第65話 秋風の季節

 夏の名残が残ろうと、もう秋の気配が見え出している。

 この年は直史にとって、年初めから最後の引退試合に向けた、特別な年になるのは分かっていた。

 生活も日本が基盤となり、ある意味安定してきている。

 住居はアメリカ時代に比べると狭いものであるが、それも親子四人で暮らすには充分すぎるものだった。

 しかしそれでも、祖父の具合は悪くなっていく。


 人はいずれ死ぬ。

 小学生の頃には誰しもが、一度は思う死への恐怖。

 直史の場合は実家にいた頃は、集落に仏さんが出ると、普通に数珠を持って葬式に参加したものだ。

 なので比較的、人が死ぬということに対して、耐性はある。

 それが肉親であっても。


 祖父の死は、むしろ病状が良化してきたのでは、という時期に突然に訪れた。

 夏の暑さも乗り越え、涼しい秋となる。

 次は冬の寒さが問題かな、と思っていた矢先のことであった。

 連絡を受けた直史は、さすがに沈痛な面持ちで、黒い喪服を取り出した。

 同じように瑞希も、喪服となる黒いドレスを着る。


 子供たちは連れて行って、他に任せておかなければいけないだろう。

 武史もツインズも、とても帰っては来れないが、直史がいるだけでもタイミングは良かったのかもしれない。

 直史が戻ってくるまで、待っていたのか。

 だがこの夏が始まるまでは、普通に元気でいたのに。


 さすがの直史もショックではあったが、祖母は気丈であった。

 喪主は直史の父が務めていくが、実際の葬儀の手配は祖母がやっていく。

「私の時には、しっかりやってくれないとね」

 矍鑠とした祖母であるが、確かに年齢的には、もうそれほどの時間は残っていないのであろう。




 瑞希にとっては驚きであったが、直史の実家あたりでは、普通に葬儀は家で行うだけの広さがある。

 葬儀の手順はしっかりと分かっていて、葬儀社の出てくることはあまりない。

 もっとも檀家の寺とのつながりはあるので、そこでしっかりと金はかかる。

 いずれは直史も、いくつもの喪主を務めなければいけなくなるのだろう。

 あるいは祖父の弟である大叔父などは、こちらの墓に入ってくることを望むのだろうか。


 あちらはあちらで、確か家を建ててはいる。

 だが墓はこちらになっているのではないか。

 墓地はまだ土地が余っているので、作れなくはない。

 盆に墓参りに来て、実家によって行くぐらいなら、丁度いいと思うのだ。


 別にアメリカでも、死に触れなかったわけではない。

 だが真琴や明史にとっては、初めての身近な人間の死である。

 ほとんど年末から年始にだけ会う間柄であっても、曽祖父にはなる。

「直史さんは、ちゃんと曾孫さんまで見せたからねえ」

「会えない時でもずっと、テレビでは見てたから、寂しくはなかっただろうねえ」

 田舎の葬式はここでも、女は立って料理や酒を運び、男は座って故人を偲ぶ、というのは表向きの姿。

 連れ合いを亡くした祖母以外は、台所でおしゃべりをするのが通常である。


 突然ではあったが、兆候はあったのだ。

 最後までどうにか、寝たきりになどはならずに、子供にもほとんど迷惑をかけずに逝くことが出来た。

 祖父の死に顔は安らかというか、本当に魂が抜けたかのようなものであった。

 死因としては心不全であるらしいが、遠因はあの熱中症にあったのだとは思う。

 だが苦しまずに済んだのなら、それが一番良かった。




 霊柩車で火葬場に運ばれる。

 最後のお別れをして、祖父が焼かれる。

「真琴、明史、ひい爺ちゃんにさよならだ」

 真琴は珍しくも、体を硬くして曽祖父を見送った。

 それに対すると明史は、まだしも淡々としていたであろう。

 まさか早熟な彼が、死について分かっていないとも思えないのだが。


 直史はそのまま、火葬場で待っていた。

 子供たちは一度、実家の方に戻る。

 両親と祖母のみが、直史と共にそこに残っていた。

 ぽつりぽつりと、祖父の思い出を話していく。


 葬式は死者にとっては、もう何も感じることのないものである。

 残された遺族にとってこそ、これは大切なものなのだ。

 やがて時間となれば、焼きあがったお骨が出てくる。

 直史は以前に、親戚の葬儀で見たことがあるが、瑞希は初めてであったらしく、少し震えながら直史の袖を握っていた。

 もう一方の袖は、真琴が握っている。

 しっかりと立っている明史を見て、直史は頼もしく思った。

 もっともまだ、この火葬の現実を直視するには、人生経験が足りていないのかもしれないが。


 焼かれた骨は、本当に真っ白になっている。

 骨壷に入れるのは全てではなく、体の各所から満遍なく取って行くのだ。

 最後には手を合わせたような、のど仏の骨を入れて、残りの骨は捨てられる。

 もちろん雑に扱われるわけではなく、しっかりとそういう場所があるのだが。


 佐藤家の墓場は、山の中腹にある。

 そこにはずっと昔の、まだ土葬をしていた頃の、木製の墓もわずかにあったりする。

 だがそこに骨を納めるのは、まだ少し先の話。

 四十九日が終わるまでは、骨は仏壇の前に置かれる。


 とりあえず葬儀が終わった縁側で、直史は吸ったこともない煙草を、吸いたいような気分になっていた。

 いずれ人は死ぬ。自分や真琴より、祖父母や両親が先に死ぬのは、自然なことである。

 真琴が先に死なずに、本当に良かったとは思うが。

(もう少し、先だと思ってたんだけどな)

 そして直史は、弁護士として現実と対峙することとなった。

 



 さて、死人が出ると当然ながら、遺産相続が問題となる。

 実際のところ直史の父親は、三人兄弟の長男。

 下にいるのが妹と、弟という順番である。

 この妹というのが、淳の母親であったりする。

 祖父には兄弟がまだ存命であるが、特に遺産相続には関係はない。

 ただ形見分けで、故人の持ち物の中で、思い出深いものがあれば、持っていってもらってもいいだろう。

 価値のあるものは、ちょっと話が変わってくるが。


 一応祖父は生前に、遺産は祖母と直史の父に、全て渡すようにと遺言書を書いている。

 縁起でもないものではあるが、練習として一通り書いてもらったものだ。

 この田舎では基本的に、長男が全てを相続する。

 ただそれは土地などに関してであって、相続税が発生した場合などは、いささか話が変わってくる。


 いかにも田舎という感じもするが、実のところ孫が生まれたタイミングなどで、それなりの金銭は渡していたりする。

 また遺産を金にするとしたら、不動産などを売らなければいけない。

 そこまでして権利を主張するかというと、しないのが田舎の風習である。

 少なくともこの兄弟は、それで納得している。


「ただまあ、お父さんの形見分けぐらいは、何かほしいけど」

 そう叔母が言ったので、故人の遺品を色々と整理する必要はあるわけだ。

 一応は素封家としては知られていたが、それも農地改正でかなりの農地を取られてしまった。

 そして山林などを相続しようものなら、その管理が問題となる。

 遺産を相続するというなら、そういった問題も相続するとなるわけだ。

 ただ最大の相続者である祖母が、何も言わないので問題はない。


 田舎なので土地や田畑、山林はそれほどの評価額にはならない。

 また屋敷も相当に古いので、むしろ更地にした方が価値は高くなる。

 そういった全てを考えると、やはり長男に全て引き受けてもらった方がいいのである。

 祖父にしても家や建物は、長男として全て相続をしていた。

 ただ独立する時になど、ある程度の金銭の援助はされていた。




 自分もまた、一人でこの土地を守るのだろうな、と思う直史だ。

 大介などは案外、この辺りを終の棲家にするかもしれないが、おそらく武史はアメリカから帰ってきても、東京に住むのではないか。

 妻である恵美理が、一人娘だということもある。

 ただこのあたりは、むしろ直史や大介の子供世代で、遺産相続は揉めそうだ。


 葬儀の間もおとなしくしていた明史は、とりあえず頭がいいことは確かだ。

 ただ真琴が何かをしたいというなら、それを援助してやるつもりはある直史である。

 明史が将来どう考えるか、それはさすがに分からない。

 直史はここで育ったから、ここで死ぬのだろうなと考えている。

 しかし明史がここを訪れるのは、あくまでも田舎という意識が強いだろう。

 なんなら瑞希の実家の方が、ここよりは今のマンションから近いぐらいだ。


 別に金には、さほど執着はしていなかったつもりの直史である。

 だが金があると、それなりに出来ることは増えてくる。

 子孫に美田は残さず、などという格言もあったりする。

 だが今の世の中では、田畑を子供に残すというのは、むしろ責任の押し付けのようにも思える。

 世界情勢が変化すれば、第一次産業の立場は大きく復権もするかもしれないが。


 とりあえず遺産相続は、問題もなく終了した。

 金がさほどないことはもちろん、金に困っている親戚がいなかったことが、揉めなかった理由ではある。

 もちろんいざとなれば、直史が立て替える形で、父を飛ばして一気に相続するということも考えていた。

 幸いにもそんな選択は取らずに済んだわけである。




 遺産相続が終わってから、ようやくツインズの片割れである、桜が先に帰ってきた。

 シーズンも九月に入っていたので、MLBもいよいよレギュラーシーズンは終了に近い。

 なので二人が一緒に帰ってくるということは、避けたためである。

 いや、それはそれで、椿一人で大丈夫なのか、という話も出てくる。

 なにしろあちらも、そろそろ出産が近い。

 椿としては昇馬以来の、二人目の出産となる。


 しかし椿は男の子ばかり、桜は女の子ばかりと、上手く産み分けたものだ。

 ツインズはともかく、大介は七人目の子供となる。

 もっともツインズは、自分が産んだ子供であろうがなかろうが、関係なく育てているが。

 なにしろ遺伝子は一緒なのだ。


 ツインズが揃っていないということで、桜はやや落ちこんでいるようであった。

 二人にとって祖父は、優しいお爺ちゃんであったのだ。

 アメリカなどに住んでいると、こういう時に困ったことになる。

 だが直史が日本に残っていてくれるということで、下の兄弟たちは存分にアメリカで暴れられるのだ。


 仏壇に手を合わせて、南無南無と唱える桜。

 椿の分は念仏するが、武史の分は知らない。

 ともあれおよそ半年以上ぶりの、実家への帰郷である。

「大介の調子はどうだ?」

 そして直史が尋ねるのは、やはり大介の成績のことであったりする。

 去年までと比べると、やや打撃成績は落ちている。

 そもそも去年まで直史がいたと言っても、地区もリーグも違うので、レギュラーシーズンではほとんど当たらない。

 なので今年の大介は、やはり不調ということなのだろう。

 打撃三冠では、トップを走ってはいるが。




 大介の成績が、去年までの自分と比較して、落ちている理由。

 それはやはり、意識する存在が消えてしまったからであろう。

 もっともそうなってもいまだに、打撃タイトルは独占する勢い。

 おかしい。


 ブリアンの他にも、バッターでは大介に対抗するような選手が、少しは出てきている。

 もちろん実際は、これからに期待という程度で、全く追いつけていないのだが。

 しかし大介を苦しめるピッチャーは、左の大きなスライダー使い以外は、全く現れない。

 そんなサウスポーに対しても、ヒットを打つだけなら右打席にスイッチしてしまえばいいのが、今の大介である。


 大介のことを思い出すと、同じく祖父を亡くしているな、ということも思い出す。

 あれは高校生の時で、大介の高校在学中の、唯一のスランプらしいスランプの時期と重なった。

 まだ高校生であったということもあるが、メンタルはスポーツのパフォーマンスに大きく影響する。

 考えてみれば大介は、両親がそれぞれ、既に別の家庭を持っている。

 帰る場所というのが、そもそもないのだ。

(まあ伯父さんの家はあるんだろうけど)

 義理の姉妹に、母親の違う弟。

 あそこも色々と複雑だな、とは思う直史である。




 大介が将来的には、日本に帰ってくる気があるのか、直史は桜に聞いてみた。

 そもそも大介自身が、最後の一年はNPBに帰ってきたい、とは言っているのは色々なところで明らかなのだが。

 それは別にリップサービスでもなく、本気の気持ちだ。

 大介は大金持ちではあるが、それでもアメリカの負の側面をしっかりと見ている。

 遠征であちこちを巡っているため、アメリカの大都市にはたいがい、日本にはないようなスラムが存在するのを知っている。


 アメリカは貧富の格差が日本よりもはるかに大きく、そしてその両者の間を物理的に遮断していたりする。

 だがそれでも、いわゆる貧者による銃撃事件などが、それなりに頻繁に起きている。

 銃弾というのは、椿であってもどうにもならない、人間の命を簡単に奪ってしまう存在だ。

 そんな国にはいたくはないな、というのが大介の考えであるらしい。


 実際のところ、アメリカ社会はとんでもない差別社会だと、直史も実体験で分かっている。

 白人と黒人の差別問題から始まっているように見えるが、今では被差別人種であった黒人による、アジア人差別なども大きな問題だ。

 もっとも結局は、金を持っているかどうかが、アメリカではステータスとなる。

 その意味ではある意味、公平ではあるのかもしれない。

 スタート地点が大きく違うので、納得する者は少ないだろうが。


 大介も思えば、幼児期はともかく途中からは、母子家庭であったのだ。

 ただ父親は大介に、スポーツの才能という遺伝子を残してくれた。

 そしてものすごく運のいい出会いが重なって、今は世界の頂点を争っている。

 直史はもう、その争いからは降りた人間だ。

 スポーツ選手が活躍できる年齢は、バッターは40歳を少し超えたあたりが限界であろう。

 その後に果たして大介は、一体何をするのであろうか。




 あまり考えたくはないことではあるが、逆にそんな心配はいらない今だからこそ、話しておくべきことはある。

 ただ出来れば、武史に椿もいた方がいいのだが。

「この実家周りの土地とか山林って、全部俺が相続するってことでいいよな?」

「あたしはいいと思う」

 桜としてはこの周辺の土地などの評価額は、たいして大きな金額でもない。

 もちろん大介の資産運用をしているからこそ、金銭の価値がバグっているということはあるだろうが。


 直史はMLBで稼いだ金で、普通に先祖代々の遺産を維持することは出来る。

 だがいずれはそれも、不可能になっていくのかもしれない。

 自分が生きている間のことはなんとでもなるだろうが、子孫はどうしていくのだろうか。

 そこまで考えなくてもいいのではないか、などと桜は思うのだが、直史は田舎の長男としての責任感が強すぎる。

 ただそれは強迫観念とはならずに、普通に直史の人格形成の一部となっている。


 出来れば法人でも作って、佐藤家のものではなくなったとしても、この景色を守って生きたい、と考えるのが直史である。

 そのあたりは、どうせ嫁に行くのだから、と育てられた桜には、共感することは出来ない。

 だが感情では分からなくても、理屈として想像することは出来る。

 日本は先祖代々伝わってきた、というものを大切にする文化だ。

 直史のような人間がいないと、文化遺産といったものは霧散してしまうのだろう。

 アメリカにもそういった人間はいて組織があり、だいたい寄付などで成立したりもしている。


 日本は観光地としては、とても優れているのだ。

 ただそれにも、よしあしはあると思う桜である。

 ニューヨークもその市内の区域で、大きく治安が違う。

 イリヤが撃たれたのは、その中でも安全な場所であったはずだが。


 だいたい移民が集まると、治安が悪くなるのがアメリカである。

 もっともその移民の力によって、世界の頂点に立っていたのもアメリカなのだが。

 直史や自分たちのような、どこかが突出した人間がいる間に、何かを成しておくべき必要は認める桜である。

 だが直史はどうでもいいことだが、自分が特別な人間であるということは、頑として認めたがらない人間であった。

 

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