第10話 コンディション

 たった一度の試合である。

 ピークをその試合だけにもっていけばいい。

 野球の中でも確かに、先発ピッチャーはそういう調整をしていることがある。

 その地球に存在する全てのピッチャーの中で、一番調整の上手いのが直史だと言える。


 四日から五日の間隔で、MLBでは投げていた。

 それがそもそも現代では無茶なペースなのだが。

 たったの一試合に合わせるなら、比較的楽なのだ。

 これはボクサーが世界戦に合わせて、調整をしてピークを試合に持ってくるのに近い。

 なお同じ格闘技でもプロレスラーなどは、興行のために年間に何十試合も行ったりする。

 これをもってプロレスラーとボクサー、どちらが優れているかなどを論評するのは不可能である。


 直史が先発ピッチャーという括りだけではなく、ピッチャー全体として本当におかしかったのは、この調整が完璧であったからだ。

 一度だけ大学時代に失敗しているが、それ以外には本当に一度も、調整に失敗したことがない。

 フォアボールで歩かせることが、ほとんどないピッチャー。

 スリーボールまで追い込まれたことすら、ほとんどないのだ。


 コンディションの微調整には、バイオリズムもその日が最高になるように、かなり前から準備していかなければいけない。

 直史のように集中力でピッチングを行うピッチャーには、こういう一日だけの試合というのは、むしろ向いている。

 プロの興行よりも、わずか数人の手からなる興行の方が、観客を集めることが出来る。

 いつの間にかドリームチームと呼ばれているこの試合は、MLBでも最強のバッターと、最高のピッチャーの対決がなされる。

 なので誰もが見たがり、自然とチケットは完売していた。




 同時代性という言葉がある。

 たとえ後からそれを見ても、リアルタイムほどの感動は味わえない。 

 名作は確かに、遠い未来まで残るものだ。

 だが分かりやすく言えば、オリンピックの金メダルが決定する瞬間。

 もっと分かりやすく言えば、けっこう古いがドラゴンボールで悟空が初めてスーパーサイヤ人になったジャンプ。

 それより古ければ機動戦士ガンダムのリアルタイム……は実はあまり盛り上らず、再放送で人気に火がついた。

 一番分かりやすいのは、東日本大震災で、魔法少女まどかマギカの放映が延期された時、とでも言おうか。

 割と新しいものなら、延期を重ねた水星の魔女の12話というのもそうであろう。


 現在はネットがあるため、試合そのものに熱中するのも楽しみ方だが、それを他者と共有するのも楽しみ方の一つだ。

 そのためにはやはり、リアルタイムで視聴をするというのが大前提になる。

 スポーツの試合などは特に、結果が分かっていれば興ざめであろう。

 もちろん後から見て、その技術や駆け引きに感嘆することも多いであろうが。

 スーパープレイは一瞬にして起こる。

 どこにクライマックスがあるか分からないのが、リアルタイムのスポーツの見所であるのだ。


 直史が大介と話していた当初は、試合は別に昼間でもいいかな、などと思っていた。

 だがセイバーは特に、日本での夕方以降の開催を強く主張した。

 なんならアメリカ時間に合わせてもいいのだが、それは直史が却下しただろう。

 そもそもアメリカ人などに試合を見せなくてもいい、という傲慢さが直史の中にはある。

 また現実的なことを言えば、出場する選手のほとんどは、日本人となるのだ。

 ならば日本人が一番見やすい時間にすべきだ、という意見にも頷いたのだ。


 舞台は日本の首都東京で、東京ドームを使って行われる。

 観戦に訪れる人間にも、一番アクセスはしやすいであろう。

 直史や大介にとってならば、一番日本の球場で印象深いのは、もちろん甲子園である。

 だが貸し出しなどがされる期間が短く、完全に冬場なのであった。

 選手たちのコンディション不良などを防ぐためにも、また観客のためにも、ドーム球場であることは必須。

 そして直史の引退試合に、わざわざピッチャーに不利と言われる東京ドームを使用。

 打てるものなら打ってみろ、と考えたわけではないが、打てるんじゃないか、と考えたバッターは多いだろう。


 出場選手のうち、直史と対決するチームに関しては、どんどんと決まっていった。

 だがバックを守ってくれる選手が、あまりいなかったりする。

 ピッチャーは直史一人で投げるとして、打たせて取るグラウンドピッチャーなので、守備に優れた野手が必要だ。

 この際、プロでなくても相応のアマチュアであれば、それで充分。

 ただ高校生と大学生が使えないのは、ちょっとどころではなく困ったものである。




「そういうわけでサード守れません?」

「いや、待って。それ絶対に狙ってるだろ」

 既に引退している村岡に、電話で打診してみたりした。

 村岡はその経歴全体を見れば、かなり優れた守備力を持つサードであった。

 だがやらかす、ということでも有名であったのだ。


 幸いと言うべきか、一番の課題であるかと思われたショートは、悟が入ることになっている。

 直史と対決しなくてもいいのか、と思わなくもないが、強いバッターが対戦チームだけに集まるというのも、それはそれで不公平だろう。

 他のポジションもそれなりに埋まるのだが、今度は出場したい選手の方が増えてきてしまう。

 これはやはり一日に二試合やるべきであるのだろうか?

