第3話 帰国
11月下旬、暖かなカリフォルニアから、日本へと直史一家は帰国する。
そしてこれで、おそらくもう二度と、アナハイムには来ることはないだろう。
永遠の別れとなると思えば、この街にも少しは愛着が湧いている。
MLBでの五年間のシーズン。二ヶ月だけはニューヨークに移籍していたが、あとはずっとこの街にいて、オフには日本に戻っていた。
スプリングトレーニングでは、フロリダに行くこともあったが、生活の基盤はこの街にあった。
さほどの交流もなかったが、妻の瑞希はさすがに、ある程度のご近所づきあいもあったらしい。
とは言ってもチームの用意してくれた、高級マンションでの暮らしであったのだが。
直史は合理的な人間だが、意外と感傷的な男でもある。
ただ単に合理的なだけであれば、結婚はしなかったなと瑞希が思う程度には。
判断などは冷静なのだが、人情が分からないというわけではなく、むしろ人間関係で動くことが多い。
田舎の長男というのは、そういうものであるのだ。
相棒の樋口も同じく、さっさと日本に帰国した。
直史と同じく、オールMLBチームに選ばれた、世代最高峰のキャッチャー。
チームでは対応力の高い二番打者として、打率や長打、出塁を高いレベルでまとめていた。
だが直史からすれば、樋口の一番の長所は、キャッチャーとしてのリードだと思っていたが。
樋口のところは子供が多いので、男の子と女の子が一人ずつの直史よりも、ずっと大変ではあるらしい。
彼もいずれは引退し、日本に戻ることになるのだろう。
ただ樋口の引退は、己の成績の衰えとは、また別の要因になるはずだ。
彼はセカンドキャリアを、上杉のために使うと決めている。
元々は大学を卒業すれば、官僚として霞ヶ関に入る予定だったのが樋口だ。
それが結婚のために己の人生を曲げたのは、直史にとっても少し意外であった。
そんな樋口は、引退すれば政治家を目指すという上杉の、参謀となるつもりであるのだ。
元々上杉のために、大学を選んだというところはある。
思えば国際大会はともかく、樋口はプロの世界では一度も、上杉とバッテリーを組んでいない。
いや、オールスターではあるのだが、あれもまたお祭り騒ぎの一環であろう。
彼が上杉とバッテリーを組んだのは、高校時代の一年間だけ。
ただそれでも、樋口がキャッチャーとしてではなく、人間として付いて行こうと思ったのは、上杉だけであるのだ。
来年以降の樋口は、技術の劣るピッチャーを、どうにかリードしていくことになるだろう。
そういった苦しさと引き換えに、大金を得るのがMLBという世界である。
いずれにせよそれは、既に直史とは関係のないことになっていた。
大介の家庭も、子供が多い家庭である。
嫁が二人もいるので、仕方がないとも言えるが。
双子の姉妹と片方は結婚、片方は事実婚している彼は、世界で一番幸福であるか、もしくは苦労人かのどちらかであろう。
ただ本人としては、全くそれを考えたことがない。
直史の妹である桜と椿は、夫にとってとてつもなく都合のいい妻である。
フェミニストから見れば、二人の女を妻にしているという大介は、強い非難の対象になってもおかしくはない。
性的な多様性を訴える世の中でも、なぜか重婚に対する意見は、あまり多様性がないからだ。
そのあたり直史などは、ファッションで主義をやっている、などと揶揄したりもする。
大介はそんなことは深く考えず、皆が幸せなら、それが一番だろうと思っていたりするが。
実際のところ大介を共有しているツインズは、これはいい家族の形だな、などと思っていたりする。
保育園などを見れば分かるように、ある程度訓練していれば、一人の人間が複数の子供を育てることは可能になるのだ。
大介のように遠征が多く、子育てに普段から協力してくれることが難しくても、二人いれば分担できる。
これはおそらく、育児に大変で母親を頼る妻、という構造に似ているのだろう。
そもそも子育てというのは、田舎であるとあまり難しくないという意見も聞く。
ただこれは同時に、自分も他の家の子供まで、ある程度世話をするという状況があってのことだが。
そしてこの年の大介は、オフに重要なことが存在した。
今年が五年契約の最終年であったため、FAとなっているのだ。
ただこれに関しては、早々に現在のメトロズとの契約を果たした。
大介はこのあたりは日本人らしいと言おうか、一つのところで長く働くことを好む。
たとえばNPBでは、ライガースに九年もいたわけであるが。
実際のところ大介は、かなり慣れてきたニューヨークの地を、離れたくないという気分は確かにあった。
またそんな大介に応じられるだけの資金を、メトロズは用意することが出来たのだ。
今年の直史が、インセンティブまで含めて獲得した年俸を、さらに上回る金額での契約。
33歳の大介に対して、五年契約である。
インセンティブまで含めると、3億ドルを超える史上最高の大型契約。
これにあっさりとサインして、大介はアメリカを去ったのである。
なおこの年、メトロズのオーナーのコールは、その所有権の半分をアナハイムを売却したセイバーに販売した。
高齢のコールは、次のオーナーとして、セイバーを選んだようなものである。
直史と同じく、大介もまたセイバーは、高校時代の恩人である。
セイバーに言わせれば、才能はあくまでその個人のものであり、自分はわずかにそれを助けただけに過ぎない、ということになるらしいが。
ともあれ次の年から、MLBは新たな体制となることが決まっていたのであった。
