第59話 依頼
九回の表に逆転し、そして最後の守備。
多少の緊張感があるのは仕方ないだろうが、内野も外野もしっかりと声を出している。
ベンチから星も、本来はさほど大きくもない声量で、しっかりと指示を出している。
果たしてこの試合、勝ち残るのはどちらか。
『これは、先頭打者にどういうボールを投げるかで、おおよそは予想できますね』
直史はそう言って、試合の行方に集中する。
『高校野球の場合、夏の大会は最後、ピッチャーとバッターが三年生かそれ以外かで、変わってくる傾向がありますから』
瑞希が直史の発言を補足するが、それがどう具体的に変わるかは、はっきりとは説明しない。
直史から話を聞いている瑞希は、おそらくこれは三里が有利だろうな、とは思っている。
マウンドには三里のエース、三年の南。
そしてトーチバも、ここからは三年生の打線が続く。
一点差の場面で、代打を出してくるかどうか。
さほど悪い打順でもない。
だがトーチバならば、代打の切り札的なバッターはいるはずなのだ。
そのあたりの情報を、直史は集めていない。
基本的に直史は、実際に目にした三里の選手の方の感想を言って、トーチバは瑞希に任せているのだ。
瑞希としては、一発で同点に追いつけるというこの場面なら、出すべきバッターがいるとは思っている。
ただしそれは一年生であり、このぎりぎりの場面で三年生に代えて出すことが出来るのか。
トーチバの選手たちは、全員が甲子園に行くつもりで野球をやっているはずだ。
ただ春季大会の勇名館の快進撃を思うと、今年はあそこかな、と瑞希などは思うのだ。
さすがに春季大会では、出回っているデータも少ない。
しかし自分たちが高校生だった頃を思い出せば、どういう気分なのか分からないでもないはずなのだ。
(……あれ? 分からない)
一年の夏にギャン泣きしていたのはジンだけであるし、二年の夏は岩崎が落ち込んでいたぐらいだし、三年の夏は直史が気絶していた。
う~んと首を捻る瑞希である。
トーチバとしてはここで、夏を終わらせるわけにはいかない。
この最後の夏というのは、本当に特別なものなのだ。
大学でも野球を続ける者が多いトーチバだが、それでも高校で野球に見切りをつける者はそれなりにいる。
最後の試合になるかも、という緊張感が、ほんのわずかにプレイに影響する。
プレッシャーを克服する手段は難しい。
昔ながらの、とにかく根性という精神論では、プレッシャーには対抗できないのだ。
なぜならば辛い練習に耐える精神力と、プレッシャーに耐える精神力は、また別のものだからだ。
同じだ、と思ってしまえる雑な人間は、むしろ向いているのだろうが。
星は選手たちに、プレッシャーを楽しめと言っている。
世界中に、日本中に、どれだけの人間がいて、その中の何人がこのようなプレッシャーを感じることがあるのか。
実のところこれは、星自身の言葉ではない。
だが星の尊敬する国立が、同じようなことを言っていた。
結局プレッシャーというのは、自分自身との戦いである。
そこに他人との対決はなく、結局は自分自身が最大の敵となるのだ。
成長するために、自分自身の壁を超える。
そんな感じのことを言うと、なぜか高校生は他の人間より、自分と戦う方が楽だと思ってしまうらしい。
もっともその方が、指導する側としても都合はいいのだが。
九回の裏、点差は一点。
単純に考えて、三里の方が有利である。
もちろん追いつかれれば、一気に逆転すらありうる。
だがここまで三里は、エースをそれなりに温存できていた。
他のピッチャーたちが、しっかりと最小失点で投げてきてくれたからだ。
野球はチームスポーツだというのは、そういうところも含めてのことだ。
確かに一人のエースがいれば、かなり上まで勝ち進むことも出来る。
だが上杉は結局、一人では勝てなかったのだ。
直史などは上杉に比べれば、ずっとチームメンバーには恵まれていた。
それでも上杉が引退した後、春日山が全国を制覇しているのだから、野球というのは本当に予測がつきにくい。