 引退試合をダブルヘッダーにして、その二試合を完投する。

 あまりにも非現実的すぎて、さすがに首を振った直史であった。




 ゆっくりと時間をかけて、ピークを試合の日に持っていくように調整する。

 この調整の上手さが直史の、最大の武器と言ってもいいだろう。

 他の人間から見れば、ずっと調子が上限でとどまっているように思えるかもしれない。

 だが直史であっても好調と不調の波は、それなりにあるのである。


 たったの一試合に投げぬくなら。

 いや、ひょっとしたら二試合投げることになるのかもしれないが。

 別に二試合投げてもいいのだが、その時はさすがにリリーフがいてほしい。

 そんなわけで直史は、これを淳に打診してみた。

『相変わらず非常識と言うか、最後が一番非常識と言うか』

 遠慮のない親戚の台詞に、直史は苦笑したものである。


 淳は次のシーズンが、複数年契約の二年目になる。

 なのでさすがに、それは勘弁してくれと言われてしまった。

 故障して半年ほど休んだシーズンなどもあったが、およそずっと一軍にいることの多かった淳は、二桁勝利も経験している、東北の二番手か三番手のピッチャーである。

 去年はWBCがあり、それについては球団も許可を出した。

 別にこれは草野球なので、球団の許可などは特に必要もない、というのが建前だ。

 ただ純粋に考えるなら、これはキャンプ前の選手にとって、かなりの負担になるのでは、と考える者もいる。


 直史が言って、大介が言って、そしてメジャーからも選手がやってきて、なんだか美談のようになっている。

 しかし基本的に直史は自分の行為を、わがままだなと言われる可能性を承知している。

 言われたとしても特にどうとは思わないが。

 既にメジャーで五年のプレイをしていて、WBCでも優勝に貢献した。

 サイ・ヤング賞の記録を日本人が更新したというだけで、NPBにもその影響はいい方向にあったと思うのだ。


 そもそも青木のように、今年は勝負の年だと思って、参加しない選手もいるのだ。

 ただ本当に、直史と大介、ついでに武史の引力まで追加されて、ブリアンとターナーが参加を表明している。

 スーパースターの引力が、集まってさらに巨大になっているため、メディアも批判がしづらいという風潮になっている。

 別に批判などされても構わないし、ネットでも無責任にコメント出来る人間は、感情的に叩いている者もいる。

 しかし、そもそもお前、野球なんかこれまで見てなかっただろ、という人間がコメントするのは、直史としても失笑の限りであるのだが。




 今年は日本シリーズよりもワールドシリーズよりも、キャンプ前のこの一戦が、一番注目されていると言っていい。

 それに対する嫉妬というものはあるだろう。 

 だが野球ファンの多くは、これを見たかったのだ。

 日本では結局、直史と大介の対決は、一年しか見られなかった。

 大介が渡米したことにより、またその翌年に直史も追いかけたために。


 二人の対決を、最後に日本で行う。

 これは野球ファンにとっては、間違いのないご褒美というか、ファンサービスだと思えるのだ。

 まして直史はマスコミの取材に、そこそこ応じている。

 一試合ならどうにかなると、肘の調子を説明している。

 それにファンがどうのこうのもともかく、バッターたちも対戦したがっているのだ。 

 無敗というわけではさすがにないが、ほとんどのバッターは完全に封じられた。

 そんなピッチャーに対して、全力で対決する最後のチャンス。

 これを望まないバッターはいない。


「それにしてもバックを守ってくれるやつがなあ」

 直史はそう言うが、一応センターの当てはついている。

 アレクがこの最後の試合、センターを守ると言ってくれているのだ。

 また織田なども、一応は対戦の予定であったが、もし人がいないならライトやレフトを守ってもいいと言ってくれている。

 彼はMLBでも、充分に直史と対決したからである。


 見たいと思っているファンが多く、対戦したいというバッターも多く、それとは別にプレイしたい、と思ってくれる選手もいる。

「もし埋まらなかったらレフトかサード頼むな」

『せめてレフトにしてください』

 電話の向こうでは鬼塚が、自分じゃ力不足だろうと思いながらも、一応は承諾してくれていた。




 この試合の特別なところは、選手だけでなく審判さえも、現役や引退後の選手が、それなりに手を上げていることである。

 なんだかもう、ジャンルは全く違うが、同人誌即売会のノリに似ているのではないか。

 わざわざ後輩の社員を連れて、手塚なども取材にやってきた。

「手塚さんも、外野守ってみます?」

「無茶言うな」

 手塚は大学野球で失望し、それでも大学時代は野球サークルには入っていた。

 だが出版社に入社後は、さすがに何かの機会でもない限り、ボールさえ握っていない。


 そういったやり取りを見ていると、本当に手塚は甲子園を経験したチームのキャプテンなのだな、と後輩からの株は上がったりする。

 実際のところこの引退試合は、普段は野球から離れていた人間にも、かなり大きく周知されているものとなっていた。

 最後のお祭り騒ぎである。

 絶頂期において故障引退する、史上最高の投手。

 衰えを感じたからではなく、自分のピッチングが出来なくなるから。

 ならば燃え尽きるように、肘がパンクするまで、投げてしまえばいいではないか。


 他の人間がやれば、ただのパフォーマンスだとか、承認欲求モンスターなどと呼ばれていただろう。

 だがこれはそもそも大介が言い出したことなのだ。

 それをツインズやセイバーが、大々的なものにしてしまっただけで。

 ただ多くの人に見られるなら、恥ずかしいピッチングは出来ないな、と直史は思う。

 恥を知る文化の人間である直史は、やはり保守的な人間であるのであった。




 一月も半ばを過ぎた。

 もう史上最大の草野球、ドリームゲームの開催まで、一週間を切っている。

 このあたりでアメリカからは、ターナーとブリアンがやってきている。

 時間はまだ少しあるが、時差を感じないように、まさにコンディションを整えるためである。

「結局、敵に回るわけなんだな」

「仕方がないだろ」

「いや、ブリアンとターナーとお前とせごどんって、どんだけ悪いことしたらそんな打線に挑まないといけないの、というレベルなんだけど」

 全員が直史との対決を希望している。


 これで樋口までがあちらに回っていたら、完全に何かの罰ゲームである。

 引退するという人間に対して、花道を用意したというようなものではない。

 なお柿谷なども敵側に回っていて、ホームランバッターはほとんどが直史の敵である。

 対して直史側のチームに入ってくれるのは、樋口にアレク、鬼塚や織田など、旧来の知人が多い。

 鬼塚は「俺みたいな雑魚は場違いだ……」などと暗澹としていたが。


 ただ内野に関しては、悟や小此木といった、後輩や同僚がある程度は埋めてくれる。

 正志などはやっぱり向こうのチームに入ってしまったが。

「キャンプ前だというのに、どうしてこんなに暇なやつが多いんだ」

「お祭りだな」

 楽しそうに大介は言っているが、こいつは打順の一番を希望していたりする。

 一度でも自分が打てば、直史との四度目の打席が回ってくる計算だ。


 これを果たして、試合と呼ぶべきなのだろうか。

 正確に言うならイベントではなかろうか。

 営利目的の興行でもないので、判断の基準は難しい。

 どうにかこうにか味方の守備陣は埋めていくが、相手の作戦を考える監督はどうすればいいのか。

 草野球なのでそんなものもいらない気もするが、勝利のために戦うのか、直史との対決のために戦うのか。

 それぐらいはさすがに、決めておいた方がいいと思うのだ。




 英語が喋れる人間は、自然と通訳の役割もしたりする。

 アメリカ人はアメリカに来るなら、英語ぐらいは喋れるようになっておけと思うらしいが、英語教育をしっかりしている日本で英語が通じないと、知らない者は本当に多い。

 ただ日本人としても、せめて英語で話してくれ、という案件は多い。 

 中国語だとかフランス語だとか、そこまでは手が回らない。

 ただ言語の変化などを調べた場合、英語と日本語は最も遠く離れた特徴を持っているらしく、この二つの言語を両方取得するのは、一番難しいという説もある。


 ターナーにしろブリアンにしろ、メジャーリーガーが他にもいるので、軽く声をかけてくる。

 何より今回は、大介が同じチームなのである。

 勉強は出来ないが、本気になったときの地頭はよく、そして適応力の高い大介。

 ネイティブレベルとまではいかないが、英語はかなりぺらぺらに喋れる。


 そもそもの話であるが、英語がネイティブレベルというのは、けっこう無理があるのだ。

 日本人なら日本語で考えれば、言っていることの意味も分かるだろう。

 言語は変化していっているので、使い方が全然変わってくる。

 分かりやすく言うなら「全然」や「やばい」という言葉の使い方だろう。

 かつて「全然」という言葉の後には、否定形の言葉が入ったものだ。

 それが今では入らないし、全部大丈夫、ぐらいのノリで使われている。


 英語でもクレイジーなどというのは、日本語では問題があるが、人を褒める時によく使われる。

 それこそ下品な現場では、Fから始まる言葉によって、味方を讃えたりもするものだ。

 大介の英語で、日本の英語教育しか受けていない学生と話せば、三割ほどは理解出来ない言い回しがあるのではないか。

 ただお高く育てられた相手には、クインズイングリッシュは通用しやすいらしい。




 どうせそれなりに儲けは出てしまうのだからと、メジャーリーガーで数日前から前のりしている選手には、高級ホテルを取っている。

 アレクなどもこれは一緒で、久しぶりの日本に到着すると、調整をしながらも遊びまわっている。

 その点は他のメジャーリーガーと同じで、体調のピークをたった一度の試合に持っていこうとしている。

 ただ直史はこのあたり、自分がかなり有利だなと思っている。

 なぜならバッティングは、オフの間に目がスピードボールから離れることで、対応力が落ちてしまうからだ。


 もっともこれは直史相手には、さほどのマイナスにはならないのでは、と思う者も多い。

 直史の球速はストレートの最速が現在、おおよそ152km/hとなっている。

 MLBのピッチャーの中で、直史よりストレートの球速が遅い者は、あまりいないのだ。


 ただしそれはストレートに限った話で、直史はツーシームやスルーの速度が、ストレートとほぼ変わらない。

 またカーブにスライダーといった大きな変化球が、かなり速いスピードで投げることが出来る。

 それでも最高速は遅いと言われるかもしれないが、90km/h程度のスローカーブやチェンジアップを組み合わせて、三振の山を築いてきたのだ。

 果たしてどの程度、直史の肘は無理が利くのか。

 マンガで言うなら「もってくれよ俺の右手」をまさかリアルでやることになるとは、さすがに思っていなかった直史である。

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