第36話 極めたりこの道

 鬼塚はその外見からはなかなか信じられないが、実は頭脳派の選手なのである。

 そもそもまだ特待生に準じた制度である、スポーツ推薦などが存在しない時代に、甲子園出場が決まって倍率が高くなっていた白富東に、普通に受験して合格したのであるから。

 高校時代は武史や、言語の壁のあるアレクの方がよほど、成績は下であった。

 同学年の主力と言われた四人の中では、間違いなく一番勉強は出来たのだ。


 ただ鬼塚はその性格ゆえに、高校野球の名門には入れそうにもなく、入ったとしてもすぐに問題になるとは、自分でも分かっていたのだ。

 それに大学野球では、高校野球よりもさらに上下関係などが厳しい。

 もちろん武史と一緒に早稲谷にでも行っていれば、実力で周囲を黙らせたのかもしれないが。

 それでも金髪は、さすがに許容範囲外であったかもしれない。


 名門私大や国公立大に余裕で入れる頭脳は持っていたが、高卒からプロ入り。

 挑戦してみて駄目だったら、もう一度大学に入り直せばいい、と考えるぐらいには本当に、頭が良かったのだ。

 名門私大で兄の影に隠れ、ふらふらと遊びまわっていた武史とは、そのあたりの覚悟が違う。

 だが才能は残酷である。

 むしろ才能があったからこそ、武史はこういった人生を送ることになってしまったと言うべきか。


 この対戦がおそらく、現役としては生涯最後の対戦になるだろう。

 いずれはマスターとしてまた、野球をすることがあるかもしれないが。

(しかし全然打てる気がしないんだが?)

 おそらく武史は、鬼塚の知っている人間の中では、もっとも努力をしていない人間である。

 だがそれは、練習をしないというわけではない。

 高校時代からずっと、作られたメニューは黙々とやってきた。

 自分から考えるということはあまりなかったが。


 自分の才能のなさを絶望するわけではない。

 鬼塚よりも才能はありながらも、鬼塚よりも早く球界を去って行った者は、大変に多い。

 才能よりも重要なのは、継続と試行錯誤。

 鬼塚は結局のところ、頭で野球をしていたのだ。

(あと少しはこっちで稼がないと!)

 そう気合を入れても、武史を打てることにはつながらない。


 空振り三振。

 結局樋口を活かすことは出来ず、Aチームの勝利は消えてしまった。

 武史には勝てなかった。だが鬼塚の野球人生が、これで終わるというわけでもない。

(楽しかったな)

 本当に、楽しい時間が、終わろうとしている。

 ほっとした顔でベンチに戻っていく武史は、もう後ろを振り返ることはなかった。




 12回の裏である。

 ここまで見事なまでに、0の数字が並んでいた。

 それでもまだしも、Aチームはランナーをそこそこ出している。

 一点が遠かったが、三塁までは進むことがあったのだ。


 それに対してBチームは、わずかにランナーが一人出ただけ。

 いい当たりはそこそこあったのだが、野手の正面を突くことが多かった。

 直史の投げる試合というのは、敵も味方もバッターの運が悪くなるのか。

 確かに直史は援護が少ないが、それでも負けない。

 勝つのがエースであると思っているからだ。


 そしてこの12回の裏が終われば、試合は終了。

 もうAチームの決定的な勝利というのはない。

 ただ0-0で終わればAチームの判定勝ちとは、九回が終わった時に決めた。

 本当にグダグダなことであるが、それだけ自由であったからこそ、この試合は楽しかったのかもしれない。


 マウンドに登る直史。

 八番の福沢に代わって代打が出るが、ここでも直史は相手を圧倒する。

 11回までに投げた球数は、134球。

 確かに直史としては、無理のない球数である。

 だが故障している人間の投げる球数ではない。


 ツーアウトを取るまではあっという間であった。

 そのアウトカウントを、三振で奪っている。

 これで九者連続三振である。

「本当にあれ、引退する人のピッチングなんですか?」

 Bチームのピッチャーでは、直史の投げているピッチングの論理が分からない。

 簡単に言えば、あえて最良のフォームを崩すことによって、理想的なフォームからとは違う球を投げる。

 それによって他のボールとの差異があるため、空振りが奪えるというわけだ。


 高めのストレートなどというのは、昔であればホームランボールであった。

 だがそれは低めに投げるはずが、高めに浮いてしまった球のことである。

 最初から高めを狙い、その狙い通りのところに投げ込む。

 そういった高めのストレートであれば、バッターは空振り三振するのだ。


 150km/h出ていないボールであっても、空振りを奪うことは出来る。

 目の錯覚というのは、それほどのものなのである。

「二桁連続三振というのは、ちょっとみっともないな」

 小さく呟いた大介が、大きく息を吐きつつ立ち上がる。

 ネクストバッターズサークルからバッターボックスに向かうまで、息を整えて肉体の稼動域を確認していた。


 大介の動体視力と周辺視野は、直史のフォームの変化を捉えていた。

 だがそこまでは分かっても、打てるとは断言できない。

 おそらく分析でもすれば、また話は変わってくるだろう。

 しかしこのぎりぎりまで、直史は切り札を残しておいたのか。

(お前がこの世界から去っていくなんて、どれだけの損失なんだか)

 大介はうんと伸びをして、バッターボックスに入る。

 ついにこれが最後の勝負である。




 ツーアウトランナーなし。

 そしてバッターは五打席目の大介。

 あの重たくて長いバットを、今日も変わらず使っている。

 普通のバットを使っていれば、もう少し対応出来たのではないだろうか。

(そういう問題じゃないか)

 他のピッチャー相手には、ちゃんと通用しているのだから。


 これが最後の勝負である。

 正真正銘最後の勝負になる。

 もしもこの先、直史と対戦することがあったとしても、それはお互いに全盛期を遠く過ぎた状態になっているだろう。

 特に引退する直史は、現在の力を維持することも出来ない。

 ただ、今が本当の全盛期のようにも思える。


 いつ爆発するのか分からない、爆弾を右肘に抱えている。

 だが終盤から延長に入ってのピッチング内容は、本当に不思議なぐらい、打たれる気配がない。

 グラウンドボールピッチャーのはずが、どんどんと連続で三振を奪っていく。

 ほんのわずかずつ、ボールにかける力を変えているのだ。

 それをさらなるパワーを含んだスイングで、掬い上げるのがホームランを打つための必要事項。

 だがそのスイングが全く当たらない。


 数cm単位で、体の各部の動きが変わっている。

 微調整して、ボールの軌道を変えているのだ。

(何種類ものストレートを使って、三振が奪える)

