第50話 春の休日

 そういえば春季大会が始まっているな、とあれから数日後、直史は思い出していた。

 頼まれた臨時コーチであったが、存外楽しかったものだ。

 なにせ高校生というのはまだ未熟な選手ばかりであるため、ほんのわずかに手をかけただけでも、ぐんと伸びていく。

 目の前でその成長を確認して、セイバーはこんな見方をしていたのかな、と思ったりもした。

(いや、あの人はそういうタイプじゃないか)

 自分の見る目よりも、数値を信じるのがセイバーであった。

 ただ選手の体に起こっていることが何なのかを、数字を使って説明することが出来たのだ。

 基本的に数字は裏切らない。


 きらきらと高校生たちが輝いている間、直史がやっていることは、飲酒運転による危険運転致死傷罪での示談や、無料法律相談への出張、無銭飲食の国選弁護。

 なんとも地味ではあるが、それでも誰かはやらなければいけないことであるのだ。

「佐藤先生はこんなことやってちゃ駄目ですよー!」

 なぜか保釈された被告が、酔っ払って説教してきたりする。

 う~ん、このお前が言うな感。


 飲酒運転による犯罪だけは、相当に重いものである。

 ただその時の、運転者が酔っていたかどうかという認識や、飲酒してからの時間経過などで、ある程度の酌量の余地はある。

 直史などは普通に、なんで飲んでから乗るんだ? そんな判断をしている時点で正気ではないだろう? などとも思うのだが、世の中にはどうしようもない馬鹿というものはいるのだ。


 この場合は被害に遭った被害者の方も、横断歩道をないところから、急に飛び出してきたという状況がある。

 ただ基本的にこういう場合、圧倒的に車の方が不利になるのだ。

 また年々飲酒運転に対する罰則は、強化されている。

 田舎であるとまだ、普通に飲んでいるおっさんどもはいたりするが、そういうのは昔から飲んでも乗っていて、今まで大丈夫だったというパターンが多い。


 刑事罰の方は飲酒してからの時間の経過や、状況でのブレーキ痕から、それなりの判断力はあったという見方が取られる。

 あとは賠償の方であるが、こちらで示談が取れていないと、刑事罰が変わってきたりする。

 要するに示談で反省をしっかり示しておけば、それは刑事の方にも影響するというわけだ。

 幸いなことに免許停止とはなったが、取り消しとまではいかずに、さらに執行猶予を取ることも出来た。

 カメラにしっかりと飛び出しが映っていたのが幸いである。




 う~む、と直史は悩むのである。

 こちらは弁護士であり、被告の弁護をして、しっかりと保釈までさせてきた。

 それをどうしてこちらが説教をされなければいけないのだ、という話である。

 そもそも直史は故障をしているのであり、投げたとしたらいつ右ひじがパンクするか、それが分かっていない。

 ただその割にはあの引退試合が、あまりにも鮮烈であったということか。


 子供たちをお風呂に入れて、家に持ち帰ってきた仕事を整理する。

 仕事の割合は直史の方が多いのだが、瑞希は家事に加えて執筆活動もしている。

「週に一回ぐらいの割合で、家事代行を頼もうか」

 直史としては、瑞希の時間が奪われるのは、時間単価としてもったいないと思えるのだ。

 掃除と洗濯を任せるぐらいの収入は、二人にもある。

 そもそもお金の話だけをするなら、もう働く必要すらない。


 二人の意識の中にあるのは、労働というものではないだろう。

 この人間社会の中において、自分の果たすべき役割は何か。

 使命感というものが、二人の共通の価値観である。

 直史はだからこそ、定年のない弁護士を選んだとも言える。

 瑞希の場合は、文筆業における需要が大きいため、弁護士業務の次には、そちらの方を大事にした方がいい。

 家事はアウトソーシングして、育児だけはしっかりとしよう。

 このあたりの認識が、二人の間では違っていなかったのが、夫婦関係が円満に展開する理由であるだろう。




 人は人生を楽しむために生きている。

 そして楽しむというのは、楽なことばかりをするわけではない。

 もちろん他人から苦しめと言われたり、他人に対して苦しめるのは違う。

 だが難しい問題を解決する達成感を、二人は既に知っている。


 また弁護士という職業は、他人に必要とされなければ、成り立たない職業である。

 さらには基本的に、依頼者には感謝される。

 かつてほどの魅力はなくなったが、それでも社会的に見て、信用のある職業なのである。


 直史は俗物だ。

 ただ俗物であると同時に、美学も持っている人間ではある。

 なので単純な欲望だけでは、満足して生きることが出来ない。

 社会的な尊敬、名誉、また家族からの愛情。

 牧歌的な人間であると同時に、強靭な精神性も持っている。

 依頼はしっかりと受けて、法律を正しく運用する。

 しかしそこに、微妙に好悪の感情は混ぜてくるのだ。


 仕事ではあるが同時に、社会的な価値観を左右することでもある。

 単純に依頼人の利益を最大化するのが本来の弁護士だと思っているが、実際には弁護士報酬の最大化も狙ったりする。

 これも仕事であるのだ。霞を食って生きているわけではない。

 今日もまた、晴れた日曜日であるのに、相手都合で出勤になったりもする。

 こういった不便さをも楽しむところが、人生を充実させる秘訣なのかもしれない。




 今日は完全に休みが取れた休日。

 家族サービスというわけでもないが、むしろ充電のために真琴を外に連れ出す。

 まだ小さい明史は、ベビーカーで瑞希が押す。

 そして真琴は元気に動き回るので、直史がハンズフリーになってそれを追いかけるのだ。


 やってきたのは野球場である。

 これまでずっと、直史はこの時期には、確かに野球をしてきた。

 今年からはそれをしないと言われて、真琴が野球を見たがったのだ。

 なんでこんなに野球好きな女の子になってしまったのだろう、と直史は完全に自分の影響であるという自覚がない。

 何度もそのたびに言われているはずなのだが。

 そもそも野球好き女子は、身近にいくらでもいるであろうに。

 だが自分の娘が野球を好きだと不思議に思う直史は、高校時代のシーナや、その後のマネージャーたちを、いったいどう考えていたのであろうか。


