三章 After
第39話 新生活
新しい生活が始まる。
直史にとっては、もう野球とは関係のない日々だ。
もっとも日本に戻ってきている間は、それなりに弁護士事務所の仕事を手伝ってはいた。
それでもトレーニングで、技術やフィジカルをさび付かせないことが優先されていたが。
毎日の習慣であったので、起床すると軽くストレッチをした後、ランニングに出る。
さほど距離は走らないが、スピードはそこそこ出す。
そして公園にまで達したところで、柔軟体操。
このあたりのルートを考えて、新居を選んだとも言える。
別にもう体力を維持する必要もないとは言える。
だがせっかく健康でいるのなら、無理をしない程度には運動はした方がいい。
それこそ瑞希の方が、運動はした方がいいのだが。
あまり食べないせいか、瑞希が太ったところは本当に見たことがない。
妊娠中であっても、あまりお腹は目立たなかったものである。
帰ってきた頃には、瑞希も目覚めて朝食の準備をしている。
それを手伝いつつ、直史は決めなければいけないことはまだあるな、と思った。
「家事の分担を見直そう」
こてん、と瑞希は首を傾げた。もうとっくに三十路に入っているが、瑞希は童顔なので、けっこう昔を思い出させる。
「もうちょっと私の割合増やす?」
「いや、今までの生活はオフシーズンでも、ずっと次のシーズンを見据えてスケジュールを立てていたから」
直史はそう言うが、瑞希としては文句はないのだ。
アメリカでも日本でも、だいたい力仕事は業者に任せているわけであるし。
「料理とか洗濯とか掃除とか、私の分担でいいけど?」
「俺の労力が少なくないか?」
「食器洗いは今度買ってくるし、お風呂掃除ぐらいかなあ」
瑞希としてはむしろ、自分の仕事である家事の領域に、夫にも踏み込んでほしくない。
手間のかかることは、普通に手伝ってもらったりもするし。
瑞希がやってほしいことは、むしろ他にある。
「私がやってほしいのは、真琴と遊んであげることだけど」
元々体力はあまりない瑞希としては、元気な小学生の相手は、なかなかにしんどいのだ。
「子供と遊ぶのが俺の家事になるのか?」
「なる」
瑞希が大真面目な顔で言うので、否定も出来ない直史である。
真琴がお転婆であるというのは、もう分かっている事実である。
実際は単純に、運動量が多いのであるが。
生まれた時のことを思えば、遠い目をしてしまう瑞希である。
対照的に明史は、あまり体を動かすことはしない。
もっともカリフォルニアにいた頃も、絵本を持ってベランダで読んでいたりはしたが。
あとは直史に頼んでいるのは、子供たちをお風呂に入れることぐらいだ。
アメリカではそういったことに関しては、シッターを雇っても制限があったりした。
瑞希は子供を産んでから、さすがにある程度は筋肉がついたが、それでも生来非力ではある。
なので力仕事は、確かに直史に頼みたいのだ。
「今まで任せっぱなしだったんだな」
反省する直史であるが、瑞希としては文句はない。
直史はとにかく外で仕事をして、エリートサラリーマン数十人分の年収を、既に稼いできてくれたのだ。
変に自分だけでやろうとはせず、瑞希はアメリカではシッターを利用したし、日本では母に助けてもらった。
それに真琴は直史と遊ぶのが大好きであったのだ。
女の子は父親に、男の子は母親に似るという俗説がある。
そうすると明史の、本をとにかく読もうとするのは、確かに瑞希に似ているのかもしれない。
幼稚園に入る前でありながら、既にひらがなは全て読めるという明史。
間違いなく早熟ではあろうな、と瑞希は思う。
ただ真琴はあまり直史には似ておらず、強いて言うなら武史やツインズに似ていると思う。
あそこまで規格外ではないが。
今日も子供たちを送り届け、二人の日々が始まる。
真琴としてはこれから、アメリカにいた時とは違い、ずっと日本の小学校に通うことになる。
それがアメリカに慣れた彼女にとって、どういう齟齬を来たすのか。
直史も瑞希も、少し心配ではある。
それに比べると明史のほうは、言ってはなんだが育てやすいだろう。
子供たちも大変だろうが、自分たちも生活や仕事は変わっていく。
幸いにも子供たちに関しては、瑞希の母がある程度は世話をしてくれるだろう。
共働きの夫婦であるが、実際のところ直史も瑞希も、弁護士業以外の仕事がそれなりに多くなる。
ただしばらくの間は、顧客に対する挨拶回りが続く。
そんな直史であるが、周囲が放っておくはずがないのである。
まず古巣のレックスから、臨時コーチをしてくれないか、という声がかかった。
直史はドライな人間ではない。合理的で理性的ではあるが。
レックスと、その本拠地である神宮は、最も多く直史が投げたチームとスタジアムであるのだ。
ついこの間、小此木などが一緒のチームでプレイした。
ただ彼は野手であるので、そちらの話ではない。
直史はレックスには、二年間しかいなかった。
そしてその間、ピッチャーで新たに戦力となった選手は、あまり多くない。
同年代のピッチャーなどは、かなりの人間が引退している。
だからこそ直史の技術を、伝授してほしいということなのだろうが。
セイバーがいないと、こういう話になるのか。
直史の技術は直史だけのものであり、そう簡単に誰かに伝えられるものではない。
ただ話題はそれだけではなく、他にも色々とあるのだ。
「沖縄まで行くつもりはありませんよ」
だがオープン戦で東京にまで戻ってくれば、ある程度は付き合いをしてもいいかもしれない。
直史の新たな社会人生活の始まりであった。
瑞希はアメリカにいる間も、専業主婦をしていたわけではない。
学生時代からの続きで、色々と執筆活動をしていた。
主にMLBのことであり、その情報源は夫の直史だ。
なのでもう、その頼まれていたコラムは、直史の引退と共に完結したわけである。
だが今はまた、執筆することがある。
直史の引退に関することである。
直史の引退は、公式に発表されたように、肘の怪我が原因である。
このタイプの怪我は、一ヶ月ほど放っておいても、それなりには回復していく。
だがある程度の負荷がかかると、すぐにまた限界を超えてしまう。
なので根本的な治療には、靭帯の移植であるトミージョンが一番となるのだ。
もっとも直史に限って言えば、トミージョンは使えない。
彼が全身を連動させて、ピッチングを行っていたからだ。
あるいはその自分の腱の場所を、また考慮に入れないフォームを手に入れれば別ではある。
しかしそんな可能性に賭けるわけにはいかなかった。
なので直史の引退については、本当にもうどうしようもないものなのであった。
これまでの医療の限界においては。
直史以前に、大きな故障をして引退の危機に襲われた選手がいる。
上杉勝也である。
上杉は従来の治療ではなく、IPS細胞を利用した、欠損部治療医術を受けた。
その結果として以前と変わらないとまではいかなくても、上杉らしいピッチングが出来るところまでは回復した。
それと同じことが、直史に対しても出来る。
セイバーはそう言っていたのだ。
もちろんまだ完全に確立した治療法ではないし、上杉にしても全盛期までに完全回復はしなかった。
だが直史の場合は、肘の状態は上杉の方よりもよほど軽症だ。
普通に治療をすれば、靭帯は一ヶ月から二ヶ月で、完全に回復する見込みであった。
それでも引退を決めたのは、それが約束であったからだ。
また、やりきったという直史も、嘘ではないのだろう。
なんだかんだ言って、大介をはじめとするMLBのバッターはほぼ完封し、引退試合までその伝説は続いた。
物語は完成し、完結したのだ。
だが伝説は完成しても、現実は続いていく。
おそらくこの先の人生は、子供たちを育てていくのが生活の中心になるのだろうな、と瑞希は思っている。
そして子育てに関して、直史は少し偏ったところがある。
可愛くないわけではないだろうし、本人も無意識なのかもしれないが、男の子である明史の方に、その意識は注力している。
娘である真琴は、母親である瑞希よりもむしろ、父親の直史が大好きであるのに。
どこにでもあるような、家庭の中のささやかな問題。
だが瑞希がそれにしっかりと認識していることは、悪いことではない。
直史は聡明で、慎重で、用心深い人間であるが、それでも人間であるからには、性格に欠点というかクセがないわけではない。
特定の人間相手には甘いが、それ以外には猜疑心が強いこともそうである。
瑞希は結婚したからこそ言えることだが、特に女性に関しては、身内と認めた人間とそれ以外に、かなり明確な区別がある。
本質的には女性に不信感を持っているのだろう。
新しい生活は、ほんの短い間であるが、プロ入り前にあった生活に似たようなものになるのか。
ただあの時も直史は既に影響力があったが、今はそれとも比べ物にならない。
そしてそれは瑞希にも同じことが言える。
夕方、仕事が終わった後、ネットによる連絡で、改めて編集者とやり取りをする。
もちろん内容は昨日の試合についてのことだ。
客観的な意見ではなく、当事者たちの意見。
誰よりもまず直史の心中を、忘れないうちに尋ねておかなければいけない。
このあたり瑞希も、歴史の記録者と言えよう。
直史としては試合の経過などは、いちいちはっきりと憶えている。
最後までどのように戦っていたのか、言語化することが出来る。
楽しい試合であったという感想。
それに加えて、録画されていた映像を見ながら、いちいち全ての意図を説明していく。
瑞希はその配球などについて、驚きながら記録していくのだ。
「打たれる可能性も、0にはならないのね」
「0になってしまったなら、わざわざ試合をする必要もないしな」
直史はなんだかんだ言って、野球での勝負は好きなのだ。
好きだからこそ、ここまでずっとやってきたのだ。
今までの生涯のうち、半分以上はかなりの時間を野球にかけてきた。
やりきったからこそ、もう直史は自分のために投げる必要を認めない。
大介との対決も、まず勝ったと言っていいだろう。
ワールドシリーズではチームの勝敗にこだわったため、最後の打席を回すことははばかられた。
だが昨日の試合は、自分のためのものだったのだ。
なので好き放題に、完全に自分のわがままで、勝負をさせてもらった。
WBCの日本代表との壮行試合にも、似たようなことはやってみせた。
あれもまた勝敗に意味がないからこそ、出来たことではある。
母校や、郷里や、チームのためを思っていれば、そんなことは出来ない。
もっともそう口にしてはいても、実際のところ直史は絶対的な自信を持っているので、結局勝負を選んでしまうのだが。
それももう終わった。
これからの直史の人生は、新たなステージに入っていくのだ。
フロリダにて大介は、スプリングトレーニングへの最終調整を行う。
直史のいなくなったMLBにおいて、自分は何をしていくべきなのか。
既に敵はいないと言ってもいい、大介の圧倒的な打撃記録。
これからやっていくのは上を目指すことではなく、下からやってくる者を叩き潰していくことである。
プロなのだから、一度ぐらいの敗北で潰れていては、話にならないが。
今年は直史の引退試合のため、既にばっちりと仕上げてある。
そしてそれは武史とアレクも同じことである。
「樋口さんも来れば良かったのに」
アレクが言うように、完全に後輩というだけで、敵チームのアレクが来ているのだから、樋口が来てもよかったのだ。
ただ大介は樋口にしても、そろそろ引き際を考えているのではないか、と思っている。
樋口がプロに来たのは、さっさと大金を稼ぐためである。
妻との結婚を認めてもらうためにも、官僚への道を諦めて、プロで顔を売ることを選んだのだ。
将来は政治家となる上杉のために働く。
そんな樋口であるため、MLBの高年俸で稼いでから、NPBに戻るのではなく球界からは離れるつもりであろう。
もっとも彼もキャリアの終わりは、NPBでと考えているのかもしれないが。
大介も武史もアレクも、自分に備わった能力は野球に特化している、というのを了解している。
正確には他のスポーツであっても、ある程度は成功しただろうが。
野球の選手生命は、たとえば他の北米四大スポーツに比べれば、比較的長いと言われている。
ここで大金を稼ぐことが、アメリカンドリームへの最短の道なのだ。
もっともこの三人は、既にそれに成功したと言っていい。
大介の年俸は現在、一年あたりの金額としては、MLBでトップとなっている。
あまり長い契約を作りたがらない大介は、むしろ今のMLBの年俸事情からすると、異端ではあるがフロントとしてはありがたい。
昨今のメジャーリーガーは基本的に、大型契約と言って長期の複数年契約を結びたがる。
途中で故障などして成績が下がっても、それだけの年俸は保証されているからだ。
これは大介などから見たら、潔くないな、と思えてしまう。
だがそれは大介が、もう充分に稼いでいるからこそ言えるのだ。
大介はその伴侶として、双子の女性を二人とも選んだ。
その二人の有能すぎるムーブにより、資産は放っておいてもどんどんと増えていく。
そのため本当に、野球だけに集中することが出来る。
メジャーリーガーの多くは、たとえ大金を稼いだとしても、それを運用する方法を知らない。
メジャーリーガーに限らず、北米のプロスポーツ選手というのは、本当に引退後数年で破産してしまうことが多いのだ。
トロフィーワイフなどと言って、その栄光に相応しい女性を妻としようとする。
それがまだ女優や歌手など、あちらも稼ぎのある人間ならばいい。
しかし多くはルックスとスタイルで選ばれる、分かりやすい美女というものである。
こういった女は夫の稼ぎに寄生して、金がなくなれば離れていくのだ。
アレクのように特定の相手を作らない、作ったとしても結婚まではしないというのは、それなりに賢いやり方だ。
実際にMLBのキャンプにおいては、家族ではなくパートナーを連れてくることも認められていたりする。
ただ大介にしても武史にしても、身を固めた方がいいのでは、とは言わない。
自分たちの妻がいかに、世界的に見ても貴重であるのか、そこはしっかり認識しているからだ。
スプリングトレーニングの開始と共に、先に武史はキャンプ地へと向かっていった。
打線陣は少し遅れて集合のために、大介とアレクが残ることがある。
二人は同じ高校の先輩と後輩にあたる。
しかしプロとしては、同じチームになったことがない。
アレクは基本的に、東海岸や北米の北部には行きたくないのだ。
それはブラジルが、基本的には温暖な国だということも関係している。
そんなアレクも、実は結婚については考え始めている。
アメリカ人と結婚して、永住権を取ろうかという話である。
実は既に、子供自体はいるのだ。
もっとも認知はしているが、結婚はしていない。
国籍はアメリカで生まれたので、アメリカ人となっている。
そんなアレクの相談に、大介とツインズは相対したりしている。
アレクは陽気な南米人であるが、同時にひどく現実的でしたたかなところもある。
実際は正直者の鬼塚などよりは、暴力への忌避感がなかったりする。
ブラジルは基本的には、日本よりもアメリカよりも、治安の悪い場所が多い。
全てがそうとは言わないが、アレクにとってはいずれは捨てる故郷であった。
他国の国籍を獲得するのは、日本ではそれなりに難しい。
だが移民から生まれたアメリカは、国家への貢献を一定以上すれば、アメリカ人になることが出来る。
実際にアレクは、アメリカ国内の企業に投資などをしているが、これはそのための実績作りの一環である。
ただもっと簡単なのは、アメリカ人と結婚することだ。
だがアレクは、日本においては基本的に明るい人間であったが、アメリカでは女癖が悪いと思われている。
単純に選んでいる段階で、メガネにかなったものが少ないだけなのだが。
「損得勘定だけで結婚してたら、それがなくなった時には離婚になると思うんだけどなあ」
そう言う大介としては、なんだかんだ言ってツインズの自分に対する愛情は、全く疑っていなかったりするのであった。
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