 つまりはそういうことであろう。




 究極のピッチャーというのは、誰も打てないほどのスピードボールを投げるピッチャーではない。

 速い球を投げるというのは、目的のための手段に過ぎないのだ。

 樋口は正面から直史のフォームを見ているため、そのほんのわずかな違いが分かる。

 もしも今、直史からヒットを打てるバッターを選べというなら、それは大介よりも自分だろうな、と樋口は思っている。

 いっそのこそチームをまたいで向こうの代打で、凡退した二人の代わりにバッターボックスに立てば良かったろうか。

 だが樋口は、バッターであるよりはキャッチャーであることを選んだ。

 なので今、こうしているのだ。


 スタジアムに静寂が満ちる。

 わずかに聞こえるのは、人の囁きよりも空調の機会音の方が大きい。

 二人の勝負を邪魔しまいと、応援が止まってしまっている。

 ゴルフやテニスの、プレイが始動する前の空間を思わせる。


 バックを守る選手は、内野も外野も深く守っている。

 ツーアウトからならば、飛んだとしてもランニングホームランにさえしなければいい。

 Aチームは打撃ではBチームに劣るはずだが、守備では交代を繰り返したBチームを上回っている。

 もっとも劣るはずの打撃で、Bチームよりも多くのヒットを打っているのだが。


 観戦する者の多くは、拳を握りしめている。

「お父さん……」

 そう呟く真琴の視線は、直史をしっかりと捉えている。

 瑞希はひたすら、この目の前の現実を記憶に残そうとする。

 単純な記録なら、後からいくらでも映像を見ればいいのだ。

 しかし今、このスタジアムを支配する空気は、スポーツの空間としては静的に過ぎる。

 水を打ったような、というものだろうか。

 実際には、囁き声がざわざわと、空気を揺らしているのだが。




 初球は何を投げるべきか。

 何を投げるにしても、それをどう投げるべきか。

 直史はどんなサインが出ても、それを自分で解釈することが出来る。

 そして樋口が出したのは、初球スルーであった。

 上手く掬い上げれば、スタンドまで届くボールになるであろうに。


 だが直史は頷く。

 どういうスルーを投げればいいのか、もうビジョンが頭の中にあるのだ。

 セットポジションから、普段よりも少し足を上げ、ゆったりと力感のないフォームから、投げられるスルー。

 それに対して大介はスイングしていった。


 このスルーには、当たる。

 だが当てれば、それで勝負は終わる。

 ゴロか、あるいは内野の間を上手く抜けていくか。

 そう判断した大介は、スイングを強引に修正し、わざとボールを空振りした。

 空気を切り裂く音。

 低めに外れたボールだが、樋口のミットには無事に収まる。


 スルーにしては、それなりに減速していた。

 だがスルーチェンジとは明らかに違った。

 伸びるというよりも、普通に落ちていくボール。

 伸びのない、どろんと落ちるボールなど、さほど使い道がないように思える。

 だが直史の手にかかれば、凡打を引き出す魔法の変化球へと価値を変える。




 今のスルーは、リリースの位置を高く変更した。

 フォームもわずかに、オーバースローに近くした。 

 そのためボールに力が伝わりきらず、中途半端にチェンジアップ的な働きともなった。

 ライフル回転もあまりなかったため、減速したというわけだ。


 大介が打っていたら、確かにゴロにはなっていただろう。

 それでも上手く、内野の間を抜けていったかもしれない。

 しかし深く守った内野は、共に守備力に優れている。

 唯一穴と強弁したいのは、不慣れなファーストを守っている蓮池のところか。

 ただ蓮池はその巨体でありながらも、信じられないほどの俊敏さも持っているのだ。


 ともかくこれで、初球でワンストライクとなった。

 ストライクカウントが先行していくと、それだけピッチャーは有利になる。

 二球目には何を投げさせるか。

 樋口のサインを、直史は自分なりの解釈で投げるようになっている。




 直史のフォームがバラバラになっている。

 それでいながら打たれていない。

 バラバラというのはあくまで、見慣れた大介からの視点であり、実際にはほんのわずかずつにしか変わっていない。

 だがそれでも、本来全く同じフォームから様々な球種を投げる直史を考えれば、異常なことだと思うのだ。


 ただ大介は感じている。

 今の直史は、本当に自由なのだと。


 完全にフォームを固めて、完全なコントロールを身につけた。

 それが今はその、完璧さを破っている。

 究極のピッチャーの条件というのは、完全であることではない。

 完全である、という概念からさえも自由であることなのだろう。


 今の直史は本当に自由だ。

 本当なら一球ごとに、コントロールなどがおかしくなっても不思議ではないはずなのに。

 完璧であるということは、逆に完璧に囚われることもない。

 言葉遊びのようなものかもしれないが、直史や大介の感じる事実である。

 直史のように大介も、普通なら打てないというスイングで、ホームランを打ってしまう。

 この二人は結局、同じところにまで到達してしまったのだろう。


 ひたすら固めた基礎の果てに、本当の自由が待っていた。

 目的が決まっていれば、そこまでの過程は本当はどうでもいい。

 天才であり、さらに修練を積み重ねた結果が、自由にいたる。

 もちろんただの素人がこんなことをすれば、それは自由であるはずもなく、フォームがバラバラになるだけである。




 二球目、何を投げるのか。

 自分の予想を上回る直史のピッチングに、大介は期待している。

 戦って勝つことが、大介の目的ではあるはずなのだ。

 しかし戦う相手がどんどんと強くなっていくことに、喜びを覚えてしまっているのも大介の本心なのだ。


 勝利は確かに求めている。

 だがそれ以上に、強者との対決を望んでいる。

 直史がいなくなる今年からは、大介の成績はかえって落ちるのではないか。

 年齢的に見ても、そろそろ衰えが目立ってきてもおかしくはない。


 これが人生で最高の対決となるかは分からない。

 だが今までにあった中で、一番難しい対決とは言えるかもしれない。

 直史の投げてくる球の変化が、明らかに九回のあの打席からは違う。

 正確に言えば、それ以前から、やや兆候は見えていたのだが。


 この試合が最後ということで、直史は力をあまりセーブしていないように見えた。

 何より球数がこの試合は多かった。

 先のことなど考えていないかのように。

 だが終盤、三振を奪いだしてからは、一気に球数が減っている。 

 見せ球すらほとんど必要としていない。それ自体は今までもあったが、この打線を相手にそういったピッチングをしているのだ。


 二球目、直史の投げた来る球。

 それはリリースの瞬間、何か分かった。

 下に外れていくスルーチェンジであり、これもまた打ってもスタンドに持っていくのは難しい。

 大介のバットが止まって、コールはボールである。


 大介だけには、しっかりと見せ球と使ってくる。

 そんな特別扱いが、嬉しくないはずもない。

(さあ、どう投げてくるんだ?)

