第88話 奥義継承

 ピッチングの技術について、一番多くのことを知っている人間は、果たして直史でいいのであろうか。

 極端な話、直史は一般的なピッチャーに対しては、それなりの指導が出来る。

 だが上杉や武史のようなピッチャーであればどうか。

 そこまで極端でなくても、本多や蓮池といったピッチャーも、直史が教えるようなタイプではないな、と個人的には思っている。

 これ武史が、自分と兄は効果的な練習などが違うな、と考えてジンや樋口に相談したことが原因であるが。


 ただ直史は、彼としては珍しいことであるが「もし」ということを考えている。

 もしも自分が、サウスポーであったら、ということである。 

 右であれだけの成績を残した直史であるが、世の中のピッチャーには、右利きながらピッチングだけは左、というピッチャーもそれなりにいる。

 それを意識して、幼少期から左で投げていたら、と想像することはあるのだ。


 実際のところは左で投げても、小学生相手なら当たり前のように打ち取れるボールが投げられる。

 そもそも利き手と逆なのに、ゾーンにしっかりと投げられるだけでも、その時点で異常なのだ。

 だがこれは佐藤家の血を引いている人間というか、佐藤四兄弟とその子供たちはほぼ全員が出来る。野球をやっている者のみの話だが。

 サウスポーだからこそ、左打者を打ち取りやすい、というのはあるだろう。

 さすがに直史も、あれだけ極めた右から、高校時代で左にしようなどとは思わなかった。

 そもそも高校時代の直史のコントロールは、既にずば抜けていたこともある。


 真琴に対して直史は、基礎はしっかりと教えた。

 自分のようなスリークォーターではないが、右ではサイドスローでも投げたことがある。

 また選手生活の晩年において、サイドに近い角度で投げた方が、空振りは取りやすいことも発見した。

 真琴の長く柔らかい腕は、サイドスローに間違いなく向いている。

 なのでそこからどう、ピッチングを組み立てていくか。

 どんどんと教えたいことはあるのだが、真琴が自分から言い出すまでは待つ。

 指導者に重要な資質は、辛抱であるというのだから。




 サイドスローから投げるボールが、ナチュラルに変化する。

 筋力の弱いリトルリーグの段階では、普通にあることだ。

 一応変化球は禁止されていないが、あまり推奨されてもいない。

 真琴から相談を受けた直史は、内心でうきうきしながらも、表情を変えずにオーダーに応えた。


 無理にスピンをかける必要はない。

 サイドスローからは、握りを変えるだけで、緩急が上手く取れる。

 そしてスピンをかけるのではなく、上手く抜く感触を掴むのだ。

 これでシンカーとカーブが投げられる。


 リトルリーグは金属バットのため、それなりに打球の速度が出やすい。

 だがそれ以前に、根本的にパワー不足である。

 ピッチャーもそうだがバッターもパワー不足。

 つまり守備が重要となってくる。


 投げ終わった瞬間からは、ピッチャーもまた野手になる。

 左利きのフィールディングは、右利きに比べて不利などと言われるが、それはしっかりと体軸を意識した動きをしていれば問題ない。

 バランスボールの上で、座禅を組む真琴。

 直史は真顔で、それをこっそりと写真に撮っていたりした。




 MLBの理屈と、リトルリーグの理屈では、前提が違うために必要な技術も違う。

 投球術に関しても、それは言えるのだ。

 リトルリーグの場合、グラウンドは比較的基準が狭かったりもする。

 それでもホームランというのは、そうそう出るものではない。

 そんなリトルリーグにおいて、直史が教えるということはどういうものになるのか。


 単純にフライを打たせるか、それともゴロを打たせるか。

 それを上手くアウトの範囲に収めてしまうのが、コンビネーションというものである。

 高校野球までとプロ野球との大きな違いの一つに、セーフティバントの成功率というものもある。

 リトルリーグであると、さらに肩が弱いため、サード方向へのセーフティは増えたりもする。


 小学生がプロと、ほぼ変わらないものとはなんだろうか。

 それは動体視力と反射神経である。

 実際のところは筋力が大きく違うので、動きのスピードは圧倒的に違う。

 しかしよく見て打つなら、当てることは出来る。

 ましてこのレベルであれば、まだ変化球も少ない。

 だからこそ逆にスピードのあるボールを投げられれば、対応できないものであるのだが。


 単なるスピードボールであるなら、マシーンを打って備えることが出来る。

 やはりスイングスピードがプロとは全く違うので、そうそう遠くまでは飛んでいかないか。

 現在はMLBなどでは、完全に投高打低と言われている。

 元々ピッチャーとバッターの勝負などは、三割打てればバッターは優秀なのだ。

 そして分析手法の発展にとって、どんどんと主導権を持っているピッチャーの方が有利になっている。

 バッターはどうしても、投げられたボールに対応するしかない。

 そんな中で真琴のピッチングに対して、直史が何を教えるのか。

「私にも教えてね」

 瑞希はしっかりと、いまだに直史の記録を取り続けている。

 



 真琴はまだ子供であるので、色々と信じていることがある。

 その中の一つが「おとーさんは世界一のピッチャー」ということである。

 そしてそれは瑞希も否定しないし、多くの人間が事実と言うだろう。

 だが直史としては、別に世界一のピッチャーになぞならなくてもいいのだ。

 重要なのは、試合を勝たせるピッチャーになることで。


 直史は基本的には、勝利至上主義である。

 ただそれは、自分のピッチングにこだわった場合の話だ。

 自分のチームメイトでも、自分が打たれて負けるのでなければ、それほどの勝利への執着はない。

 また勝利以上に重視していることもある。

 それは「最終的な勝利」というものだ。


「いいか真琴、パーフェクトをやっても、ノーヒットノーランをやっても、三振を奪いまくっても、それが本当にいいピッチャーなわけじゃない」

 お前は言ってはいけないだろう、と色々な人間から言われそうな台詞である。

「チームが勝ち続いているということが、エースの条件なんだ」

 それが本気であるなら、この世界に何人、エースと呼んでもいい存在がいるのだろうか。


 ただ直史は、優勝請負人とでも呼ぶべき存在ではあるだろう。

 大介や武史も相当に、そういった運命の下に生まれているが、直史ほどではない。

 勝利の星の下に生まれている。そうとでも言うしかない。

 だが別に野球は、勝利するだけが面白いわけでもない。




 MLBに行ってみて分かったことだが、確かに直史にはファンが出来た。

 だがそのファンの性質は、かなり陰性のものであった。

 普通にファンの数は、大介の方が多い。

 もっともそのあたりは、直史自身もかなり、勘違いはしているのだが。


 確かに直史はとんでもないことを何度もしている。

 回数だけで言うならば、大介よりも多いだろう。

 そのパフォーマンスはエンターテインメントと言うよりは、クラシックな演劇に近いとでも言おうか。

 同じスポーツをしているのに、性質が全く違うのである。


 大介だけではなく、上杉や武史、また樋口などにしても、何かが起こるという爆発的な期待がある。

 いわゆる華がある、と言えばいいものであろうか。

 直史は一切の期待を封じてしまう。

 汝、希望を捨てよ、という死神のようなピッチングだ。

 もちろんそんなものが好きな、ホラーファンは世界中にいるが。


 直史のやってしまったことは、パワーとパワーのぶつかり合いの、合理的な現代野球を、技術と選択と駆け引きの、違う方向にやってしまったものだ。

 ただ実際のところ、直史に憧れるアマチュア野球の選手も多い。

 160km/hは絶対に出せなくても、パーフェクトを達成したピッチャーなのである。

 もちろん直史という存在は、逆方向に絶対出来ないことを、いくつも同時に行っているのだが。

 この方向性を目指すなら、素直に真っ向勝負した方がいい。




 そういったことをあれこれと考えた結果、直史は最初に戻る。

 野球は楽しまなければいけないのだと。


 アメリカにおいてはアマチュアスポーツは、基本的に楽しめなければ意味がない、というものであった。

 実力主義や勝利至上主義になるのは、高校ならば州の代表であるとか、またプロのスカウトが大きく注目する大学以降である。

 子供が楽しまないスポーツに、なんの意味があるのか。

 別にアメリカが全て正しいとは思わないし、むしろ価値観は嫌いなところが多い直史であるが、この点では正しいな、と思っている。


 その上で言う。

 全然勝てないスポーツは、さすがに楽しくない。

 高校進学後については、野球を続けるかどうかは微妙なところであったのだ。 

 当初の予定からすれば、高校では勉強を中心として、国公立大学に受かることが最大目標であった。

 それも無償奨学金などを狙うとなれば、相当の努力が必要だ。

 ただあの入学式の日、勝てそうなチームと思ってしまった。


 真琴に関しては、既に勝利の味を知っている。

 完全に野球に本気になるわけではないが、しっかりと勝てる野球が出来るチームだ。

 負けることを楽しめるほど、直史は大人でなかったと言っていい。

 もっともその点で言えば、直史はいまだに、大介よりもよほど子供であるだろう。

 ただ最初から勝利至上主義というか、勝てなくて無茶苦茶悔しいというわけではなく、全く勝てなかった時代があったからこそ、逆に絶対に負けたくないと思ってしまったわけだが。


