第5話 12月の風景

 我ながら無茶をしているな、という自覚はある直史であった。

 ただ言い訳をするならば、最初に企画を出したのは大介だったのだ。

 直史の無茶は、だいたいちゃんと理由はあるものである。

 理由がないように見える無茶は、直史が無茶と思っていないだけだ。


 スポーツ紙のみならず、一般紙までが、ほとんど一面で直史の引退を取り上げた。

 そしてその引退試合についても。

 人によってはやり過ぎだ、などと批難している人間もいる。

 だが直史は別に、プロ野球界はおろか、スポーツの世界から何を言われようと、さほど気にしないのである。


 だいたい物事の筋が分かっている人間は、直史という稀代のピッチャーの引退を、ただ悲しんだ。

 もっとも経済的な影響が大きいのはMLBであって、NPBの人間からすれば、帰ってくるわけでもないので助かった、と言ったところだが。

 直史の引退によって、MLBではかなりの混乱が起こっているらしい。

 特に顕著なのは引き続きの契約を検討していたであろう、アナハイムである。

 オーナーであるセイバーは、直史から話を聞いていた。

 なので球団を売却したのだが、買った方からしてみれば寝耳に水といったところか。


 他のチームも直史を今度こそ、と資金を計算していたチームは多いであろう。

 一人絶対的なエースがいれば、ワールドチャンピオンになれると考えるチームは多いはずなのだ。

 ただ直史からすると、バッテリーを組むキャッチャーがいてこそ、直史のピッチングは活かせるものなのだ。

 MLBの平均的なキャッチャーと組んでも、直史は今までと同等の成績が残せるとは思っていない。

 思っていなくてもやってしまうのが、直史と言えばそれまでなのだが。


 史上最大の草野球。

 人工芝のドームでやるものを、そう例えるのはどうなのかという声はある。

 ただ原義的に言うならば、報酬も出ないこの試合は、間違いなく草野球なのだろう。

 実際に行うのは決まっているが、決まっていないこともいろいろとある。

 観客を入れるのか、入れるとしてチケットをどうするのか、また放映したいと言っているテレビ局はどうするのか。


 金は出すし事務処理もするのは、大介とツインズである。

 だが全体の傾向を決めるのは、直史がやらないといけない。

 もっともこの引退試合を、最初に言い出したのは大介である。

 なので当然ながら、相談ぐらいには乗ってくるというものだ。




「どうせなら派手にやろうぜ」

 大介は直史の実家で、そんなことを言ってくる。

「観客も入れて、チケットも売って」

「そうすると収入をどうするかという問題が出てくるぞ」

「参加してくれた人に分配……はまずいか」

「まずいだろうな。そもそも利益を出すのがまずいはずだ」

 直史としてはそう考えるし、大介の横でツインズもうんうんと頷いている。


 チケットでの収入は、とりあえず使った費用に対して充足するのはいいだろう。

 あとは出来るだけ、なんらかの経費で使い切ってしまいたい。

「レンタル代に設備使用でも、そこまではかからないよな」

「そもそもチケットがどれぐらい売れるかが疑問だが」

「それは売り切れると思うよ」

「空前絶後のイベントだし」

 ツインズはそう言うが、まあ赤字になったとしても、その分を出すのは大介である。


 この間の直史の記者会見に使った費用も、一緒にしてしまっていいだろう。

 だがそれでも残った金をどうするか。

 NPBに渡してしまう、というわけにはいかない。メジャーリーガーもいるからだ。

 あとはターナーたちが本当に来るのなら、その分の交通費には回してもいいだろうか。

 宿泊の施設についても、ホテルを取る必要はあるだろう。


 赤字になる分には問題ないのだが、黒字になったら面倒だ。

 普通は逆なのであろうが、これは普通ではないイベントである。

「最終的には全額寄付して、会計収支を公表した方がいいだろうな」

「領収書は取っておいてもらうように頼んでおかないといけないか?」

「……領収書、わざわざ取っておくようなやつらかな?」

 そのあたり選手たちは、いつもはチームに任せていたりして、アバウトな人間が多いだろう。


 とりあえずそれは、事前に連絡しておいた方がいい。

 ひょっとしたらそんなはした金いらねえと、普通にファーストクラスで来る選手もいるかもしれないが。

 問題はやはり、黒字になったとき、最終的にどうするかだ。

 寄付するにしても、その先が二人と利権があったりすると、それは問題になる。

「国際的な団体に寄付をするのが、一番いいか」

「ユニセフとかユネスコか?」

「その二つは全然違うぞ」

 どちらも寄付自体は募集しているだろうが。


 寄付の問題はだいたい、その流用が問題になるのは、直史はよく知っている。

 ひどい例であると寄付を受けていた団体から、国外の半日活動に資金が流れていたという例もあるのだ。

 それを考えると、果たしてどれがいいものか。

「お前、金もかなり貯まりすぎてるだろ。何か自分で財団でも作って、そこで運用したらどうだ?」

 実際に実務をするのは、ツインズになるであろうが。


 正直なところ弁護士でありながら、直史はあまり弁護士を信用していない。

 それは弁護士という職業がそもそも、善悪ではなく法律に従って、悪人であっても弁護する必要があるからだ。

 弁護士は正義の味方ではなく、法律を使う職業の一つなのだ。

「財団ねえ……」

 とりあえず乗り気でない大介であるが、こいつが一度やると決めたら、物事は自然と大きく動いていくに決まっているのだ。




 直史の右肘は、一部が切れている。

 全部ではないのは、ちゃんと動いているのだから当たり前のことである。

 実は場所によっては、靭帯というのはそれなりに切れていても、どうにか動けるものなのだ。

 ただピッチャーの肘は、その場所にはあたらない。

