第60話 来なかった夏

 灼熱の八月が始まる。

 そして夏の甲子園が始まる前から既に、地方大会で敗退したチームは新チームが始動する。

 同じ高校生でも、甲子園に行っているチームと、それ以外のチームでは、引退するのがおよそ二週間以上は違う。

「三年の夏まで当たり前に部活をやってるってのは、俺の先輩の時代からしても、随分と変わったもんだよ」

「ああ、そうでしたね」

 にじみ出る不快な汗を、直史は指で拭う。

 カリフォルニアと日本はやはり、湿度からの不快指数が圧倒的に違う。


 北村の言っていた通り、白富東はかつて、野球部に限らず三年生は、秋の大会や春の大会で引退してしまうことが多かったのだ。

 公立では県下一の進学校とも言われた白富東は、三年の夏は完全に受験に力を注いでいたりもしたのだ。

 それが文武両道となったのは、まさに北村が三年生であった、あの夏あたりからと言えるだろうか。 

 春にシードを取って、練習試合でも強豪との間に結果を残していった。

 北村としても別にちょっと取り組みが遅れても、大丈夫だろうと思っていたぐらいなのだ。


 八月の下旬には、もう県大会の予選が始まる。

 甲子園が終わった頃に、センバツの前哨戦が始まるのだ。

「実際のところ、どう思う?」

 白富東はベスト8まで勝ち進んで負けていた。

 だがベンチ入りメンバーは、かなり三年生以外も多かったのだ。

 直史としても、そうぼんやりとした問われ方をしても、なんとも言いがたい。

「とりあえずピッチャーと守備次第で、そこそこ行けそうだとは思いますけど」

 傑出した才能の持ち主はいない。

 だが特異な能力を持っていれば、それが通用するのが野球なのである。




 直史が見るのは、まずピッチャーである。

 夏の大会にベンチに入り、三試合で3イニング投げた一年生の内田が、なんとも進化していた。

 元々のアンダースローからのボールは、ただでさえ軌道がおかしくて打ちにくい。

 これにシンカーと、あとはカーブが加わっている。

 エースとして投げるには、もっと安定した何かが必要になる。

 しかし1イニングか2イニングを投げるだけなら、それなりに通用する。


 一年生も左利きには、全員ある程度ピッチャーの練習をさせたりもした。

 ただバッティングが得意な選手は、さすがに野手に専念させている。

 足も速ければ、さすがにピッチャーまでは求めない。

 右と左のピッチャーをたくさん作るというのは、これまでもやってきたことだ。

 もっとも実際に試合に使えるほどにまでなるかは、また別の話である。


 ピッチングをやらせるというのは、別にピッチングだけが目的だけではない。

 一番運動神経の高い選手はピッチャーもやるように、ピッチングの練習が体のコントロールを向上させるからだ。

 MLBであっても高校ぐらいまでは他のポジションで、そこからピッチャーになったという選手はいないでもない。

 ただ選手の希望を完全に無視するのは問題であるが。

 それでも勝つためには、ポジションのことは考えないといけないのだ。


 直史が見ていたのは、細川である。 

 相変わらず細い体で、遠投をやらせていることが多い。

 確かにこの体格にしっかりと筋肉がつけば、ボールも速くなるかもしれない。

 もっともこの身長の時点で、それなりに才能として成立している。

 身長が高いだけではなく、腕も長いのだ。

 本当にどうして、バスケ部に入らなかったのだろう、と直史は思ったりする。

 単純にダッシュ力が足りないだけであるが。




 正直なところ、直史のあまり人の才能を見極めることはなかった眼力ではあるが、こいつだけは上手く成長したら、プロに行ける素質があるのでは、と思ったりもする。

 もっとも本人としては、当初は研究班の方に入ろうとしていたらしいが。

 しかし見るためには、やる方もやってみた方がいい、というのが白富東。

 ここの運動部は文化系であるのだが、同時に文化系でも体を鍛えることは普通にやったりする。


「北村さん、ひょっとしたらプロになれるかもしれない選手を見つけたら、北村さんはどうします?」

「それは本人の希望次第だと思うが?」

「ですよね」

 実際直史は、才能や素質よりも、どれだけ具体的に将来を見られるかが、プロに行ける道だと思っている。自分のことはさておいて。

 なのでちょっとピッチャー連中に、将来の夢などを聞いてみたりもした。

 直史の場合は夢など見ず、ひたすら現実的に人生を送ってきたつもりであったが。

 現実的とは。


 当然ながらプロを目指す選手など、一人もいない。

 ただ将来は高校野球の指導者はしてみたい、という者はいた。

 白富東ほどホワイトなやり方であれば、野球はもっと楽しいものになるであろう。

 とりあえず昭和体質からの完全な脱却は、白富東の野球部の理念でもある。


 もっとも直史の場合は、ひたすら大阪光陰憎しで、二年の春から夏は戦ったようなものであるが。

 どんな競技であっても、ちゃんと勝利を目指していかなければ、そこに楽しさはないのだ。

 競うことを、忘れてはいけない。

 それは現代社会の否定ですらある、と直史は思ったりもしたのであった。




「野球のマンガを描きたいのです」

 細川の将来の夢は、まさに夢とでも言えるようなことであった。

「マンガ家になったやつなんていない……いないが……原作者になっちゃった人間はいたな」

 お前の嫁である。

 あと手塚はマンガ編集者になっている。


 なお映画化した時の撮影スタッフに、白富東出身の先輩がいたりもした。

 直史たちよりは、ずっと年上であったが。

 またマンガ原作となり、さらにアニメ化した時も、そのスタッフに先輩がいたりした。

 白富東の卒業生は、県下有数の進学校でありながら、インドに行ってみたり、アニメーターになってみたり、そういう奇天烈な人間が多いのである。

 インドはともかくアニメーターは、そこまで奇天烈ではないのかもしれないが。

 そもそもそれを言うなら、白富東出身のメジャーリーガー第三号が、直史であるではないか。

 一般的には勘違いされているが、MLB移籍第一号は、大介でもなくアレクである。


 思えばここから、四人もメジャーリーガーが出ているわけだ。

 さらに現在はタイタンズで活躍する正志なども、MLBへの移籍が濃厚となっていたりする。

 悟なども実績的には、行っても全くおかしくなかった。

「マンガ家というとあれか、東京の大学にでも行くのか?」

「いやいや、今どきわざわざ東京まで行かなくても、普通に地元からネットでつながることは出来ますから」

 そういうものなのか? ……そういうものなのだろう。

 直史自身は、大学時代もその後のしばらくも、主に東京に住んでいたが。


 


 白富東の強さというのは、こういうわけの分からないところ、にあると直史は思っていたりする。

 普通に毎年、東大に二桁を送り込むような進学校でありながら、同時に奇妙奇天烈な人材も輩出する。

 その筆頭がお前だろ、と直史は言われるとは全く思っていない。

 自己に対する認識が、おかしいのが直史なのである。


 確かにMLBに行ったのは、アレクと大介に続いて三番目ではある。

 しかし司法試験に受かってからプロに来た選手は、他にはいない。

 一度もプロ志望届を出さず、一応は育成で一度は指名されたが、全くそんなそぶりを見せることなく、レックスから一位指名。

 プロ野球選手というのは確かに、波乱万丈の人生を送っている者も多い。

 だが直史の場合は、波乱万丈と言うよりは、紆余曲折と言ったほうが間違いないだろう。


 そんな直史はしっかりと、今日もピッチャーたちの指導をしていく。

「変化球はないのか?」

「スライダーを覚えようとしたんですけど、どうも上手く曲がらなくて……」

「もっとこう、指先で切るようなイメージが必要だと思うんだが」

「切る……」

 ピッチャーはその骨格や、指の柔軟性、またフォームなどによって、投げられる変化球がある程度決まってくる。

 そして普通は、同じフォームから全ての球種を投げる必要がある。


 球種ごとにフォームが変わっているのなら、それで見抜けてしまうのだ。

 またフォームを固めることは、コントロールを高めることにもつながる。

 ……わざとフォームを崩しながらも、普通に際どいコースに投げられる直史が言うと、むしろ説得力がなくなってしまうのだが。

「切るタイプの変化球が難しいなら、抜くタイプの変化球の方がいいかもな」

 そして直史の見せるお手本が、カーブとシンカーであったりする。


 シンカーというのも難儀な変化球と言うか、分類が難儀と言うか。

 アメリカではツーシーム変化をシンカーと言ってしまうが、これは高速シンカーの方である。

 シンカーにはサイドスローやアンダースローが使う、変化量が多い、遅いシンカーもあるのだ。

 もちろん握りなどは全く違う。


 直史の中では、シュート、ツーシーム、シンカーは明確に違う変化球である。

 だがMLBではフォークが全てスプリットと表現されていたりする。

 方法ではなく結果、つまり投げ方などではなく変化で、球種を判定するのだ。

「こう、基本的にはチェンジアップのような握りで、最後はこう押し出すような感じで」

 高校生を相手に、無料で技術を教えていく。

 この時間の使い方こそが、直史にとっての贅沢であろう。


 そうやってピッチャーには、それぞれ変化球を教えていく。

 だが基本的には、ストレートをどうするかが、一番大事であるのだ。

 ピッチャーの投げるボールは、基本的にはストレートが一番多い。

 中にはナチュラルでシュート回転がかかっているピッチャーもいるが、最初に教えられるのは、ちゃんとしたストレートである。

 ただこれに関しては、直史はあまり良くないな、と考えている。


 MLBのピッチャーなどは、投げるボールの90%がカッターというピッチャーがいたりした。

 意識しないと、普通のフォーシームは投げられないのだ。

 だが日本の場合、小学生の軟式では変化球が禁止となっている。

 そこでせっかくの、生来の変化球を、矯正されてしまうというわけだ。

 一応ナチュラルな変化は、変化球扱いはされないのだが。


 まあ確かに変化球は、肘などに悪いとは言われている。

 しかしアレクなどは投げるボールが基本的に、全てカッター系であった。

 生来のピッチングの特徴を活かす。

 それが正しいピッチングであると、直史なども思うのだ。




 秋季大会はどこまで勝ち進めるか。

 新しいチームも、それなりに機能するだろう。

 これが抜けたら戦力が大幅にダウンするという選手はいない。

 もっともそれは同時に、核となる選手がいないということでもある。


 現在の二年生は、最高学年となる。

 順当にキャプテンは決められて、順当にチーム作りは進んでいる。

 ただこのままでは、また関東大会に行くのは難しいな、とも思えるのだ。

「勇名館はかなり戦力が抜けることになるはずだけど、今の下級生が甲子園を経験することになるからなあ」

 居酒屋のカウンターで、北村はそう分析している。

 直史はこの後、車で帰るためにアルコールはなしだ。


 白富東は全ての選手を、三年の夏まで少しずつ、確実に成長させていく指導をしている。

 今年も下級生にもスタメンなどはいたが、三年の抜けた戦力を、簡単に埋めてしまえるほどではない。

 最初から強い私立に、どこまで追いつけるか。

 それが白富東の課題なのだ。


 直史としてもこの秋は、とても県大会のベスト4までは勝ち抜いていけないと思う。

 もっともそれもトーナメント次第ではあるが。

 あとは勇名館が甲子園で、どれだけ勝ち進めるか。

 それによって代表校の数が増えるかもしれない。


 少なくともエースが引退した三里よりも、今の時点なら白富東は強い。

 だが秋の大会で果たして、どこまで勝つことが出来るのか。

 この酷暑の中で、変に体力を消費させてはいけない。

 まずは座学で、一年生の力も高めていくのだ。




 北村はおそらく、今年度でまた転勤がやってくる。

 その後を誰がやるのかは、まだ決まっていない。

 おそらくそれなりに、野球経験のある教師はやってくるだろう。

 ただ普通の指導者よりは既に、白富東の生徒の方が、野球には詳しい。


 白富東というチームは、確固たるテーマによって成り立っている。

 直史がいた頃から、それだけは変わっていない。

 選手による試みを尊重するということ。

 選手の判断を尊重するということ。

 あくまでも指導者というのは、チームを微調整するのが仕事である。

 もっとも試合ともなれば、そうはいかない。

 ピンチの時もチャンスの時も、不動の心でいなければいけない。

 そうした姿を見せることで、選手たちに安心感を与えるのだ。


 次に北村は、どこへ行くというのか。

 勤務地から考えれば、それほど遠くにはならないとは思う。

 ただそれなりに野球部の強い公立校、というのはほぼ決まっている。

 こういうものは実績を残してしまうと、それが続いていくのだ。


 今の残った選手たちを見れば、まだ異動はしたくないと思う。

 だが公立校であると、それにも限界があるのだ。

 もっとも二つぐらいの学校を、交互に行き来するというのもありうる。

 そのあたりの人事に関しては、教育委員会の裁量があったりするのだ。


 まだもう少し、白富東にいたい。

「なんとかなると思いますけど?」

 直史の言葉に、きょとんとする北村である。

「要するに、県の教育委員会に、働きかければいいんですよね?」

 直史はこれまで、色々と非常識なことをしてきた。

 しかし体育会系の中の文化系ということで、色々な権力者と会ったりしているのだ。

 弁護士は反権力であろう、と思う者もいるかもしれない。

 だが直史としては、弁護士は法の範囲内で依頼者を守れば、それでいいのだと思っている。

 直史は善人であり、法律の専門家ではあるが、法にさえ反しなければ、誰かを贔屓することは、普通にあるのだ。




 八月、夏の甲子園が始まる。

 この時期は学生は夏休みであり、社会人も盆休みであることが多い。

 直史のいる佐倉弁護士事務所も、盆にはしっかりと休みとなっている。

 もっとも顧問となっている会社などからの依頼は、受けざるをえないところはあるが。


 大会放映のテレビ局から、直史に対して解説の依頼が来たりなどした。

 だが当然ながら、直史は関西まで行って、そんな仕事をしようとは思わない。

 そもそもそういう仕事は、元プロはあまりしないものである。

 それにこの時期は、プロ野球のペナントレースも、かなり熾烈なものになってきている。


 海の向こうでは、相変わらずぽんぽんと大介がホームランを量産している。

 そういったことに対するコメントを求め、直史のところに取材に来たりもするのだ。

 まあ弁護士の相談料と同じような感じで、それなりに取材は受ける。

 ただ直史としては、もうアメリカのMLBについては、どんどんと興味を失ってきているのだ。

 それはもう、あの相手と対戦はしなくてもいいという安心から来るものであるが。


 夏はやはり高校野球である。

 これはもう日本人の心には、半分刻まれてしまったようなものだ。

 高校野球、甲子園のいいところは、プロよりも試合の展開が早いことである。

 一日に四試合を消化しなければいけない以上、少しでも時間は短縮しないといけない。

 そもそも甲子園球場のグラウンド整備の能力は、極めて高いと言われている。

 もしも白富東がまたも出場したなら、現地まで見に行ってもいいかもしれない。

 だが正直に言ってしまえば、移動の時間まで考えて、家のテレビで見るのが一番快適ではあるだろう。

 お年寄りなどは無理をせず、自宅で高校野球。

 甘美な夏の誘惑である。

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