第73話 構造
直史は本気で、高校時代は自分はプロでは通用しないと思っていた。
甲子園の決勝で、事実上のパーフェクトを達成しながらである。
なぜなら秦野の采配などを見て、それが一発勝負に最適化されていたものであったからだ。
そしてそれは高校三年間、バッテリーを組んだジンも同じような感じであった。
セイバーは基本的に、直史が無理をしないメニューを作っていた。
結局高校時代は、MAXでも145km/hに届かなかったのだから、そう判断してもおかしくはない。
ただ体格を見て、フィジカルを強くしたら、通用するはずだ、と思っていた人間もまた多かった。
ジンの父である鉄也などは、フィジカルなど関係なく、直史ならプロでも通用するとは思っていたものだが。
大学時代に球速を上げてようやく、プロでも出来るかもな、とは思うようになった。
だがプロからの調査書が届いても、プロ志望届は出さず、完全に勉学に専念した。
以前と比べれば簡単になったとはいえ、それでも司法試験は日本の文系試験の中では最難関レベル。
それに全力を尽くすことと、プロで成功すること。
どちらもそれなりに難しいことではある。
だがプロの世界はピッチャーであれば、骨が一本折れただけで、もうどうにもならなくなるのだ。
リスクとリターンを考えた場合、どちらの方が人生においてリスクが少ないか。
直史はちゃんと、勉強をした上で、司法試験には通ると思った。
また直史は、自分の体はそれほど、強靭ではないとも思っていたのだ。
上杉などと違って、自分には岩崎や武史にアレクといった、他に頼れるピッチャーがいた。
それと比較して年間143試合もあるプロの世界は、厳しいと思うのは当然であったのだ。
実際に直史は、怪我によって引退となった。
元々引退の年のつもりではあったのだし、ここで引退することによって、最後に祖父にそれなりに会うことが出来た。
なのでやはり、自分は野球選手には向いていなかったのだ。
そう思いながら、鬼塚と話すことになる。
直史による交渉結果に、鬼塚は満足していた。
また迫る選手生活の終わりに向けて、球団と話したことも伝えられた。
「うちはまあ、無駄遣いもしないし、嫁さんがしっかりしててくれたんで、一応子供を私立に行かせるだけの貯金はありますね」
「それと、将来的にはアマチュアの指導者になりたいんだったか」
「そうっす。ほら、俺も中学時代は、あんまり認められることがなかったから」
そのあたり直史と鬼塚は、全く理由は違うが、不遇ではあったのだ。
鬼塚はアマチュアの中でも、その入り口となる高校生ぐらいまでの指導者をやってみたいと思っている。
直史が受けたような、指導資格回復の手続きをすれば、それは問題はない。
「お前、地頭はいいんだから、トレーナーとしてどこかに修行に行ったらどうだ?」
直史はあくまで、臨時コーチとして口を出しているだけである。
しかし鬼塚の言葉によるならば、常設のコーチか監督をやりたいということだろう。
今の鬼塚であれば、無闇に大人に反抗しようとは思わないであろう。
ある意味においては、賢さを手に入れたのだ。
だが過去の野球指導者は、この20年ほどを見ても、明らかに時代錯誤であった。
またそういった指導者が、今でも残っている場合が多い。
鬼塚のやろうとしていることは、つまるところ復讐なのかもしれない。
合法的で、子供たちを傷つけず、これからの野球の未来のための復讐。
あまりにもまっとうすぎて、復讐という言葉を使うことさえはばかられるような。
軍隊的な教育と、スポーツは違うのだ。
それはアメリカで野球をやっていた直史は、かなり感じたことである。
直史は保守的な人間である。
だが保守的であるというのは、変化を忌避するというのとは違う。
またアメリカという社会を経験しているため、保守的であることがいいとも悪いとも、それだけでは考えていない。
個人的には軍隊教育は嫌いだが、実際の軍隊では軍隊教育がなされている、という現実は知っている。
また正しく運用するなら、軍隊教育であっても人材の育成は出来ると思っている。
もっともそれは、脱落する人間がいることを、考慮してのものであるが。
なにせ軍隊というのは、本当に命に関わるので、妥協というものが出来ないのだ。
そして軍隊に関わらず、命に関わる分野では、軍隊的な要素が多かったりする。
たとえば医者なども、ハラスメントは多いと言われる。
それは医者という職業が、命を預かるがゆえに、精神的にタフでないといけないからだ。
同じように警察などはメンタルが強くなければ、犯罪者を取り締まることなど出来ない。
ある意味で軍隊教育で通用するような人材は、ハラスメントに耐えられるので、それだけで有利とも言える。
もっとも警察や自衛隊などは、その採用課程において、メンタルを試されることが多い。
他には直史であれば、司法修習では検察などは、かなりハラスメントの要素が強かった。
あれは犯罪を立件するということ、つまり下手をすれば一人の人間を社会的に殺すということがあるからだ。
そして殺されまいとする、犯罪者とも戦うことになる。
プロでこれだけの年月を戦ってきた鬼塚は、それだけで充分に、精神力は秀でていると言えるだろう。
