第72話 日没

 冬はまだ来ない。

 だが野球にとっては、完全なシーズンオフ。

 直史は以前から頼まれていたように、鬼塚の代理人として、千葉マーリンズのフロントとの契約更改の交渉に入っていた。

 今年、ペナントレースこそ後塵を拝したものの、クライマックスシリーズで勝ち残り、日本一を決めた千葉は、観客動員数もシーズン中盤から急激に伸びていった。

 興行的には特に、ペナントレース終盤にかけてと、ポストシーズンで大きく収益を上げた。

 特にパ・リーグの投手タイトルのほとんどを獲得し、最大の成長を見せ、MVPにまで選ばれた黒埼などの、完全なスター化もあった。


 日本一になったため、ある程度のご祝儀は確実にある。

 グラウンドに埋まっている銭を、この機会に掘り当てることが重要だ。

「念のためにもう一度確認するけど、FA権は行使しないんだな?」

 直史はそう言って、鬼塚の意思を決定する。

 鬼塚はFA権を行使できるようになっても、それを行使していない。

 理由としてはこの、見た目だけは反骨心旺盛そうな男の、義理堅さというものがある。


 千葉に生まれて、千葉の球団に指名された。

 そして戦力になって、ずっとレギュラーに選ばれるようになった。

 実際問題、来年34歳の鬼塚が、ここでFAを宣言というのは、微妙なところである。

 外野守備のユーティリティ性に、勝負強いバッティング。

 ただその打撃成績は、最盛期はもう過ぎたのではと思われる。


 直史は鬼塚のことを、勝負強いと思ったことはない。

 そう見えるかもしれないが、実際には粘り強いのである。

 打てるボールが来るまで、ひたすらカットして、最低でも出塁する。

 そしてそれなりに足もあるので、相手にとって嫌なところで確実に盗塁を決めてくる。

 このあたりのことを主張して、年俸を少しでも高くしたい。


 だが直史の感覚としては、鬼塚のアピールポイントはそういうところではない。

 チームキャプテンというわけではないが、ムードメイカーではある鬼塚。

 見た目だけは不良であるが、練習量と節制においては、球界内でも評価が高い。

 それに今年の日本シリーズ最終戦。

 パフォーマンスとも取れるかもしれないが、あの鬼塚のスキンヘッドで、流れは変わったと思うのだ。




 ただ直史としては、単純に来年の年俸だけを考えるわけではない。

 鬼塚ももうあと五年は、さすがにプロにはいられないだろう。

 引退後の待遇など、選手からは聞きにくいことも、代理人なら聞くことが出来る。

「将来的には、やっぱりまたユニフォームを着たいのか?」

「あ~、そういう話もしてくれるんすか」

「なんだかんだいってお前は地頭がいいから、スカウトとかスコアラーとか、そういう分析の方が向いていると思うんだけどな。アメリカに渡ってトレーナーの経験を積むとか」

「う~ん……それも面白いっていうか、ありがたいんですけど、もうここまで来たら、ずっと千葉に残りたいかなって」

「本当に義理堅いな、お前は」

「ナオさんだって義理堅いところあるでしょ」

「たった二年でNPBから移籍したのにか?」

「二年連続で優勝させて、それからセイバーさんに義理を果たしにいったわけでしょ?」

「そう見えるかもしれないな」

 大学とレックスに対しては、傭兵としての意識しか持っていなかったので、表情も変えない直史である。


 ただ、鬼塚の将来については、別に代理人だからというわけではなく、気になっているところである。

 白富東が甲子園を四季連続で制したというのは、確かに直史、大介、武史、アレクの四人の力が大きかった。

 だが鬼塚はあと少し足らないところで、上手くフィットする選手だったのだ。

 性格も反骨心旺盛だが、根は真っ正直すぎる。

 なので代理人まで引き受けたわけだが。


 重要なのはもう、セカンドキャリアを見据えた動きである。

 一応はずっと一軍で、規定打席もずっと到達しているので、年俸はかなり貯金しているとは聞いた。

 だが引退後に馬鹿なことをすれば、資産はどんどんと減っていくものだ。

 重要なのは増やすことではなく、無駄に減らさないことだ。

 そのために遊ぶことなどないよう、何かに時間を使わせなければいけない。

「俺も将来、高校野球の監督とかやってみたいっすね」

「監督か……。う~ん、お前は後輩の指導とかは上手かったと思うが、監督はまたそれとは違う見方をしないといけないとは思うが、球団に残ることは考えてないのか?」

「実際に辞める時にならないと、ちょっと分からないですね」

 その時になってしまっていれば、もう間に合わないこともあるのだが。


 ただ鬼塚は、漠然とではあっても、ちゃんとセカンドキャリアのことは考えてはいるのだ。

 ならば代理人としてと言うよりは、高校時代の先輩として、後輩の未来をどうにかしてやろうではないか。

 直史はそう考えて、契約更改に臨むこととなる。

 鬼塚はああ言っているが、球団のフロントがどう評価しているか、それによって逆に鬼塚を説得した方がいいかもしれない。

 幸いにして直史は、頭がいい相手には、説得をするのが得意である。

 頭が悪い相手は、法律でぶん殴るしかないのだが。




 代理人に払われるフィーは5%である。

 鬼塚の年俸が9000万だとしたら、直史の取り分は450万。

 本格的に動くのは三日ほどで、あとはちょくちょく連絡を取って休み休み二週間ほどかかる。

 これで450万を稼ぐとしたら、一般人から見ればうらやましい限りであろう。

 だが直史の現役時代を思えば、最盛期の年俸は年間7000万ドル前後。

 丸一年で80億円以上を稼いだことを思えば、さほどの大金でもない。


 金銭感覚が麻痺しつつあるのでは、と直史は自己を客観視出来るため、まだしも危険性は少ない。

 なんだかんだ人生の節目では大胆なことをするが、基本的に直史は保守的な人間であるのだ。

 金で仕事をするな、などということを言う経営者がいる。

 だがそれは経営者が、自分は金で仕事をしていないから言えることである。

 雇われた人間は、絶対に金を基準に仕事をするべきだ。

 そして自分で仕事が選べるようになれば、金ではなく次につながるしごとをするべきなのだ。

 金は世間の自分に対する評価だ、ということを忘れてはいけない。


 直史はその点で考えると、真っ当な職業をしているように見えて、好きなことしかしていないとも言える。

 好きなことだけをして生きている。

 それは最高の贅沢である。

 もちろん直史からすれば、社会に寄与する仕事をしているだけで、それも間違いではない。

 ただそういうことが好きなことというだけで、直史は幸福な人間なのだ。




 鬼塚の契約更改は、まず球団事務所に一度向かって、球団側から出された条件を確認する。

 球団の出してきた条件は、想定していた上限の9000万円。

 ただ日本一というご祝儀を考えれば、もう少し上でも良かったであろう。

「日本シリーズ最後の一戦、鬼塚のパフォーマンスがなければ、マーリンズは負けていたと思いませんか?」

 直史は弁護士なので、論理的な話をする。

 だが論理的な範囲で、感情論も扱うのが弁護士なのである。


 毎年のように安定して規定打席には到達する。

 基本はレフトであるが、故障者が出れば外野のどこかにコンバートもされる。

 色々と数値化された貢献度の中で、抜けているものが一つある。

 それは鬼塚の一打席における、相手のピッチャーに投げさせた球数の平均だ。


 鬼塚の貢献度は、数値化出来ないところにある。

 そしてそれは、ファンの購入するグッズの販売を見れば、はっきりと分かるはずだ。

 直史がそういう点から突いて来るのは、球団側からしてみれば、意外であったであろう。

 ただ直史は現役時代も、自分で契約更改を行っていたのだ。

 もっとも相手がセイバーであることが多く、あっという間に決まっていたが。


 鬼塚であればありえなかった、契約更改の担当者。

 球団GMが、この交渉には出てきている。

 またフロントとしては、当然ながら編成部長。

 そして情報を提供するスコアラーを統括する、編成部の人間がもう一人。

「あとは、これは鬼塚自身の要望とかではないのですが、球団的には将来、鬼塚を球団にコーチや職員として招聘したいのですか?」

 直史の仕事は、代理人である。

 代理人の仕事は交渉であるが、それは球団側との交渉だけを示すのではない。

 鬼塚のためになると思えば、鬼塚とも交渉するのだ。


 球団側としても、鬼塚はその知名度が高い選手だ。

 成績に対して年俸はやや高いと言えるが、それは鬼塚の持つある種のカリスマをも含めたものである。

 そして引退するならこのまま千葉で、と近いうちに来る最後を直史には語っている。

 球団側としても、なんらかの形で鬼塚を残すことは、球団にとってもプラスになるだろうとは思っている。


 ただ直史は、鬼塚の希望も聞いているのだ。

「彼は一度、アマチュアの指導者をやってみたいと言ってるんですよ」

 それは球団側にとっては、意外な話であった。

 基本的に野球は、プロ野球が頂点なのだと、興行であるプロの人間は思っている。

 その点、直史はMLBにいたので、さらに格上だとも言える。

 だが鬼塚は、アマチュアの指導者になりたいと言っている。

「彼は中学時代までは、あまり評価されませんでしたからね」

 それは直史も同じであるのだが。




 一度目は条件を持ち帰り、鬼塚と確認。

 二度目の交渉にて、契約更改は成立した。

 年俸は単年で9500万。

 規定打席到達で、インセンティブが500万というものであった。


 球団が鬼塚に求めるのは、一軍にいてチームのムードメイカーになるということ。

 若い世代を引っ張るのに、泥の中から立ち上がったような鬼塚は、先輩野球選手としては最適なのだ。

 本人もそろそろ、自分の引退が迫っているのを分かっている。

 チームのために貢献してほしいと考えて、比較的簡単な条件で、一億の大台に乗るようにした。


 スポーツ新聞などで、鬼塚の契約更改は普通に報じられた。

 だがより大きく扱われたのは、その代理人が直史であったということである。

 黒子である代理人が、表に立つことなど直史は求めていない。

 なので取材をしたいと言われても、これは頑なに断るしかなかったのだが。


 直史がそのあたりの話を、普通に全部してしまえるのが、瑞希なのである。

 マスコミというわけではないが、野球に関するコラムなども書く。

 ずっと秘密にされていることも、いずれは公開されるだろう。

 だがそれは、本当にずっと先のことである。

 そして直史は契約更改とは、全く違う現実を、この交渉の間に一つ見ていたのであった。




 ドラフトが終わり、契約更改が終わる。

 これは新たに入ってくる者と、引き続き居続ける者の話である。

 そしてこれとは別に、去る者がいる。

 さらには去る者の中に、去りたくない者がいる。


 球団から戦力外通知を受けた選手。

 その選手が集まって、12球団合同トライアウトというものが行われる。

 別にこんなものには興味はなかったのだが、今年は千葉で行われたので、大介と一緒に観戦に来たりした。

 なお武史は、家族サービス中である。


 直史と大介に共通しているのは、ファッションと多少の変装によって、有名人と気づかれないということだ。

 なので普通に混じって、観戦することが出来る。

 もうだめだと球団に切られても、諦めきれない選手たちがいる。

 自分であっさりと見切りをつけて、引退をした直史に、いまだ現役で最高のパフォーマンスを見せる大介。

 この二人がこれを見るというのは、なんだか皮肉なようにも思える。




 12球団合同トライアウトというが、実際のところ投手野手合わせて40人ほども集まった中で、NPBに戻れるのは一人か二人。

 そもそも戦力外になったとしても、必要とされる選手であれば、トライアウトに参加することもなく、すぐに交渉されるものなのだ。

 ただしNPB以外に、韓国や台湾のチーム、そして実は社会人野球から、オファーがかかったりもする。

 なので全くの無駄、というわけでもないのだ。


 大介は選手生活の晩年は、日本に戻ってくるつもりでいる。

 だがこいつであっても、いずれは年齢によって引退する時は来る。

 そんな時に、まだ足掻くことはするのだろうか。

「独立リーグなら少しは考えるかもしれないけど、MLB以外の外国に行くつもりはないな」

 そもそも大介が最後にはNPBに戻ってくるというのは、最後の姿を日本のファンに見せるためだ。

 野球は好きな大介であるが、まともにプレイが出来なくなって、海外でやるほどの気持ちはない。

 なので独立リーグでのんびりやるならいいかな、という程度には考えている。


 大介こそまさに、野球を引退したら何をするか、まったく想像ができない人間である。

 かといって現場の首脳陣となったり、フロント入りする姿も、それはそれで違う気がする。

 打撃や守備のコーチは出来そうな気はするが、基本的に大介の打撃や守備は、セイバーでも再現は不可能と頭を抱え多部分がある。

 なので延々と独立リーグでプレイするというのは、大介にとっては悪いことでもないと思う。

 また臨時のバッティングコーチなどは、それなりに出来るかもしれない。


 大介のような華のある選手は、むしろバラエティにこそ行った方がいいのではないか。

 芸能界に対して、真っ当な偏見のある直史であるが、大介なら大丈夫だと思う。

 そもそもマスコミに対しては、かなりの慣れがある大介だ。

 野球以外の何をやっても同じなら、一番派手なことをやってもいいだろう。




 このトライアウトには、直史や大介の同年、あるいはわずかに上や下の、甲子園やプロで見知った選手も出てきている。

 甲子園であれだけ注目され、またプロではドラフト一位で入団しながら、微妙な成績で延々と続いていた、という選手もいる。

 もっとも30歳過ぎまでプロの世界にいられたら、それは充分に成功の範囲内であるのだろう。

 それに二軍落ちして、そこでもあまり出番のない選手にとっては、引退試合のような感覚もあったりする。


 甲子園で対決した顔や、プロで対決した顔もある。

 30代も半ばというのは、確かにプロにとっては。人生の転換点であるのだ。

 そのままユニフォームを着て、首脳陣に迎え入れられる、というのがプロ野球選手としての上がりかもしれない。

 だが実際にはコーチ陣の人数など、引退する選手の人数に比べれば、はるかに少ないものであるのだ。


 直史は本気で、自分の力に自身がなかったため、プロの道など検討しなかった。

 だが法曹資格を得たことで、セカンドキャリアも積めると考えたからこそ、プロの世界に入れたということもある。

 多くの野球少年が、甲子園を目指して挫折し、プロを目指して挫折し、一軍を目指して挫折する。

 しかしそういった多大な屍が土台となって、高い頂点を築いているのである。


 いずれ野球が出来なくなることは、どんな選手にとっても当たり前だ。

 だが野球が出来なくなっても、野球を愛することは出来る。

 そのためにも野球の挫折が、野球嫌いにならないようにしなければいけない。

 直史としてはあの温かった中学時代の野球部を、否定しきれない理由はそこにある。


 直史が瑞希を説得した、MLBでの現役延長は、年金が理由であった。

 NPBにおいては、過去にそういったものを作ろうとしたことはあるのだが、結局は失敗している。

 日本の社会というのは、一度失敗した人間が、新しいチャレンジをするのは難しい。

 だが直史などは、野球にさえ関係しないのであれば、野球選手でプロまで行くような人間は、肉体労働ではかなり重宝されると思うのだ。

 そういったセカンドキャリアのためにも、重要なのは故障をしないことだ。

 高校野球で日常に支障が出るほどの後遺症が残るのは、だから駄目なのである。


 この年、トライアウト参加者から、NPBに復帰した選手はわずかに一人。

 ただし海外のプロリーグや、独立リーグに行ったものを含めれば、まだ野球を続ける人間は、10人にも達したのであった。

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