第38話 岐路
語りつくした直史は、ホテルの部屋に戻る。
深夜にもなろうという時間であるのに、まだ寝室につながる部屋では、瑞希が起きてデスクに向かっていた。
「お酒、飲んだの?」
「俺だけはな」
元々直史は、酒には強い。正月などは親戚の盃をぺろりと空けていたものだ。
だがそういったこと以外で飲むのは、滅多にないのだ。
「そっちは何をしてたんだ?」
「今日のことを、改めてまとめていて」
瑞希の言葉に、直史はどれどれとノートPCを覗き込む。
各種の数値が画面には見えていたが、相変わらず自分でもおかしなことをしているな、とは思った。
自覚はあるのである。
「終わったな……」
そしてソファに沈み込むように座る直史へ、瑞希は声をかける。
「お水飲む?」
「お願い」
備え付けの冷蔵庫から、ミネラルウォーターを取り出す。
それを飲んだ直史は、わずかに頭が冷えてきた。
まだ一月であるのに、全てが終わったような気がした。
これから自分がやることは、とてつもなく多いのに。
「子供たちはどうだった?」
「真琴は少し興奮してたけど、電池が切れたみたいにばったり」
「そうか」
寝室のドアを開けて、わずかに子供たちを見る。
元々おとなしい明史はともかく、真琴は普段から元気が良すぎる。
これまで、オフシーズンもシーズン中も、基本的には育児などは瑞希が中心となって行ってきた。
プロ入りするまでは、どちらの家事分担も公平であったし、妊娠中などは直史の方が家のことまでしていたものだが。
なんだかんだ言いながら、直史は自分の身の回りはどうにか出来る。
しかしプロの間は、右手で子供を抱こうともしなかった。
オフの間でさえ、翌シーズンのことを考える。
それがプロの姿勢だと思っていたのだ。
向かい側のソファに、瑞希も座る。
こちらは珍しく、ビールなどを持っていた。
「またしばらくは、マスコミがうるさいかしら?」
「邪魔になるようだったら、また警察に頼むしかないな」
弁護士は警察の使い方を知っている。
だが野球に関しては、もう間もなくキャンプが始まる。
引退する直史に関するよりも、まだこれから活躍する選手へと、注目が集まっていくのは仕方がないだろう。
むしろそれこそが、直史の望むところである。
もっとも色々なところから、様々な依頼が入ってくるであろう。
そして単純に収入だけを見るなら、そちらの方がよほど大きくなるのだ。
直史は本質的に保守的で、牧歌的な人間である。
嘘をつくなと言われるかもしれないが、本人はそう思っている。
マスコミに追い回されるのは、有名税などとは思わない。
基本的にアメリカ社会とは合わない人間ではあった。
それでもメンタルが強靭であったため、壊れずに済んだのだ。
満たされた安堵感があった。
だからこそ深い眠りに入っていたのかもしれない。
解放された直史は、自分の中から特別な力がなくなってしまっているようにさえ感じた。
それはずっと、それこそ野球を始めてからずっと、20年以上も抱えていたものであったろう。
それが失われてしまったのだ。
起床した直史は、まだ瑞希や子供たちが眠っているのを確認する。
音もなく寝室を出て、リビングに入った。
(七時か)
テレビを点けてみれば、昨日の試合のニュースをやっていた。
何も全てのチャンネルで、やらなくてもいいだろうに。
(テレ東だけはやってないな)
さすがである。
今日でもう、ほとんどの人間は、それぞれのいるべき場所に帰る。
MLB組はフロリダやアリゾナ、そしてNPB組は自主トレか早めのキャンプへ。
あるいは東京近辺の施設で、自分一人でトレーニングをする者もいるかもしれないが。
ここが大きな分岐点で、大きな中心。
ここから多くの人間が、それぞれの道を歩いていく。
直史はもう、一人で歩くことはない。
マウンドの上の孤独を感じることは、もう二度とないのだ。
ピッチャーは孤独だ。
背後を守ってもらって、そしてキャッチャーと組んで、バッターと対決する。
