第79話 解禁

 日米のプロ野球もオープン戦が進んでいく。

 海の向こうのことであっても、今は即日で分かるのが、現代のネットワーク社会の恩恵であろう。

 直史としては大介のことはあまり心配していない。

 メトロズの戦力が落ちることは確かだが、つまりそれは大介に対して、あえて勝負を避ける場面が減ると思われたからだ。

 一応は大介であっても、勝負したときの方が勝負せずに敬遠した時より、数字はよくなっているはずなのだ。

 それに去年の成績は、NPB時代に故障した一年を除けば、一番悪かったとも言える。


 直史が心配しているのは、武史の方である。

 実の弟であるので、大人になってもまだ心配をする。

 いい加減にいい大人ではあるが、どこか危なっかしいのは確かだ。

 そのあたりはいい伴侶を見つけたなと思うのだが、逆に恵美理に見捨てられれば、一気に落ちていきそうなのも確かなのである。


 ラッキーズのキャッチャーはそれなりにいいのがいるので、なんとかなるかなとは思っている。

 ただ失敗したら叩かれるのは必然の、巨額の大型契約。

 もっともオープン戦を見る限りでは、抜けた球を打たれたことなどはあるものの、相変わらずの奪三振率を誇っている。

 このあたりのデータに関しては、瑞希の方が専門的に、ネットの情報と合わせてまとめているのだ。


 直史はかつて所属した、アナハイムについても多少の愛着がある。

 愛着と言うか、戦友たちへの共感と言えようか。

 長年バッテリーを組んできた樋口に、高校時代の後輩であったアレク。

 また直史の引退により、少しは戦力を放出しているが、若手はそれなりに残っている。

 なので全くMLBの様子を見ていないというわけではない。


 そしてNPBに関しては、ほとんどのことを知らない。 

 さすがに鬼塚に関しては代理人なだけあって、何かあれば連絡をとは言ってある。

 だがちょっとした弱みであったりしたら、遠慮してしまうのが鬼塚だ。

 契約関係であるので、問題があればすぐに知らせてくれた方が、結果的には早く解決するのだろうが。


 NPBのオープン戦も、それぞれの本拠地に移動してくる。

 ペナントレースの開幕を、ファンは指折り数えて待っている。

 ただその中には、選手の故障などといった、聞きたくもないニュースもあるだろう。

 そういうものを聞くたびに、やはりプロの世界は一歩先が闇だな、などと直史は思うのであるが。


 そして高校野球の、対外試合禁止期間が終わる。

 春のセンバツがやってくるのだ。




 この時期、確定申告の期間が終わり、企業も年度末前に〆日を設定していることが多いため、弁護士の年間を通じた仕事としては、少しだけ余裕が出来る。

 もっともそれは四月以降の、新年度に起こる新たな、世間の活動を前にしたわずかな休養期間であろうか。

 また飛び込みの案件は、普通にやってくる。


 ただそれでもこの日、直史は白富東のグラウンドを訪れていた。

 入試の結果も出て、やる気のある新入生は、春休みのうちから練習に参加している。

 もっとも怪我をした時に、一般の保険が使えないので、ある程度限定された練習内容になってくる。

 以前はこの期間に限定して保険に入っていたのだが、今はそれが通らなくなっているらしい。


 直史が秋に見た刑部と、他に二名の体育科の少年が、早速やってきていた。

 なお野球部本体の方は、本日も練習試合が入っている。

 禁止期間の間に、試合勘の鈍った選手たちを、実戦と実戦的な練習で叩き起こす。

 ただセンバツ出場が決まっているチームは、もっと切実に鍛え直しているだろう。


「合格発表から一週間ほど経過しているけど、体力はどれぐらい落ちてるかな?」

 直史はそう尋ねるが、自分自身は高校入学時、それほど運動をしていたわけではない。

 久しぶりの野球ということで、鈍っているだろうなとさえ思っていたのだ。

 そもそも入学前の練習になど参加しておらず、入学当日にやっとグラウンドを見に来たわけで。

 そう思うとまだこれから、数人はやってくる気もする。




