第30話 チャンス

 この一球で決まるのか。

 集中力の満ち引きにより、脳に過剰に血流を感じる。

 武史のフォームはそれほど、クイックに最適化されていない。

 またサウスポーであるため、アレクへの警戒もほぼ最低限ではあった。

(来る!)

 指先からリリースされたボールは、紛れもないフォーシームストレート。

 悟が狙っていた通りのボールだ。


 だが予想を上回っていたのは、そのホップ成分。

 ジャストミートとはいかずに、バットの上に当たってしまった。 

 バレルゾーンで捉えられていない。

 ふわりとボールが浮かんだが、それは敗北を意味していない。


 セカンドの頭上を、わずかながら越えていく。

 このイニングの裏には交代するはずの西岡が、まだセカンドにはいるのだ。

 ベストナインやゴールデングラブにも選ばれた、守備の名手の必死のジャンプ。

 ファーストランナーのアレクは、安易にベースに戻ることも、進むことも出来なかった。


 グラブに弾かれたボールは、グラウンドに着地する。

 アレクはそこから走り出すが、ライトの谷がすぐに前進してきていた。

 セカンドベースにスライディングで到達するも、そこまでが限界。

 しかしこれでクリーンヒットでないながらも、ノーアウトでランナーが一二塁となったのだ。


 この試合における、両者を通じて間違いなく、最高のチャンス。

 そしてため息をつきつつ、樋口がネクストバッターズサークルから立ち上がった。




 ノーアウト一二塁で、四番打者。

 ここで打てないならば、四番の名には相応しくない。

 もっとも樋口が最後に四番を打ったのは、NPBでの紅白戦であったが。

 それ以降はこの試合まで、もう五年ほども四番など入っていなかった。


 高校時代は逆に、一年の夏から四番に入っていた。

 それこそ今まで、四番でピッチャーであった上杉を差し置いて。

 チームとしては上杉に、負担がかかりすぎていたという条件もあったが。

(さて……)

 右打者の樋口に対して、サウスポーの武史。

 この二人は大学時代とNPBと、そして国際大会でバッテリーを組んでいる。

 お互いがお互いの手の内を知っているかというと、そうでもない。

 基本的に武史は、リードは全てキャッチャーに任せてしまうピッチャーであったからだ。


 かといって樋口が一方的に有利なわけではない。

 武史は確かに、やらかすピッチャーである。

 己のエラーでパーフェクトを逃したことや、果ては失点をしたことまであったりもする。

 しかし同時にピンチにおいては、想定以上のパワーを発揮することもあったのだ。


 アレクのバッティングは技ありと言えたが、悟の打球は打ち取っていたとも言える。

 ただ野球は、結果が全てのところもある。

 そして結果が全てと言うなら、武史はまだ一点も許していない。

(これが公式戦なら、ピッチャーの交代もあったかな?)

 樋口はそう思うが、この場面で交代するのは、ほとんどのピッチャーは嫌であろう。

 文句を言いつつもあっさり抑えるのが直史で、無言で実行するのが上杉である。

 とりあえずあの二人に比べれば、武史はまだ打てる可能性があるか。


 


 打ち取った打球だった。

 上手くすればダブルプレイすらあったのに。

 そんな思考を武史は、すぐに追い出す。

 今から対戦するバッターは、間違いなく前の二者よりも、武史にとっては決定的に厄介な男である。


 大学とプロにおいて、武史が成長したのは、間違いなく指導者ではなく樋口と直史のおかげだ。

 特に樋口は、お前も少しは考えろ、と口を酸っぱくして言っていた。

 なので考えるのだが、樋口は武史のことを、一番よく理解しているだろう。

 野球に関しては直史や、坂本などよりも正確に。


 WBCでもバッテリーを組んだため、かなりその情報は最新にアップデートされている。

 その樋口がバッターボックスにいて、気配を殺している。

 一撃で相手をしとめる時、樋口はそういうことをするのだ。

 武史はなので、考えることをやめた。


 福沢のサインに頷いて、全力のストレート。

 それは指定されたアウトローではなく、ほぼ真ん中に入ってきていた。

 樋口はスイングせず、まずはワンストライク。

 返球してくる福沢は、そのボールの勢いで、自然と武史に文句を言っている。


 170km/hのストレートである。

 ほぼど真ん中でも、普通ならば打たれない。

 だが樋口が相手であれば、充分に打たれる可能性はある。

 福沢としてはそういった理解をしている。


 だが樋口は、違った理解をした。

 武史が持っている、直史や大介、また上杉にもない、優れた美点。

 それは己を過信しないということである。

 過信どころか、基本的には全く、自信などないのだ。

 かといって福沢では、樋口のリードを上回れないと判断した。

 ならば半分だけは、福沢のリードに従うといったところだろうか。


 二球目、武史の気配と共に、樋口は福沢の気配も探る。

 想定していたのは、内角を攻めるボールである。

 体を起こした状態にさせてから、今度こそアウトローのボールを投げさせる。

 一般的なリードではあるだろうが、投げられたのは外に外れた球。

 確実に福沢のリードからは、外れていると判断できた。

 



(逆球か)

 福沢の構えていたのとは、逆のコースである外のボール。

 さすがにキャッチはしたものの、武史のボールでコントロールが定まらなければ、パスボールの可能性もあるだろうに。

 球種だけは従って、コースは自分で決める。

 あるいは適当に決めているのかもしれないが。


 ここまでまだ樋口は、一度もスイングしていない。

 元々球数は多く投げさせて、それから一振りで決めるタイプではある。 

 しかし武史のボールは、ゾーンのぎりぎりであると、まともに前には飛ばせない。

 なのでわずかにでも甘く入れば、それはむしろチャンスのはずなのだ。


 樋口は狙いを絞って打つバッターである。

 もちろん読みが無駄になる、コントロールの悪いピッチャーが相手でも、それなりに対処は出来る。

 だが樋口の本来のスタイルは、一撃必殺というものだ。 

 甘い球を打つ、という程度であれば、狙ったところにボールが飛ばないこともある。

 ライナーで野手正面というのは、樋口のバッティングにとっては失敗である。


 武史は今、自分のコントロールのレベルを落としている。

 だがこれを任意のところでちゃんと元に戻したり、あるいはコンビネーションのレベルを意図的に落としたらどうだろうか。

 同じ170km/hを投げるMLBのピッチャーでも、樋口はそれなりに打っている。

 だがそれは球速以外、弱点が多すぎるピッチャーであるからだ。


 武史は俺が育てた。

 そう言うべきは直史とジンにセイバーであろうが、さらに伸ばしたのは樋口である。

 そんな樋口自身が、武史に苦戦するという皮肉。

 もちろん元のままでも、恐ろしい相手には変わりなかったのだが。




 武史が今やっているのは、将棋ならあえて悪手を指すことで、相手を混乱させているというものだ。

 もっとも野球は将棋とは違うので、最善手をたどらなくても、どうにかなったりはする。

 スポーツにおいてパワーで押すというのも重要なことなのだ。

(でもいざとなればテンプレコンビネーションも使うぞ)