 プロ野球などではなく、昼間から行われている高校野球。

 つまり春季大会の試合を、直史は見にやってきたわけだ。

「忙しいだろうに来てくれたのか」

 時間まで合わせて、試合前に北村に会う。

「いや、娘が野球の試合を見たいと言って」

「英才教育か!」

「そうでもないんですが」

 直史はあれだけの環境にあったというのに、女性の趣味に関しては保守的だ。

 でなければ瑞希と結婚などしなかったであろうに。


 瑞希としてもそのあたり、直史は女の趣味が保守的だな、と自分のことながら思っている。

 とは言っても亭主関白などということはなく、普通に家事も分担しているのだが。

 真琴は居並ぶ高校球児に、じっと視線をとどめたままだ。

「あんまり大きくない」

 それはMLBの選手の平均に比べれば、高校野球の選手は小さいだろう。

 ただ大介みたいな例外もいるのだが。


「奥さん美人で娘さん可愛いってもう、人生勝ち組じゃないですか」

「いやいや、メジャーでがっぽり稼いだ人なんだから、それがなくても勝ち組だって」

「世界が違~う」

 高校球児たちは、真琴を高い高いと持ち上げながら、キャッキャと喜ばせている。

 喜んでいるから仕方ないが、直史としてはすこしはらはらしていたりもする。


 今日の試合は県大会本戦で、それほど相手も強くはない。

 順当に戦えば勝てるだろうが、油断していい相手でもない。

 そもそも高校野球というのは、相手が強くなくても、油断していれば負けてしまうことはあるのだから。




 バックネット裏の特等席が、充分に空いていた。

「なんでこんなにお客さん少ないの~?」

 真琴はそう言うが、確かに直史のいる試合では、NPBもMLBも、オープン戦すら満員になることが普通であったろう。

「プロじゃないからなあ」

「プロじゃないの~?」

 プロ野球が見たかった、というのも少し違うと思うのだが。


 MLBの試合ともなれば満員の観客席で、歓声を浴びながら試合をする。

 ただそれでも休日の試合なので、ベンチ入りメンバー以外も応援に来ている。

 また学校の友人や、なぜかどこにでもいる野球親父などがいるので、それなりに観客がいないわけではないのだ。

 いや本当に、これが平日の昼間でも、どこからともなく現れるおっさんどもは、いったいどういう存在なのか。


 スクリーンに選手が表示されるわけでもなく、ストライクなのかボールなのかも分かりにくい。

 なので内野スタンドから見る、というおっさんどもはいるのだ。

 本日は白富東が、順当に先攻を取ることが出来た。

 先攻有利の原則は、北村としても守っているらしい。

 もっとも高校最後の夏のあの最後の試合、北村がキャプテンの白富東は、先攻で負けているわけだが。

 そういったジンクスは、北村は信じないはずだろう。




 試合は初回から動いた。

 北村は極悪非道の心理戦などは行わないが、充分に相手を揺さぶるプレイはしていく。

 いきなり二塁から一気にホームを奪う変則スクイズを決めて、先取点を奪う。

 そこからツーアウトなのに連打となり、さらに二点を奪った。


 まさに戦術の野球である。

「あんまり上手くないね」

「高校生だからな」

 真琴は容赦がないが、確かに相手の守備は既に混乱している。

 バックが安定していないと、ピッチャーにも影響があるのだ。

 直史には必要なかったが、ここは声を出して士気を上げていくべきだろう。

 だが攻撃側の白富東が、バッターに向けて声をかけていたのだ。


 野球は心理戦だ。

 一回の裏、三者凡退で終わらせたことで、この試合の勢いは完全に白富東に傾いたように見えた。

 それぞれのバッターが、自分の打った球種について、打てる打てるとベンチから声をかける。

 これで向こうのピッチャーは、その球種が投げにくくなる。

 そして実際にいい当たりがでたが、外野の守備範囲と内野の正面。

 うん? と直史は相手のベンチを見る。


 野球は心理戦であり、高校野球は本当に、一気に流れが変わることもある。

 この回にも一点は取っておいて、確実にリードを広げておきたかった。

 もちろん今の回は本当に偶然に、点が入らなかったものだ。

 だがそこで選手のケアを、北村はしてくるのか。


 初回の三点のみで、四回までは両チーム動きがない。

 ランナーは出たがそれが二塁にも進まないという膠着状態。

 初回の先制点から、一気に流れを呼び込むことが出来なかった。

 まだ一波乱、あるのかもしれない。

 



 北村は油断していない。

 野球はツーアウトからという言葉もあるが、三点差は満塁ホームランが出れば、一瞬で逆転する点差だ。

 打者は三巡目に入り、もう相手の先発はおおよそ把握出来ている。

(流れは止まっているけど、ここで一気に押し出す)

