第95話 とある夏の一日

 北村の構想においては、細川が五回まで三失点、というのが勝利のための最低限のラインであった。

 だがその細川が、五回までを投げて無失点。

 上手く行き過ぎている、という感触はある。

 しかしこれだけ必死になった細川は、もう精神的に限界であろう。

 集中力が途切れれば、コントロールもおかしくなる。

 北村はそう考えて、六回からは刑部を投入し、下手に打たれてしまっても、すぐにフォローできる準備はしておく。


 刑部は強気な人間であるが、まだ一年生である。

 それがこの甲子園への夏で、ベスト8の準々決勝で投げる。

 いくら気が強くても、それが空回りしては意味がない。

 一年生にとっては当然ながら、初めて体験する夏なのだ。


 既にここまでにイニング数を投げて、ある程度の感触は掴めているだろう。

 だが勝ち進めば勝ち進むほど、戦う相手は強くなり、求められるボールはシビアになる。

 ただ暑さだけではなく、スタジアムの熱量によって、体力はどんどんと減っていく。

 刑部が投げるのは、果たして何イニングになるのか。

 最後に期待するのは内田であるが、果たして彼をクローザー的に使うのがいいのか、いまだに納得はしきれていない北村である。


 前の試合でも投げているが、消耗はそれほどないはずだ。

 だが下手に相手のバッターに合ってしまったら、それなりに打たれはするだろう。

 内田のアンダースローは、同じアンダースローでも淳には遠く及ばない。

 彼もまた北村の卒業後ではあるが、早稲谷の後輩である。

 プロの第一線で、いまだにローテーションを守っているピッチャーと、高校生を一緒にするわけにはいかないだろう。

 だがアンダースローには、不思議と強打を抑えてくれるような、そんな期待をしてしまうものがある。




 六回の表、勇名館はまだ先発を代えない。

 白富東はそれなりに球数は投げさせているのだが、ランナーがなかなか出ないのだ。

 しかし初回の立ち上がりの二点は、ここにきてもまだ大きい。

 あれがなければ白富東は、まるでランナーが出ないことに、もっと焦っていたであろう。


 余裕があるわけではない。

 勇名館のバッターというのは、この五回まできても、まだ焦った様子は見せない。

 ただ白富東は、ある程度の失点を覚悟しているのだが、それでも無失点に抑えてきている。

 これは次にどちらかが点を取れば、試合は大きく動くのではないか。


 北村は動けない。

 選手たちの自主性に任せてはいるのだが、逆に言うと監督としての判断が出来ていない。

 正解の道が見えてこない、とも言える。

 白富東というチームは、少し前に比べれば、だいぶ変わってしまったのだ。


 六回の表の攻撃の間に、向こうのブルペンで投球練習が始まる。

 ビハインド展開ながら、エースを投入してくるつもりのようだ。

 ピッチャーの、エースのピッチングというのは、自軍の打線をも奮起させるものであったりする。

 それを期待するぐらいには、勇名館も追い込まれてはいるのか。

 ただ残り3イニングなのだから、それほど疲労もたまらないであろう。




 結局三者凡退で、六回の表は終わる。

 そしてここからは、白富東もピッチャー交代で、一年生の刑部がマウンドに登る。

 球速はそれほどでもないが、刑部の投げるストレートは、白富東のピッチャーの中では、一番球質がいい。

 もっともそういうストレートは、上手く合わされてしまったりすると、ぽんとスタンドまで飛んでいってしまうものだが。

 それほど多い検証がなされたわけではないが、白富東のピッチャーの中では、刑部が一番、三振を多く奪えるタイプなのだ。

 ただしそれだけに、長打を浴びることもある。


 残り4イニング。

 刑部と内田だけではなく、他の四人のピッチャーも使って、どうにか相手の攻撃をいなしていく。

 真っ向勝負の綺麗な勝ち方ではなくてもいい。

 反則や、故意の死球を与えない限りは、それは全力で勝ちに行ったということに間違いはないのだから。


 このピッチャー交代のタイミングで、勇名館は一点は返しておきたい、などと思っていたりするだろう。

 なので先頭打者に対しては、慎重に入る必要がある。

 しかし刑部はサインにあっさりと頷くなどということはなく、自分からこっそりサインを出したりしている。

(度胸はいいんだよな)

 北村は苦笑するが、こういうチームをこそまさに、北村は作りたかったのだ。


 初球のストレートが、ど真ん中に入った。

 代わったばかりのピッチャーが、そういった入り方をするというのは、そこそこあったりすることだ。

 勇名館バッターはそれを見逃し、一度バッターボックスを外す。

(今のが打たれたたら、どうなったことやら)

 北村としてはぞくぞくするわけであるが、結局試合というのは選手たちのものだ。

 そしてピッチャーというのは、その戦場の中で、もっとも傲慢なものでもあるのだろう。


 二球目に投げたボールは、これまた高めのストレート。

 だが浮いたわけではなく、そこに狙って投げられたストレートは、バットに当たらない。

 ツーストライクに追い込んでから、変化球を使う。

 先頭打者を内野フライに打ち取り、絶好のスタートを切った。




 ランナーを二人出しながらも、最後には三振でスリーアウトとなった。

 肝心のところで空振りが取れるというのは、ピッチャーとしては優秀な要素である。

 既にアドレナリンが大量に出ているのか、刑部の発汗は激しい。

 水分補給を注意しながら、七回の表が始まる。


 140km/h台後半を出してくる、勇名館のエース。

 白富東は下位打線ということもあって、あっさりと三者凡退に終わった。

 一本ぐらいはラッキーなヒットが出てくれないかな、と北村は思っていたのだ。

 だがもうそういう運の偏りは、白富東の方にはないらしい。


 北村は残る内田の他にも、ピッチャーには準備を始めさせる。

 この七回の裏というのは、おそらく一番大きなものとなる。

 前のイニングの刑部のボールを見て、勇名館がどう対処してくるか。

 球速の割には伸びがある、というのは既に分かっているだろう。


 直史から指導を受けて、刑部は成長しているはずだ。

 それはピッチャーとしてだけではなく、普通にフィジカルも成長している。

 身長も伸びたし体重も増えた。

 球質がいいとは言ったが、球速も上がっているのだ。

 変化球を見せ球にしつつ、ストレートでアウトを奪う。

 理想的なピッチャーのスタイルに、ここから二年かけて成長させていく。

 しかし目の前の試合も、もちろん全力で投げていかなければいけない。


 だが、ここまでは白富東に偏っていた、流れでもなく勢いでもなく、運の偏り。

 それがようやく、勇名館でも出たと言おうか。

 七回の先頭バッターの打球は、それほど鋭いものではなかった。

 だが一塁線を抜けて、長打コースとなる。

 ライトの処理は平均的な速度であったが、それでも二塁にまでは進んでいた。

 ノーアウトランナー二塁。

 勇名館としては絶対に、ここで一点は取らなければいけない場面である。




 ここを無得点に抑えたら、一気に試合の流れは白富東に来るだろう。

 北村としてもそれは分かっているが、今はまだ二点差なのである。

 確実にアウト一つずつを取る。

 出来ればここで、進塁打を打たれることなく、一つのアウトがほしい。


 そう上手くはいかない。

 勇名館はここで、しっかりと送りバントを成功させてきた。

 白富東もある程度は警戒していたが、下手にチャージをかけたりすれば、強攻してくる可能性もあった。

 それよりはランナーを三塁まで進めても、まずはワンナウトを取る。

 これが正しい選択、のはずだ。


 これで本当にいいのか。

 北村は本当に何度も考える。

 リスクをどこかでしっかりと取らないと、格上に勝つことは出来ない。

 本当にそうか?

 序盤の運の偏りにより、二点を先制することが出来た。

 しかもここまで無失点というのは、完全に白富東が優位には試合を進めていた。

 だが野球というスポーツの特徴を、忘れてはいけない。

 二点差はワンチャンスで覆る点数でもあるのだ。


 野球にはビッグイニングというものがある。

 流れと勢いが合致して、大量点につながるというものだ。

 ただビッグイニングは、注意していればその予兆はある程度分かる。

 そして今の東郷の采配は、少なくともビッグイニングの可能性を消した。


 リスクを取ってでも、大きなリターンを得ることが重要。

 もしもここで送りバントではなく強攻を選択し、普通にヒットが出ていたら、それこそビッグイニングとなった可能性はあっただろう。

 七回の表、白富東は勇名館のエースに、三者凡退で抑えられていた。

 明らかにそこで流れが勇名館に向かい、その裏に先頭打者が長打で出塁した。


 ただ、これがスリーベースにならなかったのが、まだ白富東の幸運と言うべきか。

 ランナー三塁であれば、送りバントも必要なく、そのまま一打で同点となった。

 出来ればここは、一点を返されてでもランナーをなくしたい。

(外野フライがいいな)

 内野も外野も、共に深めに守っている。

 確実にワンナウトを取って、ランナーをなくせばいい。

 ただそれで、リードは一点になってしまうが。




 勇名館としては、深いことは考えていない。

 ここまで確かに無得点に抑えられてはいる。

 だがそこに運の偏りがあるというのは、東郷もしっかりと感じているのだ。

 ほんのわずかな隙さえあれば、一気に点につながることは間違いない。

 だからこそここまで、真っ向勝負の打撃を続けてきた。


 しかし白富東も、そして勇名館も先発のピッチャーを降ろした。

 ここからは勇名館の、最高の戦力の並びである。

 これ以上の失点は許さないし、代打を使っていくことも出来る。

 まずはここで一点を取れば、選手層で押しつぶすことが出来る。

 それだけのチームを作ってきたのだ。


 バッターボックスの選手には、フルスイングを指示してある。

 もしもここで点が入らなければ、ということは考えていない。

 ここは点が入る場面だからこそ、正面から点を取りに行く。

 万一点につながらなかったとしても、それでもまだ充分に戦力の余裕がある。

 

 残り2イニングになったとしても、代打攻勢で追いつける。

 それだけのチームを作ったし、白富東のピッチャーも分析している。

 東郷の見守る前で、打った打球は外野の深くに、タッチアップ充分の距離をもって飛んでいった。




 勇名館が一点を返した。

 ただこれでツーアウトとなり、ランナーのプレッシャーはもうない。

 変化球でカウントを稼いで、最後にはストレートを投げ込む。

 内野フライでスリーアウトとなり、反撃は一点までに抑えることが出来た。


 勇名館には打撃だけでベンチに入っている、という選手が何人かいる。

 残り2イニングと考えれば、バッター一人ずつにピッチャーを代えていくという戦術も使える。

 ただ目先のピッチングをちょっと代えた程度なら、すぐに対応してくる。

 それぐらいの力を、勇名館は持っている。

(あの時は2-1で負けたよな)

 奇しくもまたも、勇名館は後攻である。

 サヨナラで勝利するという条件は整っている。


 北村はあの日の敗北を、夢で見るということはない。

 少しだけ、崩れ落ちているジンの姿を夢に見たことはあったが、それを見る自分の心は平静に凪いでいた。

 それにその後の白富東の活躍を見ていれば、じきにそんな夢も見ないようになった。

 今も見る悪夢と言えば、自分が采配を取った試合で負けるというもの。

 だがそれも慣れてきた。


 野球というのは必ず、勝敗がつくものなのだ。

 一つ一つの敗北を夢に見るようでは、とても楽しんでなどいられない。

 究極的な話をすれば、最後の夏を敗北せずに終われるのは、わずかに1チームだけしかないのだ。

 あとは全て敗北し、その敗北と折り合いをつけて生きていく。

(それでも全力は尽くさないと名)

 八回の表、白富東に追加点はない。




 継投のタイミングが、この試合を決めるだろう。

 代わったイニングでヒット二本を打たれて、その次には一点を奪われている刑部。

 もちろんたったの2イニングで、体力が尽きることなどはありえない。

 だが発汗していて、かなり精神面は消耗しているのが分かる。

 どこで代えるか。

 まだメンタルコントロールの未熟な高校生であれば、ピッチャーの交代は早め早めに行っていくのが正解だ。

 もちろん怪物的なメンタルを持っているエースがいれば、それもまた別の例となるのだが。


 ジンなども、また国立なども、基本的にはピッチャーの交代は、イニングの頭からというのを基本としていた。

 高校生のメンタルでは、自分の責任ではないランナーを背負っていては、充分なコントロールが出来ないと思っていたらしい。

 もちろん絶対的なクローザーがいれば話は別だが、高校野球でそんな選手を用意するのは難しい。

 八回の裏、北村は刑部をファーストにチェンジ。

 そしてマウンドには内田を送り込んだ。


 刑部は長打こそ少ないが、バッティングセンスもそれなりにある。

 ただ一年生にピッチャーをやりながらバッティングまで、というのを求めるのは難しかっただろう。

 よってここでも基本的には、あくまでピッチャーとしてまたマウンドに戻す可能性を残してポジションをチェンジする。

 内野手としても刑部は、かなり優れたフィールディングの能力があるのだ。


 さて、これで残るは、内田がどれだけ勇気をもって投げ込めるか。

 残り2イニング、アンダースローの内田を打ち崩すのに、果たして充分な時間を勇名館は持っているのか。

 北村はもう、ここからは祈りを混ぜていくのみ。

 高校野球に絶対はないのだから。




 勇名館としても、この八回の裏で追いついておきたい。

 いくらバッティングに自信のあるバッターを揃えていても、九回の裏には出したくない。

 たった一打席で結果を出すために、スイングを続けてきた選手たち。

 だがそれに加えて、リードされた状態での九回の裏というのは、プレッシャーが強すぎる。


 東郷は選手たちを信頼している。

 だが信頼しているからこそ、無責任に任せることなど出来ない。

 この八回で、なんとか同点に追いつくこと。

 そして同点にまでしてしまえば、あとはサヨナラの機会がどんどんと回ってくるのだ。


 もしもこの試合に負けるとしたら、確かに初回の不運があるとは思う。

 だが東郷の采配ミスも、必ず存在する。

 七回のあの場面で、強攻していれば良かったのではないか。

 あるいは交代直後の六回にも、動くことは出来たであろう。

 ランナーが出てから、それをどう活かすかは采配次第である。

 実際にこの試合、打ったヒットも出たランナーも、勇名館の方がずっと多いのだ。


 自分の無能さに腹が立つが、それを反省するのは後のことである。

 もう一度やれば勝てる、などというのは負け惜しみにしかならない。

 確かに選択や結果を見れば、もう一度やれば勝てそうだ。

 むしろ五回ほどやったとしても、おおよそ勝てるのではないかと思う。

 だが現実では、この一回が重要なのである。


 まずは出塁。

 そう思っていたところに、打球は内野の頭を越えていく。

 だがライトの守備範囲内に、ほぼライナー性の打球でキャッチアウト。

 これも普通ならばヒットになっていておかしくはない。


 先頭打者をアウトにすれば、得点の可能性は一気に下がる。

 ただ内田は、そこそこ長打を打たれるピッチャーでもあるのだ。

 アンダースローから投げたボールは、ややホップ気味に見えるので、空振りを奪うこともある。

 だが上手くミートすると、ゴロよりはフライになることが多い。


 ここで一発打たれてしまえば、一気に試合は振り出しに戻る。

 だが打ったボールはセンターが大きくバックしたが、その守備範囲内でキャッチアウト。

 北村がほっと息を吐いているのが、反対側からのベンチでも見えた気がした。

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