 レジェンドを前にした、前途有望な少年たち。

 そう輝く目で見られても、直史としては偉そうにすることも出来ない。

「白富東は伝統的に春の大会も18人までしか枠を決めてない。一年生で即戦力がいれば、そのままベンチ入り出来る」

 もっとも直史の時代は、そもそも二三年だけでは20人が埋まらなかったのだが。

「なお私の春の大会の背番号は20で、19が白石大介だった」

 この話のネタは、何回でも繰り返せるかもしれない。


 体育科で入学しただけあって、三人はある程度体を動かしてきていた。

 ポジションはピッチャーが二人にセンターが一人。

 もっともピッチャーは刑部ももう一人も、他の内野ポジションを兼任している。

 残念なことにサウスポーではないが、それはもう仕方がないだろう。


 ちなみにこれは建前上は、野球部OBのおっちゃんが、新入生を教えているということになる。

 文章にしてしまうと、とんでもないことである。

「今日はキャッチボールとダッシュ、それと素振りをどんどんとやってもらう」

 直史の出したメニューは、基本だけであった。




 まずは柔軟体操に、ストレッチとアップを行う。

 まだ寒い季節なので、この運動は絶対に必要である。

「とにかく体が柔らかくないと、せっかくの力が上手く伝わらないからな」

「あの、コーチ、前から疑問に思ってたんですけど」

 ここでレジェンドに疑問を投げかけるだけ、肝の据わった新入生と言えるだろう。

「ネットとかで見たんですけど、王貞治とか江川卓は、あんまり体が柔らかくなかったそうですけど、それでもどうしてあんな成績が残せたんでしょう?」

「王と江川か」

 直史もその話は聞いたことがある。


 直史の知る限り、比較的体が硬い超一流野球選手は上杉ぐらいである。

 その上杉も、特筆するほど体が硬いというわけではない。

 西郷などもあの体型ながら、随分と体は柔らかいのだとか。

 なんでも幼少期からやっていた、相撲の影響であるらしい。


 とりあえずの説明はつけられる。

「時代と、動作の制限かな」

 単純に言えば、昭和と現代では、肉体に求められるスペックが違うのだ。

 直史などはフォームを微調整するために、体の柔軟性は必須である。

 大介やアレクに樋口などは、守備でゴールデングラブ賞を何度も取るぐらいなので、柔軟性には重きを置いている。

 打撃や投球だけに限定すれば、体全体が柔らかい必要はないのかもしれない。

 ただし王や江川が今の時代、柔軟性まで身につけていれば、そのパフォーマンスはさらに上がっていただろう。

 つまり時代が違うのだ。


 両者の守備位置は、ピッチャーとファーストであった。

 ここにいる三人は、それよりもずっと、動作の大きなポジションである。

 体の柔軟性は、何もプレイのパフォーマンスに影響するだけではない。

 故障をしないことが、スポーツにおいては一番重要なのだ。


 同じく超一流選手というならイチローは、体が硬いことを自覚して、メンテナンスをずっと続けた。

 さて、一番長く現役を続けたのは誰であったか。

「まあいくら体が柔らかくても、怪我をすればおしまいでもあるんだが」

 オチを自分でつけてしまう直史である。




 野球の最大の基本はキャッチボール。

 これを否定する人間はほとんどいないだろう。

 素振りやダッシュなどは、自分一人で完結する。

 だがキャッチボールは、相手がいてこそ成立するのだ。

 ……壁を相手に一人で投げ込みをしていた事実は、口にしない直史である。


 30メートルダッシュを、わずかな息を入れて四本行う。

 そしてそこから、キャッチボールへとメニューを変える。

 その後に素振りを、ちゃんとフォームを崩さずに30回。

 それが終われば、またダッシュへと移動していく。


 キャッチボールは二人でするものと、四人で二つのボールを使うものと、二つのパターンをやってみる。

 投げてすぐに、次のボールが来る。 

 本来の野球であれば、ありえない動作である。

 しっかりとキャッチして、しっかりと相手のグラブに投げる。

 初歩の動作をどれだけ叩き込むか、これも重要なことなのだ。


 出来れば投内連携もしたいが、それにはさすがに人数が足りない。

 なので練習試合を見ては、野球の座学を行ったりする。

 座学は重要なものであり、なんといっても進学校の白富東は、この部分で他のチームとは差を付ける。

 基本的には頭脳のチームであるのだから。




 改めて日米の野球の差を考える。

 日本では守備などは、反復練習で上達すると考える。

 それは間違いではないのだが、世界最高のレベルともなると、守備もまた才能の世界になっていく。

 NPBまでは基本に忠実だった大介の守備だが、MLBではフィジカル頼みのプレイもかなり多かった。

 なんといってもMLBは、微妙なところで必要なスピードが違う。

 打球速度などはむしろ、日本の人工芝の方が速かったりもするのだが、アメリカではわざとグラウンドの状態を荒いままにしていたりもする。

 原型が原っぱでのスポーツなので、そういったあたりは伝統的に考えるのだ。


 なおアメリカの場合、競馬だと全ての競馬場が、左回りであったりする。

 アメリカにも原野での競走はあったであろうに、どうしてここは人工的であるのか。

 それはアメリカの競馬が、能力測定の面を重視するからだ、と言われている。

 なるほど確かに、陸上競技などであるなら、その条件は等しくしなければいけないだろう。

 皮肉なことに欧州の競馬では、ある程度原野に近いように、芝を深くしていたりする。


 日本の内野手で通用する選手がなかなか出なかったのは、そのあたりの大前提が違ったからであろう。

 MLBのプレイを見ていると、丁寧さや正確さではなく、スピードが重視されているのが分かる。

 もちろん完全にスピードだけが問題なのではないが、ファーストがしっかりとキャッチすれば、ある程度のコントロールはどうにかなる。

 問題はやはりスピードなのだ。

 しかしそれはプロだから言えることであって、トーナメントにおいてはエラー一つから、大きく試合が崩れる可能性すらあるのだ。

 舞台や状況を考えて、スピードを重視するのか正確さを重視するのか、正しく判断しなければいけない。

 直史としては個人的には、正確さを重視するのが好みではあるのだが。




 この時期の練習試合は、県内のチームとも比較的対戦する。

 冬を越えてまだ新しいチームとしては未完成で、夏までにさらに変化していくからだ。

 この時点で手を晒しても、まださほどの意味はない。

 なので白富東も、やや格下の相手からでも快く練習試合を受け、冬の間のトレーニングの成果を実感する。


 高校野球であれば、単純に実感しやすいのはバッティングだろう。

 金属バットを使うことによって、ボールは前に飛ぶ。

 その打球の速度が、明らかに違っている。

 素振りも重要であるが、冬の間の下半身強化は、どんなプレイにもつながっている。

 バッティングは下半身である。

 腰から上だけでスタンドに持っていく化物は、とりあえず例外としておく。


 練習試合禁止期間は、丸々三ヶ月以上。

 その間の地道なトレーニングが、一気に花開くことがある。

 成長というのは一歩一歩毎日少しずつ、トレーニングを行っていかなければいけない。

 だがそれが開花するのは、突然であったりする。

 伸び悩んでいたものが、肉体のコントロールがカチリとはまり、出力の回路が開くような感じなのだ。

 もっともそこで、逆に動作の精密さが悪化する場合はあるが。

 出力を上げて、それをコントロールする。

 だいたいフィジカルを鍛えるというのは、そういうものだ。


 直史は秋までの白富東のチーム全体については、それほど詳細まで見ていたわけではなかった。

 だが一冬を越えた選手たちが、生き生きとプレイしているのは確かだ。

 やはり野球は、試合をするのが一番だ。

 その意味では受験と入試を挟んでいる、この一年生たちも同じことだろう。いや、夏で引退しているのだから、それ以上か。


 まずは実戦感覚を取り戻す必要がある。

 そのためにも早く、本格的に練習に参加させないといけない。

「もし自主練習をするなら、出来るだけボールを触った練習にするんだ」

 自分はやってなかったな、と追憶する直史であった。




 公立高校が強くなるためには、一つのハードルがある。

 それは監督教師の異動というものである。

 公立校でも外部の人間が監督をすることは、問題はない。

 しかし支払われる報酬は少なく、持ち出しでやっている監督もいたりする。


 指導者層の厚さが、私立と公立の大きな差の一つではある。

 そして去年の時点では、北村はこの三月で異動というのが濃厚であったのだ。

「一年延長してもらった」

「そういうこと出来るんですね」

「指導できる教師がいないと、そういう融通も利くらしい」

 また、ここでもコネというか伝手がものをいう。

「高峰先生憶えてるか?」

「そりゃあもちろん」

 直史が入学した時点では、監督をしていた教師で、その後セイバーが来てからも、部長として色々とサポートをしてくれた。

「今は県の教育委員会にいるんだけど、そちらに話を通してみたら上手くいった」

 なるほど、そういうこともあるのか。

「ただ来年はちょっとな」

 あまり長くいすぎることは良くない、というのは確かにあるらしい。

 だが名監督と言われるような教師は、およそ二つか三つぐらいの学校を、持ち回りで異動したりもするのだ。


 北村が異動した場合、代わりに白富東を率いることが出来るような監督。

 星、国立、この二人はまず思い浮かぶ。

 あとは鶴橋などであるが、彼は現在はもう、高校野球の監督は引退している。

 なんでものびのびと指導するため、シニアチームを率いているそうだ。

 それでも野球自体からは、死ぬまで離れられないらしい。


「お前がやってくれたらなあ」

「さすがに無理です」

 月に一度のコーチぐらいならやってみるが、監督はとても無理である。

「前に浦安西の監督やってた女性監督とかどうなんですか?」

「ああ、あの人は結婚して子供産んだからな。さすがに無理」

 そういった事情もあるのか。


 単純に野球経験者というだけなら、それはもう多いのだ。

 また監督をやりたいという外部の人間も、それなりにいる。

 ただ問題は、実力のある監督かどうかというものである。

 基本的に監督がヘボなチームは、甲子園に行くことが出来ない。

「国立監督、やってくれませんかね?」

「どうだろうなあ」

 国立は基本、弱いチームをある程度強くすることに、使命感を抱いている赴任の仕方をしている。

 弱いチームをある程度強くすることで、千葉全体のレベルアップを目指しているのだ。


 たまにはある程度充実したチームでやってみないか、と声をかけるぐらいは出来るだろう。

 だがそれに頷いてくれるかどうかは、別の話である。

 星は三里を中心に実績を残してきていて、これまた悪くはないとは思う。

 ただそれだけに引く手もあまたであるのだ。

 公立校で甲子園を狙える監督というのは、それだけ貴重なのである。


 鬼塚などは引退後は、やってみたいとは言っていた。

 しかしいまだ現役であり、また引退したとしてもすぐには、監督が出来るかは分からない。

 たとえ元プロであっても、高校野球の監督が務まるかどうかは、また別の話なのだ。

 変に元プロのプライドがあったら、これまた選手をスポイルすることになるかもしれない。

 それだけ高校野球の監督は難しい。


 外部の人間であるとすれば、自営業などである程度時間が自由になり、選手たちをしっかりと見ることが出来る。

 出来れば白富東と、ある程度の縁があった方がいいかもしれない。

 そんな人間が、果たしているのだろうか。

「今度ちょっと、国立監督や星に会ってきますよ」

「お、頼めるか」

「ある程度時間の自由が利く商売ですからね」

 直史は弁護士事務所で働く、れっきとしたサラリーマンであるが、確かにその気になれば、自営業と似たような動きもある程度は出来るのであった。

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