 相手のチームには、ホームランを打てるようなスラッガーはいない。

 もちろん狙ってなくても、運よくホームランが出ることもないではないが。


 五回からは三巡目で、しかも一番バッターからという好打順。

 クリーンヒットで先頭が出た。

 ここは一点がほしい場面であるし、逆に相手は一点もやりたくない場面だ。

 初回の立ち上がりで三点を失ってはいるが、チーム力にはそこまで差はない、と勘違いしている。

 実際は実力なら、白富東がかなり上回っている。

 しかし勢いで勝てるのが、高校野球だ。


 ここで勢いを絶つためには、追加点が必要になる。

 三点差のまま食らいついていたところを、少しでも離すのだ。

 そうすればそこで、諦めが生まれる。

 相手チーム全体が諦めなくても、わずかな沈滞ムードによって、逆転の可能性は減っていくのだ。


 野球はメンタルスポーツだ。

 そして技術も重要ではあるが、一つ一つのプレイによって、相手のメンタルを削っていくのも重要なのだ。

 心理戦によって、相手の気力を奪っていく。

 諦めなくても勝てるとは限らないが、諦めたらそこで試合終了なのだ。それは確かに正しい言葉である。




 観客席では、真琴が座席をゴロゴロと転がりながら、それでも試合をちゃんと見ていた。

「点が入らないね」

「どちらもそれなりに、守備はいいからな」

 初回の三点が、相手には重くのしかかっているだろう。

 そして一点ではなく三点というのが、ありがたいぐらいの点差なのだ。


 三点差があっても油断しない、というのが直史の現役時代の考えであった。

 だが自分が勝つつもりではなく、客観的に試合の流れを読むようになれば、点差による双方の心理状態も分かってくるのだ。

 ビッグイニングを作らないための、選択に間違いのない白富東の守備。

 ファンブルなどでエラーになるのは仕方ないが、無茶な送球によるミスからの、出塁や進塁はない。

 ピッチャーは既に二人目であるが、ストライク先行ながら、それなりに球数は使っていっている。


 ノーアウトランナー一塁。バッターは送りバントの体勢。

「消極的すぎない?」

「バスターだろ」

「ああ」

 瑞希の質問の直史が応じたように、バスターエンドランで打球は運よく一塁線のファーストベースへ衝突。

 転がるボールを見ながら、三塁のランナーコーチは腕を回した。


 四点目が入った。

 この運の良さによる一点は、かなり大きなものではないのか。

「おとーさん、どうして分かったの?」

 真琴もバスターという単語ぐらいは分かっているが、直史の予想が当たったことに驚いている。

 この状況で積極的に、しかしダブルプレイだけは防ぎたければ、バスターエンドランは充分に取りうる選択であった。


 ランナー一塁であって、しかもバントの体勢であっても、相手チームの内野はさほど前進をしていなかった。

 ならば送りバントでも良かったのでは、というのが普通の判断だ。

 しかし高校野球においても、アウトカウントをほぼ確実に一つ与えて、ランナーを二塁に進めるメリットは、あまりないのだ。

 ローリスクローリターンより、ハイリスクハイリターンを選択した。

 もし失敗しても、こちらの積極的な姿勢を、向こうに見せ付けることが目的としてはあったのだ。


 


 これでノーアウトのまま、まだランナーは三塁へと進んでいた。

 確実にあと一点は取れるので、スクイズという選択もある。

「スクイズはないと思うな」

 絶対にないとは言い切れないが、直史なら選択しない。


 今の打球による失点は、打球の方向の運の悪さ、というのが大きい。

 実力で取られた一点とは、あまり言えないのだ。

 これがエラーなどによる一点であれば、スクイズの動きを見せて、より向こうの混乱を狙っていく。

 ただ一点を取るのと、疲弊させて一点を取るのでは、意味が全く違う。

 それにスクイズでさらに一点を取っても、相手を落ち着かせてしまう。


 北村のまともな性格からでも導き出せる、この場合のバッターの最適解。

 直史はそれは『見』であると思う。

「三番に回ってスクイズをするにしても、出来れば一塁にランナーがいてほしいはずだしな」

 無死ランナー一三塁となれば、三振以外はほとんどの確率で、一点は入る。

 打球によっては向こうは、ホームではなくダブルプレイを狙うかもしれない。

 だからこそこのバッターは、絶対に抑えなくてはいけない。

 むしろスクイズはさせてしまってもいいと思うのだ。


 ただそれは、五点目が入ることを意味する。

 相手の攻撃もまだ五回あるが、ここまで一点も取れていない。

 もっとも白富東は、既に二人目のピッチャーに交代しているのだが。

(これは勝てるな)

 それどころか七回コールドも見えてくる。

 

 相手を甘く見るわけではないが、コールドを狙うのはいいことだ。

 日程的にブロック大会は、それほどの過密日程ではない。

 だがそれでもピッチャーの消耗は、少しでも抑えた方がいいのだ。

 白富東の現在の戦力で、甲子園に行く方法。

 それは強豪校とは出来るだけ後に当たるようにシードを取り、そして強豪校をトーナメント終盤、ピッチャーの疲れた状態で当たること。

 消耗戦だ。


 こちらはいくらでも、ピッチャーの枚数はいる。

 戦術と戦略で、相手を倒すのだ。

(夏は楽しめそうかな?)

 試合は結局、七回コールドで白富東が勝利した。

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