 トミージョンのリハビリ中に、バッターとしてかなり打つ化物がいるのは、承知の事実である。


 草野球の開催までの、約二ヶ月、直史は靭帯の修復を考えながらも、同時に練習を続けている。

 安静にしていなくては、治るものも治らないのだが、あと一日だけでいいのだ。

 最後の一日に、全てを出せたらそれでいい。

 おそらくもう二度と、右手で全力でボールを投げるなど、そんなことにはならないのだから。


 そうやって12月の日々も過ぎていく。

 痛みは割りと早くに引いたが、故障部分が治癒していないことは明らかだ。

 そもそも根本的な治癒がほぼ不可能であるからこそ、医者は一年を棒に振ってでも、トミージョンを勧めたわけなのだし。

 過去に肘をやったピッチャーというのは、一時的には回復していたりする。

 だが一年か二年ももてばいいほどで、それも全盛期にまでは戻らない。

 そんな肘の調子を見極めながら、最後の試合へと準備をしていく。

 それはある意味、とても美しく儚いものであるのかもしれない。


「お母さん、何を泣いてるの?」

 直史の練習を見る瑞希の目に、輝くものを見て、娘の真琴が尋ねる。

 とにかくありとあらゆるバッターに恐れられてきた父の姿は、真琴にとっても少し怖いものであった。

 家庭内では怒鳴りつけるでもなく、辛抱強く教育を行う父親であったが。

 両親は間違いなく仲がいいのだろうが、時々二人の間がとても遠いと感じることもある。

 幼い真琴だけに、逆に鋭敏にそれを感じているのか。


 最後のピッチングになる。

 そしてそれが、最高のピッチングになるのかもしれない。

 ドリームチームだとか、ドリームマッチだとか、そういうものではない。

 人間が己の手によって作り出した、本当の夢のような舞台。

 ドリームステージを作り上げるのは直史と、彼の持っている引力。

 既に分かっているだけでも、充分すぎるほどの参加表明がある。

 直史とは一度も対決もしていない選手も、世界最高の技術と認められたそのピッチングを、体験するために集まろうとしている。

 すると味方側のバックを守ってくれる人間がいなくなってしまうので、それはそれで困るのだが。


 たくさんの人間が動いている。動いてしまう。

 それだけに、これが最後なのだと思えてくる。

 オールスターでもなく、日本シリーズでもなく、ワールドシリーズでもなく、WBCの決勝でもない。

 直史が今までに対戦した中で、本当に最も強大な打線になるのかもしれない。

 そんな舞台に故障した体で、どこまで全力を尽くすのか。




 全力で、全てをねじ伏せてしまおうとするのか。

 おそらくはもっと技巧的に、いつも通りに投げてしまうのだろう。

「100球か……」

 キャッチャーが立ち上がったのを見て、直史はマウンドを降りる。

 コントロールは制御できているが、ボールの力はどうなのか。

「ナオ先輩、これで本当に引退するんですか?」

 ブルペンキャッチャーをやってくれている倉田は、呆れたようにそう声をかける。


 高校時代の後輩であり、大学でも一応はプレイをした後、東京で就職をしたが現在は地元に戻って公務員。

 それが倉田の現在であり、直史が練習用のキャッチャーを求めた際、すぐに応じてくれたものである。

 ただ倉田以外にも、声をかければキャッチャーをやってくれるのは、現役引退問わずたくさんいるだろう。

 ただやりたいからと言って、やれるものではない。

 倉田にしても地元の野球チームで、草野球をやっていてこれなのだ。


 倉田の目から見ると、今の直史のピッチングは、明らかに高校時代以上には見えている。

 そして直史もさすがに、その程度ではあるだろうなと思っている。

 だがMLBのレベルで投げるには、ストレートの力が足りない。

 ある程度の力の入ったストレートが投げられなければ、直史の理想とするコンビネーションには至らない。

 打ち取れるという確信の持てないボールは、投げたくないのだ。


 不思議なものだ。

 どちらにしろ今年で引退であると、直史は決めていたのだ。

 実際にワールドチャンピオンを決めた夜は、満足した眠りに就いた。

 だがこうやって野球が失われると言われると、なんとも惜しいものだと思ってしまう。

 草野球で投げるには、充分すぎるほどのボールが投げられるだろう。

 本人が納得すれば、それでいいはずなのに。


 まだ出来るが潔く去るのと、怪我によって奪われるのとは違う。

 前者であれば直史は、なんとなくだが納得できたのだ。

 しかし故障が、自分から野球を奪っていった。

 これに納得出来ないのが、人間の心のありようなのだろうか。


「お前も試合に出てみるか?」

 直史の言葉に、倉田は苦笑しただけである。

「まあ味方にキャッチャーをやってくれる人間がいないなら、その時はやってもいいですけどね」

 これは半ば以上本気である。


 樋口が果たしてボールを受けてくれるか。

 あるいは他に、ボールを受けてくれるキャッチャーがいるのか。

 坂本あたりにも話をしようと思ったのだが、連絡がつかなかったりした。

 樋口を除けば直史を一番活かせるのは、坂本であろうに。

「いざとなったらジン先輩に、一日だけやってもらったらどうです?」

「あっちは忙しいだろうに」

 そういう直史も、体力を落とさないトレーニングに加え、瑞希の父の経営する弁護士事務所で、少しずつ仕事の勘を取り戻そうとしている。

 世間は全て、直史の引退試合について、話し合いというか罵倒合戦が始まったりしているのだが。


 たった一試合のために、直史は仕上げていく。

 だがそれは高校時代を思い出せば、全ての試合に勝とうとしていたように、当たり前のことだと思い直したりもしたのであった。

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