 三球目のやりとりも、樋口のサインに対して直史は首を振らない。

 そして力感のない動作から、最後の腕の動きだけは高速となる。 

(またフォームが違う!)

 投げられたボールは、リリース直後は大介の内角を攻めてくるように見えた。

 だが速度と比較しても、利き腕側に大きく変化する。


 シンカーにもいくつか種類はあるが、高速シンカーは比較的変化量は少ない。

 だがこれが大きく変化するのは、他にも何か理由がある。

 シンカーに分類されるツーシームにしては、変化量が多すぎる。

 それでも大介はスイングしにいく。


 外角低めに逃げていくボールなら、大介のスイングで打っていける。

 ヘッドを高速で滑らせて、レフト方向にスタンドイン。

 それが出来ると思ったのだが、バットのミートポイントよりも先に当たる。

 大きく回転のかかったボールはレフト側のファールスタンドへ。

 大介の肉体が、そのボールを追いかける本能を拒否してしまった。




 これもまた、コンビネーションか。

 最初のボールの角度からして、内角の懐に入ってくると思ってしまった。

 だが実際には外に逃げていくボールであったため、外への踏み込みが足りなかった。

(140km/hも出てなかったのか)

 大介が見た表示には、135km/hと出ている。

 体感では140km/h台の半ばは出ていたような気もするのだが。


 ともあれこれで、ツーストライクに追い込まれてしまった。

 返球されたボールを受け取った直史は、悪魔のような笑みを浮かべている。

(楽しそうだな、おい)

(楽しいぞ)

 もっと楽しませろ、と大介には聞こえた。


 あと一球になってしまった。

 この一球で、試合が終わってしまう。

 好き放題に投げて、思うが侭の結果を残してきた。

 だがあと一つストライクを取るだけで、試合が終わってしまうのだ。


 最後まで誰にも打たせたくない、という気持ちがある。

 だが同時に、いつまでも終わりたくない、という気持ちもある。

 なのでとりあえず、次には大きく外したスローカーブを投げた。

 明らかにストライクゾーンにも入っておらず、大介がこれを打ったとしても、ホームランには出来ないボール。

 あるいはこれを、カットしてくるかなどとも思ったが。


 悠々と見送る余裕が、まだ大介にはあった。

 確かに追い詰められてはいるが、まだ勝負は決していない。

(ホームランか、三振か)

 意識にあるのはその二つであり、あとはヒットでもアウトでも、どうでもいいだろう。


 次で決める。

 直史と大介の意思が、対決しながらもしっかりと重なりあった。




 ストレートか、スルーか、カーブか。

 あるいはチェンジアップというのもあるのか。

 大介は一度バッターボックスを外して、軽くスイングをしてみる。

 力は入れていないはずなのに、重たいバットが空を切り裂く。

 ジャストミートすれば、スタンドにまでは飛んでいく。それは間違いない。


 九回の打席においても、大介は三振を奪われた。

 あそこからずっと、連続三振が続いている。

 直史の投げるボールの軌道が、全く捉えられていないのだ。

 そして三振を取るための、カウントを稼ぐボールもまた、上手く打てていない。

 厄介すぎるピッチャーだ。


 本当に引退するのか。

 大介が打てば、まだとどまりたいと思うのではないか。

 有限実行は不言実行の男ではあるが、完全に前言を翻すということが、全くないというほど融通が利かない人間ではない。

 ただ今回だけは、もう無理であろう。

 故障という外的な要因があるのだから。


 そんな壊れかけのピッチャーを、結局は誰も打てなかったのだ。

 大介の打った一本にしろ、完全な当たりとは言えない。

 一人のピッチャーが延長12回まで投げて、それで一点も取られていない。

 試合の勝敗とは別に、それはもうピッチャーとしての勝利と言っていいだろう。


 大介が勝てたと言える試合にしろ、とにかく直史は延長まで一人で投げていったのだ。

 あれはメトロズが勝ったのではなく、直史が燃え尽きたのだ、という見方をする人間は多かった。

 実際のところは翌年、直史は問答無用の内容でシーズン途中までを過ごした。

 そしてトレードでメトロズにやってきて、久しぶりに同じチームで時間を過ごしたものだ。




 カウントは2-2で、あと一つボール球を投げられる。

 真っ向勝負をするだろう、などと大介は思っていない。

 汚い手段こそは使わないだろうが、直史は意識の間隙を突いてくる。

 樋口と組んでいると、そういったピッチングをしてくるのが多いのだ。


 ただここは、もう勝負を決めに来てもおかしくない。

(際どいところもカットするぞ)

 だがここで直史は、そんな中途半端な球は投げてこないだろうが。

 サインに頷いた直史が、セットポジションに入る。

 心臓の鼓動がうるさくて、大介はそれを無意識に止めていた。

 少なくとも鼓動の音は聞こえなくなっていた。


 両者の間にある、この距離をどう詰めるのか。

 直史はもう、何を投げるかは決めている。

 このボールは大介は予想しているだろうが、それでも予想を上回る。

 ストレートだ。

 ストレートで空振りか、内野フライを打たせて、試合を終わらせる。

 より強くプレートを蹴り、より深く踏み込み、より近くでボールをリリースする。

 ボールの軌道は、先ほどの三振を奪ったのと同じ、高めのストレート。


 打てる、と大介は判断した。

 ボールの軌道はさらに、高めを落ちずにそのままグラブに向かう。

 だがアッパースイングではないレベルスイングの大介であれば、これぐらいのボールならば打てるのだ。

 バットとボールの激突。

 その一瞬で、勝負は決まっていた。




 ピッチャーとバッターの対決は、何をもって勝利とするのか。

 ホームランを打てばいいのか、ヒットでも点を取ればいいのか、試合中に一点でも取ればいいのか。

 様々な基準で、その勝敗を決定することは出来るだろう。

 だが確実に言えるのは、延長12回まで投げたピッチャーが一点も取られなければ、それはピッチャーの勝利であろう。


 高く上がった打球を、樋口は視線で追いかける。

 だが直史は最後に踏ん張った後、リリースしてからその場に転がってしまっていた。

 それでも素早く起き上がり、高く上がったボールが内野の頭を越えていったのは見て取れた。

 だがその打球の勢いなどがどうなのか、そこまでは分からない。


 センターの織田は、ボールの飛距離を見極めて、前に進み出てくる。

 充分に余裕をもって、定位置近くにまで戻り、そこでグラブを上げた。

 アレクは念のためという感じで、そのカバーに入っている。

 大介は一塁までを駆けていったが、勝負の行方は分かっていた。


 高く掲げた織田のグラブに、すっぽりとボールは収まる。

 連続三振記録は10で途切れたが、これでスリーアウト。

 12回が終わり、共に無得点の無失点。

 0-0というスコアで、試合は終了したのだ。


 直史は立ち上がると、膝や腰の土を払い落とす。

 ベースを回っていた大介は、三塁側ベンチに戻るが、その途中に直史がいた。

「……またやろうぜ」

「機会があったらな」

 ただそれは、どちらもが納得するような、完全な状態ではないのであろうが。


 マウンドに登ってきた樋口に、直史は右手を軽く上げる。

 そこで二人はハイタッチした。

 12回まで延長し、得点は0-0の引き分け。

 そして事前の話し合いどおり、草野球ではあるが事実としては、Aチームの判定勝ち。

 出たランナーの数や、お互いの打線のOPSなどを比較しても、一人のピッチャーがここまで投げきることなど信じられない。

 だが直史は、やり遂げたのだ。


 直史が極めたのは、野球ではない。

 MLBに行ってからはほとんど、打撃には力を入れてなかったのだ。

 ただそれでもはっきりと言えるのは、これで本当にやり切ったと言えること。

 マウンドというピッチャーの晴れ舞台において、直史はやれることを全て成し遂げた。

 それはこの試合だけに限って言うことでもない。

「疲れた……」

「まだぶっ倒れるなよ」

 そう樋口に言われて、苦笑する直史。

 スタジアムからの万感の拍手が、エースに送られていった。

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