第37話 不滅

 長い試合が終わった。

 結果としてはどちらも点が入らない0-0の試合。

 ある程度は予想していた者も多かったが、まさかどちらのチームも一点も入らないとは。

(こんなことなら、一打席ぐらいは勝負しておいても良かったかもな)

 樋口はそうも思ったが、それは自分らしくはない。

 キャッチャーは黒子であれ。

 もちろんバッターとして打席に立った時は、また違った役割を果たすことになるのだが。


 延長12回打者37人と対戦し、打たれたヒットは一本で、奪った三振は15個。

 特に終盤、九回から延長に入ってのピッチングは、圧巻の一言であった。

(死ぬまでにこんなピッチャーを、また見ることがあるのかな)

 マウンドから降りた直史に対して、センターから駆けてきた織田が、最後のボールを手渡した。

 ウイニングボールとなったこの球に、果たしてどれぐらいの価値がつくものか。

 いや正確には、ウイニングボールではないのだが。


 バックを守っていた野手たちが、直史の背中を叩いたり、右手を差し出して握手していったりする。

 ベンチからの両チームの選手が出てきて、直史と握手していく。

 日本人である直史は、基本的にハグはしない。

 アメリカならばともかく、ここは日本であるのだし。


 スタジアムはスタンディングオベーションでこれを称える。

 結局パーフェクトもノーヒットノーランも出来なかったが、この試合は間違いなく直史が勝者であった。

 引き分けたこの試合だが、個人としての勝者を見れば、それは直史である。

「佐藤君、何か伝えるかね?」

 審判団もやってきて、直史と悪手をしていく。

 その中で国立は、マイクを持って直史へと手渡した。


 この試合はやはり、直史とバッターたちとの対戦であったのだ。

 野球の試合という形ではあったが、実際には直史がどれだけ投げられるかを、観客たちは見にきたのだ。

 あるいは敗北する姿すら、期待されていたのかもしれない。

 だがそれに応えるつもりが、直史には全くなかった。


 直史の人生を見れば、野球に関してはむしろ、敗北まみれの中から始まった。

 だが一度飛び立ったその翼は、ほとんどの人間には栄光ばかりに輝いているように見えたのかもしれない。

 何かを伝えるべきか。

 別に何も伝えたくはない。伝わる人間には、何も言わなくても伝わる。

 なのでマイクを持ったのは大介であった。

『これにて、佐藤直史引退試合を終了します! 色々な意味で期待していた人、結局はこうなりました! シーズンが始まれば、また応援よろしくお願いします!』

 頭を下げた大介に対して、直史は国立には軽く目礼した。




 全てが終わった。

 招待された選手たちは、近隣のホテルの部屋に戻っていく。

 普通の公式戦ならインタビューもあるのだろうが、この草野球にはそんな義務もない。

 それでもサービス心の旺盛な人間は、マスコミに応じたものだが。

 直史や大介はとても誰かに、この感情を吐き出す気にはなれなかった。

 二人は家族を部屋に残して、ホテルの最上階のバーになど来ていた。

「カルアミルク」

「俺はミルクで」

 バーでも酒を飲まない大介である。もうすぐスプリングトレーニングも始まるのだ。


 直史はもう、今年からはそういったスケジュールに束縛されることはない。

 グラスを軽く合わせて、二人は息を吐く。

「結局、勝ち逃げか~」

「さすがにもう、どうしようもないからな」

 靭帯を損傷していると、本当にいつパンクするか分からない。

 保存療法では無理だと、どの医者も言っていたのだ。

 かといってトミージョンも直史のスタイルからすると、復帰に何年かかるか分からない。

 人生の次のキャリアに、直史は進むべき時がやってきたのだ。


 現代の野球、特にMLBにおいては、ピッチャーとバッターの対戦というのは、ほとんどお互いの分析合戦になりつつある。

 そんな中で直史は、どんな状況になったとしても、即座に対応できるのが強みであった。

 今日のように一球ずつ変えていくのは、さすがに負担が大きい。

 おそらくこのピッチングをしていれば、シーズンの途中で故障していただろう。


 これから直史は、新たなステージに立つことになる。

 弁護士として働くのもそうであるが、色々と仕事の話はきていたのだ。

 しかし全ては今日の試合が終わってからと、返答は待ってもらっていた。

 もっともプロのコーチなどの仕事は、こちらから断っていたが。

 弁護士の傍ら、野球に関することで、何かの依頼を受けることもあるだろう。

 だがもうユニフォームを着るつもりはない。

 自分はプロの世界では、もうやるべきことは全てやったのだ。

 直史はそう考えている。


 大介はこれ以上、直史に何かを要求することはない。

「俺のこれからの仕事は、お前の伝説を風化させないこと、か」

「どんな人間だって、いずれは限界が来るからな」

 今年で大介も、34歳になる。

 おそらくもうあと10年は、MLBの一線にはいられない。

 平均球速で劣るNPBに戻ってくれば、あるいはまだ通用するだろうか。

 衰えたと言いながら、それでも年に50本ぐらいは打っている気もするが。


 ここから大介は、多くの記録を作っていくのだろう。

 既におおよその記録は抜いてしまっているが、自分自身の記録をどれだけ、更新していくことが出来るのか。

 二人は言葉少なに、それでも饒舌気味に、語り始める。

 人生の青春をかけた、野球というものに対して。




「初めて会ったのは入学式の日だったよな?」

「そうだな。俺はシーナに連れられていって、お前は一人で来てた」

「しかし俺、よくあの時の学力で入学出来たよな」

「いまだにコンピューターの誤入力が疑われてるぐらいだからな」

「え、マジで?」

 マジであるが、入学直後の大介のテストは、最下位よりはそこそこ上であったので、本当に都市伝説のはずである。


 そして人数が足りなかったので、二人ともすぐに練習に参加するようになった。

「北村さんがキャプテンじゃなかったら、入部してたかな」

「お前はなんだかんだ言って、入部してたと思うけどな。ジンとキャッチボールしてたの見て、生き生きとしてたし」

「それはそうか」

 まともなキャッチャーというのに、直史は飢えていたのだ。


 練習に参加して大介は、いきなり岩崎の140km/hを打っていたりした。

「あの体格でよく飛ばせるな、とは思ったよ」

「それまではゴロを叩きつけろとしか言われてなかったしな」

「いつの時代の指導なんだか」

 だが状況によってはゴロも打てる能力というなら、確かにそれはあっても悪くはないのだ。


「フリーバッティングで、本当に投げてほしいところに投げてくるのは驚いたな」

「ああ……でもあの時はまだ、完全にコントロール重視だったしな」

「普通はマシーンでも、ある程度誤差があっただろ」

 それだと中学時代のキャッチャーは、捕れなかったのである。

 直史の活躍後も、中学時代の部活仲間とは、ほとんど連絡が来たことはない。

 入学後の一年生にキャッチャーをやらせるのが、そもそも無理があったのだ。


「春の大会にはいきなり出してもらったしな」

「俺は勇名館との試合が初登板だったけどな」

「あれはジンが怪我した時点で、終わったと思ったよなあ」

 岩崎の動揺は大きかったが、あそこから直史が投げたのだ。

「お前がホームラン打っておいてくれて、本当に助かった」

「あちらもオーダーが万全じゃなかったしな」

 甘く見ていたとかではなく、夏に向けての試行錯誤をしていて、その隙をこちらは突いたような形になったのだ。


「いきなりトルネード投法はするし」

「今だと肘に負担がかかるから、絶対に出来ないな」

「痛みはないのか?」

「少し熱は持ってるな。一応医者にはまた行ってみるが」

 先発完投で投げていれば、故障してなくてもそれぐらいにはなるだろう。




 大介は疑問に思っていることがある。

「お前、故障がなくても、本当にもう引退してたか?」

「そのつもりで去年はプレイしていたからな」

 自暴自棄ではないが、全力で終わらせることを考えていたからこそ、ああいった無茶なプレイもしてしまったのだ。

 肘を故障したのはその結果である。狙って故障など出来るはずもない。


 直史はずっと、プロ野球選手としての生活には抵抗があったのだ。

 今どき、月曜から金曜まで働いて、週末は休みという形態の仕事など、かえって珍しいとも言える。

 だが直史は本当に、子供たちの教育のためにも、日本に戻ってきたかった。

「まあNPBだったら引退は伸びたかもしれないかな。いや、それでも意味はないか」

 結局のところ、プロでやるという意識が、直史にはなかったのだ。

 それでもこんな結果を残してしまったわけだが。


 やっと解放された、という意識もあるのだ。

「もう野球はしないのか?」

「草野球をしようにも、レベルが違いすぎるしな。やるとしたら左で投げるしかないだろう」

「コーチとかはどうだ?」

「ああ、プロには関わる気はないけど、アマチュア指導資格は取るつもりだ」


 プロ野球選手はアマチュア、正確には学生野球には、指導してはいけないという区切りがある。

 今となっては全時代の遺物のようにも思えるが、とにかく日本は何かを変えるという時には保守的なのだ。

 そのくせ完全に新しいものは、あっさりと受け入れてしまうところもあるのだが。

 正確には学生野球資格回復制度というものである。

「学生野球憲章が邪魔なんだよなあ」

「けれどこれがないと、関東圏と関西圏の高校が有利になりかねない」

「俺は指導者にはなれないだろうけど、お前もあんまり求めすぎるなよ?」

「俺の真似は誰もしない方がいいからな」

 そのぐらいは直史も分かっているのだ。


 いずれ真琴がリトルのチームから、シニアのチームに入るかもしれない。

 それがなくても母校に呼ばれれば、少しは応援してやったりもするだろう。

 直史がここまで蓄積した技術は、誰にでも真似できるというものではない。

 だがその技術の一部分ずつは、誰かに伝えないともったいないだろう。

「でも誰にも見られない場所で、こっそりと教えるのは今でも出来るんだろ?」

「誰にも見られないというのは、むしろ難しいだろ」

 ただ学生野球憲章に関することなので、今ではそれに当てはまらない、社会人野球やクラブチーム、リトルにシニアは問題なく指導できる。

 中学生はそのままプロ入りするわけではないので、問題ないらしい。

「あれ? 中学生も指名出来なかったか?」

「出来ることは出来るし、過去に例もあるが、現実的じゃないんだろうな」

 体質にもよるがやはり、20歳を少し超えるぐらいまでは、まだ体は成長期なのである。

 プロに入ったとしても、体作りで数年間は過ごす必要があるだろう。

「結局、完全に野球から離れるわけじゃないんだな」

「趣味みたいなものだからな」

 やがて、直史の指導を受けた選手が、大介と対戦する機会もあるのだろうか。

 そう考えると、長く現役を続けないとな、と思える大介であった。

 



 直史の記録はおそらく、誰にも抜くことは出来ない。

 さらに直史は、大介との対決でほとんどの場合は制してきた。

 ここから大介と対決し、直史以上の結果を出すことの出来るピッチャーが、果たして大介が引退するまでに現れるか。

 そちらの方もおそらく無理なことだろう。


 直史は大介を打ち取ったあのボールに関して、詳しく説明を行う。

 どうせもう対決はないのだし、お互いが引退してから対決するとしたら、その頃にはどちらも衰えていて、また違った技術が必要になるだろう。

 そしてその時までに、直史が技術を保っているとは考えられない。

 他のピッチャーにも、理屈を教えることは出来る。

 だがこれは、他のピッチャーには出来ないはずだ。


 己の絶対的なフォームを手に入れる。

 だがそれは自信の元になるかもしれないが、分析されれば打たれるかもしれない。

 バッターとピッチャーの分析は、特にピッチャーの分析の方が、今では主流になっている。

 だから直史は、自分のフォームから解放された上で、自由自在に投げたのだ。


 他のピッチャーがやれば、単にコントロールが乱れるだけとなる。

 もっともフォームが固まっていないピッチャーは、無意識のうちにこれをやるのかもしれないが。

 制球の定まらないピッチャーは、かえって打ちにくい。

 それはコンビネーションが読めないからだけではなく、そのボールの軌道にそれぞれ、微差があったからではないか。

 いちいち直史は調べていないが、その可能性は高いと思っている。




 大介は今後も、多くのピッチャーと対戦していくことになるだろう。

 だが決闘とまで言えるほど、実力が伯仲したピッチャーと対戦することはない。

 戦うのは、己自身と。

 だがそれは今までも、同じことをしていたのだ。


 二人の話は続き、そして過去から未来へと向かっていく。

 そうは言っても大介には、もう果たすべき目標のようなものはない。

 MLBの歴代累計ホームラン記録などは、まだ届いていない。

 だがシーズン記録については、誰も抜けない数字を残している。


 打率ももう、四割打者は出ないであろう。

 ただMLBはNPBよりもよほど、興行的に野球を考えている。

 ピッチャーが有利になるか、バッターが有利になるか。

 それはその都度、調整が入っているのだ。


 今は本来、バッターが有利な時代ではあるはずなのだ。

 実際に大介は、すさまじい成績を残している。

 スタットキャストの分析により、どういったピッチングをしているのかが、詳細に分かっている。

 それを頭に入れて対戦すれば、バッターには有利になる。

 その中で直史のピッチングに関しては、ほとんど唯一の例外のようなものであった。


 いっそのこともう、バッターとしての各種最年長記録を作ってやろうか。

 そうは思っても人間のフィジカルの才能と、老化の速度についてはまた別の問題である。

 どちらかというと長命なのは、ピッチャーの方が多い。

 筋肉の衰えを、経験で補える要素が多いからだろう。

 あと何年、一線で最高級の選手としていられるのか。

 大介には寂しさというものがある。




 直史はしばらくは、弁護士業務について忙しく過ごすだろう。

 ただ今年の指導者資格回復研修には、参加するつもりではある。

 また弁護士以外の仕事も、多く依頼されることになるだろう。

 瑞希が弁護士と二束の草鞋で、色々と執筆活動をしているように。


 もっとも一番大事なのは、子供たちの環境を整えてやることだと思っている。

 これまでは、特にもう小学生の真琴は、直史のスケジュールの都合によって、あまり長くいてやれることがなかった。

 学校にしても転校をしたりすることが多く、通信教育がメインであった、これからは本格的に学校に通うことになる。

 両親に似ずに、人との交流が苦手ではない真琴であるが、信じるのと放置するのは違う。

 環境に慣れるまでは、両親でつきっきりとなる。

 またこの時期を日本でずっと過ごすのは、物心がついてからでは初めてではないか。

 今まではスプリングトレーニングの前に、フロリダへ行くことが多かった。


 ただ直史の両親も瑞希の両親も、孫たちが近くに住むことには大賛成である。

 そのあたり長男の直史と、一人っ子の瑞希では、大介とは条件が違う。

「タケのところも恵美理ちゃん、一人っ子だろ」

「でもあそこはそもそも、両親が家にいないことが多いからな」

 むしろアメリカのニューヨークには良く行くため、そこで恵美理と会うことが多いらしい。


 やがて直史は何をし始めるのか。

 とりあえずのオファーとしては、鬼塚が代理人になどなってほしいなどとは言っていた。

 ただそれよりも深刻なのは、成績が下降気味の岩崎からの依頼だ。

 こちらは今の直史であっても、普通に付き合うことは出来る。

「もう一人ぐらい、子供もほしいしな」

「三人目か。うちもそうだなあ」

 未来は未来でも、野球の未来とは遠ざかっていく。


 ここで野球人としての直史は終わる。

 だが人間としては、平均寿命から考えれば、これからが長いのである。

「頭脳労働はここからだしな」

「ある程度は運動もしておかないと、ぶくぶく太るぞ」

「あまり太らない体質だとは思うが……運動量は維持した方がいいだろうな」

 二人の会話は、別に深刻なものでもない。

 だが聞く者によっては、とても貴重なものとなるであろう。

 同年代に生きた、二人のスーパースター。

 その道はまたしても、大きく分かれることになるのだった。

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