あれは白富東と大阪光陰が準決勝で潰しあい、春日山は漁夫の利を得た、というのが一般的な見方だが、後に活躍している正也や樋口を考えれば、そう単純な戦力分析でもないのだ。
直史が考えていた、先頭打者を出さないということ。
三里が勝つための第一条件を、エースの南はしっかりと達成した。
ワンナウトから、トーチバは代打を送ってくる。
ここで使うのか、とも思ったが、ツーアウトで最後のバッターとして打席に送るのは、一年生には酷であろう。
それよりはまだ、後ろに誰かがいる状態で、立たせた方がいいと考えたのか。
打力はあるが、足はそれほどでもないため、内野はやや深めに守る。
警戒するのはまず一発であり、抜けた球だけは投げないようにしなければいけない。
しかしそこで、わずかに浮いた球が、ゾーンの高めへ。
ミートしたボールは、センター前に抜けていった。
ワンナウト一塁。
ここでトーチバは代走を出してきたのである。
代打がしっかりヒットを打てば、すぐさま代走を出してくる。
この同点のランナーを帰すために、トーチバは全力をかけてくるだろう。
『タイムはあと一回残っていますね。星監督、どこで使ってくるでしょう』
『使いたい場面は色々ありましたけど、ここまで使いませんでしたからね。ランナーが二塁に進むまでは、まだ使わないと思いますよ』
万一ホームランでも出たら、逆転サヨナラではある。
『バッター、今大会打率はともかく、ホームランは打っていませんね』
与えられていた情報から、瑞希がそう指摘する。
ワンナウト一塁から、果たしてどういう選択をしてくるのか。
トーチバもまた、細かい野球はそれなりにしてくるチームだ。
そもそも私立の強豪というのは、そういったセットプレイにも力を入れて練習をしている。
この場面で最悪なのは、もちろんダブルプレイスリーアウトゲームセットだ。
そしてその次は、三振や内野フライによる進塁も出来ないアウト。
最低限は、二塁にランナーを進塁させること。
大きなものは狙ってこれないだろう。
普通に考えても、異常に考えても、ここは右方向に打っていくべきだ。
代走のランナーではあるが、盗塁は失敗すればそれで終わる。
エンドランなどをかけるのも、リスクがかなり高い。
それでもかけてくるのが、名将の条件なのかもしれないが。
自分だったらどう指示をするか。
『初球スチール、狙うかな』
『可能性はありますけれど……』
三里のバッテリーは、かなりクイックからの牽制などもしっかりとしている。
ここで単独スチールを狙うぐらいなら、まだエンドランなりバスターなり、そういうものを選ぶのではないか。
そう考えていたら、バッターがバントの構えになる。
だが三里の内野は、前進守備などはしない。
ランナーを二塁に進めてでも、アウトカウント一つを確実に取る。
この星の判断は、間違いではないだろう。
『次は……代打がまた準備していますね』
『バスターエンドランか、あるいはセーフティ狙いか』
ここで単純に送りバントをするのは、得点の期待値を一気に下げるだけだ。
『あるいはワンバントで三塁までランナーを進めるか』
『ツーアウトにしてまで、ランナーを三塁へ?』
『三塁ランナー絶対帰すマンがいないですね』
直史と瑞希の会話が、やや内輪ネタになってきていた。
星はエースを育てたつもりである。
だが実際のところ、本当のエースの精神というのは、生まれつきのものだとも思う。
こいつなら絶対になんとかしてくれる。
こいつで駄目ならどうしようもない。
それを兼ねて、プレッシャーを感じながらも楽しむ、主人公体質。
エースとはそういうものであり、星はそんなエースを何人か、そして究極のエースも間近で見てきた。
そして究極と至高のエース同士が戦ったら、どういうことになるのかも。
まだ自分の教え子は、そこに至るには遠い段階にしかない。
だがそれでも、今はエースだ。
こいつで駄目なら、他の誰でも駄目なのだ。
今この瞬間、自分が自分の周囲、スタジアムの範囲の中の主人公であるという自認。