そんなグラウンドの中心にいても、孤独な存在なのである。
もう二度と、あの高い位置の孤独を、直史は感じることはない。
単なる草野球では不可能な、あの静謐な空間。
大歓声が聞こえない、あのエースだけに許された場所。
直史はそこを、もう永遠に失ってしまった。
だがそれは誰しもが、いずれは経験することなのだ。
これからやらなければいけないことを考える。
弁護士会への登録は、特に必要はない。元々オフに戻ってきていた時には、事務所を手伝っていたのだ。
あとはとりあえず、この大量に届いているメールをどうするか。
もちろん知り合いからのものであるのだが、いちいち返事をするのも大変だ。
しかし人間関係を考えれば、やらないわけにはいかない。
これからの直史がやっていくのは、基本的に人間関係が問題となる仕事である。
もちろん単純な失敗から、弁護士という職業が必要になることもあるだろう。
また後輩などの中には、代理人として直史を雇いたいなどと言っている者もいた。
基本的に直史は、あくまでも街の弁護士さん、になる予定なのだが。
今では弁護士も仕事の取り合いになっている中、そういう状況はむしろ喜ぶべきなのだろう。
直史はそう思って、愛する家族が目を覚ますのを待っていたのであった。
東京に集まった選手たちが、次々に目的地に出発していく。
一月下旬、NPBでは二月の頭からキャンプが始まり、MLBでも二月の中旬からスプリングトレーニングが始まる。
祭りは終わり、そして現実が始まる。
いや、正しい意味で昨夜は、神聖なる儀式のようであったかもしれないが。
MLB組の多くは、そのまま成田へ移動だ。
大介はまた別荘の方へ、武史やアレクを誘っている。
武史はまた、恵美理の実家に顔を出してから、アメリカへ向かう。
なんだかいつもとは違う、足元がふわふわとした感覚になっている。
直史がもういない。
大学を卒業してから、直史がプロ入りするまで、武史はやってきたはずだが。
あの時は樋口がいたから、だと言えようか。
前年にプロ入りし、シーズン途中から新人ながら、キャッチャーのスタメンを獲得した樋口。
ただ今年だって、まだ大介が同じチームにいる。
しかしおそらく、今年が二人が同じチームにいる、最後の年になるだろう。
大介は五年契約の四年目に、新たに契約を結んでいた。
しかし武史の契約は今年で切れる。
もちろんシーズンオフに、新たな契約を結んでくる可能性は高い。
だがそのつもりなら他のチームとの交渉が始まるFAになる前、このオフに新たな契約を結べば良かったのではないか。
単純にメトロズは、選手の総年俸が巨額になりすぎているのだ。
チームは若返りに舵を切っていて、武史は今年が33歳のシーズン。
34歳になる大介と、ほぼ同じ年齢の主力を、二人抱えるのはリスキーである、という予測でもしたのだろう。
武史と契約するとしたら、一年あたり5000万ドル相当が最低ラインである。
複数年契約にあまり魅力を感じない武史としては、契約が長い代わりに、年あたりの金額は少なくなる大型契約は結びたくない。
そんな武史は若い間の勤続疲労がないので、かなりベテランになっても投げられそうなのだが、パワーピッチャーは基本的に選手寿命は短いとされる。
「それじゃあな」
「ああ」
「またあっちで」
「待ってるよ」
色々な挨拶が交わされて、選手たちは分かれていく。
なおメジャー組は、日本人グループは普通に、オフに帰国するチケットなどは、チームとの契約でファーストクラスになっていたりする。
こんな契約まで細かく、選手と結ぶのがMLBというものである。
いや、アメリカ社会と言うべきか。
直史は二年間の契約も終えて、もう何もしがらみはなくなった。
球団のフロントからは、また何かイベントなどをする時にでも、出席の要請はあるかもしれない。
時間が空いていれば、別にそれに出席するのは構わない直史である。
ただこれから忙しくなる彼に、そんな時間はなかなかないであろうが。
