第76話 冬の日常

 もうこれは習慣になってしまっている。

 直史は結局引退してからも、ほとんど毎日ランニングを欠かさない。

 体を鍛えると言うよりは、コンディションの調整だ。

 そもそもピッチャーに必要なのは、ランニングに必要な筋力などとは違うのであるし。

 それでも一試合を完投するならば、ある程度の回復力を持っていなければ、かなり厳しいものではある。


 回復力は持久力とは違う。

 長距離を走るのではなく、短距離を何度も走って、瞬発力を維持しなければいけない。

 またピッチングフォームに必要な筋肉というのは、ダッシュだけで身につくものでもない。

 直史はもう、真琴とキャッチボールをするぐらいしか、ボールを握ることもない。

 それでも体の方は、完全に習慣化されているのだ。


 努力出来る人間というのは、もちろん努力出来ない人間よりは上等である。

 だがスポーツのトッププレイヤーの領域にまでなると、努力などという言葉は使われなくなる。

 やって当たり前、やらないと気持ち悪い。

 それぐらいの感覚で、当たり前に努力と思えることをやってのける。

 あとはこれを上回るのは、努力すらをも楽しんでしまうものだ。


 母屋の石垣のようになった部分。

 そこは上手く投げ込めば、斜めに跳ね返って足元近くに飛んでくる。

 一人で出来る練習として、中学時代はよくやっていたものだ。

 今は同じことを、子供たちがやっている。




 真琴と昇馬は同い年ということもあり、仲がいいのだ。

 まだ性別で差異が出てこない年齢ではあるが、早熟な子であれば自分のジェンダーは分かってくるだろう。

 しかし真琴は今のところ、完全に男の子寄りの嗜好をしている。

 見た目にしても、髪は短いし、少年のように見えるのだ。


 与えられた軟式球を、石垣に上手く当てる。

 低めのアウトローに、ズバッと投げ込む練習である。

 ただこれは今の主流である、高めのストレートで空振りを取る、という練習には向いていない。

 低めを狙って高めに浮くのではなく、抑えて高めに投げ込む。

 スピードはなくともそのストレートがないと、ピッチャーの組み立ては苦しくなる。


 冬休みの間までは、真琴は実家に預かっていてもらう。

 二年前までは直史と一緒に、フロリダに行っていた真琴である。

 だが去年からはもうずっと、日本にいることになった。

 あのフロリダの別荘での暮らしは、彼女にとっても楽しいものであったろう。

 そして去年は直史の引退試合があったので、あまり構ってやることも出来なかった。


 来年あたりからは夏休みにでも、アメリカを訪れてみようか。

 だが冬場のフロリダというのは、その後にカリフォルニアがあったからこそ、実現していた日程である。

 やはり少し、フロリダに行くのもいいのではないか。

 ただ往復だけでも30時間以上はかかるフライトだ。

 学校をある程度休みにでもしないと、とても行けるものではない。


 それでも遠隔授業などで、学校の授業は受けることが出来るか。

 今なら海外用に、時間を合わせたカリキュラムを行っているところもある。

 普通に真琴は、公立の小学校に編入させた。

 だが私立の中学にでも入れば、そのあたりの調整は出来るのではないか。

 もっとも中学生になった時、まだ大介が現役であるかは、微妙なところではあるのだが。




 冬休みの終わりと共に、大介家族はフロリダへと飛び立つ。

 武史家族は一度東京に向かい、それから改めてフロリダへと後を追う。

 同じフロリダであっても、今年から二人は違うチームに所属となる。

 スプリングトレーニングも、同じフロリダ州ではあっても、距離があるので別荘から通うというのは難しくなる。

 それでも自主トレ期間は、一緒に過ごすことになるのだ。


 武史も長期契約となってしまったのだから、自分もフロリダに別荘でも持ってもいいのだ。

 もっとも大介のところとは違い、子供は三人までしかいないので、球団の取ってくれたホテルで充分に過ごすことも出来る。

 恵美理は自分の仕事のため、スプリングトレーニング期間でも、ニューヨークに向かうことがあったりする。

 今まではそれも全て、ツインズが見てくれていたものだが。


 移籍初年度の武史であるのだから、まずは自分の成績が一番重要であるだろう。

 さすがにそこは分かっているのか、フロリダに行ったツインズからは、大介と共に武史のトレーニング姿の映像が送られてきたりする。

 大変なものだなと、今更ながらに直史は思う。

 だがもうあそこには行かなくて済むのだと思うと、一割ぐらいは安堵の中に寂しさが混じっていたりする。


 不貞腐れているのは真琴である。

 去年は直史の引退試合の関係で、日本にいることを納得していた。

 だが直史が引退するということがどういうことなのか、本当に分かったのは今年からであるようだ。

 去年も毎日、ほとんど家に戻っていたのに、気づかなかったのであろうか。

 環境の変化という意味では、それまでの変化がなくなったというのも、一種の変化ではあるのだろう。

 一月、マンションから市内への小学校に通う真琴。

 その後姿は、少しだけしょんぼりとしていた。




 今更こんなことを言えば、代理人が怒るだろうが、武史としては不本意であった。

 あと七年も、野球をやって過ごすということがだ。

 ただラッキーズとしては、同じニューヨークのメトロズから、エースを奪うという目的もあったのだろう。

 40歳まで野球を続けるというのか。

 もっともラッキーズとしても最初の三年間の方が、年俸は高く設定してある。

 さすがに40歳まで第一線というのは考えていないとは思うのだが。


 割と図々しい武史であるが、ラッキーズは去年までサブウェイシリーズでは、メトロズとガチンコで対決していた相手である。

 そこに入っていくということに関しては、不安というほどでもないが、完全に歓迎されてはいないだろうな、とも思うのだ。

 選手や首脳陣は割り切って考えているかもしれないが、この場合怖いのはメトロズのファンである。

 NPBと違って移籍ははるかに多いMLBである。

 しかしそれでも目の前の球団に移籍されれば、裏切り者と思う人間はそれなりに出てくるのだ。


 自主トレに今回も参加しているのは、アレクと樋口である。

 考えてみれば坂本もいないので、ラッキーズでは自分で配球を組み立てていかなければいけない。

 ラッキーズは同じニューヨークのチームであるので、それなりに情報は集まっている。

 キャッチャーはベテランが一枚いるが、今は若手の打てるキャッチャーの方が、主にマスクを被っている。


 なので武史としては、この自主トレで樋口にお願いして、色々と配球を学んでいる。

 思えば高校時代はジンに倉田に孝司、大学ではほぼ樋口、プロでも樋口に坂本と、相棒には恵まれすぎていた武史である。

 なのでここからは大変になってくるかもしれない。




 武史が抜けたことで、メトロズの絶対的なストロングポイントが、ようやく失われた。

 絶対的なエースと、絶対的なスラッガーというものである。

 また武史以外にもベテランが放出されて、メトロズはかなりチームが再編されている。

 今年はちょっと、勝つのは難しいかもしれない。


 まだ完全にFA選手の契約が決まったわけではないが、主力になれそうなところはだいたい決まっている。

 それによると今年有力であるのは、弱体化していると言ってもメトロズ。

 ナ・リーグではトローリーズやサンフランシスコ、またア・リーグではヒューストンにラッキーズといったところか。

 特にラッキーズは先発を回せる武史が入ったことで、おおいに勝ち星を増やしてくると思われる。

 実のところ他の球団からであれば、さらにいい条件が出てきてもいたのだ。

 それをニューヨーク縛りというのは、完全に武史の都合だ。

 もっとも選手のファンが、そのままラッキーズに移動するかもしれないので、ラッキーズとしては好ましかっただろう。


 大介の成績がやや落ちたことと、年俸高騰選手のある程度の放出。

 その中でも、一気に年俸が五倍ほどになった武史は、放出せざるをえなかった。

 これによってメトロズは、チーム力を落としたことは間違いない。

 大介の契約が残っているうちに、もう一度ワールドチャンピオンを狙えるようなチームが作れるか。

 それがメトロズにとっての課題となるだろう。




 大介としては昨年は、MLB移籍以来最低の成績であった。

 それで打撃指標は全選手の中でトップなのだから、笑うしかないといったところか。

 純粋に衰えたと言うよりは、モチベーションの低下というものもある。

 去年の大介の本当の世紀の一戦は、レギュラーシーズンが始まる前に終わってしまっていた。

 今年の大介に必要なのは、モチベーションの新たな付与である。


 バッティングに関しては、ブリアンの他にも数人、数字を伸ばしてきている選手がいる。

 ヒューストンの23歳ディクソンや、サンフランシスコの22歳マクレガーといったところだ。

 ただどちらの選手も、NPBの20歳の頃の大介と比べても、はるかに数字では劣る。

 ブリアンに少しずつ近づいている、という程度の実績である。

 ただこの二人を安く使える間に、2チームはチームを作ってくるだろう。

 大介が本当に衰える頃には、覇権は移動している可能性が高い。


 大介の契約は、37歳までとなっている。

 大型契約を結びはしたが、それでも昨今としては珍しく、大介クラスなのに四年契約であった。

 本人としてはむしろ、一年後とのNPB流の契約の方がよかったぐらいであるが、あの頃の大介の成績は、直史と対決することを目的としていて、ほとんど超人的な数字を残していた。

 5000万ドルプラスインセンティブがおよそ1000万ドル以上でも全く高くはないほどであったのだ。

 なのでさらに年俸が高騰する可能性はあった。

 それではチームも計算して戦力を補強できないため、四年契約となったものである。


 ピッチャーにしても生え抜きの選手は、FA権を行使して移籍していったのが大半である。

 もっともドラフトや若手のトレードでプロスペクトを獲得し、育成すると言うことには成功している。

 ここからのあと数年、大介の衰えが顕著になるまで。

 メトロズの王朝は、続いていくのかもしれない。




 芸術的な才能は遺伝しない。

 ただし環境によってある程度は、幼少期からの蓄積ボーナスはある。

 佐藤家と白石家の子供たちは、フィジカルな才能に優れた子供が多い。

 だがその中で明らかに、花音だけは芸術的な分野に興味を抱いている。


 イリヤの実の娘であり、実母を知らずに育った娘。

 このフロリダの別荘においては、恵美理がピアノを弾くことが多い。

 それに合わせてギターなどを弾いたり、あるいはピアノを弾いたりする。

 武史と恵美理の次女である玲と共に、音楽の素養に満ちている。

 もっともクラシックなものは、長女である沙羅が一番向いているような気もするが。


 芸術的な才能は遺伝しないはずである。

 だが花音の音楽に関する才能は、間違いなく存在する。

 同じ年に、自分の娘である玲と、大介と桜の娘である里紗がいるので、はっきりとそれが分かる。

 単純な早熟、というのもおそらくは違う。

 花音には芸術家に典型的に存在する歪さ、というものが備わっているのだ。

 それに気づいたのは、あくまでも偶然ではある。


 小さな手で鍵盤を叩き、またヴァイオリンでも弦を押さえるのはまだ難しい。

 しかし恵美理の真似をしていた時に気づいたのだ。

 ピアノの弾き語りをした後、玲もそれをやってのけた。

 そして花音がそれをしようとした時に、明らかになった。


 集中力の過集中とでも言えばいいのか。

 恵美理などは普通にピアノを弾きながらでも、会話をしたり歌ったりと出来るし、それは玲も沙羅も同じである。

 だが花音はピアノを弾いている時は、会話すら出来なくなっている。

 

 演奏と歌唱が同時に出来ない。

 まあ単独の音楽家としては、別にそれほどの欠点でもないというか、歪な才能の発露とでも言おうか。

 これに関して恵美理は、少し知人と話すことがあった。

 彼女もフロリダにバカンスに来ているので、タイミングが合ったと言えるだろう。

 ケイトリー・コートナー。

 イリヤに同じく魅了されはしたが、それによる挫折を味合わなかった人間である。




 フロリダは富裕層がバカンスに訪れることが多い州である。

 ケイティと恵美理の関係は、さほど古いものではない。

 恵美理が幼少期、音楽家を目指していた時代は、ケイティは完全にヨーロッパの片田舎の少女であった。

 彼女が世に出てくるのは、恵美理が一時期音楽から距離を置いていた時である。


 イリヤが生きていた頃、二人はわずかに面識がある。

 だが本格的に絡むことになったのは、一緒に仕事をしてからだ。

 ケイティは基本的には、正統な手順で音楽を学んでいない。

 なので彼女の楽曲に関しては、専門家が手を入れる必要があったのだ。

 

 イリヤの残した莫大な曲は、時代ごとに編曲していく必要はある。

 これらの権利は基本的に、実の娘である花音のものだが、ツインズとケイティが管理することにはなっていた。

 この三人が、編曲まで出来る知り合いを探していたら、恵美理に行き着いたというわけだ。

 もちろん恵美理は専門ではないので、完全に彼女に任せてしまうというわけではなかったが。


 ケイティは自分自身のバカンスと同時に、バカンスに来ている富裕層向けに、コンサートなども開催していた。

 そしてそれを終えてから、大介の別荘にやってきたわけである。

 そんなケイティに、恵美理は子供たちの演奏を見せる。

「どう思うかしら?」

 恵美理の質問への答えは、ケイティをもってしても難しいものであった。




 天才という存在がいる。

 だがその才能も、環境がなければ芽吹かないことが多い。

 ケイティなどはそもそも、時代がこのようなネットワークでつながっていない頃は、表に出てくることもなかったであろう。

 恵美理は逆に、自分が計算高い秀才だと認識している。

 ただの秀才が、イリヤ以外に負けず、子供時代だけとはいえ、コンクールで優勝しまくることなど出来なかっただろうが。


 その点ではイリヤこそまさに、ジャンルを超越した天才であった。

 100年に一人とまではいかないが、10年に一人というレベル。

 音楽という広い世界の中で、クラシックからポップスまで、広範なジャンルを網羅していた。

 そのイリヤの娘である。

 ツインズが音楽に触れるように教育したため、確かに早熟性は見せている。

 他の子供たちも悪くはないが、集中したときの演奏は頭一つ以上飛びぬけている。


 イリヤの残した楽曲は、今でも普通に新曲として発表されている。

 ケイティは自分で歌えるものならば、自分で歌っている。

 だが声の性質によって、合っている曲と合わない曲というのはあるものだ。

 なので歌えない曲というものはある。

 もちろん無茶な編曲をすれば、それは歌えるものであったりはするが。

 それはイリヤの残した意思を歪めるものであろう。


 花音の才能というのは、確かに演奏面ではある程度見えている。

 技術的な面でも感情的な面でも、確かに何かを感じさせるものだ。

 だが歌唱の能力については、この年齢では分からない。

 もちろん音程を外さないとか、そういった初歩的な部分では、ある程度読むことは出来る。

 しかし歌というのは、己の体を楽器にするものである。

 子供のうちにはまだ、その潜在能力の限界は、見えないのだ。


 簡単に才能の判断は出来ない。

 だがもしも花音の声質がケイティと被っていなければ、発表できる曲は増えていくだろう。

 10数年後の未来が、二人の音楽家には、可能性に満ち溢れて見えていた。

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