六章 希望と絶望
第98話 暗雲
新チームが始動したのは、まだ甲子園の始まる前。
ただ数日間は、さすがに休みを入れた。
高校生活で野球ばかりをしているわけにはいかないだろう、というのが北村の考えだ。
もちろんこれは甘い考えなのかもしれないが、野球ばかりをしていたわけではない自分が、生徒たちに強制は出来ない。
北村は彼女がいて、友人がいて、一応はキャプテンになったが、普通に遊びにも行っていたのだ。
それでも野球がやりたいなら、自主錬をすればいいという話である。
ただ夏の大会で体にたまった疲労は、ゆっくりと抜いていく必要があるだろう。
白富東の野球部は、新たなスタートを切った。
この新チームでまず重要なのは、キャッチャーである。
ピッチャーは主力三人がそのまま残り、他にも適性のある選手が出てきている。
だがそれらのピッチャー全てを、一人のキャッチャーでリード出来るものか。
白富東は基本的に、野球の座学も重要視している。
それでも多くのピッチャーを一人でリードするというのは、かなりの無理があるだろう。
キャッチャーも二人作って、ある程度組み合わせを考えていく。
北村としては研究班の分析を元に、頭でやる野球を続けるつもりだ。
ウエイトトレーニングなど、現代の一般常識を、軽視するつもりはない。
だが単純にすごいストレートが投げられるだけで、相手を完封できるわけでないのは確かだ。
そこは世界一のピッチャーにお墨付きをもらおう。
そう思っていた北村だが、この日は直史は約束していたのに現れなかった。
基本的には行く予定だが、急遽何らかの事情で行けなくなることはある。
なので仕方がないな、と残念には思っていた北村であったが、事情はもっと深刻なものであった。
いい加減に長い付き合いの北村であるので、普段から沈着冷静に見える直史であっても、内心が完全に隠れているわけではないと知っている。
だからその日も、硬い表情を見せる直史が、かなり追い詰められているのが感じ取れた。
「なんだか……ちょっと痩せたのか?」
北村としては当然、後輩のことが心配になる。
わざわざ北村の自宅にまで来たというのも、これまではあまりなかったことである。
直史としては、別に説明の責任などがあるわけではない。
しかし直史にとっても、北村は頼りになる先輩であった。
長男である直史は、家庭の外にどこか、これを吐き出す場所がほしかった。
つまるところ、これは甘えであったのだ。
「息子が入院して」
北村としては、それだけである程度は察することが出来る。
直史という人間は、合理的で感情をコントロールする人間だ。
しかしその根底にあるものは、やはり人間性であるのだ。
「悪いのか?」
元から直史の息子が、あまり体が強くないことは知っている。
だが入院までするほどとは、知らされていない。
「真琴と同じです」
直史の呼吸は浅い。
「心臓に、小さな穴が空いていて」
「けれど、今まではそんなことは……」
「ええ、元から疲れやすいのはありましたけど、入院するほどじゃなかった」
直史の声も疲れていた。
心臓という臓器は、簡単に言うとポンプの役割を果たすため、いくつかの心室に別れている。
それぞれは弁によって、しっかりと血流の流れが管理されている。
真琴の場合はその心室の壁に、最初から大きな穴があった。
そのため母体から血液などを得られなくなった出産後、すぐに危険な状態となったのだ。
明史の場合は、そこまで深刻なものではない。
ほんの小さな穴であり、だからこそ今まで、発見されなかったとも言える。
一応は生まれてから何度も、医者にかかって心音を聞かれたりはしていたはずだ。
それなのに気づいてもらえなかったというのは、不運と言っていいのかどうか。
事情は分かった。
「けれどそこまで深刻でないってことは、手術は出来ないのか?」
穴が小さければ、それだけ手術もしやすいのではないか。
「そう簡単なものでもなくて」
穴の空いている場所の関係で、上手く縫合が出来ないのではないか、という状態なのだそうだ。
もちろん手術というのも選択肢にあるのだが、こういった症状だと成長と共に、自然と穴が塞がるケースもある。
また明史は運動をあまりしていないため、体力がない。
手術に耐えられるかどうか、それなりに危険性があるのだ。
経過をしっかりと見つつ、どういった選択をするのか、その状態から判断するしかない。
これが手術をしなければ死ぬなどということならば、それこそもうやってしまうしかないのだ。
だがある程度成長したら、自然と穴が塞がる可能性がある。
また手術をするにしても、もう少し成長して体力のあった方がいい。
それにしてもこれで、明史は真っ当に、運動が出来ないことになるのだが。
本人自身が、そもそも内向的であり、インドアであるというのは、むしろ幸いであるのか。
ただ選択肢自体が本人にないというのは、やはり不幸なことではあるだろう。
「そういうわけで、しばらくは明史の傍にいてやりたいので」
コーチをする余裕はない、というわけだ。
だが直史の選択は、それだけが理由ではなかった。
