第78話 新環境
海の向こうではスプリングトレーニングが始まろうとしていた。
ピッチャーである武史は、数日早くラッキーズのホテルへと移動。
去年までは大介の別荘に世話になっていたが、さすがに同じフロリダでも、ここまでは距離がありすぎる。
ホテルは家族も過ごせるぐらいに、スウィートが確保されているのがメジャーリーガーだ。
もっとも恵美理の仕事の関係もあって、子供たちは一緒にニューヨークに向かってしまったのだが。
「寂しいなあ」
別れる寸前まで恵美理といちゃいちゃしていた父の姿を見て、長男である司朗はさすがに、マウンドの上の姿とは別人だな、と思ってしまったりもした。
ラッキーズは他に日本人選手としては、井口が在籍しているはずであった。
しかしオフの終わりごろにトレードで移籍してしまった。
もっともこの時期はまだバッテリーしか集合していないので、それはさほど意味はなかったかもしれない。
家族とも離れ、見慣れないチームメイトと共に、スプリングトレーニングが開催される。
実際は数人、元メトロズの選手がいたりするのが、MLBの移籍の多さを表している。
去年まで毎年のように20勝以上を上げている武史。
故障離脱した年以外は全てサイ・ヤング賞を取っており、離脱した年も奪三振王のタイトルは取っている。
左の先発であり、105マイルを投げて、大きく落ちるナックルカーブに、緩急のついたチェンジアップ。
そして手元で動くムービング系のボールも100マイルオーバー。
サブウェイシリーズで対戦したバッターも、大勢いるのだ。
ラッキーズはもちろん、今年のポストシーズン進出と、ワールドチャンピオンを目指して、武史を手に入れた。
ここのところア・リーグはミネソタ、ヒューストン、アナハイムの三強時代が長かったのである。
もっともアナハイムは直史が引退した後、成績を落としてチームは大きく変化している。
ミネソタも安い年俸で使えていた若手が、年俸調停でやや高くなってきて、さすがにそろそろワールドチャンピオンを獲得したいところだろう。
ヒューストンは上手くチーム作りに成功しており、おそらくディビジョンシリーズまでは勝ち上がる。
それに対してラッキーズは、リーグチャンピオンを狙っていくのだ。
メトロズは選手年俸が高騰したことによって、どうしても武史とは次の契約を結べなかった。
いや、本当にその気になれば、どうにかなったのであろうが。
大介はともかく他の高年俸選手を何人か放出し、プロスペクトを獲得している。
おそらく今年は再建にあてて、もう一度大介がいる間に、ワールドチャンピオンを狙うつもりであろう。
MLBに共通して言えるのは、NPBに比べると春のキャンプにあたるスプリングトレーニングも、マイペースであるということだ。
およそ練習は午前中に終わってしまって、それからは自由となってしまう。
これがあるから武史としては、恵美理に残ってほしかったのだ。
野手が合流すればまだしも、紅白戦などが開始されて、少しは忙しくなってくるのだが。
基本的に武史は陽キャではある。
ただそれ以上に天然も入っているので、金の使い方に無頓着なところがある。
練習中は通訳がついているが、それ以外は自分で通訳を雇わなければいけない。
もっとも武史も六年間アメリカで暮らしているので、おおよその英会話は通じるようになっている。
そこでこちらからフレンドリーに、これから皆はどうするのか、と尋ねてみたりする。
これからゴルフに行ったり、あるいは泳ぎに行ったり、あるいは昼から飲みに行ったりと、このあたりの自由さはメトロズと変わらない。
いや、メトロズにいた頃は、大介やツインズと共に、まだ練習やトレーニングなどをしていたものだが。
一応は契約に、トレーナーなどはつけてもらっている。
ホテルにもトレーニング設備があるので、そこで一人でやろうと思ったら、他にも何人かはトレーニングをしている。
若手が多いな、と武史は思った。
そう感じてしまうほど、いつの間にか自分もベテランの領域に入ってしまっている。
気分的には大学生になった頃から、あまり精神的には成長していない気がする。
人は親になって初めて、親の気持ちが分かるとも言われた。
確かにそれはそうかもしれないが、それと大人になるというのとは、また違うと思うのだ。
既に自主トレ期間中に、充分に肩は作ってきていた。
むしろスプリングトレーニングの方が、やっていることは楽なぐらいである。
身体能力お化けの大介やアレクに付き合って、また樋口を相手に投げ込みを行っていた。
なのでここでは、自分でペースを考えてやっていかなければいけない。
マイペースだと思われている武史であるが、それはあくまでも日本人の基準である。
世界各国から選手が集まってくるMLBにおいては、彼でもまだ生真面目にトレーニングをやる方なのだ。
自分に出された馬鹿高い年俸。
それは期待の表れでもあるだろうが、相応しいだけのパフォーマンスを要求されているということでもあるのだ。
残りのプロ生活、おそらく40歳までが限界であるだろう。
それを基準にして、武史はトレーニングを続けるのであった。
今年のメトロズは、コンテンダーとなるのは難しいかもしれない。
スプリングトレーニング前の自主トレにおいて、大介はそんな分析を聞いていた。
各種データや指標について、ツインズと樋口は分析している。
ただ樋口に関しては、キャッチャー経験がとんでもなく長いので、心理的な分析まで加えている。
単純なデータでは、計測できないのがチームの力だ。
それでもメトロズは、去年よりは弱くなっている。
ダブルエースである武史とジュニアが、共に移籍したということが大きい。
ただこれで相手が点を取る機会が増えれば、大介への敬遠もそれなりに減るかもしれない。
メトロズが武史もジュニアも放出したのは、単純に一度、ぜいたく税をリセットしたかったからだ。
おそらくこの一年でチームを編成し直して、来年からまた強いチームを作っていく。
それがフロントの考えなのだろうな、とは樋口もツインズも同じことを考えている。
セイバーとしてもオーナーではあるが、GMの考えを否定できないのだろう。
無限に資金を投入し続けるなら、それも可能なのであろうが。
樋口も先に、アリゾナのキャンプ地へと出立した。
なのでアレクとの二人のトレーニングとなる。
もっともツインズが付き合ってくれているので、人数自体は足りている。
この別荘はおそらく、MLBを引退するまでは使うだろうな、と大介は考えて、色々なトレーニング機材を買ったのだ。
ただ大介はいずれ、日本には帰る。
フロリダは観光地ではあるが、日本からは遠い。
別荘はいずれ売却することが大前提だ。
アメリカのこういった豪邸は、そうやって持ち主が変わることが多い。
アレクもアリゾナに向かい、そして大介はメトロズのスプリングトレーニングに合流する。
このオフでかなり面子が変わって、知っている顔が少なくなった。
ただ敵であった選手が、トレードでやってきたりもしている。
それでもこの一年は、おそらく育成にかける一年であろう。
大介はプロ入りして以降、優勝争いに絡まないチームにいたことがない。
ライガース時代は九年間ずっとAクラス入りしていた。
日本シリーズには六度出場し、五回日本一になっている。
そしてMLBにおいては、その成績はさらに上昇した。
NPBよりも倍以上のチームが存在するMLB。
だがそこで大介は、七年連続でワールドシリーズに出場し、四回ワールドチャンピオンになっている。
個人としても傑出した数字を残しているが、大介のいるチームは常に強かったと言ってもいい。
それを考えればこの一年は、苦しい一年になるかもしれない。
ベテランは去り、素質はあってもまだ未熟な者が多く、総合的な戦力は大きく落ちた。
もちろん大介一人で、優勝を目指せるわけもないのだが。
(負けるつもりで戦うなんてのは、ありえないよな)
思えば高校入学以来、大介は常に勝てるチームで戦ってきた。
しかし若手が多いピッチャーを見ていると、どうしても不安が湧き上がってくる。
(安定して投げられるのはアービングぐらいか)
高年俸選手であっても、ステベンソンはトレードで出してはいない。
短期間でチーム再建を考えているということだ。
それに一年間のシーズンがあれば、その間に伸びてくる選手もいるだろう。
ただNPBと違ってMLBは、事前の予想を上回った結果というのは、なかなか出てこないものであるのだが。
軽くアップをした後、早速のシートバッティング。
投げるのは今年、2Aから一気にメジャーに合流してきた三年目である。
3Aはメジャーの選手が調整のために利用していることが多く、上がってくる選手は3Aを飛ばしたり、ほんの短期間しかいないことも珍しくない。
アメリカでは当たり前になっているが、ガムをくちゃくちゃとしながら、勝気な視線で投げてくる。
大介はそれに、軽くバットを合わせていった。
昨年の大介は、MLB移籍後最低の成績であった。
シーズン全試合に出場しながらも、打率0.385 打点164 ホームラン69と、全てが移籍後最低の数字。
怪我で休んだ試合があったシーズンよりも、打点もホームランも下回ってしまった。
もちろんそれでも、全ての部門でタイトルを取ってはいたのだが。
OPSも危うく1.6を切るところ。
いまだにMLB最強のバッターであることは間違いないが、全盛期は終わったと見る専門家は多い。
今年35歳になるバッターなのだから、それも無理はないのだ。
むしろここまで数字を落とさずに来たことが、驚異的であると言える。
だがあと五年もすれば、大介の下降線と、ブリアンやそれに続くバッターたちの上昇線が、ようやく交わることになるだろう。
いや、それでもMLBの打撃指標は、いまだに大介が独占しているのだが。
これを抑えれば、開幕ロースターに入れる。
そう思って必死に投げてくるピッチャーのボールを、大介は軽々とスタンドに運んでいった。
ライナー性の打球であることはまだ変わらず、引っ張ったり流したり、はたまたバックスクリーンに叩き込んだり。
散々に若者の自信を打ち砕いて、ピッチングコーチの頭を抱えさせる大介の姿が、今年も見られるのであった。
主にアメリカ東部のチームと違い、西部のチームはフロリダではなくアリゾナにてキャンプを行う。
アナハイムはその西部のチームであった。
直史が引退し、一気に投手陣が弱体化したアナハイム。
ただ去年は若手が伸びてきて、思ったほど悲惨な成績にはならなかった。
その理由の一つとしては、やはり樋口の存在があるだろう。
NPBと言うか、日本の野球と違ってアメリカの野球は、配球の決定権がピッチャーにある。
いや、もちろん日本であっても、最終的に投げるのはピッチャーであるのだが。
実際のところどちらが優れているのかなどは、簡単には言えない。
しかし樋口の投球術に関する理解は、首脳陣も認めるところである。
データ活用と心理洞察が、他のキャッチャーとは一線を画している。
世界最強のパワーピッチャーと、世界最高の技巧派の、二人を共に経験してきた。
それ以外にも多くのピッチャーを育てている。
日米のキャッチャーの役割は確かに違うが、フレーミングにキャッチングに肩。
そしてバッティング技術を総合すれば、一番のキャッチャーと言っていいだろう。
そんな樋口であるが、最近は少し構え方を変えたりしている。
日本流の中腰の構えだけではなく、片膝を地面に付けたような構えでキャッチングをする。
また構えたミットのフレーミングの仕方も、どんどんと巧妙になっている。
だいたい一試合平均で二つぐらいは、そのフレーミングでアウトを増やしている。
二年前、直史がいた頃は、ア・リーグにおいてアナハイムは圧倒的であった。
勝手に30個も勝ち星を増やしてくれるピッチャーがいれば、プレイオフに進出できないのは相当に運が悪い以外にはない。
ただしミネソタやヒューストン、そしてラッキーズの選手層を考えると、今年はプレイオフから勝ち上がっていくのは難しい。
それでも樋口としては、戦い方次第だろうとは思える。
ア・リーグ東地区はラッキーズ、中地区はミネソタ、西地区はヒューストン。
それぞれ本命がいる中で、アナハイムはどれだけ健闘できるか。
樋口もまた、移籍のことを考える時期になっていた。
どれだけの偉大なスターがいても、いずれは衰え、引退して去っていく。
あるいはイリヤのように、唐突にその人生が失われることがある。
それでも世界は続いていって、つまらないと思えるような世界にはならずに、どんどんと新しい才能が出てくる。
もっとも直史の記録や大介の記録、それにイリヤの残した楽曲などを、超えるものは出てこない。
記録などは永遠に残るものもある。
人間の平均寿命の半分を過ぎたあたりから、自分の人生について考え始めたりする人間もいる。
俗に40歳の病などとも呼ばれて、やたらと転職を考えたりもするのだ。
ただそんなことを考える人間は、もうその時点で既に遅い。
人生が劇的に変わることなどないと、もっと早くから分かっていないといけない。
生きるというのは能動的なものなのだ。
メトロズを動かして、見事にワールドチャンピオンになったセイバー。
直史が抜ければ、彼女の計算はしっかりと答えを出すのだ。
ただそのメトロズも、今年はおそらく弱くなる。
それは仕方のないことだと、GMとも事前に話してあった。
チームの再建期。
いかに早くそれを達成出来るかは、オーナーとGMの手腕による。
もっともオーナーは主に、金を出すのが役割であるが。
優れたGMを持ってくるという仕事もあるが、現在のGMにそういった不満はないセイバーである。
ただ、ここのところ……。
「飽きてきたな」
「ん? 何か言った?」
「う~ん、ちょっと仕事をどうしようかと……」
「え、ママ仕事変えるの?」
パートナーと娘二人、それがセイバーの家族である。
もっとも家族構成が全て女性で、片方の子供は自分の遺伝子は持っていない。
長女の方はもう高校生になっており、自分の遺伝子をそこそこ引いたのか、それとも父方の遺伝子なのか、目立つ美少女となっている。
そして血のつながらない次女の方も、人種配合が違うので顔立ちは全く似ていないが、美少女には変わらない。
両方とも自分で産んだ子供ではないが、共に愛する娘である。
大学時代から経営に関心を持って、野球における統計を研究するうちに、日本に戻って趣味の仕事をすることにした。
そしてその関係がずっとつながって、いまやMLB球団のオーナーである。
ただ本業は投資家であって、それは昔から変わらない。
金を稼ぐ才能だけは、いくらでもあった。
ただ仕事に対する熱量が、少し下がっているのは確かである。
そしてその原因も、分かってはいるのだ。
「日本に行こうかなあ」
「日本って、エミリーの故郷だよね? 私の日本語、通じる?」
「いや、行くとしても私一人で――」
「え~! 私も東京行ってみたい!」
なにやら次女までもが、そんなことを言い始めた。
セイバーの人生には、大きな転換期が何度かあった。
ほとんどの場合は、それは自分で選んだものである。
しかし自分ではどうこう出来ない、圧倒的な才能の影響力に晒されたことも、何度となくあるのだ。
そしてそれは彼女にとって、悪いことなどではなかった。
(もう一度、日本へ?)
日本へ行って、今さら何をするというのか。
そうは思ったが、直感的に浮かんだその思考を、セイバーは長く心にとどめることになったのである。
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