 そう武史は開き直っている。


 武史は全く知らないことであるが、直史が樋口と話している、武史がもう一段階上のレベルに到達するという条件。

 それがこの、自分で考えて有効な策を導き出す、ということであった。

 球威だけでクローザーをやっている、他のピッチャーを見ればいい。

 それを自分に当てはめれば、どういうコンビネーションが最適であるのか。


 最善のコンビネーションだけを考えて入れば、野球はむしろ打たれるものである。

 直史や樋口は、なので最善のコンビネーションからは、わずかにずれたところを狙うことが多い。

 布石を完全に打ってしまえば、分かっていても打てないボールというのは投げられるようになっている。

 しかしそれは本当の勝負どころ以外、使うべきではない。


 言ってしまえば、武史はついに、直史や樋口が恐れていたところまで、到達してしまったということだ。

 もっともそれはこの試合に限ったこと、あるいは樋口が相手に限ったことで、次からはまた元に戻してしまうかもしれないが。

 なにしろ元の配球であっても、単純にアウトローにさえ投げていれば、MLBでさえ通用したのだから。




 武史のピッチングを見ていて、一番混乱しているのは、対戦している樋口でもなく、キャッチャーの福沢でもなく、ベンチの直史でもない。

 VIP席に座っている、恵美理と息子の司朗であった。

 武史の思考は、基本的に単純である。

 その分かりやすさが魅力であったのだが、今はその思考が完全に理解不能である。


 もっとも恵美理とすれば、それでも理解出来ないことはない。

 コントロールがそこそこアバウトであった、明日美のピッチングを思い出すからだ。

「お父さん、何を考えてるんだろ……」

 何も考えていないわけではないのだろうが、恵美理にもそれは分からない。

 これがイリヤであれば、美しくないピッチングをしている、と断言したかもしれないが。


 三球目、投げたボールは外に外れていくツーシームであった。

 しかし選球眼のきわめていい樋口が、それをスイングして当てていった。

 打球は完全にラインを割って、ファールとなっている。

 これでツーストライクと、樋口が追い込まれてしまった。


 追い込んだ、と武史を応援する側では、思わず握った拳に力が入る。

 樋口を打ち取っても、まだワンナウト。

 内野ゴロが上手く転がったら、進塁打にはなる。

 ワンナウトでランナーが三塁まで進めば、それは絶好の得点チャンスだ。

 この0-0で進んできた試合、スクイズをやってもさすがに文句は出ない。

 実のところ五番の小此木は、意図的に内野ゴロを打ったり、また犠打を打つにしても、珍しく得意なバッターなのだ。


 それでも樋口をどうにかすれば、ピンチはかなり避けることが出来る。

 Aチームの打線は、さすがに四番までが、それ以降よりレベルが高いのだ。

 武史の三振奪取能力を考えれば、樋口を凡退させれば、残り二つのアウトを取ることは難しくない。

 もっとも本当にそんなことを考えてしまったら、あっさりとヒットを打たれて、やらかしたなどと言われるのも普段の武史なのだが。


 四球目、ボール球を見せるのか、それとも一気に勝負にいくのか。

 その狙いは投げる武史でさえ、いまいち分かっていないものであった。




 ツーストライクにまで追い込んでいる。

 なのでキャッチャーの福沢としては、高めの釣り球で空振りが取れないか、とサインを出すのだ。

 武史も頷いて、フォーシームストレートを投げる。

 上杉のストレートに慣れている福沢でさえ、キャッチングの難しい超威力。

 だが想定以上に、高めに外れてしまっている。


 体ごと上に持ち上げ、このボール球をキャッチしようという福沢。

 だが樋口がスイングしていた。

 ファールチップでほぼ真後ろに飛んでいく。

 あれだけ外れていたのに、樋口は当てていたのだ。


 その意味を理解すると、福沢もぞっとする。

 つまり平均的に外した程度であれば、ジャストミートされていたということなのではないか。

 武史はそれが分かっていて、確実に打てない高さに外した。

 樋口は高目を狙っていて、外されたのを承知で、かろうじて当ててきたのだ。


 高めのストレートが打たれる、というのは昔の話。

 フライボール革命にバレルで打つということが常識となってからは、高めにしっかりとストレートを投げ込むことは、パワーピッチャーの重要な条件だ。

 それによって空振り三振が取れることが多いのは、データからも明らかである。

 組み立てを完全に読んでいたからこそ、樋口はあんなボール球にも当てていけた。

 そして武史も承知の上で、さらに高く外したのか。


 読み合いと言うよりは、この二人はバッテリーを組んだ期間が長いのだ。

 なので下手に武史の良さを引き出そうとすると、樋口には打たれてしまう。

 決め球のはずの高めのストレートが、樋口には通用しないのか。




 今のを打てなかったのは厳しい。

 樋口としては高めのストレートは、必ずあるものだと思っていたのだ。

 元々それなりに球数を投げさせるタイプの樋口だが、この試合ではピッチャーがどんどんと入れ替わるので、あまり意味がない。

 少しは外れる力のある高めを、武史が投げてくるのは想定内。

 しかしそれがかなり外れるのは、想定外であった。


 スイングを修正して、どうにか空振りはしなかった。

 だが武史のピッチングは、樋口が知っているそれよりも、幅が広くなっている。

 坂本のリードも同じような、自由奔放なものではあった。

 しかし福沢には、そこまで極端なリードは出来ない。

 つまり武史が殻を破っている。


(それもいいか)

 樋口はここで、しっかりと楽しむことが出来る。

 直史のための試合ではあるが、直史だけのための試合ではない。

 己の力をさらに、上のステージへと持っていく。

 武史が上がるなら、自分も上がればいい。

 これは単純なフィジカルではなく、メンタルやテクニック、そして何よりインテリジェンスの問題だ。


 遅いボールを投げてきていない。

 確かにナックルカーブは、右打者の樋口に対しては、さほど有効なボールではない。

 しかいチェンジアップは低めに投げれば、樋口の視線を誘導することは出来る。

 見せ球として使って、最後にはまた早い球を。

 分かっていても打てない、と福沢は考えていた。

 だが武史は、分かっていたら打たれる、と考えていたのだ。




 ボール球になるナックルカーブと、高速チェンジアップを使った。

 これで樋口の目は、落ちる球の軌道が焼きついたはずだ。

 普段の武史であれば、ここで分かっていても打てないストレートを投げてくる。

 レギュラーシーズンの中の一試合なら、それでも良かっただろう。

 しかしこれは特別な試合だ。

 普通の組み立てであれば、樋口は打っていく。


 フルカウントになって、有利になったのは樋口だ。

 もしも出塁すれば、ノーアウト満塁である。

 しかしそれはそれで、むしろ点が取りにくくなる可能性もある。

 フォースアウトでホームゲッツーなどが取れるからだ。


 アウトローの際どいボールも、樋口はカットした。

 これもまた170km/hが出ていて、武史は既にギアを最高にまで上げている。

 たったの1イニングであれば、全力で投げていっても、体力が空になることはない。

 もっともキャンプ前に、ここまでしっかりと仕上げたことが、驚きと言えば驚きである。


 これは最後には、またストレートを使ってくるのか。

 使ってくるとしたら、今度は低めであるのか。

 樋口はフライではなく、ライナー性の打球の方が、打つほうは得意である。

 あまりクリーンすぎるヒットとなれば、アレクの足でも二塁から帰ってこれないかもしれない。

 だが満塁にしてしまえば、小此木ならどうにか内野ゴロは打てるのではないか。

 ホームでフォースアウトが取れるが、完全にゴロに絞るなら、打った瞬間に走り出せばいい。

 ここではどうにか、ヒットにしたいのだ。




 そんな樋口に対して、武史が投げたのは、ストレート。

 ほぼ真ん中から、内に入ってくる角度がついているのか、と樋口はスイングにいく。

 だがそのボールは、ほんのわずかにだが落ちた。

 スプリットともカッターとも区別しづらい、微妙な変化球。

 樋口はそれにも、しっかりと合わせていった。


 打球は転がり、三塁線を襲う。

 そこに対して、ターナーがぎりぎりで追いつく。

 倒れた体勢のまま、まずは三塁にタッチ。

 そこから二塁へと送るが、これは悟の足のほうが早かった。


 状況が変わらないまま、アウトカウントだけが増えた。

 これは完全に、武史の勝利といっていいだろう。

 三振などといった、分かりやすい勝利ではなかったが。それでも樋口を打ち取ったのだ。

(成長しているな)

 まだチャンスは続いているが、延長の可能性が高くなっている。

 そしてそれを直史は、正しく認識していた。

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