして投げる。

 大介は一瞬、フラットストレートを投げてくるのか、と勘違いしたものだ。


 しかしそこから投じられたのは、外に逃げていくボール。

 だがこれなら、バットは届くのではないか。

(打つ!)

 標準より長いバットを、軽々と扱う。

 そしてそのミートポイント近くで、ボールを捉える。


 腰の回転で振り切る。

 打球はほぼライナー性のものであるが、全く落ちる軌道を見せずに、スタンドに飛び込んだ。

 ただしポールの向こうである。

 あと2mほどの差が、ホームランと単なるファールを分けた。

 そしてサヨナラと、大介をしとめるための布石が、ここで分かれてもいるのだ。


 二球でツーストライク。

 ただその二球目は、大きな打球ではあった。

 あと一人ではなく、あと一球にもなった。

 しかし多くの人間には、延長の可能性が見えてきただろう。


 大介の頭には、延長戦などない。

(次で決めるぞ)

 そのバッターボックスからの圧力は、マウンドの直史を威圧するほどのものであった。




 いつかどこかで、一度だけ使うつもりであった。

 最初の一度はおそらく効果的であるが、二度目からはそれほどでもない。

 そんなボールであったのだが、ついに使わないまま終わるのかと思っていた。

(ここで使う)

(そうだろうな)

 新しい球種、という分類にされるのかもしれない。

 だが対策されれば、大介なら簡単にカットはしてくるようになるだろう。


 このボールを使うのは、不安も残る。

 遠心力が腕にかかるため、肘への負担が大きいのだ。

 今の直史が投げるとしたら、果たして靭帯へのダメージはどうなのか。

 あのワールドシリーズ以来、このボールは試してもいない。


 直史の骨格から投げるのに、最も適したフォームはスリークォーター。

 これは随分と前から言われていることだ。

 セイバーが測定し、そして今もそれは変わらない。

 だが直史は昔から、投げようと思えばサイドスローだろうがアンダースローだろうが、投げることは出来たのだ。


 スリークォーターにも角度はあって、直史はそこそこサイドスローに近い。

 それなのに回転は、きれいなバックスピンを多くかけられる。

 肘を上手く使い、指先で弾いて、そんなボールを投げるのだ。

 だがこれは、フォームからして違う。




 大介は直史のサイドスローを知っている。

 それはまだ高校一年生の頃の、とにかく相手を打ち取るため、小手先の技を必死で使っていたころだ。

 あの頃はアンダースローからのカーブなども使っていたが、基本的に相手は一期一会であったため、効果的であったのだ。

 高校でもデータが揃うようになった一年の秋以降は、ほぼ使っていない。


 これから投げるのは本当に、たった一度の勝負のためのボール。

 ボールの評価においては、スピードの他に回転量がある。

 そしてこの回転が、どういう軸を持っているかも重要なことである。

 回転効率などと呼ばれることが多いが、回転量が多くてもこの回転効率が低いと、ホップ成分も低くなる。

 ただしこれを変化球に当てはめるなら、逆に変化量は大きくなる。


 このあたりは当たり前の知識である。

 曲げるための回転か、曲げないための回転か、という話なのである。

 直史のストレートが、球速の割には空振りが取れるのは、回転量が高く回転軸がまっすぐになっているから、というのもある。

 そしてあとは、踏み込んでリリースの位置を変えれば、よりホップするようにも見えるのだ。

 正確にはより低い位置でリリースすれば、高めに投げると地面と平行に近いボールとなるのだ。


 回転量でホップさせるか、リリース位置で軌道を変えるか、高めに投げて空振りを取るストレートとは、この二つの要素が高い。

 直史の場合は基本的に、ホップ成分を高める投げ方をしている。

 しかしリリース位置の変更でも、空振りを取っているのだ。

 こんなに器用にリリース位置を変えるだけでも、他のピッチャーには不可能なことである。

 変えるだけなら出来るが、コントロールはつかない。


 本当ならピッチャーは骨格や筋肉の付き方によって、一番最適のフォームというのは決まっているのだ。

 直史の場合は体幹と柔軟性によって、それを無理やり変えて、しかも思い通りのところに投げている。

 樋口が知る限り、そんなことが可能なピッチャーは、他にはいないのだ。




 この一球で決めないと、次に投げる球がない。

 延長戦をどうするのか、そもそも決めていない。

 だがもう先のことは考えず、このボールでこの打席は抑える。


 プレートの位置をややずらし、対角線上に投げられるようにする。

 狙うのは内角であるが、左右のコースはそこまで厳密でなくてもいい。

 何度か呼吸をして、大介の呼吸と合わせる。

 ここは呼吸をあえてずらす必要もないのだ。


 力感のないゆったりとしたフォームであるが、そこから肉体の回転が始まる。

(フォームが!?)

 これは少し違うと、大介にも分かった。

 だがその意図が分からない。

 右腕の出てくるのが、普段よりも遅いのか。

 肩甲骨周りの柔らかさで、なかなかボールが見えてこない。


 見慣れたスリークォーターよりも、やや腕の位置が低いか。

(これは――)

 カットする。そうすぐに判断した。

 あるいは変化球なのかもしれないが、どう変化するかが予測出来ない。

 そしてリリースされた瞬間、ストレートだとは判明する。


 ホップ成分の高いストレート。そして踏み込みの深さから、よりフラットなストレート。

 わずかにスイングの軌道を修正し、ボールの軌道に乗せていく。

 ジャストミートではなく、上手く左右のどちらかに、ファールを打つという意図。

 直史の投げたストレートは、予想以上に沈まず、むしろホップする。


 全てはもちろん錯覚で、ある程度は落ちてはいるのだ。

 しかしより低い位置でリリースすることにより、高めに投げたとしても、角度が違ってくる。

 タイミング自体は、充分に当てられるものだ。


 ライジングファストボール。

 要するに浮き上がるような、そのように見えるような要素を、全て詰め込んだボールだ。

 大介のスイングの上を、ボールは通り過ぎた。

 そして樋口のミットを弾いたが、その弾いたボールはほぼ真上に浮かんだため、そのままキャッチ。

 問題なくストライクバッターアウトである。


 振り切った姿勢のまま、大介は静止していた。

 そして今のボールの意味を、短時間で正しく理解する。

「お前ら、この試合のためだけに、これを準備したのかよ?」

「いや、ワールドシリーズの最終戦、お前にまで打順が回っていたら、たぶんこれを使っていたな」

 樋口は答えて、珍しくも分かりやすい、にやりとした笑みを浮かべた。


 ともあれこれで、9イニングの攻防が終わった。

 事前に決めていなかった、延長はどうするのか。

 日米長強力打線に対して、結果として直史が許したのは、強襲ヒット一本のみ。

 ただいい当たり自体は、他にもあったが。


 マウンドから降りた直史は、ベンチに戻らずバッターボックスに向かう。

 延長戦をするのかしないのか、話し合わなければいけないだろう。

 クライマックスはまだ終わらない。

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