そんなものがあってこそ、まさにエースと言えるだろう。
トーチバの取ってくる戦術に関しては、さほど警戒してはいない。
いつも通りに守って、一つずつアウトを取っていけばいいのだ。
トーチバが使ってきたのは、やはりバスターエンドラン。
ピッチャーが足を上げた瞬間に、セカンドとショートは、わずかに後退していた。
打たれたボールは、普通なら一二塁間を抜けてもおかしくないような打球。
だが追いついたセカンドはキャッチして、そして体勢を整えてから、ファーストに投げてアウト。
これでツーアウトランナー二塁となる。
あと一人だ。
ツーアウトランナー二塁で俊足のランナーなので、外野に抜けるクリーンヒット一本で、おおよそ一点が入るであろう。
そのあたりは三塁コーチの判断によるが、三里の外野はそれほど、傑出した強肩というほどではない。
『トーチバはまた代打を出してきましたが、これはどうですか、佐藤さん?』
『結局アウト一つで試合終了には変わりませんから、変にプレッシャーを感じないことが重要ですね』
『バスターエンドランも充分に予測した上で、最低限の仕事に抑えてますから』
瑞希の見立ても同じである。
色々と考えたようだが、結局の結果は単なる送りバントと同じ。
ヒットを打たせず確実に一塁でアウトを取ったことで、勝利へはまた一歩近づいた。
代打に出てきた三年は、今大会ここまで三打数一安打。
代打の切り札、というほどの活躍まではしていない。
ただ三年生の執念が、どこまで通用するか。
『力の抜けたいいスイングはしていますね』
直史はトーチバの陣営の方も、贔屓なくしっかりと解説する。
ほどよい緊張をしながらも、体が固まっていない。
しかしそれは、変わらず三里が有利であるということだ。
下手に力で抑えようとせず、長打にさえ気をつければいい。
エースとしての責任はあるだろうが、それとはまた別に、バックを信頼して投げるのだ。
初球は外していってもいいだろう。
あるいは際どいところばかりを突いて行って、まともには勝負しないという方針でもいい。
その場合、歩かせれば逆転のランナーが出ることになるが。
いよいよ試合の決着が迫ってきていた。
初球から内角に投げ込んできた。
ボール球であるが、膝元へのボールで、目付けをそちらにさせる。
次に投げた高めの球を振らせてワンストライク。
こちらもボール球であるが、上手く力が乗っていて、振らせることに成功した。
『このあたりで変化球を入れたいと思いますね』
それで上手くストライクが取れたら最高だ。
投げられたのはカーブ。
そんなの使えたのか、というぎこちないカーブであったが、バッターは見逃したしまった。
『バッター見逃し!』
『ちょっと予想していなかったかもしれませんね』
『さあこれで、ツーストライクと追い込んだ!』
『まだボール球を使えますからね。ただここでど真ん中にストレートを投げ込んだら、バッターは打てませんよ』
それはお前にしか出来ないことだろう。
変化球が二球続けてボール。
これでフルカウントになったが、逆に審判も際どいところはストライクを取っていくだろう。
『この状況だと、審判のストライク判定がピッチャー有利になることが多いですからね。ちゃんとバッターは際どいところでも、カットしていかなければいけないんですけれど』
そして投げられたのは、ボールに逃げていくスライダー。
これに食らいついたものの、ボールは右のファースト正面。
キャッチしたファーストが、そのままベースを踏む。
完全にアウトであるのに、打ったバッターは一塁でヘッドスライディング。
『危ないなあ』
4-3で県立三里高校は、準決勝進出を決めた。
打ったヒットの数も、出したランナーの数も、トーチバの方が上であった。
なのになぜ、勝ったのは三里であるのか。
それが高校野球だと言ってしまえば、それはそうなのである。
だが直史としては、一つの理由は分かる。
『フィルダーチョイスがなかったですからね』
三里は確実性の高い野球をやっていたのだ。
しかし攻撃に関しては、積極的に走塁をしていった。
野球は実力差に対して、ある程度の運も試合の結果を左右するスポーツである。
ただその運の偏りをも上回る、圧倒的な力もまた、ないわけではない。
三里はトーチバに対して、確かに戦力では劣っていた。
だが数少ないチャンスを、しっかりとものにしたのだ。
そして最後まで、相手のチャンスでも想定内の処理が出来た。
実況解説が終わり、直史も息を吐く。
これまでも試合を見ていくということは当たり前のようにあったが、それを自分で解説するというのは初めてであった。
「どうでしたか?」
「味わったことのない緊張感がありましたね」
「お上手であったと思いますよ」
そう言われても、調子に乗らないところが直史である。
体は動かしていないが気疲れして、二人は球場を後にする。
「高校野球相手だと、適当なことが言えないな」
「プロならいいの?」
「あっちは娯楽だしな」
直史の基準では、両者の間には明確な違いがあるらしい。
「学生野球とプロは、やっぱり違うだろ」
瑞希もなんとなく、分からないでもない。
思い出して、試合中は電源を切っておいたスマートフォンを取り出す。
直史が運転している間、瑞希が確認してみれば、あちこちからメッセージやメールが送られてきていた。
そしてSNSのトピックに『佐藤夫妻』などというワードがあったりする。
普通に解説をしただけなのに、こんなことが起こるのか。
「もうあまり解説の仕事は受けない方がいいかも」
そう瑞希に言われて、直史は世界が窮屈になるのを感じた。
解説の仕事をしませんか、という話はいくつもやってきた。
ただ解説をしただけで、地方局の視聴率が20%を突破したらしい。
それがすごいことなのかどうか、確認する意義すら直史は感じなかったが。
高校野球だけではなく、プロの方からも話はやってきた。
また大学野球の早慶戦などについても。
プロの話をするにしても、直史はこの五年間の、新しいスターについては知らない。
興味がなかったというのもそうだが、そこまでフォローする余裕がなかったのだ。
それにもしメジャーに来るようなバッターやピッチャーが出てきても、自分が引退するほうが先だろうと思っていた。
ただ今年はタイタンズが、セ・リーグではトップを走っている。
パ・リーグではなんと千葉が、今のところ首位を保っている。
もっともまだ七月であるので、ここから優勝まで持っていくのは、まだまだ難しいであろう。
相変わらず福岡が強く、直史も知らなかった選手が、今年からブレイクしたりしている。
育成の福岡、というのはよく言ったものである。
それはそれとして、白富東はベスト8まで進んで負けていた。
またトーチバに勝利した三里も、決勝で勇名館に負けている。
今年の千葉の代表は、私立勇名館高校。
夏はこれで三年ぶり、四回目の出場である。
地方大会の決勝で負けるのは、一番悔しいだろうな、と直史は思う。
自分もそうであったが、あの時は一年生であったので、自分自身はそれほどとも思わなかった。
三里は今の一年や二年を見る限り、相当に伸びてこないと、来年はとても決勝までは来れないと思う。
もっとも高校生は、一ヶ月もしない間に、急成長したりするものだが。
そして千葉のみならず、各地の代表校が決まっていく。
甲子園の間に、敗退したチームは既に、新しいチーム作りにかかっている。
秋季大会はまた、すぐにやってくるからだ。
「もしもし」
『ああ、俺だよ』
「オレオレ詐欺ですか?」
『いや、違う』
甲子園さえも始まる前、またも北村から電話がかかってきた。
秋季大会に向けて、またコーチを頼みたいというものであった。
「夏休みの間なら、まあいいですけど」
今年のお盆は久しぶりに、実家に帰って過ごすのだ。
そんな直史でも、残暑とさえ言えない季節に、また母校の指導に向かう。
コーチなら案外楽しいな、と思える直史であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます