第96話 夏の夕暮れ
刑部をまだフィールドに残して、八回の裏の勇名館の攻撃。
先頭打者を打ち取ったものの、続く打者にはレフト前にコテンとヒットを打たれる。
だがその次の打者を内野フライに打ち取り、どうにかツーアウト。
ランナーは一塁にへばりついており、あと一人打ち取ればどうにか交代となる。
北村はサインをさほど出さない。こういう時のキャッチャーやピッチャーの気持ちははっきり分からないからだ。
しかしストライク先行でいけ、ということだけは伝えている。
外すなら高めへ。
一番悪いのが、低めにコントロールしようとして、高めに浮いてしまうというもの。
狙った高めは打たれないが、浮いた高めは打たれる。
直史がピッチャーたちに指導していたことだ。
(俺のことなんか信じなくていい)
北村は自虐というわけでもなく、正直に思う。
(だけどお前たちのコーチをしてくれたのは、世界一のピッチャーなんだ)
それだけは間違いない。
センターへの大きなフライは、スタンドにまでは遠く届かない。
それでもスタジアム上空の風で、かなりボールは複雑に流された。
なんとかキャッチして、これでスリーアウト。
残り1イニングとなり、そして点差はわずかに一点である。
スタジアムの観客席でも、バックネット裏は観戦の特等席というのは、だいたいどこでも同じであろう。
瑞希と真琴はここに陣取って、試合の推移を見つめている。
真琴は周囲のおじさんと一緒に、白富東の応援。
おっさんファンには白富東は、栄光の時代を作り上げた名門であると共に、地域の進学校として憧憬の対象でもある。
普通ならガリ勉どもの鼻持ちならない進学校、などと思われてもおかしくないのだが、白富東はそのあたりが特異なのだ。
そこから離れて、直史は応援する一塁側スタンドの、ほぼ最上階の席から、試合を見守っていた。
万が一にも誰かに気づかれたら、面倒なことになる。
それを恐れてのことであったが、試合がここまで佳境に入ってくると、わざわざ観客席に注意を向ける者はいない。
そして試合を見つめている直史としては、ここで信頼できるクローザーがいないのが、今の白富東の辛いところだな、と思うのだ。
そもそも高校野球においては、そんな絶対的なクローザーなど、存在する方が珍しい。
たまに短いイニングを投げる方が得意なピッチャーはいるが、それをどうにか長く使おうというのが、高校野球のスタンダードだ。
使われ方のミスマッチにより、才能が花開かないということは確かにあるかもしれない。
だが試行回数の少ない高校野球においては、そこまで実戦で特徴を見抜くのは、難しいのである。
直史から見た内田の長所は、あの遅い球でありながら、それなりに空振りが奪えること。
そして短所と言えるのが、打たれるボールがフライになりやすいということだ。
ただ現在のプロにおいて、フライを打つのが基本というフライボール革命は、高校野球のレベルではまだ支配的なものではない。
アウトを取るために打たれてからキャッチするだけの一段階しかいらないフライに比べると、ゴロはキャッチしてから送球までの二段階が必要。
エラーの半分以上は送球ミス、というのが高校野球である。
また内野の深いところから、俊足のランナーを刺すのも難しいのが、高校野球の平均的な肩の強さだ。
千葉県大会のベスト8までやってくると、もちろんかなりの上澄みともなっている。
それでも直史としては、自分ならゴロを打たせるな、と思うのだ。
そちらの方が点にならない、という確信があるので。
内田は確かに、フライを打たせる球質である。
しかしあの球速では、ジャストミートすれば普通にスタンド入りする。
なんとかそれを避けるため、直史も指導はしたものであるが。
九回の表に、もしも一点でも取れたら、試合の流れはまた一気に白富東の有利になるだろう。
しかし七回からマウンドに登った勇名館のエースは、まるで点を取られる様子がない。
最初から先発として投げていれば、勇名館はもっと圧倒していたのではないか。
それは確かに結果論ではそうなのかもしれない。
だが先を見据えるならば、まだここでエースを投げさせるのは、少しでも少ない方が良いのは当たり前なのだ。
せめて一人でもランナーが出て、この嫌な空気を乱すことが出来たら。
直史はあまり感覚的な人間ではないが、空気が澱むような気配を感じている。
何かが起こってしまっても、おかしくはないという空気だ。
逆に一点でも取れたなら、リードは二点となる。
一発を食らってしまっても、ソロならばOKと割り切れるのだ。
直史は自分ならゴロを打たせる、という選択肢を取れる。
また自由に投げて、普通に三振も奪えるだろう。
見る側というのは、やはりもどかしさを感じる。
ましてこれはプロのレギュラーシーズンの一試合ではなく、夏のトーナメントの一試合。
負けたらそこで終わりという、プロよりもよほど厳しいシチュエーションとも言えるのだ。
(俺が投げるなら)
北村がどういう指示を出すのか、直史には分からない。
ただ望むのは、全力を尽くせ、ということだけであった。
九回の表、白富東の打線も、空気の重さを感じ取っている。
このあたりのプレッシャーに対する耐性は、去年の夏に甲子園を経験している、勇名館の方が慣れているだろう。
甲子園のかかった決勝ではないというのが、まだ幸いであるかもしれない。
だがプレッシャーを感じないようにと指導されてきた白富東の選手たちも、さすがにここではその教えを実行しきれない。
北村は確かに、粘っていけとは言っていた。
三人で終わってしまって、すぐにこちらの守備では、空気がこちらだけに重いままであるからだ。
しかしそれによって、スイングの思い切りのよさも消えてしまっている。
これではさらに上の要求である、ヒットによる出塁や、その先に見える追加点へは、とても届かないであろう。
采配と言うか、声のかけ方を間違えた。
弱弱しいスイングで、ゾーンの中のボールをファールにしてしまって、強い打球が飛ばない。
ここでいきなり強攻といっても、すぐには切り替えられないだろう。
仕方がないのでネクストバッターズサークルに入っているバッターにだけは、それを伝えておく。
粘っていくというのは、あくまでも第二目標。
一番は当然ながら、ヒットを打って出塁することだ。
もちろんボールを選んで、それで出塁でも、出来たならばそれは問題ないのである。
しかし今は、それだけを目指しているようにしか見えない。
(完全に封じられているからな)
交代した後の勇名館のエースからは、点の取れる気配がない。
そもそも二回以降、まともに得点のチャンスがなかった。
リードは確かにまだしているが、試合全体の勢いとしては、完全に勇名館の流れとはなっているのだ。
むしろまだリードしているのが奇跡である。
奇跡というのは、人が起こすものである。
北村は大学時代、それを簡単に起こす人間を、ずっと見てきた。
武史もたいがい規格外の存在であったが、まだしも常識の範疇にある。
だが直史のピッチングは、どうにも理解できないものであった。
試合が二時間以内に終わってしまう、ということは普通にあった。
一試合守っていて、ボールが飛んできたのは一度だけ、などという試合もかなりあった。
もうあのバッテリーだけでいいんじゃないかな、と思うことは確かにあったのだ。
そんなものと今の高校生を比べてはいけない。
(この空気は、本当なら負ける空気だ)
監督になってからも、何度も感じたものではある。
(だけどこれが、ひょいと覆されるのも、高校野球なんだ)
北村としてはもはや、そんな奇跡を祈るしかない。
内野ゴロに終わった先頭打者。
次は好球必打で難しい球には手を出さないことを指示してある。
だがこういう時に、アウトローにコントロール出来るのが、強豪私立のエースといったところだろうか。
空振り三振でバッターアウト。
これでツーアウトで、三者凡退で終わるのだけはどうにか避けたい。
九回の裏、勇名館は全力で最後のチャンスに賭けてくるだろう。
内田の打たれた打球を見るに、勇名館はおそらくアジャストしてくるだろう。
ホームランを打たれたら、それがソロでも追いつかれる。
野球というスポーツは、一発逆転があるスポーツなのだ。
(追いつかれたら、勝つのは難しい)
戦力的にも、そして状況的にも。
同点の状態で裏になれば、常にサヨナラのピンチに晒されることになるのだ。
九回の表、白富東はランナーを出すことなく攻撃終了。
そして勇名館の最後の攻撃が始まる。
控えの代打専門が、それぞれ素振りを始める。
同点に追いついたら、一気に逆転するぐらいの気持ちであろうか。
数字だけを見れば、有利なのは白富東の方だ。
ここまでわずか一失点で、最後の守備であるのだから。
いっそのことこれは、細川をもっと引っ張るべきであったのか。
北村はほんの少しそう思ったが、彼の体力はまだ信頼の置けるものではない。
来年を見据えたチーム作り、というのも北村は少しは考えている。
むしろ普段から常に、それを考えていると言っていい。
夏で野球が終わって引退するのは、三年生だけであるのだ。
他の選手たちはこれからが、新しい一年の始まりだ。
しかし今は、目の前の全てに全力を尽くす。
先頭打者を打ち取ってくれ。
運の偏りに、ここでも期待せざるをえない。
高校野球というのは、守備力で試合が成立するのだ。
それを分かった上で、北村は選手たちを鍛えてきたのだから。
その先頭打者の打球は、飛び上がったショートの頭の上を越えていった。
レフト前へのクリーンヒットは、ほどよい曲線を描いて、ヒットになったのだ。
フライでもなくゴロでもなく、ライナーに近い。
ほんのわずかな違いによって、今のはショート正面の打球になってもおかしくはなかった。
打球の強さ自体は、それほどでもなかったのだから。
ノーアウトランナー一塁。
ここから勇名館は、代走を出してくる。
打力の高いバッターを、ここで引っ込めてしまう。
確かに一点も取れなければ、そこで試合終了なので、判断としては正しい。
(ヒリヒリするな)
これを楽しんでほしい、と北村は選手に願っていた。
ゲームは難しいほど面白い、のだろうか。
ただするだけで楽しめるというのが、一番いいゲームではないのだろうか。
野球だってゲームの一つだ。やっていて面白くなければ、誰もやろうとはしない。
そこに負けの悔しさや、勝利に付随する何かを足してしまうと、途端に純度が下がってしまう。
必要以上に負けを恐れる必要はない。
高校野球で負けたとしても、何も失うことはないのだ。
敗北した、ということがいい経験になることもある。
この世界に負けたことのない人間などいない。
むしろ後に大きな成功をしている人間ほど、最初に大きな失敗や挫折を経験しているものだ。
今の日本人には、特に若者には、失敗体験が足りない。
失敗していないということはいいことのように聞こえるかもしれないが、実際は単に試行回数が少ないだけだ。
致命的なものでない限りは、失敗も挫折も早くから経験するべきだ。
もちろん成功体験も、ほどほどになくてはいけないが。
北村が懸念するのは、失敗や敗北を引きずりすぎること。
それよりはさっさと立ち上がって、前に進んでいくべきだ。
敗北は確かに心を折るが、前に進むための肉体が傷ついているわけではない。
ならば進むのが、人間としての正しいあり方であろう。
勝利を目指すべきではあるし、負けていいなどとは言わない。
だが勝利だけに囚われていては、かえって勝利から遠ざかることとなる。
重要なのは全力を尽くすことだ。
それでも敗北した時、そこからが教育者の出番となる。
ノーアウト一塁から、勇名館が打った打球は、高くバウンドするサードゴロであった。
ここはセオリーなら右狙いなのだろうが、それよりも強く引っ張るほうを意識した。
深く守っていたサードは、それを待ってからキャッチせざるをえず、二塁には間に合わない。
「投げるな!」
ショートからの声に、送球の動きが止まる。
二塁をオーバーしていたランナーが、慌てて塁に戻る。
一塁に投げていたら、ランナーは三塁に及んでいたであろう。
そして一塁に投げていても、そこでアウトを取れたかどうかは、かなり微妙なタイミングであった。
またそのタイミングから、悪送球の可能性もあるので、ショートの判断は正解。
そう思わなければやっていられない。
ノーアウト一二塁。
これが一三塁であれば、ほぼ確実に一点は入っていた。
どうにか次のバッターでは、一つアウトを取りたい。
ただそれでもランナーを三塁に進めてしまえば、多くの方法で一点を取ることが出来る状況となる。
一点だけを取るならば、送りバントでいいだろう。
ランナーを進めれば、ほぼダブルプレイもなくなる。
その次のバッターで、スクイズをするなり犠牲フライを打つなり。
勇名館の攻撃は、よほどのことを起こさない限り、一点に結びつく。
白富東は恐れず、確実にアウトを取っていかなければいけない。
だが決断をして、違うアウトを取ることも必要だ。
一三塁にしてしまったとしても、次のバッターでダブルプレイを取れる可能性が高くなる。
二三塁にするよりは、ずっと勝利の確率が高くなるのだ。
バッターはここで、ほとんどバントと同じような感じで、セカンドに弱いゴロを打った。
セカンドは前進してそれを素手で捕るが、キャッチャーからの指示は一塁。
そちらに投げてワンナウトを取り、これでワンナウト二三塁。
何があってもほとんどの場合で、三塁ランナーが帰って来られる。
ここで強打者を迎えたのなら、満塁策さえ考えてもいいだろう。
得点圏にランナーが二人もいるのだ。
どちらにしろ長打が出れば、一気に二人が帰ってこられる。
もしも満塁策を取るなら、どこの塁でもフォースアウトが取れる。
一塁を埋めたとしても、次のバッターの危険度はさほど変わらない。
打たれたらほぼ負ける。
この状況を楽しむのは、とても難しい。
北村はだが、冷静に判断する。
ここは少しでも、点を取られにくい状況を作るべきだと。
投げた瞬間、打った瞬間に進まれることは避けなければいけない。
ワンナウトなのだから、ある程度は打球の行方を見てから発進する必要がある。
しかしゴロであれば、その勢いによってはやはりダブルプレイになる可能性も出てくる。
つまり敬遠し、満塁策を取った。
攻撃的な守備である。
外野フライを打たれたら、どちらにしろタッチアップで一点は取られるのだ。
それを考えるならばやはり、満塁策であろう。
ランナーの動きを限定することが出来る。
出来ればここで内野フライなどのアウトが取れれば、あとは普通にバッターと勝負するだけ。
一番ありがたいのは三振である。
内田のボールの特徴は、アンダースローからのホップする軌道に見えるボール。
球速の割には三振を奪いやすく、そしてフライを打たせやすい。
ただこの場面では、内野フライまでが許容範囲内。
外野フライは打たれたくない。
北村が指示したのは、外野を前進させること。
そして内野も、やや前進する。
タッチアップを許さない外野フライならば、それは問題ではない。
内野ゴロを打たれてしまったら、それはホームでフォースアウトにする。
追いつかれれば負ける。
それを正しく理解して、北村はその指示を出し、そして選手たちも正しく意図を把握していた。
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