第97話 巡る
ワンナウト満塁でリードは一点。
長打が出れば逆転であるが、ヒットでも充分という場面。
ただし打球によっては、数秒で試合が決着してしまうこともある、ひりついた場面だ。
内野ライナーからのダブルプレイでも起こってくれれば、一気に試合は終わってしまう。
数秒間のプレイで、夏が終わるかもしれない。
そんなプレッシャーがどちらにもある。
そしてプレッシャーは、勇名館の方が大きいかもしれない。
去年の夏は甲子園に出場し、かなり上まで勝ち進んでいった。
しかし春のセンバツは、まさかの未選出。
二つの県から四つのチームが選ばれるという異常事態にも見えたが、試合内容を見ればそれもおかしくはない、とさえ言えた。
だがそれだけに落選してからの勇名館は、この夏を勝ち進むために準備してきたのだ。
まだこんなところでは終わっていられない。
今年もあの舞台に立つのだと、強く心から想っている。
こういった場面ではいったい、どういった精神状態の方がいいのであるか。
白富東の場合は、その点ではあっさりとしていた。
普段から追い込んで精神的に強くする。
それもまた一つの方法ではあり、日本の伝統的な根性論である。
しかしプレッシャーへの耐性は、本当にそんなことでつくのかどうか。
検証した例はあまりにも少ないだろう。
北村などは大学で普通に心理学をやっているために、もっと簡単にプレッシャー対策を考えている。
それこそがまさに、プレッシャーを楽しむというものなのだ。
確かにこれはピンチではある。
だが一生のうちで何度、こんな自分が主人公の場面に立てるというのか。
普通のプレイをしても、充分にヒーローになれる。
そんなマインドを育てるような指導を、北村はしていたのだ。
(楽しめ)
それが勝とうという気持ちにつながる。
結果は後からついてくるだろう。
上手くすれば一球だけで決まってしまう。
下手をしても一球だけで決まってしまう。
もうこの状態になると、マウンド上のピッチャーにかかるプレッシャーは、極限のものであろう。
(粋だな)
今後の人生において、これほどの大きな舞台というのが、果たしてあるのかどうか。
内田は球速の出ないピッチャーである。
だがコントロールと器用さには自信があったので、アンダースローに望みをかけた。
甲子園に出られるかどうかは微妙な可能性の白富東。
しかし全く狙わないというのも、高校球児であればむしろひねくれている。
昨日よりも少しでも上手く。
明日はまた今日よりも上手く。
確実に、着実に上手くなっていこう。
その先に何が待っているのか、誰も知らない領域へ。
投げるぞ、投げるぞ、投げるぞ!
あのキャッチャーミットめがけて、全力で投げるぞ!
下手にコントロールにこだわる必要さえない。
アンダースローはただそれだけで、充分に変化球と同じ効果がある。
ならばどれだけ、強く腕を振って投げられるかだ。
「そうだな」
スタンドで冷たく見つめる直史は、内田が全力で投げ込む姿を見ていた。
自分だったら絶対にしないことである。いや、この程度の相手であれば、やってもおかしくないのか?
どちらにしろ自分ならばこんな状況になる前に、試合を終わらせていただろう。
運任せのようなピッチングはしない。
しかし運命は、より強い人間に微笑む。
打たせたフライは、ショートの定位置でキャッチされた。
ツーアウト満塁。
これで外野フライであっても、タッチアップになることはない。
だが逆に打ったらスタートを切るので、ヒット一本で一気に逆転という可能性は高くなる。
もちろんワンナウトの状態よりは、白富東の有利であるのだが。
スタンドの応援はどちらも、この場面に対して絶叫している。
汗まみれになって、涙まで浮かべて、必死で応援している。
楽器を鳴らすブラスバンドは、それ以上に過酷な状態。
この最後のチャンスであり、同時にあと一人とまで追い込まれたピンチに、応援で少しでも力を伝えようとしている。
どちらが勝つのか。
どちらが勝ってもおかしくはないが、単純に確率の話であれば、もう白富東の方が有利なはずであろう。
上位打線に回ってきているが、単純に打率は五割以下。
つまりヒットを打てる可能性は低いのである。
ただこんな状況であると、もうデータにはさほど意味はない。
運の偏りだとか、そういったことはまだありえるだろう。
しかし結局は、勝つべき方が勝つ。
いや、勝った方が強かった、というそういう話になる。
(フォアボール以外は何をやってもいい)
デッドボールもまずいが。
ここではしっかりとストライクゾーンに投げるのが重要だ。
内田のボールは普通に投げても、ある程度不規則に変化をしてしまうのだ。
なのであとは、投げてからは運任せ、というピッチングでもある程度はいいのである。
統計で野球をするなら、それで結果は出てくる。
もっとも一発勝負の試合では、それは厳しいのであるが。
あと一人となって、ここから交代という選択はないだろう。
どれだけしっかりと投げて、どちらの執念が優るのか。
まさに根性論の領域で、試合は決着しようとしている。
心と心の対決、などというと前時代的に聞こえるかもしれない。
だが人間と人間の対決というのは、理屈ではなく気迫で勝負が決することは多いのだ。
ロジックだけで勝負するなら、また話は別である。
直史はコントロールが可能であったので、ロジックを使うことが出来た。
しかし社会一般のピッチャーは、それがどれだけマシーンに近くても、マシーンよりも正確なことはほぼない。
ならばあとは確率に運命を任せて、勢いで投げるしかないのだ。
初球からゾーン内のボールを、バッターも振っていく。
わずかに当たったボールは、バックネットに突き刺さった。
ストライクカウントが一つつき、そしてボールは前には飛ばなかった。
ファーストストライクを打つというのが、バッターにとっては一番有利なカウントである。
なのでこれでまた、白富東に勝利は近づいた。
勇名館に勝つということは、そのまま千葉を制する可能性まで出てくる。
たとえこの試合が、相当に運に恵まれた展開であったということを考えてもだ。
トーナメントの反対側からは、トーチバが順調に勝ち抜いてきている。
まだ分からないが、決勝に上がってくる可能性は相当に高い。
だがそんなことは今はどうでもいい。
試合が終われば、すぐに考えてもいい。
しかし今は目の前の試合に、全て集中するべきなのだ。
内田の二球目は、シンカーを外して投げた。
バッターは体が泳ぎそうになったが、それを止めてボールを見送る。
外れたボールは、フレーミングでストライクにすることも出来ない。
元々これは、外すべきボールであったのだ。
問題は次である。
カウントの有利を作るために、次はストライクゾーンに投げる。
ストライクに投げるのだ。
カウントを稼ぐとかそんなことを考えるのではなく、もうこの一球に全てを込めていく感じで。
このバッターで決めなければ、もうマウンドを譲る。
それぐらいに全力で、後のことは考えず、一球一球に魂を込める。
北村などはそんなことは教えてくれなかった。
勝敗よりも、全力を出し切ることを重要視しているからだ。
だが全力を出し切るのは、勝負に勝つためである。
浮いたボールではなく、高めに投げたボールが、ゾーンの中に入っている。
それを迎えうつスイングは、これまた全力であったろう。
力と力のぶつかり合い、に見えたかもしれない。
だがそれは錯覚である。
直史の目にははっきりと、その勝敗につながる線が見えた。
そして打球は飛んでいく。
センター方向、外野は後退する。
ほんの少し前進していたが、この打球は間違いなく定位置は越える。
あとはセンターが追いつくか追いつかないか。
少なくともスタンドには届かないと思う。
(ぎりぎり追いつけない、か?)
そう見極めたが、結局ここにも、運の偏りというのはあったのだろう。
マリスタ名物と言えば、それは浜風。
わずかながらもそれは、打球の勢いを殺した。
最後にはセンターがジャンプする。
そのグラブの中に、ボールは収まっていた。
スリーアウト、ゲームセット。
初回を除いて終始試合を支配しながらも、勇名館は敗北したのであった。
運が良かった、のは間違いない。
初回の得点だけではなく、その後の守備において、相手の強い打球が守備範囲に飛んだ回数は、かなり白富東の方が多かった。
今更ではあるが、序盤から勇名館がなりふり構わず戦っていたら、勝敗は逆転していたであろう。
だがここはまだ準々決勝。
先を見ているがゆえに、足元に躓くということはある。
まさにそれが、今年の勇名館であったのだ。
妻子と合流する前に直史は、勝者側の白富東の方に向かう。
地元紙や地元のネットニュースなどの記者から、北村や選手たちがインタビューを受けていた。
これは番狂わせ、というほどに両者の間に実力差はなかったが、それでも有利だと見られていたのは勇名館であったのだ。
選手たちはハイテンションであり、北村は完全に気が抜けている。
それでも受け答えの内容は、かなり冷静なものであった。
運が良かった、というのを北村も理解しているようであった。
もちろん運が良かった程度で、どうにもならない実力差があれば、話は終わっていたであろう。
ある程度は鍛え上げて、そして最低限の実力はあった。
勝敗を左右したのは、守備での判断ミスがなかったこと。
もちろんミスかどうであったから、勝ったからこそ言えることだ。
通路の奥の方では、勇名館もインタビューを受けていた。
おそらく泣いているのは、三年生であるのだろう。
(後悔はしたくなかったからな)
直史はそう考えたからこそ、全力を出したのだ。
最後の大会で唯一、敗北せずに終われるチーム。
甲子園で優勝し、頂点に立つ以外は、全てどこかで負けていることになる。
正確には国体もあるのであるが、あれはもうエキシビションマッチのようなものだ。
夏が八月に入る前に終わってしまった三年生たち。
下級生はもうすぐに、新しいチームで始動する。
(監督は本当に大変だな)
辛さをしっかりと感じていそうな東郷を見て、直史はそんなことも考えた。
監督は選手以上に、何度も敗北を経験しなければいけない、しんどい仕事なのだとは分かっていたのだ。
「おとーさん、野球って不思議だね」
帰りの車の中で、真琴はそんなことを言った。
「何が不思議なんだ?」
