第77話 日本の冬
冬を実感している直史である。
去年も冬は日本で過ごしたが、引退試合というイベントがあったため、あまりそれを意識していなかった。
だがその前の五年間は、アメリカの温暖な地で一月以降を過ごしていたのだ。
これが日本の冬であったな、と思い出すことが多い。
日本もそうだと言えなくはないのだが、アメリカはその場所によって、気候や気温が大きく変化する。
主に西海岸に住んでいた時は、寒さに震えることはなかった直史である。
アメリカの中でもカリフォルニア州は、かなり温暖であったのだ。
日本にいると、四季をはっきりと感じる。
正月休みから子供たちの冬休みも終わった。
そして事務所の方も、普通に活動を始めている。
とりあえず顧問をしている商店街の関係者から、普通に交通事故案件の弁護などを頼まれる。
正月中のノリが残ったまま、成人式で飲酒運転をして、人身事故を起こしてしまったという案件である。
飲酒運転による罰則が重くなって随分と経過しているのに、それでも酒を飲んで運転して事故を起こす馬鹿はなくならない。
いや、そもそも酒を飲んだら、運転してはいけないであろうに。
そういう馬鹿は刑務所に入っていろと思いたい直史である。
もっとも交通刑務所は、ちょっと特殊な刑務所であるが。
個人的な思想はともかく、弁護士としては依頼されたからには、依頼人の希望を出来るだけ叶えなくてはいけない。
つまるところどれだけ、量刑を軽くするかである。
幸いにもと言うべきか、今回の被害者は単純骨折だけで済んでいる。
後遺症が残るような怪我ではなく、民事ではそれほどの賠償金も発生しそうにない。
もっとも飲酒運転であるので、保険が使えないのが痛い。
あくまでもその時点では、まだ酒気帯び状態ではなかったと主張するなら、話は変わってくるのだが。
飲酒運転と酒気帯び運転は違う。
また過失運転と危険運転も完全に、量刑が変わってくるのだ。
今回の場合はドライブレコーダーや運転の前後から、本人にまだ酔いが残っているとは思えなかったことを主張してもらう。
苦しいところであるが、まだ若く前科もない青年である。
成人式後のことで、己の飲酒の許容量が分かっていなかったというあたりを主張してみるか。
あとはこういう交通事故に関しては、被害者との早々の示談も、刑事罰に影響してくる。
幸い実家が裕福ということもあるので、相場よりも高い慰謝料で示談をしてもらおう。
そして重要なのは、今後はしばらくこういった事故が起こらないように、分かりやすく反省してもらうことである。
車自体は大学入学の祝いに買ってもらったという、本当のお坊ちゃんである。
今は直史の方がよほど金持ちであるのだが、こういう金持ちのボンボンは見ていて腹が立つものだ。
車のキーと免許証を、親が管理することによって、卒業まではおかしな状態で乗らない環境を作り上げる。
こうやって同じような事故が起こらないという姿勢を見せれば、実刑判決が課される可能性はかなり低い。
実刑ともなれば、大学の方にも知られて、下手をすれば退学の可能性もある。
そういった未来がありうるのだということもたっぷりと説教し、依頼人を、正確には依頼したのはその親であるのだが、加害者側にたっぷりと念を押した。
こういった判決が出るのは、だいたい一回目だけである。
二回目以降は全く反省が見られないとして、実刑を食らう可能性が高くなるのだ。
個人的には実刑でもいいではないかとも思うのだが、それはあくまでも己の感情である。
実際のところ更生が見られやすいのであれば、わざわざ刑務所送りにしたくないのが、検察や裁判官の考えである。
警察にしても既に点数は稼いでいるわけだから、これ以降の刑罰がどうなろうと、さほど関心はない。
色々と問題はあったが、とにかく執行猶予付きで、裁判は終わったのであった。
直史は最近、もちろん弁護士としての仕事もしているのだが、企業法務の案件を多くやっている。いや、これも弁護士の仕事であるのだが。
主にやっているのは、国や地方共同体の出す、交付金などの申請手続きであったりする。
実家の近郊や学生時代のつながりから、30代の半ばというのは、それなりに仕事にも責任をもって任されることが多くなってくる。
すると法律の出番もあって、色々と話を聞くことになるわけだ。
重要なことは、これが単に相談であるのか、弁護士として依頼することになるのか、そのあたりの問題である。
弁護士の法律知識というのは、実のところ得意分野がはっきりしている。
街の弁護士さんであると、民法や税法、刑法などを浅く広く扱う必要がある。
大企業向けの法律などというのは、ちょっと確認の必要があったりする。
向いていない仕事であると、他の事務所と共同で当たることもあるのだ。
この事務所をここからさらに、大きくしていくべきなのか。
これはさすがに直史が今、考えることではない。
だが抱える案件は段々と、これまでの人間関係からのつながりで出てきている。
寒い冬に寒い案件はしたくないな、と考えたりもする直史であった。
二月に入るとNPBは春季キャンプが始まる。
MLBのスプリングトレーニングは少し先なので、この時期はNPBのニュースが野球に関しては多くなる。
さすがに直史も沖縄や九州に行く用事はないので「おお、やっとるな」といった感じでニュースなどを見ている。
仕事で外出をして車を運転していると、学校のグラウンドで練習をしている野球部を見たりする。
この時期は体作りがメインではあるが、全く練習をしないというわけにもいかない。
なるほど、これか、と直史は思った。
高校時代に白富東のグラウンドにて、OBらしきおっさんが見物に来ているのを見ていた。
また県大会の予選あたりから、平日なのに観客が入っていたりした。
主婦勢だけではなく、誰かの保護者でもないおっさんが多かった。
今ならその気持ちが、少しだけ分かる。一応今までも分かっているつもちではあったのだが、ようやく実感した。
バットがボールを打つ、甲高い金属音。
なんともこれは、郷愁を誘う音ではないか。
もはや二度と戻ることもない、高校野球。
あれは三年間だけしか時間がないからこそ、よりそれに全身全霊をこめるのであろう。
直史はそこまで命を賭けてはいなかったが。
直史は高校時代を思い出すと、やはり野球の思い出が大きい。
あとは勉強をしていて、そして瑞希といちゃいちゃとしていたものだ。
ただ色欲に支配されたのは、大学に入学してからだと言えるだろう。
高校時代はなかなか、そこまでの余裕は色々となかった。
当時は分からなかった、セイバーの言っていたことなどが、今ならば分かる。
これは完全に選手から外れて、ある程度指導をしたからこそ言えることだろう。
高校生というのは大学生に比べれば、自由度はずっと低い。
実際に直史も東京に行ってから、色々と知見を広めたものである。
だが高校時代というのは、何か一つに集中するには、環境としてはいいものだ。
自由度が低いがゆえに、その中でどれだけ集中して行うか。
大学時代よりも、思考が分散していなかったことは確かだ。
今から思えば大学時代は、瑞希に対する束縛がかなり強かったなと反省もしたりする。
当時から言われていたし、ある程度は気にしていたつもりであったが、自分にあまり余裕がなかったということもある。
高校時代の甲子園と比べると、神宮の魅力は国民的なものではない。
もちろん早慶戦のような、特別にテレビで流される試合もあったりはしたが。
大学時代は直史にとって、不思議な時代でもあった。
基本的に最速のルートで弁護士になるべく、勉強を生活の中心に置いていたのだ。
しかし野球の技術については、高校時代以上に成長したとも思う。
やはり樋口と組んで、ジンを相手に戦ったからであろうか。
もっとも直史としては、一番苦戦したのは、二年春のリーグ戦のような気もする。
妹たちは本当に、恐ろしい存在であった。
ただ訳の分からない怖さを感じたのは、明日美を相手にした時であったか。
もちろん高校時代の大阪光陰や、プロでは大介や上杉など、敵として強いと感じた相手はたくさんいる。
だが例外的な存在だな、と感じたのはあの時の東大野球部だけである。
実際に明日美の影響力というのは、とんでもないものがあった。
主力が抜けたとは言え、甲子園に出場した白富東を相手に、女子のチームで勝ってしまったりもしたのだから。
その後も女子選手で活躍する選手は出ているが、明日美ほどの特殊な人間は出ていない。
また彼女はその後の活躍も、ちょっと他には見ないタイプのものであった。
思えばこれまで、直史は全力で走り続けてきた。
大学時代は勉強第一で、法科大学院にも通った。
そして短いながら事務所で働き、そこから家庭内のことでドタバタして、プロの世界に入った。
引退して去年一年は、これまた変化した環境に、必死でついていったつもりである。
今年になってからようやく、これが平常運転だな、と思えるようになってきた。
もっとも弁護士としての仕事は、年末と共に年度末近くも忙しいことになる。
企業の確定申告が、二月から三月にかけて行われるからだ。
もちろん税金の問題は、弁護士もある程度詳しいが、色々な制度が存在するため税理士に専門性で負けるところはある。
税金の他には事業規模の拡大のため、融資を受けるかどうかという相談を受けたりもする。
このあたりは法律の問題もあるが、経営知識の問題も重要である。
直史は基本的に、大学時代は法律関係をメインに講義を取っていた。
だが経営や経済、国際関係の地理なども、学んでいたのである。
このあたりは樋口の影響がある。
樋口は本来官僚を目指して、財務省か外務省を第一に考えていたため、外国語についても直史よりは堪能であった。
それが直史引退後も、野球の世界に残っているのは皮肉だが。
将来上杉が政治の舞台に立った時のために。
直史と違って、一度外れたらもう、官僚の世界には戻れない。
だからこそアメリカで立場を築いて、コネクションを増やしていく。
彼もまた野球選手としては、完全に次のキャリアを考えている人間であった。
世界が広がっていく。
以前に新米として事務所で働いていた時は、他の先輩弁護士の手伝いをすることが多かった。
単純な案件は任されたことがあるものの、この仕事は単なる法律知識だけでは、勤まらないのは確かである。
プロ野球というかなり特殊な世界にいたこと。
またアメリカで過ごしたことで、様々な人間と接したことが、今は活きるようになってきている。
警察、検察、裁判官、税理士、会計士、司法書士、弁理士。
あとは保険屋といったあたりも、よく接する相手である。
そして企業経営者、特に中小企業など。
悲しいことにこのご時勢、会社を畳むという案件もあったりする。
ただ後継者不足である場合、直史がその事業継続を誰かに持っていったりする。
人脈がどんどんと増えていくのが分かるのだ。
あとは言うまでもなく、役所や政治家。
役所はともかく政治家相手であると、直史はなにやら強いようである。
なんでだ? と最初は自分でも不思議であったが、やがて気づいた。
政治家というのは、特に選挙をもって選ばれるものである。
要するに人気商売であるので、自分より人気がある人間に弱い。
ただ単に珍しいだけならいいのであるが、直史の場合は背景がとんでもない。
影響力が強い、地域に根付いた相手に対しては、友好的に出るのが政治家なのである。
実際のところ、直史が県議会にでも出馬すれば、あっさりと当選するであろう。
国会議員選挙でも、かなりの可能性はある。
結局選挙というのは人気投票なのだ。
ただしただの人気投票というのは、人気が知名度とかなりイコールなところである。
また単純に知名度といっても、直史の場合はその知名度が複雑だ。
地元の千葉においては、甲子園の英雄。
そして地元にプロ野球チームがあるため、その野球ファンが固定層として狙える。
弁護士でありながら野球選手でもあったという異色の経歴。
何より直史の顔を知っている人間は、この日本には大変に多い。
弁護士というとリベラルという印象を受けるが、直史は基本的に保守である。
だから政治の分野についても、ある程度の見識は持っている。
ただ政治家というのは基本的に、権益を持つ者の代弁者なのだ。
直史は政治という手段ではなく、法律という手段によって、他者を代弁することが出来る。
直史が引退した時には、色々と仕事の話が舞い込んだが、仕事ではなくとも政治家との関係が芽生えたことはある。
将来的に政治の世界に出馬してみないか、というものである。
政治家になるために必要なのは、カバン、カンバン、ジバンと呼ばれる。
それぞれが資金力、知名度、地盤のことである。
直史の場合は資金力は、自前の金でどうにでもなる。
知名度に関してはそれはもう、浮動票を大きく取れるであろう。
そして固定票を取るためには、有力者との顔つなぎが必要になる。
正直なところ県議会ぐらいであれば、影響力はほしいな、と直史は思う。
現在のやっている企業の法務問題など。
それは法律を動かすのではなく、政治家を動かすことが必要になってくるのだ。
ただし自分自身が議員になるのではなく、自分の意思を上手く代弁する人間と仲良くなりたい。
そのあたりが直史と、政治家との距離感である。
政治家ということであれば、上杉兄弟は果たしてどうするのか。
昔は上杉勝也などは、地主の息子ということも会って、親も地方政治の議員であったため、それを継ぐことになるのだろうと言われていた。
ただどうやら次男の正也が、親の地盤は継ぐ予定らしいと、樋口などは言っていた。
勝也は神奈川から国政の方に出て行くのだとか。
まあ上杉ならば神奈川から出馬すれば、そのファンからの得票に知名度を考えて、あっさりと当選しそうではある。
樋口もそれを見越して、アメリカとのつながりは増やしているわけだし。
政治家などというものは、50歳を過ぎてからが一歩目などということも多い職業だ。
基本的には金がなければ、当選するということは難しい。
選挙運動というのはそういうものだ。
だが上杉ならば、金も支援団体も用意できるし、ブレインとなる人間もいる。
実際に上杉が神奈川ではなく千葉から出るならば、直史も応援していたかもしれない。
上杉は超人なだけではなく、人格者であることも知っているからだ。
直史は在野の人間でありたい。
権力者とのつながりを否定するわけではないが、自分が権力者になろうとは思わない。
そのあたりがかろうじて、直史のリベラル要素であるのかもしれない。
もっとも政治家の中には、弁護士というのもそれなりにいる。
なのでこれだけでは、リベラルであるとも言い切れないのだが。
日本で暮らし始めて思うのは、悲観的なニュースが多いことだろうか。
ただアメリカで暮らしていた直史としては、治安なども利便さなども、圧倒的に日本の方が優れているというのが実感である。
こういった実感から、直史は保守的な人間になっているのである。
もっとも日本がこのままでいいとも思っていないので、そこはリベラルだと言い張ることも出来なくはない。
基本的に日本の弁護士というのは、リベラルが多いのは確かだ。
ただしそのリベラルも、名前だけのリベラルであったりはする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます