第87話 新たなる選択肢

 直史にとっては母校の動向よりも、娘の現状の方が優先度は高い。

 だが北村とも約束してしまったし、完全に無視するわけにもいかない。

 上手く育成できれば、面白そうな選手も入っているのだ。

 だが大会中は下手に口を出さず、その勝敗だけは確認していた。

 ベスト16までは進出していたので、最低限のシードは手に入れた。

 だがそこからもう一つ勝って、ベスト8で散った。


 この年、春季大会でベスト4まで勝ち残った中で、公立校は一校しかなかった。

 懐かしの上総総合である。

 鶴橋が完全に監督を退いてから、かつての栄光は失われたように思えた。

 だが人類は死に絶えてはいなかった。いや、それはそうであろうが。


 世紀末でもないのに、上総総合の救世主となった人物。

 その名前を新聞で見た時、直史は明らかに既視感があったものである。

「あの子も、教師になったんだ」

 普通に瑞希の方がよく知っていた。

「ほら、山根君と児玉君が春夏連覇した時のキャッチャー」

「ああ、そうか」

 八代潮。

「プロに行けそうな選手だったと思ったけど」

「大学で故障して、指導者に転向したのよ」

 本当になぜ、瑞希の方がよく知っているのか。

「……だって大学も後輩よ?」

「……」

 直史は本当に、自分の関心がないことには、全く関心がないのである。


 直史は基本的に、エゴイスティックな人間である。

 なので自分に関係のない話題は、そもそも頭に入れないようにしている。

 ただ高校時代に既に、プロで指名されそうなキャッチャーだな、という程度には憶えていた。

 しかし日本の場合、キャッチャーは要求されることが多い。

 高卒よりは大卒で、という選択肢もあったのだろう。

 だがその大学野球で故障し、プロへの道は閉ざされた。


 個人的に直史は、自分自身は樋口と共に好き放題していた、大学時代の野球が一番窮屈であった。

 樋口がいなければ、野球部はさっさと辞めて、無利子の奨学金へ切り替えることも考えていたかもしれない。

 もちろん大学側との事前交渉があったので、そんなことにはならなかったのだが。

 いうなれば大学時代の直史は、ノンプロと同じ意識で野球をしていた。

 プロではないが、チームを勝たせるのが仕事。

 実際リーグ戦は、在籍した中で一度しか、優勝出来ない年はなかった。


 同じ高校、同じ大学の後輩。

 そして今は、同じく故障によって、野球の世界から去った者。

「こいつ、確か話したこともあったな。指導者としての腕はどうなのかな」

 まだ20代の若手でありながら、公立の名門校を率いている。

 次の勤務地異動がどこになるのか、という問題は存在するが。


 瑞希の見つめる直史は、エゴイスティックだ。

 この場合は自分のためではなく、白富東のためにそのエゴを発揮している。

 直史にとって大学時代やプロの世界は、対価を受けて行った野球。

 それに比べて高校野球だけは、自分のためにやった野球だ。

 身内意識が、あからさまに感じられる。

 いっそのこと、自分で監督をやったらいいのに、などと瑞希は考えたりもする。

 だがそれは直史が、選ばないであろう道だ。


 ともあれ、瑞希は簡単にまとめた、潮に対するデータを差し出した。

 これがすぐに出てくるあたり、本当に瑞希は直史と夫婦である。

「ありがとう」

 そしてわずかだが目を輝かせる直史を見て、瑞希も少し笑うのであった。




 上総総合が長らく、公立の中では強かった理由。

 それはもちろん、千葉の妖怪とも言われた、鶴橋という優れた指導者の存在が大きい。

 だが根本的に、学校のシステムが部活有利になっていたのだ。

 普通科のみの高校と違い、上総総合は商業科や工業科が存在する。

 そしてこういった公立学校は、普通に部活の予算も多いのである。


 また鶴橋は工業科の機材を使ってトレーニング用の機材を作り、商業科の計算によってデータを整理した。

 さらに商業科には、出塁率や盗塁などの、様々な数値まで計算させていた。

 自前のセイバーメトリクスを、昔から使っていたようなものなのである。

 鶴橋が妖怪呼ばわりされるのは、そういったノウハウを基本的には、選手たちには結果だけしか教えなかったからである。


 その鶴橋は現在、シニアチームの監督をしている。

 さすがに高校野球を率いるのは無理な年齢になっても、シニアの育成には関わる。

 結局野球に魅入られた者は、そうやってこの世界から離れられないのだろう。

 ただ鶴橋も、若い頃は猛練習を選手に課し、それで結果を出していた。

 情報化が進むにつれ、そのやり方をあっさり捨てて、直史たちが対戦した頃は、完全な老獪さを手に入れていた。

 今はもう、好々爺となって、子供たちの成長を見つめているらしい。

 実際に先日会った時は、そんな話もしていた。

 だがどうしてあのタイミングで、潮の話にならなかったのか。

 もう一度会って、話をしてみたいと思った。


「三橋シニアか……」

 まずは本丸を攻める前に、鶴橋から話を聞いておこう。

 そう思って鶴橋が教えるシニアの名前を調べたのだが、どこかで聞いたような気がする。

「鬼塚君の出身チームでしょ」

「そうだった」

 つい先日も話していたのに、忘れてしまっている。

 本当に自分の気のないことは、憶えない男であった。




 鶴橋も上総総合の監督を辞めた後、すぐに完全に離れてしまったというわけではない。

 後任の監督になどは、色々と引き継ぐことがあったのだ。

 そして今でもやはり、甲子園に連れて行ったチームであるため、愛着というものはある。

 しかし直史に先日、潮のことを話さなかったのは、別に隠していたわけでもない。

「異動がまだ先だったからよ~」

 こんな単純な理由である。


 高校野球の監督は、一度やったらやめられない。

 まさに定年後も、体力の限界までやっていた鶴橋としては、その体現者であるだろう。

 その鶴橋としても、上総総合の監督が代わった時には、顔を出したものである。

 なにしろ鶴橋は、近辺の公立校では名士とも言える。

 長年培ってきた地元のコネクションは、いまだに健在であるというわけだ。


 直史は白富東の件について、鶴橋の助力を得られるとは思っていない。

 だが彼と話すことは、それ自体が勉強になるなとは思っている。

 もっとも今更勉強しても、なんの意味があるのかとは思うが。

 それに鶴橋も、居酒屋で食事をしながらなどであると、昭和の危険な話題が飛び出してくる。

 鉄拳制裁が当たり前であった、というものには直史も頷ける。




 実家の近所は直史が子供の頃でも普通に、他の家の子供を殴る爺婆がいたものだ。

 いや、女性はだいたい頬をつねるとか、耳を引っ張るというものであったが。

 要領のいい直史は、そういうものからは上手く逃げていた。

 だが武史は殴られたりして、それでもけろりとした顔をしていたものであったが。


 今はもういないな、と直史は思っている。

 そもそも野球の環境からして、昭和から平成中頃までに、大きく変わったと言える。

 かつては学校の不祥事があれば、なぜか関係のない野球部さえ、甲子園を辞退していたりした。

 今では問題を起こした部員がいても、それのみを排除して大会自体には参加する。

 部活ぐるみであったりすると、さすがにもう無理であるが、直史としては現状の方が当たり前だろう、と思っている。


 連帯責任など、あってはならない。

 そもそもその理屈で言うならば、監督者である教師か顧問が、全て悪くなるのではないか。

 このあたり直史は、さすがに弁護士らしい思考で考える。

 彼はリベラルではないが、ロジスティックではあるのだ。


「いっそお前さんが、やっちまえばいいだろうが」

「とてもそんな時間はありませんよ」

 それは確かに事実ではある。

「問題はやりたいか、やりたくないかの気持ちの問題だ~」

 はっきり言えば、別に直史はやりたくはない。


 本当はやりたいんだろう? そんな目で見られても、直史は困るのだ。

 自分が投げるわけでもなく、そのくせ負ければ最終的な責任のある監督など、誰がやりたいものだろうか。

 直史は自分が勝ちたいのである。チームを勝たせたいわけではない。

 だから勇名館や神奈川湘南に春日山は許したが、大阪光陰には絶対に負けたくなかった。

 監督が勝ちたいと思わなければ、チームが勝つことは出来ない。

 だが直史が監督をしたら、無難にチームの戦力を向上させ、選手の能力を向上させるにとどまるだろう。

 そこに執念などはない。




 鶴橋からは今の上総総合の話なども聞くことがあった。

 また一度、上総総合の練習なども見てくれや、という声もかかった。

 高校大学と、一緒にプレイすることはなかったが、一応は後輩である潮が采配を握るチーム。

 公立ながらベスト4というチームからは、学ぶべきことは色々とあるだろう。

 だが忘れてはいけないが、直史は本業を他に持ち、副業の中でも一つ、企業法務をほぼ本業と同じレベルでこなしている。

 これで土日や仕事の後に、真琴の相手までしているのである。


 大学時代に瑞希の部屋に入り浸っている時は、普通に家事などはこなしていた。特に料理などである。

 他のことは自分の部屋なので、瑞希が自分でやりたがったからだ。

 選択は直史もしてみたかったのだが。

 ところがプロになると、生活の中でさえ、休養にじっくりと充てる必要がある。

 引退してからはまさか、ここまで家庭内の分担が変わるとは。


 ただ活発な真琴に付き合うのは、瑞希では無理なのは確かなのだ。

 子供はあと一人ぐらいほしいと思っていたが、これはちょっと無理かもしれない。

 最優先すべきは、真琴の教育である。

 明史はなんだか、自分で勝手に育ってしまっている。

 ちょっとインドア派すぎるのは、心配ではあるが。


 上総総合の練習を見に行くにしても、そんな暇があるなら白富東を見に行くべきではないか。

 本格的な夏を前にして、チームは最後の追い込みに入っている。

 ここで直史が、わずかなレベルアップをさせれば、甲子園が見えるのではないか。

 もっともそれよりも前に、真琴の初の公式戦が待っている。

 親としても、立場を考えなくても、どちらにしろそちらの方が直史にとっては重要だ。


「好きにしていいのよ?」

 瑞希はなんというかこう、理解のある彼女さんムーブがすごい。

 プロの頃は仕事のフォローという面があったが、今では二人は対等のはずなのだが。

「分かってないわね」

 瑞希は苦笑しながら言った。

「そういう人だとずっと昔から分かっていて、私は結婚したんだから」

 一本取られてしまったかな、とこれまた苦笑する直史であった。




 千葉のようなチーム数の多い県で、ベスト8まで公立校が残れば充分。

 これは客観的な事実である。

 だが主観的に見ればどうであるか。

 この場合の主観とは、実際に戦う選手たちである。


 高校野球は一発勝負。

 正確には春と秋はちょっと違うが、最後の大会になる夏が、完全トーナメント制である。

 ちょっとした調整ミスで失点したり、たまたまスランプがその時期にやってきたりと、人間は機械ではないのだから、充分にありうることだ。

 だがそれでも一発勝負なのである。


 第二シードを取ったため、ベスト16までは強力なチームとも当たらないし、そのベスト16でも格上とは当たらない。

 もっとも夏までのわずかな間に、急成長するチームはあるものだ。

 それにシードクラスのチームであっても、春には運が悪かったりして、早々に負けてしまっているパターンもある。

 それと当たったなら、シードでも初戦敗退はありうる。


 北村が最後の夏に、決勝で負けた勇名館は、その代表的な例である。

 春の大会で負かしたのは、白富東であったが。

 その前の秋の時点で、当時は一年生だった吉村が軽い故障で、チームがあまり勝ち進めなかったというのも不運ではあったろう。

 だが結果的に甲子園に行ったの、勇名館であった。




 今年も本命と対抗は、勇名館とトーチバの二校である。

 だがダークホースとも言われているのは、ベスト4まで進出した上総総合。

 元々古豪ではあったため、ダークホースというほどでもないだろうか。

 私立には通えないし、特待生になるほどでもないが、それでもある程度のガチで高校野球をする選手が、第一に考えるところだ。


 白富東もその意味では、選択肢に上がりやすい。

 だが普通科はとんでもなく偏差値が高いし、体育かも平均よりはずっと高い。

 スポーツ特待生制度はあるが、昨今はそれで野球部に入学してくる中学生の質は落ちている。

 それは近年の甲子園出場が、やはりほぼ私立に占拠されているからだ。


 結局選手の甲子園信仰は、いまだに根強いのだ。

 ガチで目指しているわけではないというチームであっても、とりあえず甲子園は目指そう、という方針にしているチームは多いだろう。

 実際のところ秋季大会から21世紀枠でセンバツに出場するチームはあるわけだ。

 白富東も、秋季関東大会で決勝まで勝ったので、センバツ初出場を決めたが、もしもあれが県のベスト4あたりで負けていたとしても、おそらくその21世紀枠で選ばれていた可能性は極めて高い。


「八代か……」

 北村が全国制覇を出来た理由の一つには、選手層というものがある。

 確かにあの年は、選手層が極めて厚かったのだ。

 優也に正志という投打の中心がいて、そして守備の要であるキャッチャーが潮であった。

 確かに勉強もすごく出来たものな、と北村は思い出す。


 大学では故障し、とてもプロで通用するレベルまで回復することはなかった。

 もっとも高校の時点でも、プロ志望届を出していたら、指名されていた可能性は高い。

 ただ高卒のキャッチャーというのは、仕上がるのに本当に時間がかかる。

 なので大学を経由して技術を高めていくというのは、より多くのピッチャーのボールを受ける大学野球なら、おかしな選択肢ではなかったのだ。

 だがそれでも、本当にプロの道を選んだかどうかというと、それも疑問が残るところではあるのだ。

 少なくとも北村は、そういう相談を受けていた。




 将来的にはどんどんと、強い公立が増えることはいいことだと思う。

 県内で切磋琢磨することによって、全国に出ても上を目指していける。

 その意味では高校野球の監督に、優れた指導者が増えることはいいことだ。

 もっと広い視野で見れば、大学野球も指導者に、どんどん若手を増やしていくべきであろう。

 しかし大学野球の監督は、なかなか交代しないという例もある。


 社会人野球まで行くならともかく、それまでのアマチュアは全て、育成を至上の命題とすべきだ。

 高校野球などは、地元の期待を背負っていると言っても、県外からの留学生が多すぎて、とても県の代表などとは言えなかったりする。

 もっともこれは、私立の強いチームが、地元大阪から選手を引き抜くことを、嫌がられているという面もある。

 とにかく言えるのは、潰さずに次のステップに進ませるのが重要であって、勝利至上主義は本来なら違うというものだ。


 北村としては、自分の教え子が自分の後任となるなら、それはそれで嬉しい。

 だが潮自身がどう考えているのかということと、鶴橋も言ったとおり異動の任期の問題もあるのだ。

 結局本当に直史が理想のチームを作りたいというなら、自分で作るしかないだろう。

 そして直史は、自分が他人に技術を教えるならともかく、監督としてやっていく熱意も適性もないと思う。


 基本的に直史は、他人がどう練習しているかなど、どうでもいいのである。

 重要なのはどれだけ、自分が練習でクオリティを上げていくか。

 一点も取られなければ、少なくとも負けることはない。

 そうは言っても直史の場合、その背中でチームメイトを鼓舞することが、とてつもなく大きかったのだが。

 エースとしてのやり方で、監督をやることは出来ない。

 明確な言語化はしていないものの、直史はそれを感じ取っていたのであった。

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