「だって強い方が勝つとは限らないもん」
真実を突いた言葉であった。
今日の試合、ターニングポイントは初回から、何度もあった。
ただそれとは別に試合を見ただけでも、勇名館の方が強かったのは確かだ。
母校を応援するということと、どちらが強いかを冷静に判定するというのは、また別の話である。
戦力だけを見るなら、確かに勇名館の方が強かった。
だが野球というのは、各要素の足し算だけでどうにかなるわけではないのだ。
今回の勇名館の敗戦の原因。
それは一つには運というものがある。
だが誰か一人に責任を帰属させるとするなら、それは間違いなく監督だ。
序盤は先制されたことで、チームを落ち着かせるいみでも、あえて動かなかったのだろう。
そこは間違っていないとも思うが、その後に白富東がほとんど追撃出来なかった時点で、もう攻勢を強めるべきであった。
継投に関しては、ややずれていたかもしれないが、これは結果論。
白富東は初回の二点以外、まともに得点のチャンスも作れなかったのだ。
本格的に代打を使ってきたのが、終盤というのも間違っていた。
勇名館の選手層を考えれば、中盤で追いつくことを考えなければいけなかった。
監督が慎重すぎた。そしてそれでも勝てると思っていた。
結局判断を下す人間に必要なのは、決断力なのだろう。
どこかで東郷がもっと攻撃的になっていれば、おそらく点はあと一点は入っていたはずだ。
去年の成績などが、彼を縛っていたのかもしれない。
この年の白富東の夏は、準決勝で終わった。
準決勝で上総総合と対戦し、敗北したのである。
その上総総合との戦いも、かなりの接戦ではあった。
しかし最終的には、チャンスを作ればすぐに動く、上総総合の采配が当たったと言える。
この試合も直史は、観客席で見ていた。
動かないことは、重要である。だが難しい。
よって積極的に動く場面をしっかりと作り、試合の主導権を握っていったのが上総総合であった。
常に動きで先制されて、ただそこから北村も下手に動くことなく、相手の息切れを待ったのだ。
最終的にはここも、最少失点差での決着となった。
双方体力よりは、精神力を削りあい、それが逆に体力を大きく削っていったと言えるだろう。
あるいはもっと根本的な、魂の削りあいであったと言えようか。
勇名館相手にも、僅差の試合をしたために、区分不能な疲労がたまっていたのかもしれない。
もっとも接戦をものにすれば、勢いもつくものであったはずだが。
その上総総合も、決勝で敗れた。
今年の千葉の代表は、トーチバとなったのである。
甲子園が始まる前に、大半の高校球児の夏は終わった。
そしてまだ夏の盛りであるが、秋が始まるのである。
新チームが始動する。
今年の甲子園にも、さほど興味のない直史である。
母校が出ていないと、わざわざ観戦したりはしないのだ。
またプロ野球にも、関心を引かれることもない。
ただ夏の大会が終わった後、北村とは一日飲んだりはした。
甲子園を経験させてやれなかった。
北村も選手としては甲子園に出ていないので、そのあたりの感覚は微妙なものがある。
なので出場経験どころか、最後の夏を最後まで負けずに終わった直史などとは、色々と話してみたりする。
直史としては甲子園は、復讐の舞台のようなものであったが。
甲子園には確かに価値があった。
だがその価値を過剰に評価する向きもあった。
直史などはいきなりノーヒットノーランで甲子園デビューをして、派手な印象を与えたものだ。
しかし記憶に残るのは、大阪光陰との試合のみ。
敗北の味は勝利の甘さよりもはるかに苦い。
あそこから夏に向けて、チームが団結したように思う。
白富東はまたすぐに、秋季大会を迎えなければいけない。
ここでいい結果を出して、関東大会に進むのだ。
そこでベスト4にでも入れば、ほぼ来年のセンバツが見えてくる。
残念なことに、21世紀枠は狙えないだろうが。
ただ北村の異動は、その前にやってくる。
もしもセンバツ出場などが決まったら、引継ぎの困難などを理由に、また一年白富東の勤務が延長されるかもしれない。
北村としてはそれは、確かにやりがいはあるのだが、同時にとんでもなくしんどい仕事でもある。
ただ直史から見ると、この新チームは過去数年間の中では、もっとも甲子園に近いチームになると思うのだ。
主力となるピッチャーが三枚、それぞれ一年間の準備をして挑むことが出来る。
ここからの育成の一年で、どれだけの力を積む事が出来るか。
そのためにも北村としては、直史にまたコーチを頼みたい。
「とは言っても、秋はまだ難しいでしょう」
主力の三人のピッチャーが残っているのは、白富東のストロングポイントだ。
だが単純に関東大会は、出場枠が少なくなる。
それでも今年の春、特定の県のみに、出場校が偏ったという事実もある。
白富東にとっては、そのあたりの事情は追い風となるだろう。
「月に一度ぐらいであれば」
「充分すぎるさ」
そうは言った北村であるのだが、運命の変遷というのは人には読めない。
波乱万丈な直史の人生は、まだ山が残っているようである。
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