第108話 数年後 そして Again

 律儀な鬼塚が挨拶に来た。

「そうか、引退か……」

「ええ、お世話になりました」

「いや、こちらこそ中途半端なところで投げ出してしまって申し訳ない」

「そんなことはないですよ」

 鬼塚は本当に、心の底からそう考えている。

 一時的にではあるが、直史が後ろ盾のようなことになったのは、鬼塚にとってありがたいことであった。

 息子の病気のために、仕事を絞ってしまったのは、元々さほど直史の儲けにもなっていなかったのだから、それは仕方がないとも言える。

 鬼塚が後輩であったからこそ、頼まれてくれたのだろう。


「引退後は何をするか、もう決めたのか?」

 野球選手のセカンドキャリアは、本当に難しいものがある。

 ただ鬼塚に関しては、直史はあまり心配していない。

 世間での認知度、球団に対する貢献度、またキャラクター性に人格と、周囲が放っておかない素材である。

 家も東京よりのところに建てているので、なんらかのイベントに呼ばれても、気軽に行くことが出来る。

「球団職員として、とりあえずスカウトしないかって話はあったんですけど」

 そう言うからには、他に何かを考えているのか。

「アマチュアの指導者やりたいんですよね」

「そういえば前に言ってたか」

 その気持ちがずっと、変わらなかったというのは少し驚きだ。


 一度プロの舞台に立って、スターとも言われるぐらいの人気になると、もう一度ユニフォームに袖を通したい、という気持ちにはなるらしい。

 芸能界などで、一度ステージで脚光を浴びれば、もう止められないというのもそういう人種なのだろう。

 だが鬼塚は見た目は派手ではあったが、実際のところは質実剛健を意識している。

 実際に30代の半ばまで、おおよそスタメンを張ってきたというのは、そのあたりを忘れなかったからだ。

 故障から出場機会が減った今年、復帰してすぐにまた故障してしまった。

 次に体を元に戻して、さらに試合勘まで戻すことを考えると、かなり無理があるだろう。

 それでも球団としては、年俸も下がった状態であれば、籍を置いていてほしいと思うぐらい、鬼塚は面白い存在であるのだが。


 ただ、プロの世界は新陳代謝が激しい。

 もう一軍のスタメンに戻るのが厳しそうな自分が、70人の登録に入ってしまっている。

 他の誰かに譲るべき時が来たのだ。

 衰えはもう隠せない。

「実はシニアのチームのコーチをしないかって言われてて。まあそれだけだと収入が心もとないんで、事務所に所属して仕事もする予定ではあるんですけど」

「そうか……指導者資格の回復は、今年するのか?」

「はい、12月のに」

 アマチュア用に指導者資格を回復するというのは、即ちプロの世界からは足を洗うということだ。

「昔からずっと、日本の野球はアマチュアの初期段階で、もっと適切な指導をしないといけないと思っていたんです」

「そういう話もしたなあ」

 直史の場合は、完全に指導者の力不足。

 鬼塚の場合は指導者との関係性が悪く、それぞれ中学では埋もれた存在ではあった。


 結局野球というスポーツとは、ずっと付き合っていくつもりなのだ。

 ここにもまた、野球馬鹿が一人いる。

「ナオさんもまた、コーチしてくれたらいいんですけどね」

「俺はもう、そんな余裕はないからな」

 強張った表情には、鬼塚も息を飲むものがあった。

 事情に関しては、知らされている人間の一人が鬼塚だ。


 甲子園に行けなければ死ぬ、というぐらいのつもりで野球をやっている高校生というのは、いまだに多いだろう。

 だが別に行けなくても、本当に死ぬわけではない。

 直史の息子である明史は、本当に死に近いところで生きている。

 それを見続ける直史が、どういう精神状態でいるのか。

 鬼塚には推測することさえ難しかった。




 華々しい引退試合などはなかったが、その年の最終戦で、鬼塚は一軍に上がって最後に一打席だけ代打に立つことになった。

 それを終えた鬼塚は、プロ野球選手という肩書きを失っている。

 12月には速やかにアマチュア指導資格を回復し、中学時代の古巣である三橋シニアのコーチをすることとなった。

 これは普通に、地元のタニマチなどにやりたいことを言った結果、実現したものである。


 監督でないのは、いきなり監督というのは、単に客寄せパンダになる可能性があったからだ。

 まずはコーチとして、技術論から指導していく。

 いずれは確かに、監督もやってみたいとは思っている。

 特に高校野球の監督である。


 教員の資格を持っていれば、教職をしながら野球部に関わる、ということも出来たであろう。

 しかし今から大学に入りなおし、教員免許を取るというのは迂遠に過ぎる。

 また現在は教員の働き方改革などが口うるさく言われている。

 ならば外部からでも監督が出来るのだから、わざわざ教職にまで就く必要はないだろう。


 そんなことを考えていた鬼塚は、自分が高校生だった頃に、上総総合という公立校で名将と呼ばれた、鶴橋が現在の監督をする、三橋シニアのコーチになったわけである。

「え?」

 チームの名簿の一覧を見て、鬼塚は間抜けた驚きの声を発した。

「なんで真琴ちゃん、このチームにいるの?」

 



 鬼塚の主観ではなく、客観的な認識としても、三橋シニアはそれほど強いチームというわけではない。

 シニアはある程度の地区から選手を集めるわけだが、千葉でもそれなりに人口が多いところから通えるため、いい選手はより実績のある、鷺北シニアに所属するのが一般的である。

 鬼塚などは素行不良などもあって、そちらには在籍していない。

 だが名将鶴橋などは、むしろこういうチームをこそ、指導したいと思っているらしかった。


 一流の素材が集まるわけではない。

 ただそれでも、野球をやりたいという子供たちが揃っている。

 それが分かっているからこそ、鬼塚もコーチを引き受けたのだ。

 重要なのは野球を好きになってもらうこと。

 そして上手くなることの喜びを知ってもらうことだ。


 好きこそ物の上手なれ。

 人間というのは基本的に、好きであれば上達が早い。

 そして好きになるには、誉められるのが一番だ。

 厳しくしなければいけないこともある、などというのはもっと上の段階にいってからである。

 だが日本の野球とはいまだに、アマチュアの子供時代から、やたらと厳しいのが黙認されていたりする。


 鬼塚としてはそんな風潮を良しとしない。

 もちろんイメージ戦略で、さわやかさを演出するといったものは、アマチュアレベルであるからこそ、重要なことだとは思っている。

 甲子園というのは基本的に判官びいきの舞台である。

 そんな前提を破壊して、決勝でパーフェクトを達成してしまう、直史のようなメンタルは明らかにおかしいが。




 それにしても、どうして真琴がいるのか。

 風の噂程度に聴いた話だが、リトルで女の子が大活躍しているという話は鬼塚も耳にしていた。

 ならばシニアチームはもっと、強いところに入るべきではないのか。

 距離的な問題かもしれないが、この辺りでは鷺北シニアが名門として知られている。


 その理由は鶴橋と話をした時に、普通に教えてもらった。

「最初はあっちに行ってたんだが、やっかみが激しくて友達と一緒に移ってきたんだよ~」

 うん? と不思議に思う鬼塚である。

 鷺北シニアはなにしろ、甲子園初出場女子選手である、シーナを輩出した名門シニアである。

 それがどうして、真琴を排斥したりするようなことになるのか。

 直史の娘であるが、あまり才能はなかったということだろうか。

「女を育てても、先が見えねえからな~」

 そういうことか。


 シニアチームはまだ、可能性を探っていく段階と言える。

 しかし女子選手には、プロにまで至る可能性というものはない。

 神宮に続いて甲子園も、女子選手が解禁とはなった。

 だがプロのレベルにまで達すると、さすがに女子では一軍にいられるようなスペックはないのだ。


 以前、トランスジェンダーの女性が女性の競技に出場し、上位を独占するというおかしな時代があった。

 男子としては中学のトップレベルであっても、女子ならば大人も含めてトップに立つことが出来るのだ。

 それぐらいに男女の性差というのは圧倒的である。

 高校時代、シーナは確かに上手かったが、試合によってパフォーマンスが違った。

 今思えばあれは、生理が関係していたのではないかと思う。


 かつてはシーナを許容していたが、プロを何人も輩出したことにより、さらなる名門化が進んだ。

 よってプロの道がない女子選手は、まともに使われないということか。

「でもナオさんが話をすれば、そんなことにはならないんじゃ?」

「あそこは親子どっちも、七光りを使うような人間じゃねえだろ~」

 それはそうかもしれない。




 実力を重視するのか将来性を重視するのか。

 監督が代わったこともまた、鷺北シニアの変化の原因であろう。

 だが鬼塚が初めてのコーチに入ったとき、真琴は別に鬱屈してもいなかった。

「鷺北シニアぶっ飛ばす」

 ……怒りは抑えられていなかったようだが。


 サウスポーのサイドスローで、球威は充分にある。

 この年頃であると男女差は、まだ明確ではない。

 むしろ第二次成長期が早く来て、成長痛などに悩まされない女子の方が、鍛えるのには有利であったりする。

 ちょっと見ただけでも、バッティングもピッチングも、同年代の男子と比べて、決して劣っているとは思えない。

 それなのに試合で使われにくいとなれば、それはもう腐るだろう。


 また真琴以外にも、主力に女子選手がいた。

 鬼塚も知っている、星の娘である聖子だ。

 直史と違い鬼塚は、高卒でそのままプロ入りした。

 なので星との接触は、それほど多いものではない。


 だがあの最強であった白富東の一年間。

 千葉県内で白富東を少しでも苦戦させたのは、星たちのいた三里ぐらいであった。

 星は身体能力が低いながらも、それでもプロで活躍したという、非常に珍しい選手であった。

 ピッチャーというポジションは、運動神経の塊のような人間がやるものであって、それを工夫でどうにかしたのが直史と言える。

 ただその直史でさえ、ある程度のフィジカルはあったのだ。

(なんというか、また面白い面子が揃ってるんだな)

 きゃいきゃいと姦しい少女たちのやり取りを見ながらも、鬼塚は指導者への一歩を踏み出したのである。




×××




 病院という空間はどこか、死に向かうあの特有の匂いに満ちている。

 その一室で、直史はただ一人、医師と向かい合っていた。

「微妙なところです」

 当人も、また瑞希もいない。

 本来の直史であれば、瑞希とは共に話を聞いているだろう。

 しかし瑞希はまだ小さな子供の世話にも忙しいので、精神的な余裕がある直史が、話をまずは聞いておくのだ。


 この数年、同じことが繰り返されている。

 そしてタイムリミットは迫っている。

 明史の心臓の状態は改善していない。

 幸いなのは悪化もしていないということか。

 しかしこの先、成長期で体が大きくなれば、心臓が全身に送る血液の量と勢いは多く強くなっていく。

 その時にはおそくら、心臓が耐えられなくなる。

 かつてはこのまま穴が塞がるのでは、という楽観論もわずかながらあった。

 だがこの数年の経過観察によって、それはおそらくありえないだろうと思われている。


 手術しかない。

 それは分かっているのだが、成功率はほどほどである。

 おそらく、という言い方しか医者は出来ない。

 100%成功する手術などは、この世にはないのだ。

 手術自体は成功しても、結局は死亡したということは普通にあることだ。

 ただおそらく、勝算もそれほどは低くないのだ。

 しかし命のかかった手術で、失敗する確率が10%もあるとしたら、たいがいの人間は恐れるものだろう。


 問題なのは明史自身に、あまり手術への意思が感じられないことだ。

 このままでいけばおそらく、15歳までは生きられない。

 どうにかそこを越えたとしても、30歳ぐらいまでが限界だ、ということを医者も言っている。

 明史自身は子供の頃に、既にそういったことは聞かされている。

 なのでどこか厭世的というか、長期的な視野を持っていない気がする。


 言い方を失敗したかもしれない。

 だが生きていればこの先、もっと楽しいことが待っているかもしれない。

 それが何かを具体的には、直史も説明は出来ないのだが。




 明史としては、明日にも自分が死んでしまう、ということはずっと考えて生きてきた。

 そこにもっとずっと先のことを考えて、手術を受けるという選択は、なかなか受け入れづらい。

 大きな発作が起これば、そのたびに手術の成功率は下がっていく。

 だが眠ったと思ったら、もうそのまま目を覚まさない。

 そんな手術を受け入れるのは、当たり前だが恐ろしいことだ。


 直史もこれには、どうやって説得をすればいいのかは分からない。

 だが明史が、このまま約束された、自分よりも早い死を迎えることを、許容するわけにはいかない。

 まだ10歳にもなっていない子供に、選択をさせるのか。

 しかし自分の10歳の頃であれば、自分のことは自分で選択しただろう。

  

 他の家族は交えず、父と子、男と男として話す。

 直史は自分でも気づいていないことだが、子供を一人の人間として扱う。

 子供だった頃の自分は、確かに今よりも未熟ではあった。

 だが既に、一人の人間ではあったのだ。


「そんな危険な手術をするより、リスクが少ない生活をした方がいいと思う。僕は体も小さいし、そんなに心臓に負担もかからないし」

 明史はそう、無感動な声音で言った。

 理性的であろうとしているし、実際にそうなのだろう。

 明史は何事にも関心がないというわけではないが、何かに特別に執着しようという姿勢も見せてこなかった。

 破滅衝動があるわけではないが、自分にはあまり未来が残されていない。

 それを理解した上で、未来のために踏み出してほしい。




 明史は自分の未来に絶望しているわけではない。

 ただずっと、いつ死んでも仕方がないのだ、ということは考えていた。

 人間は誰だって、本当にいつ死ぬか分からない。

 もちろん基本的には、年齢の順に死んでいくことが多い。

 だが交通事故に巻き込まれて、自分にはなんの過失もないのに、突然の死が訪れることもある。

 そうやってずっと、自分を納得させてきた。


 第二次成長期を前に、手術を行わなければ、その成功率が下がるというのも、日常で突然死がありうるというのも、既に説明されたことだ。

 しかしそうやって命をつないだとして、自分は何をやればいいのか。

 刹那的に楽しそうなことには、それなりに手を伸ばしてきた。

 だが今、その手の中に残っているものは、ほとんどない。

 実際に移動をするだけでも、心臓に負担がかかる体質。

 現代ではネットがあるため、仮想空間で人とつながることは、それでも難しくはなくなっているのだが。


 手術を受けない理由はいくらでも、自分の中にある。

 だがそれでも父が、自分に手術を受けてほしいと思う気持ちも、理屈の上では分からなくもない。

「お前はまだ、世界の広さを知らないんだ」

 知ることの幸福を、喜びを明史はまだ知らない。

「医療技術は日々進歩している。アメリカの最先端設備を使って行えば、成功率は失敗率よりも圧倒的に高い」

「それでも賭けるのは、僕の命でしょ」

 自分の命の価値は、自分で決める。

 もちろん家族たちが、それよりもずっと高く、この価値を認めてくれているのは分かっているのだが。


 直史はずっと冷静に話をしてきた。

 だがどうしても、ため息をつきたくもなる。

「代われるものなら代わってやりたいよ……」

 親としての、偽りのない本心である。


 自分はもう、青春の日々は終えた。

 もちろん社会を動かしていく価値は、ここから先の方がずっと長い。

 しかしそれでも、輝ける日々を息子にも送ってもらいたいと思う。

「じゃあ賭けようか」

 明史の口から、そんな言葉が出た。




 直史は賭け事が嫌いである。

 なので人生においては、ローリスクローリターンな選択をしてきた。

 どこがだ? と他の人間には思われるかもしれないが。

「賭ける?」

「お父さんにも、何かをしてほしい」

「出来ることなら、もう全部しているつもりだ」

 実際のところ、直史が出来ることはもう少ない。

 あとは医者と明史の問題である。


 ただ明史が求めているのは、そういうものではないのでは、という気もした。

 実際に、明史が求めているのは、抽象的なものだった。

「お姉ちゃんが手術する時も、お父さんはプロの世界に行ったんだよね?」

「ああ、金を稼ぐためにな」

 実際はかなり違うのだが、一応はそれも嘘ではない。

「なら、可能性を見せてほしい」

「可能性?」

「僕はお父さんがリアルタイムでパーフェクトをしたところを、おぼろげにしか憶えてないんだ」

 それは確かに、年齢的に言えばそうであろうが。

「だからまた、パーフェクトを見せてほしい」

 直史は困惑した。


 パーフェクトを見たい。

 映像でならば何度も、明史は見ているはずである。

 またキャリア最後の一年なども、明史はかなり物心がついていたと思うのだ。

 だからこれは本当に、可能性を求めているのか。

 直史がそれに挑戦し、果たせるのならばそれは凄いことだ。

 あの当時と違って今ならば、パーフェクトというのがどれだけ難しいことなのか、分かっているのであろうし。


 ただ、問題が厳然として存在する。

 一つには直史の肉体的な問題で、もう一つは制度的な問題。

 一度引退した選手が、復帰するということはないではない。

 しかし直史の場合は、学生野球の指導資格の回復なども行っている。

 肉体的にはもう、五年ほども試合には投げていない。純粋に体力が減っているだろう。

 制度的には、果たしてそれが可能であるのかどうか。


 もしも復帰が出来たとしても、先発に使われるかどうかは、チームが決めることだ。

 直史自身の意思だけで、どうにかなることは少ない。

 それに復帰自体が制度的には可能であったとしても、どこか取ってくれるチームがあるというのか。

 古巣のレックスには、それなりに迷惑をかけて移籍した、という認識がある。

 いくら直史がそれを希望しても、チームが取るかどうかは別の話なのだ。

 また明史が、NPBなりMLBなり、どこのリーグを希望しているのか、によっても難易度は変わるだろう。



 

 しばらく沈黙した直史に対して、明史が口を開く。

「お父さんの場合は契約終了後の自由契約扱いだから、日米どちらのリーグであっても、復帰に問題はないはずだよ」

「調べてたのか」

「こんな無茶を言うぐらいだからね」

 用意周到と言うか、先に策を練られていたというわけなのか。


 深く息を吐いた直史は、改めて明史に向き直る。

「日米のどちらでも構わないのか?」

「NPBかMLBじゃないと、中継が見れないからそのどちらかで」

 一応選択肢は、42球団となったわけだ。

 これがMLBであったなら、スプリングトレーニングに招待選手として呼んでもらうぐらいは、伝手をたどれば可能であろう。

 だが今からMLBのあの日程で、パーフェクトが達成できるとは思えない直史である。


 ならばNPBか。

 いや、NPBにしても、今の直史の体力では、とても一試合を投げきることは出来ないだろう。

 これまでの経験や技術を活かすなら、中継ぎというのが現実的なビジョンである。

 だがそれは、明史を納得させられるものではない。


 明史は奇跡を見たいのだろう。

 パーフェクトというのは、まさに奇跡のことである。

 それをもう五年も実戦を離れた自分が、プロのステージで達成する。

 これは自分だけの力では、どうしようもないことである。

「少し条件を緩くしてくれ」

 さすがに直史としては、そうも言いたくなった。

「パーフェクトか、沢村賞か、シーズンMVPのどれかにしてくれないか?」

「それなら出来ると思ってるの?」

「難しいだろうが、パーフェクトは選手の起用の問題だから、自分ではどうしようもないこともある」

 明史が考え込んだのは、確かにそうかな、と思ったからだ。

 奇跡を起こすにしても、前提条件というものがある。

 直史がそもそも、復帰できるかどうかも怪しい。

 明史はそれを正しく理解していて、こんな無茶を言っているのだ。


 出来るはずがない、と理性は判断する。

 だが直史の残してきた成績は、更新不可能と思われるものがほとんどだ。

 そんな父であれば、なんとかしてしまうのではないか。

 自分で起こせる範囲なら、奇跡も起こしてしまう。

 人間の可能性は、どこに限界があるのだろう。


 直史の言葉からすれば、選択されるのはMLBではなくNPBとなるのだろう。

 ただこの年齢のロートルを、どこの球団が獲得してくれるのか。

 自信などはまったくない、というのが直史の本音だ。

 だがやってもしないうちに、何かを言っても説得力はないだろう。

「今年はもう戦力の入れ替えは不可能な時期に入ってるから、来年からになるか」

 球団のスカウトに見せるにしても、ある程度の時間をかけて、体力を取り戻す必要はある。

 幸いと言うべきか、明史は期限自体は切っていない。

 ただ時間が経過すればするほど、直史は年齢を重ねて衰えていく。

 そして明史の症状が悪化する可能性は増えていく。


 明確な時間切れはないが、それでも限界はある。

 人の死がいつ訪れるのか分からない程度には、その限界点も分からない。

 それでもかつてのエースは、選択をした。

 息子に選択を促すための、勇気の一歩ではある。

 これはひょっとしたら、とてつもなく無謀であったり、また醜態を晒すことになるかもしれない。

 それが分かっていても、直史に他の選択肢はない。


 エースは己の限界に挑戦していく。

 それは人間の限界への挑戦でもあるかもしれない。




   第八部・完

   第九部 REBIRTH へ続く



×××



  第九部 REBIRTH エースの帰還

 https://kakuyomu.jp/works/16817330657233775043

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エースはまだ自分の限界を知らない [第八部]FINAL 彼が去った、その後で 草野猫彦 @ringniring

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