千葉の新居であるマンションに、直史一家は移動した。
仕事場になる事務所に近く、また駅にもそこそこ近く、実家などにも車でそれほどはかからないという距離。
ここから新たな生活が始まるのである。
「これまでずっと、野球に集中しすぎてたからなあ」
そう呟く直史であるが、まだ今日は野球からは離れきることは出来ない。
肘の様子を診てもらうために、医者にかからなければいけないのだ。
予約もしっかりと入れていて、瑞希に送ってもらうことになっている。
真琴と明史は瑞希の両親に預けるが、明日からは二人とも、小学校と保育園である。
明史などは瑞希の母が預かってもいいと言っていたのだが、この年からでも社会性を身につかせておいた方がいいだろうと判断した。
直史も瑞希も、少し心配していることはあるのだ。
真琴などは特にそうだが、一年の間に何度も移動する、極端な生活をさせてきた。
特殊な仕事なので仕方ない、という言い訳はしにくい。
もっとも最近では小学校でも、リモートでの授業を開始しているのは、アメリカならずともあるのだが。
直史の考える、当たり前の一般家庭の生活。
実のところ今では、かなり難しくなっているものなのだが。
それがいよいよ始まろうとしていた。
結論から言えば、右肘に決定的なダメージはなかった。
だが熱を持っているのは確かであり、わずかずつその疲労は蓄積していっている。
また一ヶ月から二ヶ月、安静にしていれば一試合ぐらい、投げられる程度には回復するだろう。
しかし同じようなピッチングをするなら、今度は二ヶ月から三ヶ月ほど、安静が必要になる。
根本的な治療となると、今ならトミージョンしかない。
他にもあるのかもしれないが、まだ確実とは言えるものではないのだ。
「それで、満足はしたのですか?」
村田の問いに対して、直史は少し考え込む。
「人間は結局、完全な満足なんてしない生き物なんじゃないかな?」
「そうかもしれませんね」
ひどく事務的に思える村田の言葉であるが、それでもまだ優しい方なのである。
彼自身は大学で、医学部の授業が本格化し始めてからは、野球部を退部している。
別にそれで、何かを失ったということもない。
そもそも高校時代に、選ばれて野球をしていたわけでもない。
彼もまた、才能が志望とは別の方向にあった人間なのだ。
「うちの大学で、まだ研究段階ですが、こういった肉体の損傷部位の治療を行っているものがあります。良ければそちらも試してみませんか?」
それは別に、直史を思っての言葉でもなかったろう。
村田は野球をすることを、特別なことだと思っていない。
「考えておくよ」
だから直史も、そう軽く答えておいたのであった。
飛行機のファーストクラスで、大介一家はアメリカへと戻る。
そう、行くという感覚ではなく、戻るという感覚になりつつある。
魂的にはいまだに、自分は日本人であるという意識が残っている。
その気になればアメリカの永住権も取れるであろうが、大介にはそんなつもりはない。
東京で暮らしていたのが、一応は一番長かった。
それから千葉で、祖父母の家に住んだ。
母は再婚し、祖父母の家は伯父一家が継ぐのだろう。
ライガース時代は球団寮からマンションへと移ったが、それも既に売却してある。
オフシーズンで一番長く過ごすのは、それでもチームの用意してくれたニューヨークのマンション。
日本に戻った時は、ツインズの実家にいることが多い。
そしてスプリングトレーニング前には、フロリダの別荘へ。
シーズンが始まればニューヨークを本拠地に、北米全土を回る。
そんな大介には、故郷という概念が薄くなっている。
魂の故郷と言うなら、やはり甲子園であるのだろうか。
だがこれは愛着であって憧憬であって、故郷というのとは違うと思う。
それでも自分はまだ、千葉に愛着がある。
ツインズがずっと千葉育ちだったからというのもあるが、オフには必ず千葉に帰っているからだ。
生活した時間であれば、千葉はそれほどでもないというのに。
むしろ甲子園近くの大阪や、兵庫にいる時間の方が長いかもしれない。
そして今では、ニューヨークが中心となっている。
子供たちは親の仕事に振り回されて、辛さを感じていないだろうか。
もっともそれに関しては、大介の場合は妻が二人いる。
子供たちもたくさんいるが、むしろ大家族でよかったと思う。
少子化が叫ばれている日本であるが、金銭に余裕があるのであれば、子供は多ければ多いほどいいな、と大介は感じている。
もうちょっと頑張って、野球チームを作れるぐらいにしようか。
もっとも女の子たちは、それほど野球をやろうという気持ちにはなっていないようだが。
移動にたっぷりと時間は使ったが、大介はフロリダに到着する。
ハウスキーパーに清掃を依頼していたが、トレーニング機器まではさすがにその範疇ではない。
スプリングトレーニングまで、もうさほどの時間もない。
今年も日本人メジャーリーガーは誘ったのだが、来るのは武史とアレクだけである。
その二人のうち、アレクは一人で来る。
そして武史は家族で来るが、その家族の中でも妻の恵美理は仕事でニューヨークに向かうことが多い。
珍しい存在である。
一般的なスポーツの一流選手は、その伴侶にはサポートを頼むものだ。
恵美理もサポートをしていないわけではないが、彼女もまた自分自身の人生を生きている。
そしてそれを武史も尊重している。
ツインズが結局、大介のためなら他の全てを犠牲にするのとは、対照的なものである。
彼女たちはSではあるが、奉仕型のSである。
そこは直史と似ているところだが、大介はそんな分類をしたりはしない。
飛行機に乗って固まっていた体を、しっかりと動かしていく。
今日はまだボールなどは使わず、主にフィジカル的に肉体を動かしていく。
その中には子供たちと遊ぶ、ということも含まれている。
長男の昇馬などは、ものすごく活発的だ。
男の子の運動神経は、母親から伝わるなどとも言われているが、ツインズの子供であり、大介の子供でもあるなら、どちらに似ても運動神経は抜群になるだろう。
ただ昇馬は、ピッチャーに憧れているらしいが。
完全に直史の影響であろう。
武史とアレクが到着すれば、いよいよ本格的に自主トレ開始だ。
ただあの二人は、基本的に楽観的なのだ。
トレーニングにおいても、メニューは黙々とこなして、しっかりと遊びもする。
そのあたりはやはり直史がいてくれた方が良かったかな、とも思う。
夜になって、食事を終えたあたりで、息子の昇馬が大介に尋ねる。
「今年は、マコちゃんは来ないの?」
同じ年ではあるが、真琴のほうが少し、生まれたのは早い。
もっとも彼女は生来の心臓の奇形で、生まれた時は色々と大騒ぎであったが。
二人の間にあるのは、擬似的な兄弟感覚だろうか。
特に昇馬にとって真琴は、姉のような感覚があるのだろう。
「ナオが引退したから、もうここに来る必要はないしな。でも夏休みには会えるかもしれないぞ」
もう直史には、オフシーズンという季節はない。
だがこれまでずっとなかった、夏休みというものが戻ってくるのだ。
盆という日本に伝わる休暇は、アメリカには存在しないものだ。
ただフロリダは金持ちの保養地であることが多いため、夏休みに遊びに来てもいいだろう。
逆にその間、昇馬が日本に戻ってもいい。
大介は高卒からプロに入った。
だからこれ以外の生き方は知らないが、想像は出来なくもない。
廃人のようになっていた時期の父や、それを支える母の姿は、しっかりと見ていたのだ。
子供たちにはあまり、親の生活の犠牲にはなってほしくない。
「今年はまだ始まったばかりだけど、シーズンが終わったらまた、日本には戻るからな」
そう言って、大介は昇馬を諭す。
今年もまた、シーズンが始まる。
直史のいない、退屈なシーズン。
大介の成績がどうなるのか、それはまだ分からないことである。
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