直史が帰国したのは家族とは離れ、一人だけの状態であった。
なぜならどこからかマスコミは嗅ぎつけて、空港で待ち伏せしてくるからだ。
チームとの契約により、この帰国まではファーストクラスを用意された直史。
ただ家族の分もビジネスクラスだが用意してくれるあたり、MLBのチームというのは契約次第で色々としてくれるのだ。
本人は似合わないと思っているサングラスをして、空港に降り立つ。
セレブたちが混じっている中、自分だけがフラッシュを焚かれるというのは、どうにも恥ずかしく感じるものだ。
マスコミたちの質問については、おおよそ共通している。
次の契約はどうするのか、というものである。
直史は本当は、プロでは五年間しかしない予定であった。
最初の予定では、そもそもプロ入りは考えていなかったし、大学卒業後もプロ志望届は出さなかったのだ。
アマチュアながら特例でWBCなどに呼ばれて、そこで主力として活躍などもしたのだが。
多くの人間が直史が、プロでどういうピッチングをするのか見たがったが、本人はプロには何も魅力を感じていなかったのだ。
それでもプロの世界に、27歳のシーズンでデビューしたのは、遅いと言えば遅かった。
だが初年度から無敗の沢村賞などを達成し、既に神の領域の技巧などとは呼ばれていたものだ。
三年目からはMLBでプレイし、その三年目、つまりNPB時代から数えて五年目に、引退する予定であったのだ。
しかしその時は、やり残したことがあった。
主に大介との対決である。
そのため二年契約をして、さらにまた戦うこととなった。
それが終わった今、当然ながら世間は、来年の活躍を求めている。
直史としては故障もしたため、これが本当に神様の思し召しだろうと、かなり適当に考えているのだが。
今後もまだピッチャーをプロでやるのなら、トミージョンが必要だと言われた。
だが日常生活を送る程度なら、そういったものは必要ないとも言われた。
医師は驚いた顔をしていたものだが、33歳の直史が一年を治療とリハビリについやするなら、復帰は35歳のシーズンになる。
セカンドキャリアの決まっている直史は、それならばもう引退という決断をしたと言うより、そもそも今年で引退の予定ではあったのだ。
ただまだやれるのに引退するのと、もうやれないので引退するのでは、気分的には違うものがあるのは確かだった。
直史はマスコミに対しても、そういったことは話さない。
どうしても面倒になれば、話して今後に付きまとわれるのを避けたかもしれないが。
多くの人間が直史の記録を本にしたがるが、本人のインタビューなどを載せられたのは、瑞希の書いたものだけである。
直史はプライバシーを切り売りして暮らしていくタイプの人間ではないのだ。
迎えに来てくれていた瑞希の車に乗り、直史は実家へと戻った。
この場合の実家というのは、直史の場合は当然ながら幼少期から暮らした家を示す。
ただこのあたりがちょっと微妙で、佐藤家の代々の家というのは、現在祖父母が暮らしている家なのだ。
そこから少し離れたところに建てられたのが、直史の実家となる。
しかしその実家では、祖父母の家を母屋、直史の家を離れと、一つの家の塊のように考えている。
実際に祖父母が亡くなりでもしたら、母屋の方に移るのだろうと、直史は普通に思っている。
そのためにある程度リフォームして、台所や風呂など、水周りを新しくしたのだし。
いずれは自分も、その家に暮らすことになると、直史は思っている。
田舎の畑や田んぼの中に、数軒の家がある程度集まっている。
平屋建ての家も多く、土地も多いが敷地も広く、離れに特別に部屋なども作ったりしている。
先祖代々の墓までは、歩いてほんの10分程度。
やがてここで死に、墓に入ることを当たり前と考える、佐藤直史というのはそういう人間だ。
ただそれはもう少し先の話であり、直史はまず千葉市に近いところで暮らす予定だ。
セカンドキャリアとして、瑞希の父が経営する、弁護士事務所で働くためだ。
こんな弁護士の法曹資格を取ってから、そしてある程度働いてから、プロ野球界に乗り込んだのは、当然ながら直史しかいない。
差し当たっては通勤に都合がいいようなところに、マンションを借りようと考えている。
直史は地元愛の強い人間であるが、子供の成長のためにはある程度都会の方が育てやすいとも考えている。
実際に子供の頃、直史はピアノをやっていたし、弟妹も習い事をしていた。
その選択肢が多い方が、将来のためにはいいと考えているからだ。
車を飛ばせば一時間もかからず、実家に戻ることが出来る。
直史が考えている理想的な環境というのは、そういうものである。
自分のことではなく、子供たちの将来のことを考える。
直史の人生は、もうそういう段階に入っているのだ。
そんな直史の実家に、大介も堂々と実家らしく戻ってくる。
嫁の実家であるし、大介の父は再婚して山口に住み、母も再婚して家庭を持っているので、そちらには行きにくいという事情もある。
母親の実家は伯父夫婦とその子供たちがいるので、大介としてもあまり多くの子供たちを一緒には連れて行けない。
なので母に顔を見せては、そこからは直史の実家にくるというのが、オフシーズンの大介の行動となっている。
大介はその帰国初日に、直史に尋ねてみたものだ。
「引退試合やらないか?」
いい男である。
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