今までの直史は、真琴がアクティブな性格であったということもあり、体力のある直史の方が、彼女の世話をそれなりにしていたところがある。
キャッチボールの相手など、瑞希にはとても出来ないであろうからだ。
ただ明史はこれから、自分の体調と相談しながら、不自由な生活を強いられていく。
そんな中で真琴のためだけに、父親が付きっきりであるというのは、明史にとってどう思うことだろうか。
真琴のやりたいことを、止めるような親にはなりたくない。
だが真琴にかけているのと、同じぐらいの時間を明史にかけなければ、それは愛情を感じられないのではないか。
明史は本を与えておけば、静かにそれを読んでいたりする。
しかし直史や瑞希が話しかけると、嬉しそうに対応してくるのだ。
これから彼は、治療の目途がどうなるか判断するまで、家庭に密着することになる。
つまりボランティアのコーチになど、来ている暇はないというわけだ。
もちろん年に一度や二度は、そんな機会はあるかもしれない。
だが直史が関わっている、商売の分野に関しては、それより優先されるのは当然のことだろう。
スポーツは興行であり、虚業である。
人の命に代えられるようなものではない。ただ、人の命が買えるほど、金が儲かることもあるのは確かだ。
理由を聞いた北村としては、責めるつもりなど全くないし、権利もない。
なので穏やかに言った。
「辛かったな」
鉄面皮のような直史の顔が、それでもかすかに歪んだ。
前年には祖父を失い、そして今年は息子の病気の発覚。
直史の人生というのは、波が大きいと思う。
比べてみれば大介などは、ずっと単純なものである。
ここからは純粋に、先輩と後輩の話である。
「俺もよく知らないが、心臓移植とかは無理なのか?」
「あれはドナーがほとんど見つからないし、そもそも年齢的にドナーになれないんんですよ」
やはりそういうことまで調べていたのか、と北村は感心する。
直史は悲しみの中でも、最善を尽くすのだろう。
いや、同じ心臓ならば、真琴もそうであったではないか。
子供二人が、二人とも心臓に疾患がある。
いや疾患ではなく、そもそも異常があると言った方がいいのであろうか。
遺伝的な要素、ということを否定しきれないのではないか。
北村はそんなことも思ったが、そういったあたりにまで直史も考えていてもおかしくはない。
それに考えたとしても、否定しなければいけないことだ。
もしも、遺伝であったならば。
それは瑞希側に問題がある可能性が、現象としては存在するだろう。
直史には弟妹が三人もいて、全部で甥姪が10人もいるが、それらは全て健康体だという話を聞く。
もちろん遺伝というのはそう単純なものではないが、瑞希はどちらかというと体力がなくて、すぐに疲れてしまう子供であったのを、北村は知っている。
ある程度は幼馴染と言ってもいい間柄だからだ。
考えていることは、全て杞憂である可能性も高い。
そもそも北村には、そんな医学的な知識はないのだ。
そしてもしも頭をよぎったことが、本当のことであったとしても。
それは更なる不幸をもたらすものであるし、そんなことは言っても意味がない。
「これから大変になるな」
「まあ、悪いことばかりでもなかった」
そういう直史の表情は、自らの言葉を裏切っているように見えたが。
悪いことばかりではなかった、と直史がなぜ言えたのか。
それは息子と共に過ごす時間を、しっかりと持つ理由が出来たからである。
これまでの直史は、真琴を優先していたわけではないが、瑞希ではなかなか真琴のアグレッシブな行動に、ついていくのが難しかった。
しかしここで明史に対し、より時間をかける理由が出来た。
真琴もそろそろ、完全に親の管理下にある、という年齢ではなくなってきた。
もちろんまだ子供であることは確かだが、自由意志を尊重するぐらいの年齢にはなってきたと言える。
それに彼女は、自分では知らないことなので仕方がないが、赤ん坊の頃にもっと世話をかけられている。
教育者として北村は、むしろここからは真琴の方が、難しい環境に置かれるのではないかとも思った。
ただ幸いなことに、この一家は両親だけが子供の保護者ではない。
直史の両親、また瑞希の両親。
子育てに力を貸してくれるだけの余裕は、まだ残っている。
それに単純な金銭問題は、ここでは発生しない。
直史も瑞希も、貧困とは無縁の存在であるのだ。
(金があることはやっぱり、選択肢が増えるよな)
北村はそう思い、また直史の言ういいことというのは、それだけでもなかった。
瑞希が妊娠したのだ。
三十路も半ばではあるが、高齢出産の増えた今では、それほど珍しいことでもないだろう。
これによってさらに、直史が家庭の中で、役割分担が増えていく理由にはなる。
もちろんやらなければいけないことの中でも、他人が出来ることは外注するだろう。
そのあたりの柔軟さは、直史も持っている。
だが大変になったことは間違いない。
それに三人目の子供にも、また同じような疾患があったとしたらどうなるのか。
直史が言うような、楽観的な状況には、とても思えない北村であった。
北村が考えているようなことは、直史も普通に考えてはいた。
だがその思考は、常に否定し続けなければいけない。
先天性の心疾患。
それが二人も連続で発生している。
幸いにも真琴は、金さえあればどうにかなるというものであった。
だが明史の場合は、手術のリスクが高すぎるという。
成長するに従って、穴が塞がることもある。
それは確かに医者の言ったことである。
だが同時に、他のことも医者は言っていたのだ。
体が成長するに従い、心臓の送り出す血液の量も増える。
それに耐えられなくなって、先に心臓が限界を迎えてしまうのではないか、というものだ。
明史の年齢では、心臓移植という選択肢はない。
それが許される年齢になったとしても、ドナーが見つかるとは限らない。
また心臓移植はあくまでも他人の臓器を使う。
つまり本来の機能を完全には発揮しないということだ。
移植手術などには、五年後生存率、10年後生存率、などというものがデータとして残される。
現在では日本での心臓移植の場合、特に他の病気などがない人間で、おおよそ15年で80%ほどの人間が生存している。
ただ15年後には、二割の人間は死んでいるのだ。
明史が心臓移植を受けられる人間になったとして、そこから15年生きたとする。
30歳前後で死ぬ確率が20%もあるというのは、本人やその周辺からすれば、間違いなく高いのである。
また手術によって、穴を塞いでしまうというもの。
心臓は筋肉の塊なので、常に動いている。
手術に成功したとしても、心臓への負担がまだかかっている可能性がある。
それならば経過をずっと観察し、ぎりぎりのところで手術かどうかを選択するというのが、一般的ではないか。
トミージョンなどとは違うのだ。
失敗すれば死ぬものなのだ。
直史は考える。
自分の人生というのは、幸福なものであるのかどうかを。
成功か失敗かで言うならば、間違いなく成功なのだろう。
だがまるで自分一人が栄光に恵まれるかのように、周囲には不幸が広がっている。
もちろんそれは、考えすぎである。
幸福と不幸は、総量で釣り合うものでもない。
歴史を少しでも学べば、大きな事業を成した人間でも、失意のうちに亡くなるということが珍しくないことは分かる。
また悪行を行っていながら、その報いを受けない人間がいることも。
そもそも善悪などというのは、人間の考えた基準である。
直史は富や名声、伴侶といったものには恵まれた。
惨めな敗北を経験したが、それ以上の勝利の栄光を手にした。
それに対して、こんなマイナスの不幸が天秤の反対に乗るというのか。
おかしな話だ。
本当に不幸になっているのは、直史ではない。
真琴であり、そして明史だ。
罪と罰などというものですらなく、何かを量るにしても、直史本人にそういった因果関係は働くべきではないのか。
もちろんそんなものは、人間の社会では全く不条理なものである。
それでも直史は、考えていかないといけない。
自分と家族の、幸福な未来について。
妊娠中の瑞希に、負担をかけるわけにはいかない。
これは家長の仕事であり、男の仕事である。
そして自分では出来ないことであれば、金を使って他に任せることも考えるのだ。
直史は親戚やごく身近な人間には、当然ながらこれは伝える。
まだ背筋のしっかりと伸びている祖母は、直史に力強い言葉をかけた。
「瑞希さんを、労わらないといけませんよ」
そう、瑞希はこれから、またも母となるのだ。
今は胎内の赤ちゃんのために、自分を全力で守らないといけない。
直史はそれをサポートしながらも、明史を守っていかなければいけない。
真琴はここから、強制的に大人になっていくことを求められるだろう。
だがそういった人生は、直史にも普通に用意されていたものだ。
もっとも田舎育ちであった直史は、自然と長男の振る舞いをおぼえていった。
それが特に苦しかったという記憶はない。
だが真琴には、どれだけのサポートが受けられるかは分からない。
基本的には瑞希の両親の方が、今の家からは近い。
なので特に、そちらを頼ることになるかもしれない。
直史の両親は共働きで、まだ定年には数年かかる。
すると当然ながら、そちらに頼ることとなる。
もちろん有り余る資産を使って、ヘルパーなどを雇うことも考えていいだろうが。
金は使うべきときに使うものだ。
その使うべきときが、今やってきたというだけだろう。
それに明史の心臓に関しては、日本の医者だけに診てもらっても確実とは言えない。
こういったものに挑戦する場合、アメリカの医者であると、やはり世界の最先端をいっている。
コネクションに関しては、真琴の時に既につないである。
もう一度、今度は明史を診てもらえば、もっといい解決があるのかもしれない。
ただ真琴と違い、やらなければすぐに死ぬ、という状態でないというのは、逆に少し迷いが出てくる。
そしてもし、最悪の結果が出るとしたら。
父親として、息子に何をしてやるべきか。
直史はそれをずっと考えている。
一人遊びも得意だが、孤独が好きというわけでもない明史。
今のところはたった一人の息子である彼に対して、直史は己のすべきことをするのだ。
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