 人間は環境によって作られる。

 直史もまた、その理屈から作られた人間ではある。

 本来ならばひどくプライドが高いというか、格式を守らなければいけないという意識が高いのが直史だ。

 それを押し付けないことによって、ようやく人間としてまともな範囲でいられるとも思うのだが。


 瑞希から見れば直史は、微妙なバランスによって成立している、稀有な人格だと思う。

 彼女は直史の妻であるが、それ以前から彼を観察する者であった。

 夫婦になって近しい存在になっても、どこか孤高の感じがする時はある。

 それが真琴たち、子供に伝わらないといいな、と考える瑞希であるが、同時に直史という存在は、ずっと追いかけてみたいとも思える人間であるのだ。




 ピッチャーのいい悪いは、極論試合に勝てるか、というところに落ち着く。

 それは単純に点を取られないのではなく、相手の攻撃を完全に封じることで、自軍の攻撃を鼓舞し、相手の守備にもプレッシャーを与える。

 それが直史の場合は、パーフェクトピッチングにあたるのだろう。

 上杉や武史であれば、連続奪三振となる。


 今の真琴のレベルで、そういったことは求められない。

 ピッチャーの奥義を伝えられても、それを高いレベルでは実践できないのだ。

 なので重要なのは、試合に勝つこと。

 そのためには試合の流れを読まないといけない。


 流れなどというとオカルトに聞こえるだろう。

 勢いと言ってもいいが、なんとなく悪い予感がすると、それはけっこう当たったりする。

 これを回避するためには、極力ピンチを避けることが必要だ。

 もっともそれを鋭敏に察知するのは、経験が必要となる。

 またこの流れは、ピッチャーだけでどうにか出来るかというと、それも微妙な話であるのだ。


 ピッチングにおいて重要なのは、モチベーションと集中力である。

 確かに一球ごとに、爆発的な力を使うピッチャーは、短い運動ではあるがそれなりに疲労する。

 キャッチャーの場合はキャッチングに神経を使うが、返球にはパワーはいらない。

 このモチベーションと集中力を、どうやって維持するか、あるいは敵のピッチャーの集中力をどう途切れさすか。

 これがまさに奥義の入り口と言えるだろう。

 直史はここについて語るのだ。




 野球は攻撃と守備が、明確に分かれているスポーツである。

 だがその二つが全く関連していないかというと、そういうわけではない。

 相手ピッチャーの球を全く自軍が打てないと、自軍ピッチャーにも打たれてはいけないというプレッシャーがかかる。

 また自軍のピッチャーがピンチを何度も迎えると、援護をしなくてはいけないというプレッシャーがかかる。 

 このプレッシャーをどうかけていくかが、指揮官の仕事であろう。

 あるいはプレッシャーを上手く感じさせないようにするか。


 フィジカル全盛のこの時代であるが、本質的にはメンタルスポーツであるのが野球だ。

 その点では練習で追い込んでいくというのも、プレッシャーに慣れさせるという意味がないわけではない。

 もっともそのやり方では、メンタルを鍛えるのに効率は悪い。

 重要なのはメンタルが、動揺しないことである。


 MLBなどは試合の勝敗とピッチャーの評価は、完全に別物としていた。

 勝ち星だけで評価していたなら、デグロムさんなどは泣いてしまうだろう。

 味方の援護が少ないなら、こっちも点を与えなければいいじゃない、などというマリー・アントワネットのようなことを言うのは、直史ぐらいである。

 沢村賞の選考基準も、そろそろまた見直していくべきであろうか。


 NPBやMLBを家族で観戦しながら、直史は説明をする。

 その解説は間違っていないのだが、真琴はそのまま受け取るが、まだずっと小さい明史が、ふと疑問を洩らしてくる。

「今のカーブ投げた方が良かったんじゃないの?」

 なんとも早熟であるが、佐藤家の長男はそういうものなのであろうか。




 明史は基本的に、生まれつき体力がない。

 それでも頭脳の方は、両親のどちらから遺伝したとしても優秀なはずだ。

 実際に今のその指摘は正しい。

「バッターを打ち取るだけなら、確かにそれが正しいんだ」

 直史としても、明史を真琴と差別化して育てようなどとはしない。


 合理的に考えれば、カーブを投げればタイミングが取れなかっただろう。

 しかし試合の展開を考えれば、真っ向勝負で敵の四番を打ち取る、ということがプレッシャーを与える上で重要なことなのだ。

 実際にストレートを高めに投げ込み、見事三振を取った。

 そして観客は大喜びである。


 これこそがまさに、メンタルの面である。

「力と力で勝負して勝つと、自軍の打線にまで影響を与える。また相手のピッチャーが自軍のクリーンナップと勝負するのを避けにくくもする。つまるところ野球も興行だからな」

 なので直史としては、せめてゾーンで勝負して、ヒットは打たせないように、というピッチングをしていたのだが。


 技巧派ピッチャーが人気を集めることは難しい。

 上杉や武史のような、圧倒的なスピードボールは、数字ですごさが分かるのだ。

 これがバッティングであれば、大介のホームランが該当するだろう。

 対して直史は、充分に三振も取っているのだが、勝利のための合理精神が単純な力勝負を否定する。

 それでも勝っているのだから、それでいいではないか、というものだ。


 直史のようなピッチングを好む層もいる。

 何よりGMなどは、収益を出せるプレイヤーを重視するのだ。

 玄人受けするピッチャー、ということは間違いはない。

 ただここまで圧倒的な成績を残しても、力と力の勝負にこだわるFMは、MLBでもそれなりにいる。

 ワールドシリーズにおいても、ただ勝つのではなく、勝ち方というものがあるのだ。

 そういった価値観を元から破壊してしまったのが、直史であると言えるのか。

 MLBとしても過去を見れば、そういうピッチャーも存在するのだ。

 たとえばナックルボーラーなどは、今でこそいないが、ピッチャーの多様性を示すものであるだろう。

 だが分析が複雑化した現在、ピッチャーの多様性は、やや画一化される傾向がある。

 そんなことをしているから、直史を打てないのだが。

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