第61話 傍観
甲子園が始まった。
かつてはこの時期、大学時代も後輩たちの試合を見ていた直史であるが、今年は勇名館が出場しているため、特に注目もしていない。
むしろ見ているのは、東東京代表の帝都一であったりする。
ジンがどういう采配を取るのか、そのあたりが楽しみなのだ。
ただ夏休み中の真琴はじっくりと毎日四試合を見ているらしい。
お盆までは仕事があるため、その様子を確認は出来ない直史であるが。
そして真琴は言う。
「最近、試合見に行ってないね」
それはまあ、直史がMLBにいた頃は、地元で投げる試合はおおよそ、観戦に来ていたはずではあるが。
「甲子園は遠いからな」
「千葉でもチームあるでしょ?」
「プロ野球でいいなら、今度連れて行ってやろうか?」
「行くー!」
そんなわけで鬼塚に、チケットの手配を頼んでいたりする。
千葉と言えば鬼塚以外にも、哲平がFAで移籍してきていたりする。
若手とのスタメン争いに勝利して、今年は三割に届こうかという打率を誇っている。
ただ既に思考の基準がMLBの直史は、OPSを重視していたりする。
もっともそのOPSに影響を与えやすい長打も、それなりに哲平は打っている。
八月のこの時期に、二桁の本塁打。
打順が二番ということもあって、打席が多いこともある。
直史としては心理的に一番身近なのは、やはり大学から愛用していった神宮球場である。
しかし神宮に観戦になど行けば、帰るのはその日の何時になることか。
いっそのこと泊り込めばそれでいいとも思えるのだが、次の日まで野球を引きずりたくはない。
そんなわけで明史は瑞希の実家に預けて、マリスタにやってきた親子三人。
「しかし明史は本当に、本ばかり読んでるな」
あれでいいのかな、とも思う直史である。
どうも明史は体が弱い分、漢字などの識字力が以上に高い。
まだ小学校入学前であるというのに、近所の図書館に通っている。
そしてルビさえ振っていれば、普通に小学校高学年向けの本などを読んでいたりするのだ。
なお愛読書は小説版宇宙戦艦ヤマトなのだとか。
それなりに読書をしている直史と瑞希だが、ヤマトの小説なんてあったのか? というのが感想であった。
あるんだよ。ちょっと未就学児童の趣味としては、不思議な方向であるが。
ちなみに真琴はあまり、読書などはしない。
それでも最近は野球マンガなどを読んでいたりする。
瑞希はもちろん直史も、子供の頃から図書館で本を借りるのに慣れていたので、マンガから入るというのは不思議に感じたりする。
ただそれでも最初は、絵本から読書に入っていったはずなので、その延長ではあるのだろう。
仕事が終わってから、スタジアムに向かう。
車から降りれば直史は、メガネを装着して変装である。
この雑な変装で、見破られたことがほとんどないのだから、不思議なものである。
今日の座席はホーム側スタンドであり、バックネット裏ではない。
たまにはこういう席もいいというか、応援ともなったらこういう席に座ることが多くなるのだ。
おそらく明史は、スポーツにあまり力を注がないだろう。
特に野球などはしないと思う。
将来的に誰かを応援するために、スタンドに来ることがあるのか。
今はまだ、見知った後輩たちが、現役でいるのだが。
今シーズン調子のいい千葉は、若手が伸びてきている。
その伸びてきている若手とレギュラー争いをする鬼塚や哲平は、大変なものであろう。
だが鬼塚と哲平は、地元出身というアドバンテージがある。
生え抜きの鬼塚に、移籍してきた哲平と、二人とも地元愛が強いと言おうか。
あるいは地元出身ゆえに、ファンが付きやすいとも言えるか。
試合の相手は、現在最下位に沈んでいる東北。
淳は今年、リリーフに回ることが多い。
NPBの場合はやはり、ピッチャーの年俸が高くなるのは、先発が一番だろう。
それに直史の感覚としては、先発の方が繊手寿命は長いと思う。
実際にリリーフピッチャーは、投げる日が固定ではないので、準備に球数を必要とする。
武史などは絶対に出来ない役割だ。
東北も東北で、知らない選手が増えたものだ。
それだけMLBにいる間、NPBを気にしていなかったということだが。
古屋や戸崎と一緒の番組に出演したとき、ある程度は今のNPBの情報は仕入れた。
もっともそれを用意してくれたのは、瑞希であったのだが。
軽く食事をして、そして客席で食べる物も、少し買っておく。
マリスタ名物と言えばもつ煮であるのだが、けっこうこれが美味い。
ただ直史は高校までも大学までも、試合でしかほとんどこのスタジアムに来たことがない。
観戦ではなく、自分が選手としてプレイする場所なのだ。
意外なほどに内部が分からず、確認しながら食事どころを回る。
大規模なファーストフードのチェーン店が入っているが、そういうものはどこで食べても同じものだ。
グッズのショップなどもあるが、知り合いが大きな写真となって飾られているのは、自分のことでもないのになぜか恥ずかしい。
これが共感性羞恥というものであろうか。
「そういやあ、今日は勝てそうな組み合わせなのかな」
「先発が黒崎君だから、勝てるパターンだと思うけど」
「誰それ?」
「去年新人王投票二位だった、高卒三年目のピッチャー」
やはり瑞希の方が、NPBの情報を詳しく知っている。
仕事柄、憶えることが多かったということか。
ただNPBに関しては、あまり直史とは関係ないところであるとも思うのだが。
「そろそろ席に行くか」
こんなのんびりした野球観戦は、初めてかもしれない直史であった。
東北の先攻から始まる、千葉のホームゲーム。
鬼塚も哲平も、無事に今日もスタメンである。
二人とも守備のポジションにはある程度、ユーティリティ性がある。
だが重要なのは、打てるかどうかなのだ。
初回の東北の攻撃を、三振を含む三者凡退でしとめる黒崎。
サウスポーから繰り出される158km/hのストレートは、それは見事なものであった。
これに大きく曲がるスライダーと、かなりの球速差があるチェンジアップ。
「引退試合には出てこなかったなあ」
「そりゃあ現役時代は一切接触はなかったし」
出身も山形と、確かに接点はない。
そもそも去年活躍したばかりで、あんなお祭り騒ぎに出てくるのはまだ早いであろう。
一年目は体作りで、一軍の試合に出たのはわずかに三試合。
二軍の試合でさえ、五試合しか出ていない。
ただ二年目の去年には、開幕一軍のローテーションに抜擢。
二桁勝利をしているので、かなり見込まれているのは間違いないだろう。
「勝ち星はともかく、防御率やWHIPも優秀だし、奪三振率も高いのよね」
瑞希がタブレットから、情報を引っ張り出してくる。
次代のエースになれるかどうか、それはまだ分からない。
球速と変化球の種類の割には、それでも空振りがいまいち取れていない。
もっとチェンジアップを落とすのを、上手くする必要があるのではないか。
なんだかピッチャーを見ると、それを伸ばす方向性を考えてしまう。
だがプロであれば、もう直史が口を出すことでもないだろう。
先発同士の調子がいい試合になっていた。
序盤はどちらも点が入らず、特に千葉の黒崎は、五回まで投げて無失点。
味方が二点取ってくれたところで、リリーフに交代する。
「なんだ、まだ投げられるだろうに」
周囲の席ではそんな声も上がっていたが、球数がここで100球を超えている。
基準としては、このあたりにしておくべきだろう。
球速は充分であるのに、またコントロールも悪くないのに、球数はかなり多めとなっている。
これはもっと打たせて取るピッチングを、身につけなければいけないのか。
ただもっと、配球は工夫した方がいいと思う。
コントロールと変化球があっても、緩急差が上手く生かせていない。
チェンジアップをもっと見せていった方がいいだろう。
さて、リードした展開なので、勝ちパターンで投げてくる淳は、今日は出番がないかもしれない。
ここから東北が逆転すれば、また話は別だろうが。
東北の先発も二点は取られたが、六回までを投げきった。
クオリティスタートなので、本来ならこれでも充分であるだろう。
リリーフが入ってから、試合が動き始めた。
ピッチャーとすれば、ここで勝ち星を消してくれるな、と思うところなのだろう。
だがMLBに染まった直史としては、勝ち星は意味がないと考える。
五回までを無失点に抑えたことがプラスポイント。
ただし六回まで投げられなかったのは、微妙にマイナスポイントだろうか。
直史などはたびたび、リリーフのいらないピッチャーと言われていたので。
東北の得点により、まずは追いつかれる千葉。
ここであちらからは、淳がリリーフで出てきた。
2イニングを無失点で抑えた間に、東北は逆転に成功。
終盤はお互いに、少しずつ点を取る。
結局は5-4というスコアで東北が勝利。
ラストバッターは鬼塚で終わるという、応援する側とすればう~むとなってしまう試合であった。
「……なんで?」
そして真琴は疑問を抱く。
「なんでわたしが見てるのに、応援してるチームが負けるの!」
そういえば真琴が応援している試合は、特に球場まで行っている試合は、ほとんど全て勝っているはずである。
直史が投げる試合だからだ。
もっと子供の頃には、負けた試合も見ているはずだが、それは忘れているらしい。
忘れられていてありがたい直史である。
ともかくこれで真琴は、世界の真実の一端に触れたであろう。
自分が望んだからといって、応援しているチームが必ず勝つわけではない。
駄々をこねてもどうにもならないことが、この世には多い。
そしてそれは野球の試合でも同じことなのだ。
いや、当たり前のことであるが。
真琴は直史の存在によって、自分が応援すれば勝てるという、認知の歪みを抱えていた。
これは正確には、直史が投げれば勝てる、というのが現実なのである。
「決めた」
真琴は立ち上がると、ゾンビのように客席を後にする、千葉ファンの中心で宣言する。
「プロ野球選手に! わたしはなる!」
まあルール上は女性選手も、プロになれないわけではないが。
かつては女子プロ野球というのも存在したものだが、それははるかに昔の話。
また大人の都合があったものである。
せめてシーナのように、甲子園を目指すぐらいにしておくべきだろう。
あとは大学野球で、神宮でプレイをしてみるとか。
プロの世界に女性の体力で入るのは、ほぼ不可能である。
絶対不可能とは言わないのは、直史も数人、通用しそうな者を見てきたわけで。
かくして無責任に贔屓を応援できる試合は、無事に終わりはしたのであった。
野球は勝敗のあるスポーツで、どれだけ強いチームであっても、全てに勝つことは出来ない……はずだ。
最も偉大であると言われたピッチャーである直史は、なぜ偉大であったか。
もちろん数字面でも偉大ではあったが、それよりはチームを勝たせたからである。
それでも、それでもなお、負けた試合というのはあるのだ。
「決めた」
真琴は帰りの車の中で、またも宣言する。
「わたしは生涯不敗でいく!」
なんだろう、男の子が一度ぐらいは考えるような、そんな無茶な思考であるが。
「競馬じゃあるまいし、生涯不敗はないだろうな」
競馬ならそれなりに、生涯不敗の馬はいたりする。
クリフジだのリボーだのキンツェムだの。
だが野球は練習試合でさえも、普通に負けることがあるのだ。
なんと言えばいいのであろうか。
迷った佐藤夫妻であるが、結局は言わないことを選択した。
そもそも野球はチームスポーツであるのだから、一人や二人のスーパースターでは、試合に勝つことなど出来ないのだ。
直史と大介が揃っていてなお、負ける試合はあるのだし。
いずれは現実を知るだろう。
そう思った二人であるが、真琴はこの時は本気であった。
やはり家でテレビで見る野球観戦は、安定しているな、と思える直史である。
甲子園が始まると、序盤はおおよそ一日に四試合。
プロ野球よりも展開が早いのが、見ている側としてもありがたい。
ただこの時期はまだ、お盆前であるので仕事中に見ることは出来ない。
依頼者の家に行くと、なぜかテレビがつけられていて、直史に解説を頼んできたりはするが。
「それ、私もやられた」
瑞希も直史ほどではないが、有名人なのである。
直史の伝記を妻である瑞希が書いて、文才は正直普通程度であるのだが、装飾過多な文章ではない。
これだけで普通の人間は、ぐっと読みやすくなるものらしい。
そもそも文章というのは、読みやすさがなければ読んでもらえないだろう、と瑞希は当たり前の考えを持っている。
弁護士という職業はどうも、お悩み相談というか、愚痴を聞かされることが多い。
そういう場合はある程度、年寄りに付き合うのが、意外と得意なのが直史である。
なにせ実家の周囲には、高齢者が多かったので。
ただやるべきことがある時は、すっぱりと仕事を終わらせてしまう。
やはり人生というのは、自分の時間を切り売りして過ごしていくものであるらしい。
直史の思考からすると、特にピッチャーの評価は、MLBが基準となっている。
もっともバッターを攻略しようと考えるなら、ハードヒット率なども考えるのだが。
ただハードヒット率というのは、高校野球レベルだと、まだあまり考えなくてもいい場合が多い。
またMLBと比べても、NPBは野手の身体能力の基礎が違う。
そもそも日本の守備というのは、正解があってその先にアウトがある。
だがMLBの守備というのは、アウトにすればそれが正解なのだ。
海外からは今年のMLBの動向なども伝わってくる。
大介は去年に比べると、ややホームラン数は少なくなりそうだ。
だが普通にOPSが1.4を超えているので、これを調子が悪いと言ってはいけない。
やはりいかに偉大なスラッガーであっても、一人だけなら敬遠されるのだ。
相変わらず大介は、盗塁をどんどんと増やしているらしいが。
走れる強打者という存在が、現在のMLBでは重要になっている。
かつては日本では、強打者というと恰幅のいい、体重の乗っている選手が代表的な例であった。
しかし今では鈍足でもいいはずのキャッチャーさえ、かなりの俊敏さを要求される。
樋口がトリプルスリーを取ったように。
大介も塁に出せば、かなりの確率で盗塁を決めてくる。
そのため敬遠しづらいというのが、MLBでのこの数年の事情だ。
ただそろそろ大介も、30代の半ばに入る。
バッターはこのあたりから、衰えてくる選手も多い。
特に大介のバッティングというのは、動体視力と瞬発力という、二つのフィジカルが重要になっている。
ただこの衰えというのは、ある程度遺伝的に変わってきたりもするのだ。
今年で36歳になる上杉のピッチングは、相変わらず圧倒的であったりする。
もう目標は、400勝の更新ぐらいにあるのではないか。
実際に二年間もNPBから離れていたにも関わらず、その可能性はかなり高いものだ。
ピッチャーの中でも上杉は、その肉体の頑健さは異常である。
直史のように球数を減らすということを、あえてしなくてもイニングを食うことが出来るのだ。
同年代はおろか、年下の年代であっても、既に引退している者がいる。
そういう状況を考えれば、鬼塚などはかなり立派なものなのだ。
直史がアメリカに行っている間、故障などでしばらく試合に出られず、ポジションを奪われかけたこともあった。
しかし同じく故障でそのポジションが空けば、しっかりと奪いに行く。
果たして自分の知る選手たちが、あとどれぐらいプロの世界で活躍することが出来るのか。
直史などであると後輩で活躍している代表例だと、レックスの小此木あたりになるであろうか。
彼は現在、レックスの主軸となって働いている。
夏休みであるのに、基本的には甲子園中継を朝から晩まで見ている。
そんな真琴の姿に、わずかな不安を覚える二人であったりした。
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