第107話 偽りなき日々
やたらと挨拶の多い、年始が過ぎる。
大介と武史の家族は、またアメリカへと戻っていった。
以前ほど日本にいる期間が長くないのは、直史がトレーニングにあまり協力できないからだ。
二人とも去年は、MLB移籍後は最低のシーズンを送ったと言っていい。
なので今年はチームも再建されるであろうし、全力でポストシーズンを目指して、さらにワールドシリーズ進出も目指す。
ニューヨークのチーム同士でワールドチャンピオン決定戦とでもなれば、ニューヨークも盛り上がるのは間違いないだろう。
実際のところ、それはかなり難しいのは分かっているのだが。
優勝を目指すと、現役である二人は、よりいっそう直史の異常さに気づいてくる。
七年間のキャリアにおいて、NPBでは二年連続で、そしてMLBでは5シーズンで四回の優勝を果たしている。
優勝請負人の名に相応しいのは、チームが崩壊した一年、アナハイムからメトロズに移籍して、クローザーを果たした実績からも明らかだ。
大学時代もリーグ戦で優勝できなかったのは、八回のうち一度だけ。
WBCやワールドカップも、全て優勝という結果が残っている。
思えば直史が負けたのは、プロにおいては一度しかなかった。
その一度も、大介との対決であったのだ。
この異常なまでの勝負強さというか安定感は、もちろん世界中の記録を見てもありえない。
個人競技ではなく、団体競技なのである。
クラブチーム時代は、自責点がつかなかった試合なので、そこそこは負けている。
ただそのあたりはほとんど、練習試合などが多かったのだ。
直史はつまり、高校二年生の春から、大介に打たれたワールドシリーズの最終戦まで、10年以上公式戦で負けがつかなかったのだ。
一人だけ別のルールで、野球をやっているように思われてもおかしくない。
ただプロ入り後の成績については、直史としては坂本と樋口の力が大きいとも思っている。
そもそもあの、完全に意識が覚醒していたという状態の、最高のボールを大介はホームランにしたのだ。
あれこそ直史からすれば、訳が分からない、ということになるのだが。
直史は当然ながら、今年もフロリダには行かない。
瑞希の妊娠と、明史の病気というのが理由である。
しかし仕事に関しても、完全に地元のものを優先として、あとは人間関係を維持するために必要な、しがらみ案件をわずかに受けるのみ。
今の直史にとって重要なのは、生きている子供と、生まれてくる子供についてだ。
第三子は、また男の子である。
直史はそれを聞いたとき、表情を保つのに苦労した。
自分の中にある、消しきれないし消そうとも思わない価値観。
跡取り息子がこれで確保できたという思考。
これは誰にも言えないことだ。
おそらく祖母は気づいてくれているだろう。
直史に長男としての教育をしたのは、主に祖母であったからだ。
田舎の価値観を、年齢的にも職種的にも、しっかりと理解しているのが祖母だ。
なので彼女だけは、直史の安堵を許すのだ。
(最低とは言わないが、嫌な考えだ)
瑞希にも言えないことが、直史にはまた増えた。
順調に胎児が育っている瑞希は、明史の件もあるため、仕事を完全に休んで在宅で出来る仕事に絞っている。
するとまた、コラムの仕事などが依頼されてくるのだが。
体調の管理のために、瑞希の母がマンションに泊まることは日常となっている。
直史としても今は、それがありがたい。
30代の半ばとなって、瑞希も体力は少し衰えている。
ただ経産婦であるので、そこまでの危険はないだろう、とも思われているのだ。
実際には明史の病気の件で、精神的には不安定になりつつあるのだが。
年齢を重ねるごとに、時間が流れるのは早くなる気がする。
それはもちろん、若い頃は体験する全てが新しく、鮮烈に記録されるからだ、という説もある。
年齢を重ねるごとに、経験で対応出来ることは増えていく。
もっとも現代では、技術の進歩が早すぎて、それに対応できなくなっている人間も多かったりする。
肉体労働は意外と言うべきか、なかなか機械での代替が利かない。
しかし創造性の範疇と見られていた仕事などが、むしろ機械化されていく。
AIの進歩なども、当初はまだまだ人間を超えるのは遠い先だと思われていた。
確かに今でも、AIで完全に代替できる仕事というのは少ない。
だが人間のする一部の工程をフォローすることで、マンパワーを節約できるようにはなっている。
創造性に関して言えば、瑞希がやっているような、野球に関する叙述。
こういったものは人間性や客観性をどう捉えるかが問題なので、おそらくまだしばらくは失われることがない仕事である。
しかし単に消費される程度の文書であれば、すぐに作られることは確かなのだ。
簡単な部分から機械が人間の仕事を奪っていく。
これは簡単な部分で人間が学んでいくことを考えてみると、意外と深刻な問題であると分かるかもしれない。
ただ結局、人を動かすのは人間だ。
直史は年が明けてからも、ずっと自分にしか出来ないことをしている。
野球から遠ざかっている直史。
純粋に野球人としては、最高の高みに到達した。
そしてその絶頂のまま、舞台から去った。
これをもったいないと考える人々は、未だに多いであろう。
あの時やっていた、肘のトミージョン手術、もしくはIPS細胞による再生手術。
それが成功していれば、今はまたマウンドに戻れていたかもしれないと。
直史の内心は、ほんのわずかな人間にしか伝わっていない。
なのでそう思われてしまうのも、仕方のないことなのかもしれないが。
真琴とキャッチボールをする機会も、随分と減ってしまった。
単純に時間だけなら作れるのだが、問題はそれを明史に見せないことだ。
何も不自由なく動き回る真琴を、さすがに止めようとは思わないし、やってはいけないことであろう。
だが大切なことは、どちらをより大切に思っているかということだ。
これに関しても真琴に対しては、赤ん坊の頃には本当に苦労させられた。
どちらが大事かなど、問うだけ愚かなこと。
どちらも大事なのに間違いはない。
真琴はその大事にされた時代の記憶がない。
そして明史が生まれてからは、基本的に両親は小さな弟の方に、力を入れて育てていた。
仕方のないことだと分かる程度には、真琴も大人であることを強いられている。
そしていくら強がって理性的であろうとしても、明史からすると普通に走ることの出来る姉が、羨ましくて仕方がない。
姉と弟、仲は悪くはないはずだった。
いや、今でもお互いに、憧れのような、家族としての親しみは感じている。
だがそれだけに余計に、ギクシャクとした確執が生まれかけている。
両親譲りの理性が、かろうじてそれをとどめているが。
これは真琴が、家庭の外に自分の居場所を見つけ始めている、ということがいい方向に転がっていただろう。
リトルの野球チームは、週末だけの活動。
しかし学校に加えて新たな世界が、真琴の前には広がっている。
直史がMLBを引退し、日本に帰ってきたのは、子供たちのことを考えれば完全に正解のタイミングであった。
拠点を千葉に置いて、主に瑞希の母からの手助けが得られる。
そして直史もおおよそは毎日帰宅して、子供たちとのコミュニケーションを取れる。
瑞希が妊娠したため、直史の親としての役割は多くなっている。
ただ拘束される時間はそれでも、メジャーリーガー時代よりは少ない。
直史はあまり、回復力に優れた体質ではないのだ。
体力にしてもそれほど突出してはおらず、ただ消耗することを極力減らしていた。
MLB時代も遠征時はもちろん、地元での開催においても、回復のために時間を使っていた。
睡眠時間を削ってまで練習をすることはナンセンス。
むしろ八時間ほどは眠っていた方がいいというのが、本当のアスリートに関しては言える。
それだけ肉体というのは消耗しているのであるから。
知的労働においても、実は脳を休める必要は相当にある。
ただ脳はエネルギーを消費することはあっても、疲労と言うよりは情報の整理にその休息時間を使う。
なのでやはり、休息は必要なのである。
直史としてもやはり、引退してからは無理が利く。
根本的な疲労が、MLBとは比べ物にならないからだ。
もっとも疲労の性質は、やはり純粋な肉体パフォーマンスとは、違うものだと言えるであろう。
直史がその手の中に守れるものは、減ってきている。
海外にいる弟や妹たちには、及ぶことはない。
ただもう一人前の大人であるのだから、直史が保護者ぶる必要はないであろう。
恵美理のトラウマに関してだけは、さすがに心配ではあるが。
彼女が事件に巻き込まれたのは、夏の季節であった。
そしてスプリングトレーニングなどは、年中真夏のフロリダで行われる。
また直史は改めて調べたのだが、フロリダにおける発砲事件というのは、かなり多かったりする。
大規模な殺害人数になったり、犯人自身も警察に撃ち殺されていたりする。
悪意に対するトラウマというのは、単純な苦労に比べられるものではない。
恵美理などは幼少期、かなり厳しい音楽のレッスンなどは受けたらしいが、そういうものではないのだ。
白富東は合理的なトレーニングや練習もしていたが、全く追い込みのトレーニングをしなかったわけではない。
合理的に考えて、追い込みの練習などをした。
大介などは自分に厳しいと言うか、苦しくても楽しんでしまう人間である。
しかしながら祖父の臨終が迫っていた頃は、成績が悪化していた。
椿が撃たれた時なども、しばらくは試合に出られなかった。
精神的に強いということは、純粋に一つの強さではない。
多くの経験によって、その強さというのは構成されている。
どれだけ強く硬いものでも、それが均一の材質で作られているなら、それはやはり壊れやすいものであろう。
複数の強さが絡まりあうことで、柔軟な強さを作る。
ただ根底に何があるのかは、その強さの理由にはなるだろう。
直史の場合などはその根本には、家というものがあった。
これが強さだ、と自覚していたかもしれない。
不安定ながらも、時間はしっかりと過ぎていく。
二月、アメリカではスプリングトレーニングが開始される頃だ。
真琴などはまた、あのフロリダの土地に行ってみたいな、と口にはしている。
だが瑞希の出産を考えると、直史だけでもアメリカに行くというのは、不安が残ってしまう。
来年以降になるな、と直史は判断する。
しかし大介にしても、引退すれば日本に帰ってくるだろう。
最後のキャリアは日本で過ごす、というのが大介の考えである。
それはMLB移籍後に、しっかりと成績を残しだしてからも、変わらない意思だ。
ただいずれはまた、あの常夏の場所を訪れてみてもいい。
その頃には大介も、引退している可能性が高いのだが。
あの別荘も単に維持しておくには、それなりに金がかかる。
単純にフロリダで遊ぶならば、高級ホテルを取った方が、コスパはいいだろう。
何もない日々が続く。
もちろん本当に何もないわけではないが、これは悪くないことだ。
平穏な日々の中には、実はそれなりに忙しいこともある。
しかしそんな平穏は、簡単に崩れてしまうものだ。
スプリングトレーニングからオープン戦に、MLBでは移行している。
そしてニューヨークに戻って、恵美理がPTSDをまたも発症したのである。
電話ではなくネットによるモニター通信で、武史夫婦と直史は話し合うことになった。
ニューヨークに戻ってしばらくしても、恵美理はそれなりに生活できていたらしい。
だが発砲事件の発砲音が耳に届いたとき、買い物中であったがその場で気絶した。
他の知人と一緒であったことが、幸いであったと言えるだろう。
胎教に悪いということで、瑞希はこの対話には参加させていない。
それにしてもトラウマというのは、そこまで残るものなのか。
直史としても自分に対する悪意というのは、それなりに感じたことはある。
だが明確な殺意と、現実的な死を前にしては、やはりまだ傷が癒えていないということなのか。
困惑した武史の顔と、憔悴した恵美理の顔。
解決しようとしてそれが及ばなかった、ということははっきりとしている。
まずは恵美理の状態を改善するのが、最優先だろう。
「日本に帰ってくるべきだ。なんなら俺が迎えに行ってもいい」
無理をしてでも時間を作って、最速でニューヨークに向かう。
その程度のことは兄としてすべきだ、と直史は思っている。
武史は困惑顔のまま、それに頷く。
『俺も一緒に帰るよ』
『それは駄目』
おそらくこのやり取りは、既に何度かやっているのだろう。
思えば既に去年の時点で、武史がMLBを引退するという話は出ていたのだ。
だが恵美理がその才能が、埋もれてしまうことに反対していた。
直史も契約内容を確認していて、一応契約を破棄する理由の一つは発見している。
アメリカの契約社会は、こういったことも想定して、ちゃんと契約書を作っているのだ。
この場合の契約破棄の理由としては、本人または家族の健康上の理由により、契約を継続することが困難となった場合、というものだ。
普通に契約を破棄して、MLB以外のチームとならば、契約できるという内容になっている。
武史としては、別にNPBでも構わないのだ。
しかし恵美理その人が、武史の才能の発揮する場所を、アメリカへと望んでいる。
自分が足を引っ張りたくないということで、それは分からないでもない。
問題は武史の幸福が、MLBで活躍するということよりも、家族と共にあること、に比重が置かれていることであろう。
このあたりは価値観の問題とも言える。
武史が妻や子供と離れて暮らしたくないというのも、それは分かる直史であるのだ。
単純に武史が単身赴任すればいい。
選択としては、それが一番とは思う。
そもそもメジャーリーガーなどというものは、移動の時間まで含めれば、シーズン中は半分以上が家にいない存在なのだ。
そしてオフになって戻ってくれば、プレイオフに出場して勝ち上がったとしても、およそ三ヶ月ほどは間違いなく、一緒にすごすことが出来る。
(俺ならご免だけどな)
内心ではそう思いながらも、直史はそれを提案した。
武史に限らず男というのは、内心では大きな子供であることが多い。
また海外で一人暮らしなどと考えるなら、やはりそれをフォローしてくれる妻の存在は、メジャーリーガーとしては必須とも言えるものだ。
妻ではなくとも、生活をマネジメントしてくれる存在は重要だ。
もっとも日本人選手でも、単身で海を渡った選手は少なくない。
武史は今年が、35歳のシーズンになる。
これまでに日米通算で上げた勝利は、271勝。
既に名球会入りの条件は果たしている。もっともそんなものにはまったく興味はないであろうが。
MLB移籍後だけでも、149勝を記録。
単に勝ち星の数だけならば、それなりにいい選手、と見えるかもしれない。
だが兄がおかしいだけであって、武史も勝率が九割近い、サイ・ヤング賞六度受賞のレジェンドである。
野球殿堂入りは、活躍期間は短くても、日米共にありうる話だ。
「どうせ野球選手なんて、引退してからの方が人生は長いんだ」
ならば今は、ちょっとだけ家族と離れてやってみるべきだ。
渡米直後ならばともかく、今は言語に問題もなく、日常生活を送るのに問題はない。
それでもし恵美理のフォローがなければ無理であるなら、それこそ今年でMLBを辞めて戻ってくればいい。
直史の言葉に、武史は複雑な表情を浮かべた。
『兄貴がそう言うなら……』
ここに武史の、今シーズンの単身赴任が決定したのである。
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