第64話 夏の終わり
夏が終わるのはいつであろうか。
暦の上での夏の終わりというのは、はっきりとしている。
社会人ともなれば、明確な基準はないであろう。
学生であれば、夏休みが終わった時が、一番それを感じるのではないだろうか。
あるいは残暑が引いてようやく、夏が終わったという人間もいるかもしれない。
だが少なくとも高校球児にとっては、自分が引退したときか、夏の甲子園が終わった時になるであろう。
この年、夏の甲子園を制したのは、埼玉県の代表である春日部光栄。
秦野としては久しぶりの栄冠であるし、チームとしては甲子園初優勝であった。
準決勝で帝都一を破り、決勝では明倫館を破る。
もしも帝都一が勝ちあがっていたら、かつて息子と同じチームにいた選手が対戦相手ということで、明倫館の大庭にはやりにくい結果になったであろう。
埼玉県の御三家とは言うものの、最近はやや他の二校に押されていたが、無事に立て直した秦野は、やっと白富東以外でも結果を残せたわけである。
普通に甲子園にさえ出れば、充分な結果とは言える。
だが秦野の場合は、期待値が高かったということはある。
スーパースターのいるチームを率いていた秦野は、東京などでも私立のチームで結果を残してはいた。
だが埼玉に行ってようやく、その本領が発揮できたということだろうか。
これまた事務所で決勝を見ていた直史は、祝電ぐらいは打っておこうかな、と思ったりもした。
今時祝電はないだろう、とも思ったが。
甲子園が終わっても、この年は残暑が厳しかった。
そしていつかは必ず訪れるものが、直史の身近にも迫っていた。
それは老いである。
もっとも直史自身ではなく、祖父の老いだ。
考えてみればもう、曾孫が10人以上も出来ている。
アメリカに行っていた直史が戻ってきて、安心したということもあるのだろう。
80歳を超えてもまだ元気であったが、この夏の暑さで体力を失っていってしまったらしい。
また昔の人にあることだが、夏の暑さを甘くも見ていたのか。
家の畑を昼に作業している間、立ちくらみがあって倒れてしまった。
熱中症で入院となったわけである。
熱中症は甘く見ていいものではない。
暑さによって体の蛋白質が破壊されて、前のように動けなくなる場合もあるのだ。
直史の祖父もその類であり、一ヶ月近くも入院して、リハビリもする必要が出てしまった。
こういう時にこそ、金は使うものである。
もっとも祖父の世話は、ほとんど祖母がやってしまったが。
畑の様子を見て、さすがに一人ではどうにも出来ない部分は、他に貸してしまった。
このあたり瑞希にはいまいち理解できないようであったが、実は畑を持っていても、使っていない農家がそれなりにある。
特に田んぼは持っているだけで、政府からの金が入ってくる。
前から気にはなっていたのだが、直史は一度自分の家の資産、特に不動産というのを、改めて確認したりした。
山が三つほどあって、それが全て二束三文である。
戦後すぐの頃などは、もっと山を持っていたらしいが。
農地改正で田畑はそれなりに取られてしまったが、山地は対象外。
戦後すぐの頃であれば、林業などで大きな価値があった。
その時点で売ってしまったのは、割と良かったと言えるだろう。
バブルの頃にも、別荘地にすべく一部は買われていった。
さすがにその頃には、林業も衰退していったので。
現在ではそういった山地には手が入らず、間伐なども行われていない。
祖父などは山に入っては、それなりに枝打ちなどもしていた。
だが父はそういった技術までは継承していない。
これだけがきっかけというわけではないが、直史は父と一緒に、狩猟免許を取得することとした。
なお祖母も既に持っている。
狩猟といっても銃ではなく、罠猟の免許であるが。
この辺り一帯はまだしも、千葉県ももう少し南に行くと、害獣による農作物荒しが馬鹿にならないのだ。
そういう点では同じ白富東の野球部の後輩であった耕作などは、農業法人を作っただけではなく、自分では猟銃免許も取ったらしい。
ただしまだライフルは持てないので、猟銃だけで害獣駆除は難しいらしい。
直史は考える。安定してこの地域を守る術を。
自分の代はどうにでもなるが、農地や山林というのは、上手く継承していかなければいけない。
ここのところは木材の需要などが、また上がってきたりもしている。
なので山林の再開発というのは、ある程度必要なのだ。
(意外と林業に関しても、やっておくべきことはあるんだろうけど)
さすがにそこまでは手が回らない。
だから他に手を雇うため、会社を作ろうかなどと考え始めている。
直史には経営の知識はあまりない。
もちろん企業の法務に関しては、かなりの専門知識がある。
だが実際に人を動かしていくのは、そして組織を経営していくのは、他の人間に任せた方がいいだろう。
そして実際に、その心当たりもある。
放棄された農地などを、まとめて開発してしまう。
さすがにそのあたりは専門家ではないが、農業の専門家ならしっかり顧客にいるのである。
農業法人のついでに、山林の管理もしてもらおう。
もちろんそこからの利益は、働く人間が受け取っていくべきだ。
結局、直史はただ弁護士の仕事をするだけでは、人生が満足しないようになっているらしい。
「というわけで金出さないか?」
『また急な話だな、おい』
日米の時差を考慮して行われる、大介との会話。
『つっても俺の資産管理、やってるのは二人だからなあ』
それは直史も知っていることである。
ツインズは大介の健康管理やマネジメント、また資産運用などの全てを、二人で行っている。
二人いるからこそ、出来る技であるとも言えるが。
単純に数字を転がすだけなら、二人には金儲けの才能がある。
だがそれをどう使うのかは、二人はあまり考えていないのだ。
MLBにいったプロ野球選手の中には、自分の試合実績に従って、寄付などをやっている選手もいる。
善意はもちろんあるのだろうが、欧米ではそういった寄付が、かなりの税金対策になったりもするのだ。
ツインズもそれなりに手を出しているのかもしれないが、直史は全くそういったことに興味はなかった。
アメリカの社会に還元するつもりがなかったのである。
もっともアメリカのスーパースターはスポーツ選手に限らず、そういった感じで寄付をすることで、イメージ戦略を打っていたりするのだが。
ただそういうことをしていたイリヤも、歪んだファンによって殺された。
直史としては単に金を稼ぐだけなら、セイバーはいなかっただろうな、と思っている。
知りうる限りにおいて、一番金を増やすことに長けているのが、セイバーである。
それはツインズをも上回り、いまやMLB最大の金満球団の共同オーナーとなっていたりもする。
だが単に金を稼ぐだけなら、そんな面倒なことはせずに、市場の動きにだけ注意していればいいのだ。
数字を動かして金を稼ぐだけ、というのはなんだか悪し様に聞こえる。
実際セイバーも、それだけでは満足できないから、球団経営などをしているのだ。
金というのは稼ぐのではなく、使うことによって初めて意味を持つ。
直史の提案はお願いではなく、まさにビジネスであったのだ。
「お前の許可を取れば、二人を説得する必要はなくなるからな」
基本的にツインズは、大介の気分をよくするためだけに動く。
身内の範囲が広い直史とは、そのあたりが違う。
前年に桜が、百合花を産んだことで、養子を含めて六人の親となった大介。
実は椿がまた妊娠中で、七人目の出産が今年中にある。
一人で少子化を打破せんとする勢いであるが、一人は養子で嫁が二人いるので、実質的には三人ずつと考えてもいい。
それほど驚くべき数ではないであろう。
ただ男の子は長男の昇馬だけで、その後はずっと女の子が続いていた。
今の椿が妊娠している子は、ようやく男の子で次男となる。
野球チームを作るのは、ちょっと難しいかもしれない。
ツインズにとっての身内とは、大介と子供たち、それに両親と祖父母を除けば、直史ぐらいとなる。
武史も身内だが、ほとんど子分扱いだ。
そんなツインズは一般的には、婚姻関係の奔放さもあって、リベラルな人間に思われることも多い。
実際のところはガチガチに保守的なところもあるのだが。
生まれ故郷にはあまり執着はない。
だが大介の方が、逆に実家を気に入っている。
大介こそ東京のアパートで生まれ、母の実家は伯父夫婦が主に住み、母の再婚先ともあまり交流がない。
彼の原風景にある故郷は、直史の実家のような場所なのだ。
日本人の原風景とも言える場所を守りたい。
そこまで感傷的なことを、大介が考えたわけではない。
だが大介にとっての故郷とは、そこであるのだ。
最も輝ける青春時代を送った、この日本の片隅に。
別に金を稼ぐことが目的ではなく、既に一生を贅沢に暮らすためのものはある。
ならば自分の満足することに、金を使ってもいいではないか。
直史はカリスマはあるが、人の上に立つタイプではない。
人の上に立つにしては、本人が動きすぎるのだ。
その点ではやはり、上杉のような人間の方が、偉大であると言ったほうがいいであろうか。
同じく大介なども、腰の軽いところはある。
だが人間は逆に、先頭に立って進んでいく人間に、ついていくという習性もあり。
直史はこれまた、先頭に立つ人間でもない。
先が見通せるため、無理筋の道を開拓しようとは思わないのだ。
それでも人間は、先頭に立って進む人間がいるからこそ、ここまでやってきたのだ、とも言える。
直史に出来るのは、それを手伝うことまでだ。
またブレインとしてハブとして、人と人とをつなげることは出来る。
だが最後には、現場を知っている人間の熱意に、人は動かされるものである。
『いいんじゃね?』
大介はあれだけの大金を得ながらも、特別に贅沢をしようとは思わない。
そもそも大介にとって一番重要なのは、ずっと野球が出来ることなのだ。
なので食事に金もかけないし、夜更かしもあまりしないし、ギャンブルなどもしない。
ただまた、馬主にならないかという話は来ているらしいが。
そういったものに金を使うなら、普通に故郷のために金は使いたい。
もちろんこれは本格的に話が進んだらのことであり、計画段階で無理になる可能性もある。
先に出資人を探しておくというのは、直史が社会人として過ごした中で、身につけた知識である。
本当は銀行の出資などを受けてもいいのだが、直史は基本的に自分で出来ることは自分でやってしまう。
あまり言われたことはないが、実はせっかちな直史である。
夏休みが終わって、高校野球は秋季大会の本番となる。
県大会本戦が始まって、ここから上位2チームが、東京を除いた関東大会に出場することが出来る。
甲子園を制した春日部光栄であるが、意外と甲子園で燃え尽きてしまった、この秋の大会で途中敗退することは珍しくない。
また他のチームもかなり甲子園で勝ちあがっていると、新チームの編成は遅れることとなる。
主力が変化するということもあるが、春から夏の成績はさほど変わらなくても、夏から春の成績が変わるのは、そういったことも理由である。
日の長い日々は、まだ夏の名残を存分に感じさせる。
残暑が厳しい中、九月が始まって高校生は二学期が始まる。
その直前には直史は、またも白富東を訪れていた。
引退してから改めて思う。プロ野球選手は拘束時間が長いと。
NPBの方が拘束時間は長かった気もするが、実際はMLBの場合、移動時間が大変に長かった。
弁護士などをやっていると、もちろん急な対応もありうるし、案件を多く抱えれば忙しくはなる。
だがその気になって時間を作ろうとすれば、作れなくはない。
直史も瑞希もそうであるが、顧問になっている相手以外は、ある程度顧客を選べることが出来る。
もっともそれは弁護士としては珍しいことで、昨今の場合仕事は取り合いになっているのだが。
弁護士の出来る仕事は、かなりの広範囲に渡る。
なのでそれらを忘れないように、しっかりと仕事もする。
だが仕事に引きずられて、己の生活が破綻することは避ける。
富を蓄積した人間というのは、そういった余裕があるのだ。
今年の夏も白富東は、甲子園への切符を掴むことは出来なかった。
だが秋季大会は県大会本戦出場は決めていて、ここからどれだけ勝てるかが問題となる。
センバツに勝ち進むには、正直厳しい戦力だ。
だがやってみなければ分からないというのも、高校野球では確かなことなのだ。
ピッチャーの継投と、しっかりとした守備。
これによってまず、守りを重視するのがスタンダードな高校野球だ。
そして白富東も、その例に洩れない。
ピッチャーの育成は、一番大事である。
守るポジションにおいて、ピッチャーは一番ボールに触れる頻度は多いのだ。
ただ新しいチームでも、エースと確実に言えるような選手はいない。
なので全体を、少しずつ底上げする。
一年生から新たに、ベンチ入りのピッチャーを選出する。
その中には直史が注目していた、細川もいた。
フォームはほとんどサイドスローになっている。
そこから投げるストレートが、意外と打たれないのだ。
相変わらず球速は出ないが、それでも120km/hほどは出ている。
そしてそこから投げる、スライダーが特に右打者には効果的なのだ。
左打者に対しても、外角のボールゾーンからストライクゾーンに入ってくるボールは、キャッチャーの位置でストライク判定されやすい。
左右の変化というのは、高校野球の審判のレベルであれば、ミットの捕球位置で判断することは珍しくない。
なのでこの変化というのは、なかなかに面白いものとなる。
ストレートとスライダーと、あとは遅い球か。
カーブは上手く抜けなかったので、チェンジアップを練習している。
指が長いので握りこむだけで、球速はしっかりと落ちている。
ただし変化量はそれほど差がないので、キャッチャーやベンチによる配球が、実戦での課題となる。
紅白戦を繰り返したところ、課題は出てきた。
そのキャッチャーの問題である。
今の白富東には、キャッチャーが三人いる。
二年生が二人に、一年生が一人だ。
単にブルペンで受けるだけなら、他にもいる。
しかし専門的にやっているのは、この三人なのである。
三人いれば充分だろうと直史は思うのだが、この二年の二人のどちらかを使うかが、それなりの問題となっているのだ。
一方はキャッチャーという専門職に忠実な、打撃にはあまり期待できないタイプ。
肩もそれほど強くはなく、本当にリードだけで勝負しているタイプなのだ。
そしてもう一方は、打撃も肩もあるが、あまりリードを難しく考えていない。
白富東の現行の、多数のピッチャーを使って勝つという体制であると、キャッチャーが上手くピッチャーの力量を引き出していかなければいけない。
だがそのためには、打撃に劣る一枚を、打線の中に入れておかなければいけないのだ。
どちらがいいだろうかと言われても、直史としては戦略を考えるなら、リードの上手い方と答えるしかない。
そして打てるバッターならば、他のポジションにコンバートした方がいい。
キャッチャーをコンバートするなら、ファーストか外野がいいだろう。
特に守備が上手いというわけでもなく、フットワークにも秀でたところはないので、セカンドの守備力に期待して、ファーストのフォローもさせる。
「本人にキャッチャーへのこだわりがあるんだよなあ」
「けれどキャッチャーとしての負担がなくなれば、バッティングに集中できるんじゃないですか?」
「それもそうなんだよなあ」
チームとしてはよりバッティングで貢献してくれた方がいい。
「しばらくは交互に使って、ファーストへのコンバートも視野に入れておくべきだろうな」
新しいチーム作りに、北村は大変そうでありながらも楽しそうであった。
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