日本の野球は、戦時中の軍事教練の一環、というものがずっと長く影響していた。
これは戦時中、今は野球などしている場合でないという意見に対し、大学などが野球をする正当性を示すための、方便でしかなかったのだ。
だが戦後の野球においては、普通に戦地を経験していた指導者が多かったため、戦争のノリでスポーツを教えていった。
これは別に野球だけではなく、他のスポーツ全般にあると言えよう。
逆に軍隊的要素が少ないスポーツは、極めて技術に特化したものであるか、戦後しばらくは日本であまり行われていなかったものであると言える。
野球は甲子園信仰が強すぎた、ということもこの傾向を長らく保った理由となるだろう。
そしてまた、苦しむことによって強くなる、という信仰も、長らく続いた。
皮肉にも高校野球で甲子園を目指すにおいては、そんな精神論だけではやっていられない、と気づいてからは改善が見られる。
重要なのは選手を苦しめることではなく、育成して試合に勝つことなのだ。
これが大学野球では、体育系の体質が強く残ることの理由とも言えるだろうか。
大学野球は一部二部の入れ替えなどはあっても、目指すものがさほど大きくない。
全日本と神宮はあるが、その価値は甲子園に比べればたいしたものではないのだ。
甲子園の出場が最重要ともなれば、前提となる練習が変わってくる。
またプロ野球にしても、勝たなければ人気が出ない。
もっともプロ野球はプロ野球で、長らくタイタンズ一強、それにライガースが続くというセ・リーグ人気の時代が長かった。
だがネットワークの拡大によって、キー局を持たない球団の試合は見られるようになり、また野球以外のスポーツへの嗜好も強くなり、純粋に強いチームが応援されるようになっていった。
勝たなくてはいけない。
そのために学んでいけば、旧来の指導法では限界があると、やっと気づいたのだ。
なおいまだに、気づいていない者はいる。
指導者に必要なものは何か。
そんなもの、直史は分かっていない。
最低限の技術さえ、実は必要ではない。
セイバーなどはその技術の部分を、コーチ陣という外注で賄っていたからだ。
指導者には、一つの正解の形があるわけではない。
また教える側にでも、全て通用するやり方があるわけではない。
しかし鬼塚なら出来るだろうな、と直史は思っている。
なぜなら鬼塚には、熱量があるからだ。
セイバーは経営者ではあったが、指揮官ではなかった。
そのため彼女の指揮下では、運の要素が大きく絡んではいたが、白富東は甲子園の頂点に立つことは出来なかった。
白富東が次の春のセンバツに、危ういところはあるが優勝できたのは、選手たちが自分で考える熱量を持っていたからだ。
そして秦野には、確実に熱量があった。だからこそ今年の夏も、全国制覇が出来たとは言えるだろう。
直史は自分の中に、熱量があったかは意識していない。
だが一つでも勝つこと、大阪光陰に勝つこと、この二つは明確に意識していた。
そのあたり武史などは、野球以外のことに関する熱量で、全国制覇を果たしてしまった。
だから直史は、武史が自分よりも才能があるとは思う。
二年の夏に負けた春日山は、正也と樋口の二人が主戦力ではあったが、上杉の残した後輩たちの熱量が、あの最後の場面を作り上げた。
白富東は準決勝で、ある意味力尽きていたというか、精神力を使いきっていたような気もする。
おのれ大阪光陰。
鬼塚はとにかく、性格が前向きではある。
挫折らしいものも経験しているし、プロ入り後も高卒なら当然だが、即戦力ではなかった。
とりあえず指揮官にとって、一番やってはいけないことを、鬼塚はやらないだろうなと信頼できる。
それは選手のやる気を失わせることだ。
これは野球だけではなく、日本の社会全般に言えることかもしれない。
出た杭を叩く、というものだ。
だが実際のところ、日本であっても成功している人間というのは、自然と勝手に飛び出た杭である。
直史も不本意ながら、飛び出て見えていることは自覚している。はなはだ不本意ではあるが。
鬼塚はそのキャリアからして、アマチュアの指導者としては、自然と飛び出ることであろう。
ただ実際に現場では、どうしていけばいいのか。
そのあたりはどこかのコーチでもして、経験していくしかないだろう。
今は残りのキャリアを、全力で送ってもらいたい。
球団としては、将来的にはスタッフに迎え入れたいようでもあるし。
「コーチとか、そういうものですかね?」
「う~ん、俺はどちらかというと、もっと裏方の仕事の方が、プロでやるならお前には合ってると思うぞ」
鬼塚のプレイは、自己犠牲というものがしっかりとなされている。
見た目だけは派手だが、堅実で泥臭く、成果を掴み取る。
その姿勢を評価されたからこそ、球団も鬼塚をほしいと思っているのだろう。
結局選手としての能力以外に、人柄なども見られているのだ。
鬼塚はずっとやってきたプロとしてのキャリアの中で、そういった評価を手に入れた。
あんな非道なポスティングを求めた直史とは、やはりそこが違う。
直史に対して、レックスは球団の人間としては、臨時コーチぐらいまでしか要請を出してきていない。
本人が興味がないというのも、確実にあるのではあるが。
直史は街の弁護士さんである。
地域の商店街や古くからの顧客の顧問をしていて、民事でも刑事でも、それほど大きな仕事をするわけではない。
ただ人と人とのつながりから、新たな案件を紹介されることもある。
仕事の取り合いとなっている弁護士であるが、基本的に民事も刑事も、秘密を打ち明けるのは難しいものだ。
なのでいい弁護士はいないか、というつながりから仕事が回ってくる。
そうやってそこそお広い範囲を、直史は車で移動することになったりする。
面白いのは相手の方が、直史のことを知っているか、知っていても名刺を出すまでは気づかなかったりすることだ。
伊達めがねをしただけで、直史は正体がばれなくなる。
これは昔から変わらないことだ。
弁護士とは弁護が仕事であるが、それ以外にも各種手続きを代行したりする。
自身でなければ弁護士以外がやってはいけないこと、というのはそれなりにあるのだ。
そして色々と、話をしていく。
弁護士は仕事が多いときと少ないときと、それなりに忙しさが違う。
直史の世界が広がっていく。
それまでももちろん、広い世界にはいた。
MLBのスタープレイヤーで、どこに行ってもそれなりに話は通った。
セイバーの関係者の大富豪などとも会ったことはある。
ただこれは、自分の地道な生活に密着した人間関係だ。
農業法人の話などに、意外なところからつながっていったりもする。
生きていくというのは、人と人とのつながりなのだ。
仕事だけではなく、人間関係から様々なことが生まれていく。
そして話題としては、直史が提供できるものは多い。
相手は直史に関心があるのだ。
これは別に弁護士としての話だけではなく、普通に事業などをするにしても、人と人とを紹介していくことになる。
思えば直史には、いくつかの継投のコネクションがある。
一番強烈で、誰もが知っているのが、野球の伝手やコネである。
そして大学は一流私立であるため、そこから大学の話が出来る。
弁護士としては大手弁護士事務所に就職した同期などと、連絡を取ることも出来る。
また今は日本にいないが、セイバーとの関係。
そして野球にしても、関東一円であればかなり、関係者が多いのだ。
直史はプロ入りする前に、短期間ではあるが、弁護士としてしっかり仕事をしていた。
だがやっている内容や、会う人々については、今の方がやや広く深くなっている。
オフシーズン中は本当に、手伝いだけであった。
そして新人の頃も手伝いばかりであった。
特殊な環境ではあるが、第一線で働いたことにより、社会人とのコミュニケーションが取れるようになった。
また多くの話題を持っているというのも、やはり武器の一つだ。
おっさんには野球ファンがいたし、ぶっちゃけ直史たちが野球ファンを増やした。
それがこうやって、仕事がやりやすくなっているのである。
白富東は最近はどうなのか。
そんなことを尋ねられることもあった。
県大会はそこそこ勝ち進んでいるが、この数年甲子園の出場にまでは届かない。
千葉では勇名館が一番強い、と今なら言えるであろうか。
「再来年はちょっと強くなるかもしれませんよ」
今の一年生の最後の夏、そして直史が時々であるが、コーチなどをしている。
ただガチガチに甲子園を狙ってくる、私立に勝てるかは厳しいところだ。
白富東は体育科があるのだ。
なので他の公立よりは、まだ選手が集まりやすいということはある。
だが県を越えた特待生などは、獲得することは出来ない。
しかしそんな状況で、地元の選手だけで勝つことこそ、公立校の意義ではないか。
東京に神奈川、そして埼玉。
この三つの都県が、関東では強い。
また群馬や栃木などにも名門私立は多く、選手たちは取り合いになっている。
そんな中でわざわざ、白富東を選んでもらう理由を作らなければいけない。
簡単な手段としては、スターが出ることであろう。
甲子園に行くのもいいが、それはチーム力の問題があるので難しい。
プロ野球選手を輩出するというのが、それ以外の宣伝方法だ。
私立に行くほどの金銭的余裕がなくても、公立の体育科なら行ける。
そういったそこそこの選手を鍛えれば、甲子園は現実的になる。
実際のところ今の白富東も、そこそこの身体能力を持つ選手は、それなりに入っているのだ。
もっともプロを目指すならば、それよりもさらに一段階大きな、怪物的才能が必要となる。
プロを目指して白富東に来たとしても、実際にはそこまで進むのは不可能であろう。
もっともこの間の刑部は、わずかに可能性を感じたが。
プロの現実というのを、直史はしっかり分かっている。
同期でレックスに入団したのは、全員が直史よりも若い選手であった。
しかし今も残っているのは、小此木一人である。
そしてプロを引退したとして、今は何をやっているのか。
プロ野球というのは特殊技能職なのだ。
はっきり言ってそんなものを、目指すというのは無謀である。
正直に言えば下手に下位指名されるよりも、指名自体をされずに一般社会人になった方が、よほど安定した人生を送れる。
そんなことを直史が言っても、あまりにも波乱万丈の人生を送っているので、ほとんどの人間には相手にされないのだが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます