第4話 記者会見

 直史の右肘靭帯は、間違いなく損傷している。

 だが無理をすれば、投げられなくはないのだ。

 ただ最盛期には及ばないし、すぐにまた痛みが戻ってくるだろうと言われている。

 しかししばらく休めば、ある程度回復するというのも確かなのだ。


 大介の言う引退試合とは、なぜそういうものが必要になるのか。

 別に直史としては、あのワールドシリーズで栄冠に輝いた瞬間を、自分のラストプレイにしても不満はないのである。

 それは大介も分かっているようであった。

「実際のところ、本当に投げられないのか?」

「無理をすれば、そりゃあ投げることは出来る。ただそんな無理をすると、完全に断裂して、本当にまともに投げられなくなると言われてるが」

「樋口と組めば、コンビネーションだけでどうにかなるだろ」

 無茶を言う。


 大介は確かに無茶苦茶な人間ではある。

 だが他人にその無茶を強要するということはない。

 なかったはずだ。なかったよね? 存在自体が無茶だとは言わない。

「引退会見ぐらいはしないと、どうせマスコミはうるさいだろうし、そのついでに引退試合をしようぜ」

「どんなチームで、どこと戦うんだ?」

「それは引退会見で募集する」

 ちょっと待て。


 大介の言っていることは無茶苦茶である。

 確かに引退会見は、どこかのタイミングでしようと思っていたのが直史だ。

 さもないとMLBのみならず、NPBからでさえオファーが殺到しかねない。

 それは嫌だなあと感じるぐらいには、直史も人間らしい心を持っている。悪魔ではないのだから。


 しかし記者会見まではともかく、引退試合というのはどうなのか。

 普通ならそういうものは、オープン戦なりシーズン終盤の消化試合なりで、チームに迷惑がかからないように行うものだ。

 MLBであれば直史の成績などは、間違いなく殿堂入りクラス。

 引退試合はともかく、セレモニーぐらいはしてもおかしくはない。


 アナハイムに三度のチャンピオンリングをもたらしたエース。

 五年連続というサイ・ヤング賞の新たな記録も作った。

 だが直史はアメリカのファンには、さほど愛着がないのだ。

 あるとしたらむしろ、大学時代から続いていた、神宮のファンにこそ、そういうものはある。

「お前の引退試合するから、やりたいやつ集まれ~って言ったら、かなり集まると思わね?」

「待て待て。チームじゃなく選手単位でやるのか?」

「そうそう。東京ドーム借りて、草野球のノリでやろうぜ」

 大介の提案は無茶苦茶に聞こえたが、実はそう無茶でもないのであった。




 東京ドームと大介が言ったのには、当然ながら理由がある。

 もしも草野球感覚であろうと、現役の選手を集めるなら、オフシーズンにやるしかないからだ。

 そしてオフシーズンであれば、東京ドームは普通に貸し出しを行っている。

 その使用料金は、実は案外安いものなのだ。

 それこそ大介がポケットマネーで、一日の料金を払える程度には。


「マジか……」

 実際にネットで調べたところ、大介の言っていることは間違いではなかった。

「お前の肘の具合も、そこそこよくなることを考えたら、一月ぐらいにした方がいいだろ?」

「それはそうだが……いや、人が集まるか?」

「お前と対戦出来る最後のチャンスとすれば、集まるバッターは多いと思うぞ」

 そして大介はぽつりと付け足した。

「怪我人で万全じゃないから、打てる可能性もそこそこあるだろうし」

「それも確かなんだが……」


 直史は二年間のNPB時代に、ありとあらゆるバッターをボコボコにしたと言っていい。

 比較的被害の小さいパの選手は、逆に対戦できなかったのを悔やんでいる者もいるかもしれないが。

「けれどこういうのって、問題にならないのか? その、契約的に」

 直史としてはそこが気になるのだが、大介としては問題がないと言える。

「自主トレ中に他のチームの人間と、試合形式の練習をする。何か問題があるのか?」

「すごい詭弁だな」

 ただ、そういう理論展開なら、いけなくはないのか?


 近日中に引退の記者会見を開く。

 そしてそこで、このでたらめな引退試合をぶち上げるのだ。

 万一現役の選手が集まらなかったら、引退した選手であったり、アマチュアの選手を引っ張ってきてもいい。

 高校生と大学生は、その場合対象に出来ないだろうが。

「俺らの知り合いに声をかければ、それぐらいなら集まると思わん?」

「あちらの都合もあるだろう」

「だから日程は早めに決めて、それに参加可能な人間を集めるんだよ」

 直史は腕組みをして考え込むが、客観的に見れば乗り気になっている自分が不思議ではあった。

「当然ながらお前は、対戦チームに入るんだよな?」

「そのための企画だよ」

 すがすがしいぐらいに、私情の入った計画であると言えよう。


 直史は己を常識人であると認定しているので、これがいかに非常識なものか、それは理解できる。

 ただ非常識ではあっても、誰かに特別迷惑をかけたり、あまりにも社会通念に反したことではないな、とも感じた。

 しかしそう上手く東京ドームの予定が空いていて、選手たちも集まるのだろうか。

 集まるとして、観客も入れるのか。入れるとして料金はどうするのか。

「お前がやると決めたなら、あとは全部嫁たちにぶん投げる」

「それはひどい」

 笑ってしまった直史は、正直なところこの荒唐無稽な計画に、かなり乗り気になってしまっていたのだった。

 そして大介が、無茶を実現させてしまうのは、野球に関することであれば、それほど珍しいことではないのである。




 そのうち記者会見はしないといけないだろうな、と直史は思っていた。

 しかも出来るだけ早いうちに。そうでないと周囲が騒がしすぎる。

 大介が東京ドームの予約を取って、直史も都内のホテルのホールを一日レンタルする。

 それからマスコミ各社に向けて、その日に会見を行うことを伝達。

 普段は球団が用意してくれる場合以外、まずこういったことをしない直史なので、報道各社はかなりの警戒感を持って、これに臨むことになった。

 マスコミにどれだけ嫌われているのやら。


 これにテレビカメラを入れていいか、というマスコミもいたので、どうぞと返事をしておく。

 ただこういったことは専門外なので、結局はホテルのスタッフを頼ることになった。

 これらの費用は全て持ち出しなので、貧乏ではないし金払いもいいが、無駄なことに金を使いたくはない直史には、かなりのストレスになったものである。

 そしてその日がやってきた。




 都内のホテルのホールを借りたわけであるが、当初予定よりもマスコミの入りが多くなった。

 このあたりの対応に関しては、直史も経験があるものではない。

 ホテルの方は了解していて、上手く仕切りを使い、100を超える報道陣に対処してくれた。

 テレビカメラも入れて、なにやら生放送までするらしいが、そんなにたいしたことを言うわけでもないのだ。

 そもそも内容をまだ知らせていないのに、そこまでの重要ごとだと判断しているというのか。


 普通に考えれば、来季の所属球団に関することだと思うだろう。

 しかしそれがMLBであるなら、アメリカで記者会見を開くべきだ。

 それなのにわざわざ日本でやるということは、NPBへの復帰の話ではないのか。

 論理的に考えれば、そういうことになるのかもしれない。


 一応既に10名以上には、草野球やらねーか、という連絡を入れてある。

 そこから情報が洩れたのかな、と思えなくもないが、それならそれで構わない。

「時間ですので始めさせていただきます」

 直史はいつも通りの、平然とした表情で、爆弾発言を投下する。

「私、佐藤直史は今季いっぱいにてプロ野球の世界から引退することを決定しました。それに対する質疑応答などを行います。なお――」

 続けようとした直史であったが、どよめきがあまりにも大きく、そして最前列からいきなり質問が飛んだ。

「なぜ今引退なのですか! サイ・ヤング賞の連続受賞記録も更新し、まさに今が最盛期だと思いますが!」

 それは質問と言うよりは悲鳴のようなものであったが、答えないわけにもいかないだろう。


 直史は右腕を上げた。

 そして左手の人差し指で、その肘を差す。

「ワールドシリーズ最終戦のラストプレイで、小フライをキャッチしたわけですが、その折に右肘の靭帯を損傷したのが明らかになりました」

 ざわめきがしんと静まり返るのも、ある程度は予想していた。

「医師による診察の結果、完全復帰には靭帯移植、俗に言うトミージョン手術が必要だと判断されまして、これを受けると来年のシーズン丸々が投げられないことになり、その場合は復帰も35歳のシーズンとなるため、年齢的にも限界を感じ、引退の決断をいたしました」

 再びのざわめきの中、記者が自分の会社のマイクに向かって、説明をしていたりする。

 絶頂ともいえる成績での引退。

 だがその理由を聞けば、全くおかしなことではない。


 それでも手を上げて、丁寧な質問をしてくる記者はいた。

「引退を決めたのは、具体的に診断が出てからいつでしょうか? また手術を受けて復帰ということは考えられませんか?」

 その落ち着いた声音に、直史の返答を待つべく、またもホールの中が静まりかえる。

「トミージョンが必要と聞いた瞬間には、もう引退だと思いましたね。また手術を受けての復帰ということですが、私は今年でアナハイムとの契約が切れるため、どこのチームとも契約していない状態になっています。1シーズン丸々投げていない35歳のピッチャーという自分を考えれば、復帰という考えは浮かびませんでした」

 そもそも最初から、今年で最後とは決めていたはずなのだが。


 35歳からの復帰。

 数は多くないが、過去にはないでもない話ではある。

 しかし直史は、それを全く考えなかった。

 大介から勝ち逃げ出来るということもあったが、一年丸々投げないのでは、自分の技術が落ちるのは分かりきっていた。

 そもそも直史の体は、NPBならばともかくMLBのスケジュールに耐えるほど、頑健には出来ていない。

 いつかは壊れる、ということは感じながら、必死でケアをしてこれまでやってきたのだ。

 それが最後の瞬間には、気が抜けて無理なプレイをしてしまったのだが。


 史上最高のピッチャーが失われてしまった。

 しかも衰えることすらなく、その絶頂の輝きの中で。

 果たして高卒でプロ入りしていれば、どれだけの成績を残しただろうか。

 大卒で、しかも間があってからプロ入りし、実働わずか七年間で、200勝の勝ち星を上げた。

 絶対に今後、二度と現れないようなピッチャー。

 それが永遠に失われてしまったのだ。


 衝撃は大きかった。

 だがそれでもマスコミというのは、どうにか言葉をひねり出すものらしい。

「今後、引退に関して何か、イベントなどを行われる予定は――」

 そう問いかけたが、直史はレックスをわずか二年で、裏切るとまでは言わないが、衝撃的な移籍で出て行った選手である。

 それが普通に引退式などをするというのは考えにくい。

 また怪我をしたのなら、引退試合などもないだろう。なんらかのセレモニーはあってもおかしくないが。

「それに関しては、イベントを準備しておりまして、既にある程度の承諾を得ています」

 なるほど、この記者会見にしろ、直史はなんだかんだいって、物事のけじめをつける人間ではあったのだ。

 ……あっただろうか?

「来年の一月の下旬、東京ドームを借りて有志による草野球をすることとなりました」

 その瞬間の、記者たちの呆け顔こそ見ものであったかもしれない。

「二ヶ月治療に専念して、引退試合を行いたいと思い、準備もしています」

 本当に段取りのいいことだとマスコミは感心したものだが、計画をしたのはその妹のツインズで、全ての実務を担当したのである。




 色々とツッコミどころのある直史の説明であった。

 まず東京ドームを使って行う草野球というのはなんぞや。

 また一月というのも時期的に、果たしてどうなのか。

 プロのシーズン前、キャンプ入り直前になるのではないか。

 だが直史の引退試合が、それぐらいの特別扱いになっても、おかしいと思う者は……それなりにいた。

 プロには全く興味を見せず、また日本のプロからもあっさりとアメリカへ渡った直史には、かなりの数のアンチがいる。

 本人が全く気にしていないのが、余計に腹が立つらしい。


 あまりにもひどい誹謗中傷がネットで出回った時などは、本当に訴訟を起こして特定し、慰謝料まで請求させたのはさすが弁護士と言うべきか。

 直史は別に権力者でもないし、単なる人気商売でもないので、平気でそういった訴訟は起こすのだ。


「東京ドームって草野球で使えるのか?」

 案外基本的なことを知らない記者もいたりする。

 実は日程さえ空いていれば、本当に借りれるのである。

 もちろんプロ野球の試合が優先されるし、年末などのオフシーズンではイベントが盛りだくさんだ。

 そんな中で大介は、あくまでも野球をするために借りたのである。


 そんな意外と知られていない常識が、記者たちの中で浸透していく。

「その……草野球と仰いましたが、そのメンバーというのは?」

「現役のプロ選手で親しいところから声をかけています。とりあえずMLBからはうちの弟に、白石大介、あとは織田さん、中村アレックス、井口、本多さんに柿谷、あと珍しく蓮池も参加すると言っていました」

 おい、それはもうWBCよりも豪華なメンバーになるのではないか?

「ただ、ピッチャーは多すぎてもあまり意味がありませんが」

「その、故障ということですが、フルイニング投げるので?」

 直史なら壊れていても、それぐらいはやってしまうというのが、日本における共通認識である。

「投げられなくならない限りは、最後まで投げるつもりです」

「その、チーム分けは!」

「まだ決まっていませんが、せっかく一日使えるのだから、二試合やってもいいかと思います」

「それは二試合目も投げるということですか!」

「まあ、出来なくはないんじゃないでしょうか?」

 故障で引退すると言っているのに、何を言っているのだろうか。


 佐藤直史は規格外で、異常で、頭がおかしくて、枠に収まらない選手である。

 それを改めて、この場の人間は思い出したのかもしれない。

「さすがにそれが厳しければ、試合の途中でチーム間を移動というのもいいでしょうし」

「そんな無茶な……」

「MLBでは試合中にトレードが成立し、開始と終了でベンチの違う選手がいたこともありますから」

 そういう問題なのだろうか? だがそれは実際にあったことである。




 直史の言っていることは無茶苦茶である。

 歴代のスーパースターであっても、そんな引退試合をやったことはない。

 だが、直史と対戦するためなら。

 特にバッターは、集まってくるのではなかろうか。


 打ち取られて恥をかく可能性は高い。

 だがそれでも、直史とは勝負してみたい。

 もう直史の存在は、そういった特別なものになってしまっている。

 野球の世界はある意味、直史を中心として回すことが出来るようになってしまっている。

 かつてそんな選手がいたであろうか。


 靭帯損傷と言いながら、どこまで投げるつもりであるのか。

 確かに過去のピッチャーにも、靭帯を痛めながらも、投げて再起不能になった選手はいる。

 それを考えればここからしばらく休養したら、一試合ぐらいは投げられるようになるのではないか。

 そんな想像をしてしまうが、直史はコンディションを保つためにも、あまり休んでいるつもりもなかったりする。


「メジャーリーガー以外では、誰が参加されるのですか? 答えられる範囲で構いませんが」

「今のところ快諾してくれているのは、西郷さん、緒方、福沢、岸和田、近衛、御嶽、水上に後藤……」

 なんだそれは。

 直史のほぼ同年代からまだ現役である主力は、ほとんどが出場するのではないか。

「上杉選手と、あと樋口選手に関しては?」

「樋口は参加予定ですが、たまには対戦してみたいといって、対決チームに入る予定です。上杉さんはまだ回答をいただいてません」

 なんだそれは。

 ファンが見たがっても見られない光景が、そこに出現してしまうのではないか。


 たった一人のピッチャーが、引退するというだけである。

 もちろん短期間の活躍ながら、その残した成績は、不世出のものと言っていい。

 ピッチャーに必要と言われる要素を、変えてしまったとさえ言われるスーパーエース。

 その最後の勝負に向かって、それだけの選手が集まってくるというのか。

「あと本当に来るかは分かりませんが、メジャーからはターナーも参加したいと言っていました」

 それはあれだ。つまりだ。

 全世界オールスターVS佐藤直史になってしまうのではないか?

 いやもちろん、二試合も投げることは厳しいので、味方のチームの人間は、対決することは出来ないのだろうが。

「なんだかすごいことになってきちゃったぞ」

 どこかの記者が言った、もう理解が及ばないという台詞。

 だが実際のところそれが、事態を正しく表現していたのかもしれない。


 昼のバラエティ枠で放送されたこのニュースは、そのままずっと話題になっていった。

 そして夜のニュースでも取り上げられ、ファンとアンチの大論戦が繰り広げられる。

 だがこんな無茶苦茶な試合を、いくら直史でも故障持ちで、どうにかなるわけがない。

 そう主張する言葉は、ほとんどなかったのである。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る